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地獄での葛藤

「それは真かの?」


静まり返った空気のなか、ダンタリオンの低く太い声が響いた。

ラウムはひと呼吸置いてから、ゆっくりとうなずいた。


然様(さよう)、主人は自らの力で、概念世界に渡った」


その言葉に、グレモリーがそっと顔を上げた。

椅子に背筋を正して座る彼女のローブには、星と月の刺繍が淡く光を返し、普段は深く被っているフードを、今日は肩まで下ろしていた。


「ならば、ワシらの世界にも来られるかもしれんの」


ラウムはダンタリオンに、耀が自らの力で概念世界に渡ったことを話すために、地獄へと戻っていた。

偶然居合わせたグレモリーが、優しい声で懸念を口にする。


「それは、由々しき事態でございますね」


長く流れるような青い髪は、部屋の光に照らされると宝石の如く煌めく。ローブの刺繍と重なって、まるで天の川のように美しい。


「そうじゃな。御館様(おやかたさま)の力が知れると、また荒れるじゃろうな……」


言葉の末尾にため息を残したダンタリオンは、眉をひそめ、近い将来を憂う。


「陛下のおかげでようやく落ち着いたこの世界に、再びの動乱が訪れるでしょう」


グレモリーも深い赤色の大きな瞳をまぶたで伏せ、薄いピンク色に軽やかに色づいている唇から、先を憂う言葉を漏らした。


(それがし)もまさか、主人がここまでの力を得ているとは、思ってもいなかったのであるが……」


ラウムは右手で顎を撫でつつ、目の当たりにした事実へ思いを巡らせるように語った。

困ったような口調の一方で、どこか誇らしげにも見えるラウムに、ダンタリオンが問いを投げかけた。


「して、概念世界に渡る条件とは何であるかの?」


ラウムは目を閉じて、首を横に振った。


「分からぬが、その世界の者を思ったら渡れたと申しておった」

「なんです?そのあり得ない話は」


グレモリーの言葉に、ラウムは静かに答える。


「主人がそう申しておったのでな。それに、その世界で妻を娶っておった」


ラウムの声には、どこか抗いがたい誇りのような響きが滲んでいた。


「妻を、娶ったとな?」


問い直したダンタリオンに、ラウムは視線を向けうなずいた。


「然様、その世界の王と名乗っておった。主人は、その者を思い、自室のクローゼットを開いたら、その世界につながったと言っておった」

「何もかもが、あり得ない話です」


グレモリーは首を小さく横に振りながら呟いた。

ダンタリオンは、耀の言動をひとつずつ紐解くように、静かに思案を巡らせる。


「妻がおったということはじゃ、御館様は一度その世界に渡ったことがあるのではないか?」

「然様、偶然紛れ込んだところを、死者の世界の軍勢に襲いかかられ、それを蹂躙したようであるな」

「蹂躙とは?」


グレモリーの問いかけに、ラウムがため息をつき答える。


「千五百の兵を圧倒したと聞いておる」


ラウムの声音には、わずかに誇りを滲ませるような響きがあった。


「そこまで恐ろしい御仁とは……」


グレモリーが呆れた表情を浮かべる。


「しかも、その時は女を抱き上げていた状態であったと聞いておる」


その光景を想像したのか、グレモリーの瞳に、ほのかに艶めいた光が差した。


「今、その話はどうでも良いのじゃ」


一つの顔の口元が静かに歪み、咳払いのような気配が空気を震わせた。


「それよりも肝心なのは、御館様が世界を渡る条件じゃ」


ダンタリオンは逸れた話を元に戻す。


「一度訪れる必要があるのは、条件の一つで間違いないであろう」


ラウムの言葉に二人はうなずく。


「後は、その世界に妻がいることが条件でしょうか?」


グレモリーの言葉に、ダンタリオンが持論を述べる。


「いや、魔力を分け与えたことが条件かもしれんのじゃ」

「魔力を分け与える?」


ダンタリオンに向けられた問いに、ラウムが答える。


「主人は他者に魔力を与えられる。行為を通じてであるがな」

