夫婦喧嘩
伊耶那美の軍配が振り下ろされる前、アンナは恍惚とした笑みを浮かべ、紫の槍を舐めるように見つめた。
音もなく見つめ合う時間が続いたが、やがてアンナが静けさを断ち切った。
「この槍でご主人様を切り刻める日が来るとは……幸せの極みです」
震えるほどの歓喜を滲ませた声で呟き、妖艶な笑みのまま、耀をその瞳に捉えた。
「——お覚悟はよろしいですか?」
その瞳は、目の前の獲物に与えられる快楽を思うあまり、逸る気持ちを抑えきれず潤んでいた。
「なぜ俺が切り刻まれるんだ?」
「ご自身の胸に手を当てれば分かりますでしょう……この女たらし!」
「俺はそんなことを聞いたつもりではないんだがな……」
耀は軽く首を回した。
「まぁいい、切り刻めるならやってみろ。だが、その前に聞いておく。アンナにもその覚悟はあるんだろうな?」
アンナが闘気と殺気を一気に放った瞬間、空気が怯えるように震えた。
そして次の瞬間——その場の空気が、まるで別の世界へと書き換えられたかのように変わっていた。
彼女の瞳が鋭く細まり、紫色の穂が妖しく輝く。
「もちろんです!」
その声と同時に、アンナは疾風の如く地を蹴り、一瞬で距離を詰めると、艶やかな吐息と共に横一文字に槍を薙いだ。
その軌跡は、空間すら切り裂きそうなほど鋭く、紫色の光が残像を描いていた。
槍が唸りを上げて迫る中、耀は一歩前に出ると、表情ひとつ変えずに、薙がれた槍の柄を片手で掴む。
その瞬間、周囲の空気が揺らめき、衝撃波のような力が四方に放たれた。
「真由美殿、大丈夫かの?」
放たれた闘気と殺気の衝撃に当たり失神した真由美を、ミスティが受け止め、その長い尾で包むように護った。
「ミスティちゃん……ありがとう」
「ここに居れば妾が護るゆえ、安心して見物いたすとよいぞ」
「ミスティちゃん、旦那様とアンナさんのあれは、喧嘩じゃなくて殺し合いじゃないですか……」
「それは、真由美殿が煽るからじゃろ——まあ見ておれ、先に結果を言うがの」
真由美の耳元に顔を寄せ、小さな声で囁く。
「——殿は負ける」
その言葉にはどこか謎めいた響きがあり、真由美は一瞬戸惑うが、その意味を考える間もなく喧嘩と呼ばれる殺し合いの行方に目を戻す。
アンナは掴まれた槍を取り返そうと、力を振り絞っている。
しかし、耀は微動だにせず、その柄をしっかりと握り続けていた。
「なあ、これじゃあ、切り刻めないんじゃないか?」
「うるさいです……このスケコマシ!」
アンナは歯を食いしばり、力を込めて槍を引き抜こうとするが、その柄を掴んだ耀の身体は揺るがない。
耀がアンナの瞳を見据えたまま、片手で掴んでいた槍の柄を、力強く両手で掴み直した。
——次の瞬間、耀は一気に力を込め、アンナを槍ごと投げ飛ばす。
アンナは空中で身を捻り、華麗に着地すると同時に、すぐさま間合いを詰めた。
鋭い紫色の軌跡を残しながら槍を繰り返し突き出し、その一撃一撃から衝撃波が放たれる。
それを耀は冷静な表情のまま、わずかに身を動かして、完全に見切ったように躱している。
「どうした?その槍で、このスケコマシを切り刻むんじゃなかったのか?」
イオナは冷静な表情で、手合わせという名の決闘を見守りながら、ひとりごとのように呟く。
「耀様の学生服もそうですが、メイド服で槍を振り回すアンナ様もどうかと思ってしまいます。いったいこの夫婦喧嘩は、どういった趣向なのでしょうか?」
「イオナさん、アンナさんの胸が激しく揺れていますが、痛くないんですかね?」
「痛いと思いますよ。でも、そんな事気にしていたら、耀様に隙をつかれます」
真由美は自分の胸を押さえ、ホッとため息をついた。
少し間合いを取ったアンナが、耀の足元から槍を鋭く斬り上げると、紫色の残像が雷のように光る。
耀が退いて躱すのを見ると、槍をそのまま回転させ、石突で追撃をかける。
——その一瞬、耀の足元が怯んだのをアンナは見逃さなかった。
