見守る者
今日はあまりにいろいろなことが重なりすぎた。外出から帰ったら妻たちの視線を浴びて、黄泉の国に行って——
真由美から暗に夜の誘いを受けたが、気分は乗っても、身体がついてこないほどに疲れ果てていた。
悪いとは思いながらも、後日の約束だけして、眠りについた。
「なんか寒いな……」
肌寒さを感じて目を覚ますと、身体に違和感がある……
違和感というより冷たくて気持ちいい——ぼんやりとしていた視界が定まってくると、見知らぬ女が僕の顔を覗き込んでいる。
徐々に目が慣れて、暗い部屋が少し見えるようになるが、やはり、これは疲れて見ている夢ではない……それに気づいた僕は、思わず微笑んでしまう。
僕の身体が闇に包まれる。そして静かに身を委ねる。夢の中から夢の中へ——何もおかしいことはない……
「誰だ、お前?」
「やはり、あの時の幼子であったか……懐かしき気配を感じて、気になっておった——その瞳、懐かしいの」
女は優しい瞳を俺に向けている。
振り払いたいが身体が動かない……見ると女の下半身は蛇のようであり、その長い胴体を俺の身体に巻き付かせている。
「離さないと引きちぎるが、いいのか?」
「ま、待て、幼子よ。妾の名はミスティ。其方に賜った名であるぞ」
「ミスティか……随分変わったようだが。——それで、幼子とは?」
「其方は、あの薄暗く湿った小屋で、いつも一人でおった幼子であろう?妾を友のように扱い、話しかけてくれておったであろう?」
「何の話だ?」
ミスティは寂しそうな表情で、顔を少し近づけてくる。
「忘れてしもうたか……無理もあるまい。あれから幾年月が流れたか……だが、いつか会えると信じておった」
俺には思い当たることがあった……だが、あまりに長い月日が、そのことから現実味を奪っている。
「なぁ、ひよこはどうなった?」
その言葉を聞き、ミスティは嬉しそうな表情を浮かべ答える。
「あれは、幼子が川に落として流れていったではないか。妾も、ここの鶏を見張っておる時に思い出したぞ」
「——お前、あの時の蛇か?」
「然様じゃ、其方があまりに不憫であったゆえ、見守っておった蛇であるぞ」
つぶらな瞳で俺をじっと見つめ、大きな口と燃えるように赤い唇から、細く長い舌を出し頬を舐めてくる。
「嬉しく思うぞ、幼子よ。名を教えてくれんか?」
「相葉耀だ。知らなかったのか?」
「妾は人の言葉を理解できるようになって日が浅いゆえ、許して賜れ。然様か……相葉耀か……相葉耀……相葉耀……」
感慨深そうにまぶたを閉じ、俺の名前を何度も繰り返し呟くと、薄っすらと目を開き恨めしそうな目で見つめてくる。
——その間も長い舌は、俺の存在をなぞるように、その肌をゆっくりと這っていた。
「——長いの。殿と呼んでも良いか?」
ミスティの頼みを聞いた俺は、彼女の頬を優しく撫でた。
「名前なんて互いが相手を認識できれば問題ない。好きに呼ぶといい」
その言葉が終わると同時に、俺の身体は快楽的な心地よさに包まれた。
「感謝いたす。妾は十年以上、殿を見守っておったがな、急に居らんようになってしもて、探しておったのだ」
「大学に行くことを口実に、家を出たからな。それにしても、蛇は長生きするもんなんだな」
「いや、一度死んだのじゃ。殿の弟君に鎌で首を刈り取られての」
まぁ、あの弟ならやりかねないな、あいつは自分が認めたくないものを排除するやつだったからな。
「それは悪かったな」
「殿が謝ることではなかろう」
俺はミスティを優しく抱き寄せた。
「そうじゃない——お前を置いていったことだ」
思いも寄らなかった言葉に、ミスティの目には涙が浮かぶ。それを隠すかのように、言葉の主の胸に、静かに身を寄せた。