「行為とはなんです?」


グレモリーはわざとらしく首を傾け、小さく微笑んだ。


「性的な接触じゃろ。イオナから報告を受けておる」

「然様、護衛として付けたサキュバスは、見違えるほどに力を増しておる」

「その程度の接触で、力を増すほどの魔力を与えられるのですか?」


グレモリーの問いかけに、ラウムはうなずいた。


「然様であるな。死者の世界の王にもそうして魔力を与えておるのを、某は目の前で見せつけられたゆえ、間違いあるまい」


ダンタリオンがラウムに視線を向ける。


「アンナは相当に身体能力を上げておると聞いたんじゃが?」

「アンナと主人は、三日に一度は肌を重ねておるゆえであろう。あの者は魔力を身体能力に変えられる」

「お盛んなのですね」


グレモリーは手で口を覆ったが、その瞳は嬉しそうに微笑んだ。


「しかし、アンナよりも危惧するべきは、レイの方である」


ラウムの言葉を聞いたダンタリオンが首を傾げる。


「それはなにゆえじゃな?」


ダンタリオンの無数の視線がラウムへと集中し、空気がぴんと張り詰める。


「概念者であるときの主人の血液を、直接飲んだそうである」


ラウムは静かに息を吐くと、言葉を続けた。


「もし、性的な接触ではなく、体液を取り込むことが条件であれば——」

「恐ろしい御仁が一人増えますね……」


グレモリーがつないだ言葉に、ラウムはうなずき、話を続ける。


「レイは概念上の存在と意思の疎通ができるゆえ、どのような結果を生むのか想像もできぬ」

「妻となれば、魔力を与えるのは当然とも考えられるのじゃ。問題は、魔力を与えるだけで、その者の世界に御館様が渡れるかどうかじゃな」

「ラウムは、魔力を分け与えられたのではないのですか?」

「否、某は主人の魔力を借り受けておるだけ。分け与えられたわけではない」

「いずれにしても、御館様も分かっておらぬようじゃし、この件はしばらく様子を見るしかないの」


三人が息を吐く音とともに、部屋は静寂に包まれた。

ダンタリオンはすべての顔から大きなため息をつき、目を閉じて考えを巡らせているラウムに視線を向ける。


「ラウムよ。先ほど、御館様を概念者と呼んでおったが?」

其方(そなた)の予想したとおり、概念者で間違いないであろう。死者の世界から現実世界に戻ると同時に、主人もただの人間となった」


ラウムはゆっくりと目を開き、ダンタリオンを視界に捉え、話を続ける。


「それに、死者の世界の王も、主人を見て、某らと同じ存在が人間の肉体を持っておると語っておった」


ダンタリオンはひとつうなずくと、さらにラウムに問いかける。


「そう言えば、イオナより、例の干渉者が人間世界に渡っておった道を閉じたと聞いたが?」

「然様、その死者の世界を通っておったそうである」

「やはり、概念世界の者じゃったか……」

「その者は何をしようとしているのです?」


グレモリーの疑問に、ラウムが言葉を紡ぐ。


「主人の膨大な魔力を使い、大審判という名目で人間を殺戮し、植え付けた恐怖で自らへの信仰を集めようと考えておるらしいが、本当の目的は分からぬ」

「無粋なことを考えたものですね」


グレモリーの言葉が落ちると同時に、ラウムとダンタリオンは深くうなずいた。


(しか)り、人間に求められたわけではなく、自らを人間に求めさせようとしておるんじゃからの」

「人間の欲求を自ら作り出し、人間に自らを求めさせる……某らとしては禁忌であるな」

「人間が自ら作り出した概念により生まれしワシらは、求められずして欲求を植え付けてはならん」


ダンタリオンの言葉を聞き、グレモリーが妖艶な笑みを浮かべる。


「放っておいても人間の欲求は尽きませんからね。ところで、その死者の世界の備えは万全ですの?」


ラウムはグレモリーに視線だけを向け、静かにうなずいた。


「その備えのために、主人は死者の世界の王に魔力を与えた」

「それであれば、多少のことが起こっても大丈夫じゃろう」


三人はそれぞれ思案を巡らせ、今は打つ手のないことを悟り、静かにため息をついた。