すぐさま槍を持ち直し、戻した石突で足元を牽制する。その勢いで穂を回転させ、頭めがけて力強く振り下ろす。
躱しきれないと覚悟した耀は、右腕で槍を受け止める。その腕に穂が鋭く食い込み、血が流れ落ちる。
しかし、耀は表情を変えることなく、アンナに話し始めた。
「どうした?切り刻むには程遠いようだが」
アンナは疼くような快楽を噛み締めながら、濡れた微笑を浮かべていた。
「この槍で、ご主人様に傷を負わせました……」
耀の腕に食い込んだ穂と、流れる血を見つめ、快感に浸っていたアンナの表情に焦りが見える。
「抜けません……」
「だろうな」
耀は左手で槍の柄をつかみ、食い込んだ穂を抜き、その手を離すと一瞬で後退した。
傷を負った右腕を左手で庇いながら間合いを取る耀を、アンナが追い詰める。
彼女が槍を突き出すと、耀は右に身を反らしてそれを躱し、同時に左手を伸ばした。
「槍を掴もうとしても無駄です」
「そうか……」
既に決闘にしか見えなくなった夫婦喧嘩を見守るギャラリーにも、耀が押され始めているのは明らかだった。
アンナの攻めはますます厳しく、耀は回避に徹していた。
「ミスティちゃん、旦那様の腕、大丈夫ですかね?」
「思ったより深く入ったのかもしれんの」
「見ているだけで痛くなります……耀様の怪我が酷いようなら止めたほうがいいのでは?」
「兄様の血が出ていますの……もったいないですわ」
アンナが突き出した槍を躱した耀が、アンナの懐に深く入ると、左腕を少し動かした。
咄嗟にアンナが蹴り飛ばすと、耀の身体は弾けたように空中に飛び、勢いそのままに真由美に迫った。
「きゃーーー!」
ミスティが尾で真由美を庇うと、耀の身体は鈍い音を立て、背中から黒く輝く、ミスティの鱗に激突した。
口からは肺から押し出される空気と共に、血しぶきが飛んだ。
「真由美、大丈夫か?」
思わず目を閉じていた真由美の耳に聞こえたのは、意外なことに耀の声だった。
恐るおそる目を開くと、膝をついた耀が目の前にいた。
「は、はい……旦那様、もう喧嘩は止めてください」
煽って喧嘩を決闘に昇華させた真由美が、そう懇願する声をミスティが遮る。
「殿、迫ってきておるぞ」
「兄様の血……あんなにこぼれてしまいましたの」
アンナへ間合いを詰めるように耀は駆け出し、突き出された槍を身を反らせて躱し、そのままアンナの懐に潜り込んだ。次の瞬間、アンナの胸がわずかに揺れた。
少し屈んだ耀の顔をめがけて蹴り出された足を、飛び退いて躱した耀に、槍が風を切り薙がれる。
その柄を脛で受け流し、耀はアンナの背後に回り込んだ。そして、アンナの耳に優しく息を吹きかける。
アンナは艶やかな吐息とともに、素早く槍を背後に突き出した。
「うっ……」
石突が耀の鳩尾を激しく突き、彼は膝から崩れ、腹を押さえたまま前のめりに倒れた。
「それまで。正妻殿の勝ちにてございまする」
伊耶那美の声が響き渡った。
勝負ありの声を無視して、アンナが槍を構えたまま、ゆっくりと耀に近づく。
「ご主人様、わざと受けましたね」
「だったらどうなんだ……楽しかっただろう?」
「許せません!」
槍を構え直すアンナを見て、伊耶那美が口を挟む。
「正妻殿よ。汝は負けおった」
「なぜですか?」
「気づかぬままであるか。汝の首、鳩尾、胸、こめかみ——順に寸止めで一撃を加えたり。……君が残した血が付いておるではないか?」
伊耶那美に指摘された鳩尾と胸には、確かに耀の血が付いていた。
見ることはできないが、伊耶那美の言うとおり、首とこめかみにも血が付いていることは間違いない。
「なぜこんな手加減をするのですか!」
「妾から話そうかの」
ミスティが、耀とアンナの間に割って入る。
「殿はの、女子の身体を恐れておるのだ。子を孕み、育み、産むその身体が、殿にとっては尊くもあり、恐ろしくもある。容易に愛でることはあっても、殺すつもりでもなければ、手を出すことはあるまい」
