妻たちの決意
意識が少しずつ現実に引き戻されていく。まどろみの中で呼ぶ声が聞こえる。
今僕が見ているのは、眠りの中で見る夢なのか——それとも、夢のように見ている現実なのか。
柔らかく揺すられる身体が、少しずつ感覚を取り戻すと、可憐な声が耳に届く。
「兄様、起きてくださいまし……」
ゆっくりと目を開くと、笑みを浮かべた可愛い顔が僕を覗き込んでいる。
「おはようございます、兄様」
「レイ、おはよう」
ぼんやりとした視界でも、はっきりと分かるその笑顔は、僕に何かを期待しているように見える。
「兄様、残念なお知らせがありますの……」
その内容に似合わぬ、遠足を心待ちにする子どものような笑顔で、レイは言った。
「何かあったのかな?」
「アンナが激怒しておりますわ。兄様と手合わせをすると、息巻いておりますの」
昨晩の事をすっかり忘れていた……幸せな目覚めから、一気に現実に引き戻される。
正直言うと、あまり乗り気ではない。少し痛めつけられておけば、アンナの気も収まるかもしれない。
「仕方がないよね……適当にやられとこうかな」
「兄様、それは悪手ですわ。アンナは激怒どころでは済まなくなりますの」
レイの言うことも一理ある。確かに手を抜かれたと分かれば、アンナは爆発するだろう。
「そうか……少し考える時間をもらってもいい?」
「兄様、それは無理ですわ。これからですの」
「これから?」
「はい、妻が全員立ち会いますわ」
レイのきらきらした瞳が、逃げ道などないことを告げている。
「僕が悪いわけじゃないと思ってるんだけど、やらなきゃダメ?」
「諦めてくださいまし——レイにお任せくださいまし」
レイの期待に満ちた瞳と、何か考えがあるような口ぶりが、僕に選択肢がないことを物語っている。
僕に突き付けられた現実に、すっかり気分が重くなってしまった。
旅行に行っていた時から、手合わせしたいって言ってたし、その時から内心は怒り狂っていたのかもしれないな……
——考えても仕方がない。とりあえずリビングに向かおう。
身支度を整えてリビングに入ると、ソファに腰を下ろした四人の妻と、元気のない様子で立ち尽くすミスティが待ち構えていた。
「おはようございます。ご主人様」
「耀様、おはようございます」
「旦那様、おはようございます」
「殿、昨晩は申し訳なかった……」
アンナ、イオナ、真由美の順に声がかかる。
この整った順序は、アンナの教育の賜物なのか、それとも自然に身についたものなのか。
どちらにせよ、何だか心地いい。
ひとりだけ挨拶じゃなかったのは、きっと、アンナに絞られたからだろう。
「みんな、おはよう。それとミスティ、気にすることはないよ。幼馴染に会えて浮かれてしまったんだろう?」
「うむ。あまりにも嬉しくての」
ミスティは申し訳なさそうに、顔を伏せる。
「ちょっと方法が拙かっただけだよ」
「——ご主人様」
アンナが躍動感のまったくない口調で話し始める。
「その件ですが、ミスティさんを妻としてお迎えください。もっとも、昨晩迎え終わったのでしょうが」
怒っている……その凍りついた瞳の笑顔は、怒りを通り越している……
さっきの言葉には、ミスティを許したことも含まれているので、この怒りは僕だけに向けられているようだ。
「アンナが決めたのなら、僕に異論はないよ」
これが僕が言える精一杯だ。
アンナがソファを立ち、僕に向かい合うと、大きく息を吸い込んだ。
「ご主人様、お風呂でお約束いただいた手合わせを、今からお願いします」
「アンナ様と耀様は、お風呂で何の話をしているのですか……」
イオナが残念な表情を向ける。お風呂で手合わせの話をしたのは、たった一度きりだ。
言ってやりたいが、今はそんな雰囲気ではない。後でこっそり教えておこう。
「その件だけど、本気の手合わせをするの?」
「当然です」
見るものを凍りつかせるような視線が刺さる。
「どこでするの?」
「お庭です」
「ちょっと待ってくださいまし!」
レイが止めに入ってくれた。本当に空気の読めるいい子だ。
「お庭で兄様とアンナが本気で手合わせをすれば、畑も家も無事では済みませんわ」
「確かにそうですね……どこか広い場所はないでしょうか?」
アンナもこれで少し落ち着いてくれるだろう。あと真由美は理解が追いつかないのか、首を傾げている。
「伊耶那美の世界がいいですわ。あそこなら、兄様とアンナが暴れても大丈夫でしたの」
あれ?レイは止めてくれたんじゃなかったの?