——俺はこの状況を作ったやつに心当たりがあるが、念のため、ミスティに確認しておくのがいいだろう。
「それで、どうしてこの身体になっている?」
「黒き衣を纏ったラウムと申す男が、妾の身体を取り戻してくれてな」
ミスティの艶めいた吐息が胸を撫でる。
——それより、ミスティの甘い呻きが会話に溶け込んでいるようで落ち着かない。
「その男は妾に『望み続ければ待ち人に会えるであろう』と伝えてきた」
——やはりラウムがミスティにこの身体を与えたのか。
「お前をここに連れてきた男だな?」
「然様、まさか、このような身体になれるとは思わなんだがな……」
ミスティは自らの身体を確かめさせるように、俺にそのふくよかな胸を押し付ける。
ラウムは後日呼び出して、真意を問いただそう……それはともかく、俺にはもうひとつ気になっていることがある。
「少し前から、妙な快感に襲われているんだが、お前……何かしているのか?」
その言葉を聞き、ミスティは不思議そうな表情で小首を傾げ、真っ赤な唇をゆっくりと開く。
「交尾をしておるのじゃが?妾のこの異形なる身でも心地よいか……そうか、嬉しく思うぞ」
ミスティの今の身体でできるわけがないと思って、目を逸していたが——やっぱりそうだったか
「やめる気はないか?」
「ないのじゃ」
俺の問いにミスティは即答した。
「その理由は?」
「黒き衣の男より、人はこうして契りを交わし、夫婦になると聞いたのでな。殿は嫌がっておるのか?」
「いや……悪くはない——ただ、いろいろと驚いているだけだ」
実際に俺は驚いている——見た目が女なら、下半身が蛇でも、舌が異様に長くても、俺には些細なことのようだ。
まさに、本能の赴くままといったところか……悪いことじゃないだろう。
「もうひとつ聞いてもいいか?」
「殿よ。構わぬよって、妾にはいつでも何でも聞いてくれぬか」
「そうか、蛇ってのは、こうやって身体を絡めてするものなのか?」
「然様、相手を逃さぬためにの——そして、独占するのじゃ」
どうやら、ミスティは俺を逃さないつもりのようだな。
いや、もう離れたくないのか——まぁ、どっちでもいいか。結果は一緒だ。
「だが、アンナが認めてくれないと、俺の妻にはなれないらしいぞ。それと、これが知れたら激怒される。お前も俺もな」
「黙っておけば良かろう。殿が出掛けておる間に、年寄りが妾に卵をくれての、それを食ってからというもの、身体の芯から疼いてたまらんでの」
ミスティは照れを隠そうとしているのか、俺の身体を締める力が強くなった。
「——何とか交われぬかと願っておったらの……この身体になってしもた」
卵を食わせたのは茂さんだろうな。しかし、烏骨鶏の卵には、いったいどんな効果があるんだ?
「そうか、じゃあ好きにすればいい」
ミスティが俺の胸に預けていた頭を上げ、俺を見つめてくるその瞳は潤んでいた。
「その目をしている殿は、自らを孤独に追い込んだ、それが良からぬ輩を呼び寄せ、さらに孤独を深めていった。だが、今の妾には良いことしかないのう」
「そうだったのか、よく見ていたんだな」
「妾は殿と共に育ったのだ。見ておって当然であると思うぞ。それが、今宵こうして夫婦になるとは……夢にも思わなんだ」
「だったら、お前にも分かるはずだな」
「言っても良いのかの?」
「ああ、遠慮するな。夫婦なんだろ?」
「妾が探しておったのは、今の殿じゃ——普段見せておる優しいだけの殿ではない。この恐ろしい瞳をした殿じゃ」
ミスティは気づいていたか——レイに次ぐ理解者とでも言うのか……だが、俺にとっては少し迷惑だ。
「あの時の妾は、殿を見守るだけで、何もできなんだ。だが、この身体を得たゆえに殿を護れる。これほど嬉しきことは今までなかったぞ」