アンナが静かに構えを解く。
「ましての、殿の子を孕み産むかもしれん、アンナ殿の身体に手を出すわけがなかろう」
「旦那様が優しすぎます……」
真由美が瞳を潤ませて、耀を見つめる。
「優しいのではない。自分のためにアンナ殿が大切なのだ」
ミスティの最後の言葉に、胸の奥に沈殿するような想いが満ち、皆の表情に深い静けさが滲んだ。
ただ、レイ一人を除いて——
静まり返った空気を、耀の声が切り裂く。
「何勝手な想像してんだ?だいぶ違うんだが」
その声に全員の視線が集まるなか、耀は気にすることなく言葉を続ける。
「首、鳩尾、こめかみは確かに一撃入れた——胸と尻は俺も触ってみたかっただけだ」
「旦那様?どういうことですか」
真由美の言葉を聞いた耀は、目を細めてアンナを見た。
「アンナが惚れているのは、俺じゃない。それくらいのことは鈍い俺でも分かる」
「では、なぜ手合わせをしたのじゃ?」
ミスティの声を聞いた耀だが、その視線はアンナに向けられたままだった。
「俺が好き放題にした落とし前をつけたかったんだろ?だから、付き合っただけだ。その駄賃に触らせてもらった」
アンナは厳しい視線で耀を睨む。
「それともう一つ、俺が大切なのはこの身体だ」
「身体……ですか?」
イオナの言葉に、耀は視線を動かさず答えた。
「ああ、そうだ。この身体がなければ俺の居場所がなくなるからな」
「兄様、そろそろレイは限界ですわ……」
レイの囁くようなひとりごとは、誰の耳にも届かなかった。
「君がその身を大切と思うは、何ゆえなりや?」
耀は静かに伊耶那美の前に歩み、そっと彼女を抱き寄せると、囁くように語りかける。
「伊耶那美、この身体がなければ、お前と風呂に入れなくなるだろ」
「ご主人様、もう一度手合わせを——」
身体を震わせ、槍を握る手に力が入るアンナに、伊耶那美が向き合う。
「正妻殿、夫婦の諍いは本来、寝所にて解くべきものにてあろう。然れど、それでは気が収まらぬのではなかろうや」
伊耶那美はアンナの槍に手を添える。
「君に一瞬にて捕らえられ、勝機無きことを悟りし吾、これよりは君に代わり、いかなる時なりとも手合わせの相手を務めよう。然れど、今日はこれにて退き、君の手当て——頼み申すとしよう」
小さくうなずいたアンナに、伊耶那美は微笑んだ。
その時、話をしていた伊耶那美とアンナの脇を抜けて、レイが獲物を狙う目で耀に飛びついた。
「兄様、レイはもう我慢できませんの——傷のお手当を……」
レイは頬を赤らめて耀の顔を見つめる。
うなずいた耀に微笑んだ彼女は、まるで愛を確かめるように傷ついた耀の腕に顔を寄せる。
その傷口にそっと唇を押し当てた——次の瞬間、貪るように吸い付く。
「レイ様!」
「レイさん、どうしたんですか?」
「レイ!おやめなさい」
レイの予想外の行動に、周りが騒ぐ中、伊耶那美が真由美の背後に立ち、手で口を覆うようにして耳打ちする。
「次の子、必ずや元気に生まれ出でんことを、吾の加護を以って与えん……励まれよ」
「あ、あの……」
「言の葉を交わさずとも構わぬ」
「はい」
うつむいた真由美の頬をそっと撫で、彼女の顔を上げさせた伊耶那美は、耀に目を向けて話を続ける。
「吾が君に心を開けば、汝の闇も、君の胸にて飲み込まれよう。吾もまた、かつて然うであったゆえ」
真由美は、耀の方に歩き始めた伊耶那美を目で追うが、その歩む先では、イオナがレイを引き離そうとしていた。
「レイ様……耀様の怪我の手当ができません……」
レイは耀にしがみつき、離れる様子がない。
「しばらく好きにさせてやってくれないか?」
その耀の言葉を聞いたイオナは、以前に見た光景を思い出した。
「もしかして、また治るのですか?」
耀は小さく首を傾げる。
「分からない。レイにも思うところがあるんだろ」