地獄の静けさが、ひとときだけ訪れた。


「——このことは黙っておいた方が良いじゃろうな」


そう呟いたダンタリオンは、窓の景色に目を移す。


「陛下にだけでも、お伝えしたほうがよろしくて?」

「然様であるな」

「ルシファーか。彼奴は御館様の魔力に興味を示さんだろうから、伝えても問題なかろう」


ダンタリオンとグレモリーの視線が、ラウムに集中する。


「それにしても、御館様に召喚されたお主が羨ましいのじゃ」

「本当に……あなたに私の祝福を授けましょうか?」

「否、遠慮しておく……しかし、某も行動に移さねばならんな」

「御館様のことじゃ、いつまでも隠しとおせんじゃろう」

「然様であるな」


少し呆れた表情のグレモリーが、棚上げにされた最後の問題に踏み込む。


「さて、誰が陛下にお知らせしますか?」

「某が出向こう」


ラウムの声に、二人はうなずいた。


「それがいいじゃろう。お主の召喚者であるんじゃ、ワシらが知らせるのは、ちと憚るの」

「時を稼ぐ必要もないであろう。これより伝えに参ろう」


ラウムは二人を残し、部屋を後にした。

ラウムの足音が石床に吸われるように響き、やがて静寂に溶けていった。

ラウムが出ていった部屋では、ダンタリオンとグレモリーが話を続けていた。


「ラウムはいつまで、あのようにしているのでしょうか?」


ラウムが去った扉を見つめながら、グレモリーが呟いた。


「分からんが、自ら判断するじゃろう。今は次々と問題が湧き上がって、悩むことも多いと思うんじゃ」

「確かに、私がラウムの立場でも悩みます」


同情する言葉とは裏腹に、グレモリーは笑みを湛えている。


「ところで、お主、人間に召喚されてみんか?一人心当たりがあっての」


ダンタリオンは肘掛けに腕を置き、椅子にもたれた。


「それは、面白い話ですね。機会があればお願いしたいです」


グレモリーは軽く笑い、椅子の背に身を預けた。


「よし、念頭に置いておこう」

「心当たりのある者とは、どのような人間なのです?」

「可愛らしい少女じゃな」


一瞬だけ沈黙が落ちた。グレモリーの口元が綻び、瞳が輝く。


「……それは是非にお願いしたいです」


ルシファーの居城に向かう馬車に揺られながら、ラウムはこれまでのことを思い返していた。

某を召喚した時の主人は、少し変わった人間であった。

——その内に秘めたる魔力は、某をも凌駕していた。だが、使い道の分からぬそれは、内に留まり——いつ爆ぜてもおかしくなかった。

ゆえに、某は主人の命が残り少ないと見定め、最後は主人の命を某が刈り取ろうと考えた。


しかし、アンナとレイを護衛に付けてから、主人は少しずつ変わっていった。

それが、最近は急激に変わりつつある……某は主人の何かを見誤っておるのか?

目を細めたラウムの表情に、読み切れぬ焦燥が浮かんでいた。

——最早、ルシファーですら凌駕するほどの力を得ておる。

アンナとて主人より力を得て、我らが世界で敵うものは数えるほどしか居らぬであろう。

あの者たちが我らの世界に現れたとき——もたらすのは、驚異か、平穏か……


思案に耽るラウムに、馬車の外から声がかかる。


「ラウム様、到着いたしました」

「うむ」


馬車を降りたラウムは、長い廊下を歩きながら、いまだ思案に暮れていた。

主人がこの世界を訪れるなら、某の屋敷が良かろう。

自我をなくした主人を止められるのは、アンナとレイしか居らぬゆえ、某の屋敷なら三人を同時に連れてきても隠し通せる。

否、そうではない——主人は幼き頃より、魔力を溜め込んでおったはず。それでいて、あの歳まで命を保っておるということは……どこかで魔力を使っておったということになるのではあるまいか。

そうでなければ、すべての感情を魔力に変え、膨大な魔力を生み続ける主人の命はとうに無くなっておるはず……

初めて会った時は、自らを死に追いやるのは近いと思っておったが、アンナとレイと暮らし始めてから、急激に変わったのだ——あの二人に何があるのだ?