……どう考えても、ものすごくいい提案をしてしまってるけど。
でもこれは理にかなっている。あそこに行けば手合わせするのは僕じゃなくてあいつだ。
「手合わせのためだけに、黄泉比良坂まで行くのは、さすがに遠すぎます……」
イオナの正論を聞き、真由美以外の全員がうなずいている。
多分、真由美はそこがどこにあるのか、理解できていないのだろう。
レイのおかげもあって、この手合わせはもう避けられそうにない。
だが、この提案に乗って僕に悪いことはない——覚悟を決めて早めに終わらせよう。
その方が、近づいてきたアンナの誕生日を、わだかまりなく迎えられそうだし、第一、避けられないことを先送りにして、いいことは何もない。
「アンナ、どうしても本気で手合わせをしたい?」
「はい、絶対に譲れません」
彼女の瞳に宿る決意が、どんな言葉よりも重い。よし、隠しておくつもりだったが、全員連れて行こう。
「わかったよ。みんな、靴を持って僕の部屋に来て」
耀に言われたとおり、ミスティが加わって五人となった妻たちは靴を手に、耀の部屋へ向かう。
「いったい靴を持って、耀様のお部屋で何をするのでしょう?」
「分かりませんわ。でも、兄様のことです。期待は裏切らないと思いますの」
「今は旦那様の言われるとおりにするしかないですね」
「もし、これで時間を稼いで逃げ出していたら、絶対に許しません」
「妾は靴を履くことができぬが、それでも良いのかの?」
——全員が僕の部屋に集まった。怪訝な表情をしているが、当然のことだろう。
「準備はできたね」
そう言うと、僕はクローゼットに手をかける。
「兄様。まさか、また破廉恥な書物を隠しておられますの?」
「違うよ」
おもむろにクローゼットを開くと、そこでは、どこまでも広がる青白い光の空間で、伊耶那美が黄泉醜女と談笑をしていた。
「えーーーっ!昨日、旦那様がクローゼットから出てきたのは、これだったんですか?」
真由美が目を丸くして、クローゼットを指差す。
「ご主人様、これはどういうことですか?」
アンナは怒りを増したように、淡々と問いかけてくる。
「耀様、少し待ってください。目の前で起こったことが理解できません」
イオナは頭を抱え込んでしまった。
「に、兄様……これは破廉恥な書物どころではありませんわ」
レイは面白いものを見つけた子供のように、目を輝かせる。
「殿、ここは死人の臭いが漂っておるが……」
ミスティは眉をひそめながらも、どこか面白がっているようだ。
談笑をしていた伊耶那美が、僕に気づき、笑顔を見せる。
「これは、吾が君にあらずや。連日お越し賜り、嬉しゅう存じまする。さらに奥方たちをお伴いくださり、なお一層の喜びにてございまする」
全員が部屋から黄泉の国に足を踏み入れ、耀とアンナとレイはそのまま伊耶那美に向かう。
「なぁ伊耶那美、頼みがあるんだが」
その声を聞いたレイが、耀の顔を窺うように覗き込む。
「やはり、この世界に入ると、兄様は第二形態になりますわ」
「吾が君の頼みとあらば是非もなし。遠慮なく申されよ」
「アンナと手合わせするから、場所を貸してくれないか?」
伊耶那美は冷やかすような表情で、僕とアンナと交互に視線を向けると、理解したとばかりに大きくうなずいた。
「構わぬが、正妻殿と夫婦喧嘩に相成るや?よろしき。しばし待たれよ、被害が及ばぬよう、吾が采配にて皆を遠ざけ申す。さて、見知らぬ顔が幾人か見受けられるが?」
「三番目の妻のイオナと申します」
伊耶那美の品格の高さを見抜いたのか、イオナは姿勢を正した後、上体を倒し最敬礼をした。
「えっと、四番目の妻の真由美です」
真由美はどこか焦ったように、おどおどしながら、ぺこりと頭を下げる。
そんな真由美の挨拶を見た、伊耶那美は少し微笑んだ。