レイはしばらく耀の傷口に吸い付いていたが、一瞬大きく身体を震わせ耀の腕から口を離し、倒れ込むように身を預けた。レイは身体を小刻みに振るわせながらも、腕を伝う血を舐め続けている。
「気が済んだか?」
「はい……美味しゅうございましたの。兄様の傷口も、もうすぐ塞がりますわ……」
耀はレイの髪をそっと撫でた。
「助かった。容赦なく切られたからな」
「レイの愛する兄様に傷をつけたアンナは、後で叱っておきますわ」
レイは塞がりつつある、傷口を愛おしそうに見つめる。
「そうか、任せておこう」
「はい、兄様。レイに全てお任せくださいまし」
耀は立ち上がると、伊耶那美に向かい合う。
「悪かったな、黄泉の国をこんなことに使わせてもらって」
「これは大事なることにございまする。正妻殿も、少しばかり気が晴れたることではあらざるや」
アンナは槍を手にうつむいている。
「ご主人様には勝てません……でも気は晴れました。伊耶那美さん、ありがとうございました」
深く上体を倒し礼をする。頭を上げたアンナの表情には明るさが戻っていた。
「またおいで賜れ」
まだ動けそうにないレイを抱き上げた耀が、伊耶那美に軽く視線を向けた後、振り返る。
だが、その足が一歩も動かない。
「ご主人様どうしました?」
「耀様?」
じっと前を見つめ続ける耀を、アンナとイオナが覗き込む。
「出口がなくなった」
耀が遠くを見る目で、小さく呟いた。
「えーーー!帰れなくなっちゃったんですか?」
「困ったの、ここはあまり居心地がよくないのじゃが」
「兄様が甘美でしたの……」
一人を除いて、焦りの表情を浮かべる耀たちに、伊耶那美が声をかける。
「案ずることなかれ、黄泉醜女に案内させん」
その言葉に応じるように、遠くの闇の中から、すう……と揺れる髪飾りのようなものが姿を現し始めた。
「——黄泉醜女か」
誰かの呟きが、再び場の空気を引き締める。
その姿がはっきりと見え、アンナ、イオナ、真由美、ミスティが固唾を呑む。
耀はその姿に目を細めしばらく見つめた。
「お前もいい女だな」
「いいえ兄様、どんな女もレイには勝てませんわ」
レイは耀の腕の中で小さく笑いながら、傷口に頬を寄せる。
「そうか、じゃあそれでいい」
耀とレイの二人だけは、別の世界を見ているようだった。
——黄泉醜女に案内されて出た先は、予想通り黄泉比良坂だった。
耀は元の優しい目を取り戻し、アンナの槍は消え、ミスティは蛇の姿に戻って、真由美に巻きついていた。
余韻に浸るレイがいなければ、さっきまでのことが夢であったと、錯覚しそうな状況になった。
「どうしよう……黄泉比良坂だよね、ここ」
周りを見回し呟いた耀に、アンナが声をかける。
「ご主人様、帰る手段を探しましょう」
「耀様、運転手にこちらに向かうように連絡します。途中のサービスエリアで合流すればいいので、そこまでタクシーで向かいましょう」
スマホを手にしたイオナに、耀が小声で話す。
「でも、僕、財布持ってきてない」
「言われてみれば、私もです……お金も持ってくるように言いますので、とりあえずタクシーを探していただけませんか?」
耀は申し訳なさそうに呟く。
「でも、僕、スマホも持ってきてない」
「レイ様はこの状態ですし……真由美、タクシーを手配できませんか?」
「はい、あっ!私もスマホ持ってきていませんでした……キッチンに置きっぱなしです……」
「はぁ……もう私に任せて、皆さんはベンチで池でも眺めておいてください!」
結局、イオナに頼りっきりになり、耀は肩身を狭くしながら、一行は深夜に家に帰り着いた。
家の灯りが見えたとき、ようやく『日常』が戻ってきたのだと、疲れて眠る妻たちを見渡し、耀はほっとため息を漏らした。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月30日、一部修正しました。