控室に入ったラウムは、豪奢なソファに身を預け、足を組んでゆるやかに視線を窓辺へと滑らせた。


「もう少し時間が欲しいところであるな……」


主人に自我をなくさせる原因は、この世界に幾多とあり、それを排除することはできぬ。

陛下に話せば、会うことを望まれるのは明確であるゆえ、主人の存在がこの世界に知れ渡るのも時間の問題であろう。

そうなれば誰が動く?誰ではない……この世界にて覇を成さんとする者すべてが動く。

そうなる前に主人には、某がこの世界で望むことを伝えるべきか……


「ラウム様、謁見の用意が整いました」

「うむ」


ラウムは軽くうなずき、控室を後にして謁見の間へと向かう。

扉の前で立ち止まり、開かれた扉をくぐると、静かに玉座の前まで歩み寄り、玉座に座る男に膝をつき頭を下げる。


「面をあげよ」


重く響いた声に従い、ラウムは静かに顔を上げる。

その視線は、まっすぐ玉座に座す主へと向けられていた。


「陛下におかれましては——」


玉座に座る男は、開いた手をラウムに向け、挨拶を遮る。


「建前の挨拶などいらん。して、()に話があると聞いたが?」


一瞬の間を置いて、ラウムは淡々と答える。


「はい。某を召喚した人間が、その膨大な魔力を利用し、人間の世界から概念世界に渡ることを成しましたので——」


言葉を区切り、軽く息を吸う。


「その報告と、いずれこの世界を訪れるやもしれませんので、あらかじめお耳に入れておこうと罷り越した次第です」


広間に沈黙が落ちる。

数秒ののち、玉座の主は低く、しかし迷いなく口を開いた。


「相分かった。其方は下がって良い」


ラウムは静かに頭を垂れる。


「某はこれにて失礼いたします」


その背が扉へ向けて動き出した瞬間——

緩やかに放たれた声が、背後から響いた。


「しばし待て」


足を止めたラウムに、続けて言葉が投げかけられる。


「其方の召喚者が住む国は、面白い文化が盛んな国ではなかったか?」


ラウムは振り返らずに答える。


「然様にございますが」


しばしの沈黙の後、ルシファーの口元がわずかに綻んだ。


「その召喚者を余に会わせてくれぬか?」


もう一言、続ける前に——玉座の空気が、微かに揺れた。


「頼みたいことがあってな」


ラウムは表情を変えず、ゆっくりと一礼する。


「かしこまりました。この世界への来訪が叶えば、直ちにお知らせいたします」

「よし。では下がって良い」

「では、これにて——失礼いたす」


ラウムの背は扉の奥へと消えていった。


——主人より人間の文化に興味を示すのではないかと思っておったが、予想通りであったな。

玉座を後にし、長く続く回廊を歩きながら、ラウムは小さく息を吐いた。


「この件は、早いうちに主人と話さねばなるまい」


そう呟いた声が、誰もいない廊下に吸い込まれていった。

この世界に渡らせるべきか否か。

渡らせるならば、ルシファーへの面会、その一度だけの来訪としてで済ませられぬか。

もっとも懸念すべきは、死者の国に渡ったように、知らぬ間に耀がこの世界を訪れること……

それだけは何としても防がなければならない。

一度その世界に足を踏み入れることが条件のひとつであれば、ルシファーとの面会で条件を満たす。


「いずれにしても、世界を渡る条件——それを見極めねばなるまい……」


ラウムは歩みを進めながら、深く静かな影の中へと沈んでいった。


「なぜ其方は狂おしいほどに……某を悩ませるのか——いずれ問わせてもらおう」

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月29日、一部修正しました。

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