「汝は真由美と申す者か……後に吾と話を致すべし。まずは、夫婦喧嘩が先にてある。」
「——あっ、はい」
「五番目の妻となったミスティと申す」
真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま、名乗るミスティは伊耶那美から目を離さない。
「汝は人の形を取らぬのか?」
「この姿が気に入っておるのじゃ」
「然様にあるか。君が良いのであれば、吾は何も申し上げぬ」
僕とアンナが向かい合って立つのを横目に、黄泉醜女が伊耶那美に耳打ちする。
「さて、皆も遠ざけた故、吾も拝見させて賜わん」
対峙したまま言葉も交わさず、目を合わせる二人。
その緊張感に耐えられなくなったのか、真由美が重い口を開く。
「私は、いつもの優しい旦那様がいいです——」
「どうしましたの?」
「なんか——感じる気配が怖いです」
「あの殿がアンナ殿と手合わせをする意味が分からぬか?」
「恐らく自ら責を負うつもりでしょうか」
イオナはそう言いながら、首をひねってレイに視線を向けた。
「レイは違うと思いますわ、何か伝えたいことがありますの——」
他人に興味を持たないはずの耀が、アンナの願いを聞く。その意味がレイには感じ取れた。
「然様じゃな、今日は言えずともいずれ言わねばならぬことがある」
「それで、憂いを断つために——」
そのイオナの言葉は、最後まで紡がれなかった。
四人の会話を静かに聞いていた伊耶那美が、ゆっくりと語りかける。
「吾が思うところを、話すことを許されるか?」
「是非、聞きたいですわ」
「君は現世の存在にあらず——然れども、現世の鼓動を持つ者も、確かに存在する」
「どういうことですの?」
レイだけでなく、全員が不思議そうな顔をして、伊耶那美を窺っている。
「吾と同じ存在と、現世の人間という二つの存在が混在しておるように見える」
「混在ってなんですか?旦那様は何かと混ざっているんですか?」
語尾を荒げる真由美に、伊耶那美は微笑んだ。
「それは本来あり得ぬこと——ゆえに吾も考えを巡らせた。導きたる答えは、現世の人の心に、常世の存在が住まうという異なる理なり」
「じゃがの伊耶那美殿、妾が知る殿はあの目のときに生きておったんじゃ」
「第五妻殿、むきになりてはいけぬ。これは吾の考え、やがて君より語られるべきものなり」
「話してくれるでしょうか?」
イオナの声に、伊耶那美はうなずいた。
「——別れを告げし時に」
「どういうことですの?」
「君は偶然とはいえ、ここに来しとき、気がついたのであろう——自らのあるべき場所に」
「確かに、この世界に来てからずっと、あの様子です」
「——心を離れる術を求めておられるのではないか?現世の妻にその身を任せて」
「私は、いまの旦那様より、いつもの旦那様がいいです」
「でも、真由美を助けたのは、今の兄様ですわ」
「——確かにレイさんの言うとおりです……でも——」
真由美は言葉を探すように視線を落としたが、まだその続きを口にすることができなかった。
「真由美殿、それは人としてとても当然のこと、現世の人間は常世の存在を恐れる。それが理なり」
うつむいた真由美に、伊耶那美は言葉を続ける。
「されど、真由美殿——汝の心に澱む闇をなくすことができるのは、常世の存在……一度、ゆるりと、言の葉を交わすがよい」
「——はい」
小さな声で返事をした真由美に、伊耶那美は慈しむような笑顔を見せた。
「伊耶那美は、よくそこまで考えましたわ」
感心するレイに、伊耶那美は少し頬を染めて答える。
「昨日、吾が君が訪れしとき、共に湯を浴み、接吻などもしたからな——少しは君の心に近づけたるかもしれぬ」
「まずいですわ……」
レイが視線を向けた先では、アンナの怒りが頂点に達しようとしていた。
「アンナ様に聞こえてしまいましたね」