好きにしていいとは言ったが、相当長い時間ミスティを抱いていた——いや、抱かれていたと言ったほうが正しいか。
なにせ、俺はほとんど動けなかったんだ。
満たされたのか、ミスティは俺の腕に頭を預け、しっかりと抱きついている。
蛇の下半身は巻き付いたままだが、時折するりと動くのが心地よく感じる。
そして、その巻き付いている半身は冷たい……だが、同時に心地よい。
とりあえず、ラウムには後日感謝しておこう。
「なぁ、その身体だと目立って仕方がないと思うんだが」
「案ずるでない。普段は蛇の姿でおる」
蛇の姿にもなれるのか——何気にすごいやつじゃないか。
「そうか。今の姿と蛇の姿、どっちが本物なんだ?」
「今の姿である。普段蛇の姿で過ごせば、妾のこの身体も、殿への夜這いも、奥方たちにバレることはあるまい」
知らぬが仏的な発想、意外と俺と気が合うやつかもしれないな。
「そういえば、真由美はお前を気に入っているみたいだな」
「あの膝に乗せてくれる奥方か、あの者は心に深い闇を持っておっての、それが妾には心地よい」
「闇か……」
一度、俺が真由美を抱き上げた時、あの目は俺を恐れていなかった——それは、軽蔑するような瞳だった……
だが、アイツを見ている時の目は違う——
「あの者も、一度ゆっくりと話を聞いてやってくれんかの?」
「そうだな。いずれはそうなるだろう」
偶然か必然か、寝る前にアイツが約束をしていたようだ、ミスティが言う闇なら、アイツより俺が聞いたほうが良さそうだな。
真由美も思うところを吐き出せば、楽になるだろう。
賢者になりきって思案にくれている俺に、ミスティの声が届く。
「この傷、まだ残っておるのう」
そう言ってミスティは、俺の左瞼を長い舌で舐めだす。
「ああ、ずっと消えないだろうな」
こいつ、この傷のことも知っているんだな。
「父君に酷く切られたでのう。殿の父君は正義を履き違えとった。自分の行動は常に正しいとでも思っておったか、あるいは悪いと知りつつも、相手に非があると思い込み責任を転嫁しておったか」
「身を躱したつもりだったが刃先が当たってな。それはまあいい、だいたい、人間にはそんな考えの奴が圧倒的に多いだろう?」
「そうかもしれんな。無条件に他を慈しむ心を持つ者は、殿以外に会うたことがない」
「俺も違うだろう」
「いいや、殿は人間以外には慈しむ心を持っておるように見えたが?何の見返りも渡せない、妾やひよこのぬいぐるみも可愛がっておったではないか」
ミスティの頬が、俺の腕の中で綻んだように感じた。
「しかし歳を重ねるごとに殿は変わった。何と言うかの……全てを隠してしまうように変わっていったのう」
「俺をそこまで見守ってくれていたお前こそ、慈しむ心に溢れているだろう?それより、お前には、いろんなことを知られているようだな」
「当然であろう、ずっと見守っておったのだ。だが、護れなかった……それを謝りたくての。死してなお、殿の服に取り憑いておったんじゃ」
「——そうだったのか」
「殿が父君を殴り飛ばしたのも見ておった。あれは胸がスッとしたの」
「ああ、あんな奴ただの知らない他人だ。偉そうに指図される筋合いはないからな、黙らせてやった」
「飛んでいった後、震えておったの。幼子相手にしか勝てぬ、愚か者だと思い知ったのではないか?」
「そうかもしれないな。あの家の奴らは全員が愚か者だった——アイツも俺も含めてな」
ミスティが耳元に顔を近づけ、囁くように話し始めた。
「——殿が初めて、女子を抱いたのも見ておったぞ」
もうミスティには隠し事ができないようだ。こいつどこから見てたんだ?