「これだけ大きな声で話しておったんじゃ。聞くなというのが無理じゃな」
「旦那様、昨日、お風呂に入ってたんですか?」
「吾が湯浴みをしておったところに、訪れしゆえ、共にいたした」
真由美の問いかけに、伊耶那美は恥ずかしそうに答えた。
「——へぇー」
突然、真由美が大声を上げる。
「アンナさん、昨日、伊耶那美さんと旦那様はお風呂に入ったそうですよ」
「真由美殿、火に油を注ぐのはまずいと思うのじゃ」
宥めるミスティを無視して、大きく息を吸い込んだ真由美は、さらに続けた。
「それで、口づけを交わして——あんなことも、こんなことも、したそうですよ!」
「ま、真由美、何を言っているのです!」
イオナも諫めるが、真由美は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「いいんです、これで。私の誘いを断って、ミスティちゃんと何かして、私がお部屋に呼びに行ったら、伊耶那美さんとお風呂に入った後だったんですから!」
——ぴたりと、空気が止まった。
アンナの口元に笑みはある。けれど、その瞳はまるで冬の海のように、底知れぬ怒りをたたえていた。
凍てつく殺意が、空気をきしませ始める。
「真由美のおかげで面白くなりそうですわ!」
焦るイオナとミスティを尻目に、レイだけは嬉しそうに瞳を輝かせていた。
アンナは右腕を前に突き出し、槍の名を口にする。
「黒紫裂界槍……」
全ての光を吸い込むような黒い霧が、一瞬、アンナの手の中で伸びると、そこには真っ黒な柄に、暗い紫色に輝く穂の槍が握られた。
「出ましたわ。兄様謹製厨二槍!」
レイが弾むような声を上げ、両手を胸で組み、目をキラッキラと輝かせる。
「呼ぶのも恥ずかしいですけど、アンナさんは平気なのでしょうか?」
真由美は少しはにかんで、恥ずかしさを隠すようにイオナに問いかけた。
「確かに、耀様のセンスは理解し難い時があります」
イオナは冷静な口調で、結構酷いことを言い放つ。
「昔からそうであったようだが」
ミスティにとっては、当然のことのようである。
「あっ、あれ!」
真由美が耀を指差すのを見て、全員の視線が耀に集まる。耀は、ギャラリーが槍に気を取られている間に、その形が明確に分かるほどの濃い魔力を纏っていた。
「旦那様のあれ、学ランですよね……」
三十を過ぎたオッサンの学ラン姿を目にした真由美は、見てはいけないものを見たかのような表情でイオナに話しかける。
「そうなんです……なぜ、魔力をあの形にするのか……耀様のセンスが分かりません」
イオナは冷静な口調ながらも、右手はこめかみを押さえている。
「見た目はアレですけど、柔らかいのに硬いですの……レイはあれを着た兄様に振り回されましたわ——」
レイに至っては、見た目を『アレ』で片付けてしまった。
「あれは昔から殿が羽織るものでの、先ほど、殿が呟いておったが『漆黒真我衣』と呼んでおったの。己が真なる姿を解き放ち、全てを漆黒の闇に葬る衣と……」
「「「は?」」」
一斉に疑問符が放たれる。
「旦那様には悪いですけど、ダサ過ぎます」
「兄様の厨二病、かなり重症のようですわ……」
「誰かに子ができたら、耀様を除いた五人で名付けましょう」
イオナの言葉を聞き、全員が静かにそして固くうなずく。
そんな耀とアンナの様子を見て取った伊耶那美は、愉快そうな表情で二人の前に歩み出る。
「真剣なる勝負にてあろう。吾が制してお与えせんか。汝ら夫婦の絆、存分に示してみせよ」
その言葉で、少し和んでいたギャラリーにも緊張が走る。耀とアンナは目を合わせたまま微動だにしない。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月29日、一部修正しました。