「ベッドが血まみれになって、修羅場だったな」
「あれは愉快であった。女子は焦っておったが、殿は布団ごと捨ててしもたの」
「ああ、面倒になったからな。近くの田んぼに持っていって燃やしたら、燃え広がって余計面倒になった」
「偉い騒ぎになっておったからの。そう言えばもう一人女子が来ておったの」
ミスティが頭を預けている腕で、彼女を胸に抱き寄せる。
「なぁミスティ、そろそろ戻ってもいいか?」
——これ以上話を続けられると、いろいろ耐えられそうにない。
俺が呼ばれた役目は十分果たしたはずだ。
「優しきだけの殿になるのか?良いが、妾が契ったのは今の殿じゃ。たまにはその姿も見せてくれんか?」
「ああ、分かった……」
——僕は自身の身体の奥から湧き出る様な感覚を受け、夢で見ていた現実に引き戻された。
「ミスティ、今度からは先に声をかけてほしいんだけど」
「心得た。今宵は身体の疼きを抑えられんでの。驚かせてすまなかった」
「いいさ。今度は僕の懐かしい話でもしようか」
「妾は殿が絵を描いておるのを眺めるのが好きでの、一人で話をしながら夢中になって描いておったの」
「うん、他にすることがなかったからね……」
言葉をつなごうとした瞬間、わずかな物音と共に、空気の流れが少し変わった。
「ご・しゅ・じ・ん・さ・ま」
アンナの声だ……もうバレてしまった……
いや、僕は何もしていない。夢の中であいつとミスティが愛し合っているのを見ていただけだ——僕に罪はない……
「何か話し声がすると思って覗いてみれば、部屋に女を連れ込んでいたとは……はしたないのではありませんか!」
「いや……本当に勝手に入ってきたんだ……僕は……」
アンナが静かに近づいてきて、一気に布団をめくり取った。
「な、何ですか、この女は!」
「どうしましたの?こんな時間に大きな声を出しては迷惑ですわ」
騒ぎに気づいたのか、部屋に入ってきたレイも驚いた表情を浮かべる。
「に、兄様……とうとう蛇女まで手籠めになされましたの?」
「あ、あの、これ……ミスティなんだけど……」
「なぁぁぁぁー!ミスティは蛇女でしたの?」
ミスティは僕から離れて、姿勢を正しアンナたちに向き合う。
「奥方たちには優しくして頂き、感謝しておる。今宵、この身体を得たゆえに、まずはここの主人たる、殿に挨拶をと思っての」
「挨拶——ですか……」
アンナの冷たい視線が、僕の下半身に刺さる。
「それで、ご主人様。ミスティさんの挨拶を受けられるのに、なぜ下半身が裸なのですか?」
淡々と言われながらも、そんなにじっと見つめられると恥ずかしさを通り越して、快感すら覚えてしまう。
「先ほどまで妾と交尾をしておったからの。多少はだけておるのは仕方あるまい」
もうバレているだろうけど、そんなに堂々と言ったらダメじゃないか?ミスティ
「じゃが、安心せよ。妾が契ったのは、今の殿ではないぞ」
ミスティ、安心の要素が僕の気休め程度でしかないんだが。
「はぁ……兄様……レイは尊敬を通り越し過ぎて、呆れてしまいましたわ」
「夜這いですか?ミスティさん」
アンナが抑揚のない冷たい声で問いただす。
「然様、たっぷりと恵んでもらったゆえ、妾の鱗の光沢が凄かろう。硬さもかなり増したゆえ、多少のことでは傷つくまい」
アンナの視線は、余韻に浸るように、幸せそうな表情を浮かべるミスティを見据えている。
「レイ、明日の朝、イオナさんと真由美さんに来てもらってください」
「分かりましたわ。緊急会議ですわ」
「そうです。それと、ミスティさん、私の部屋に来てください。お話があります」
「——心得た」
「レイ、今夜はご主人様と寝てください。逃してはいけませんよ」
そう言い残し、アンナとミスティは部屋を後にした。
「さあ、兄様。レイが根掘り葉掘り質問いたしますわ」
「寝させてくれないのか?」
「そうはいきませんの。兄様の身体に何をされて、兄様の身体がどう変化して、ミスティのどこに何をたっぷり恵んだのか、事細かくお伺いしますわ」
「分かったよ……でも僕じゃないんだ——」
「分かっておりますわ。もう一人の兄様でなければ、あのような蛇女を抱くはずありませんの」
レイは少し頬を膨らませる。
「レイという妻がありながら、あの兄様は黙ってミスティに同衾を許しましたの。今度お会いしたらまた舌を噛みますわ」
「なあ、レイ——あれ、後からも痛いんだけど」
「知りませんわ。連帯責任ですの!」
結局、布団に潜り込んできたレイに、朝まで根掘り葉掘り質問攻めにされて、一睡もすることができなかった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月29日、一部修正しました。




