異界の守人
久しぶりに一人で外出し、面倒な話と驚いた話、それに二杯のコーヒーを満喫して帰宅すると、玄関にはいつもよりも多めの靴が静かに並んでいる。
だいたいの予想は付くが、僕に聞かれたくない話をしていると悪いから、少し大きめの声で帰宅を告げる。
「ただいまー」
リビングからの微かな声がやむのを見計らって扉を開けると、四人の妻が勢ぞろいして僕を見ていた。
「全員揃っていると、何だか迫力があるね」
「耀様、それは失礼ではありませんか?」
イオナにやんわりと叱られてしまった……確かに失礼だったかな。
「ごめん、悪気はないんだ」
「兄様、今は大切なお話をしておりますの。お部屋で大人しくしてくださいまし」
レイも最近、僕のことを出来の悪い子供のように思っているのだろうか?
まあ、この場で僕がなにか反論しても、勝ち目はなさそうだ……部屋でミスティとでも遊ぼうか。
「分かったよ。じゃあ、話が終わったら呼びに来てくれるかな?」
「旦那様、私が呼びに行きます!」
張り切った声の真由美に目を向けると、膝の上でミスティが、鎌首をもたげてこっちを見ている。
真由美とミスティは仲がいいようだし、この場は引くのがいいだろう。
妻たちの大切な話の邪魔にならないよう、大人しく自室に入った僕は、今日買ってきた変わった装丁の本をさりげなく目立つよう本棚に並べてみた。
この一冊が加わっただけで、本棚全体が映えるように思えて少し嬉しくなる。
見た目で購入した本は積読になることが多いが、この本が書かれている文字がそもそも読めないので、後で気づいて後ろめたい気持ちになることもないだろう。
「うん、思っていたよりいい感じだ」
しばらく本棚を眺め、自己満足に浸っているが、妻四人が集合していることが、ふと気になる。
「多分、黄泉の国での件だよな……」
後で四人から責められることを覚悟しつつも、あの時黄泉の国で見たもう一人の『妻』の顔がふと脳裏をよぎった。
「伊耶那美の世界で大暴れしたから、だいぶ迷惑かけちゃったよな……今度、ちゃんと謝らなきゃな」
そのひとりごとに、なぜ僕が謝らなきゃいけないのか?そんな素朴な疑問が浮かんだが、暴れたのは僕の身体に間違いはない。ただ、暴れたのは僕じゃない——こんな話、誰も信じてくれないだろうしな……
なんとなく重い気分になりながらも、着替えようとクローゼットを開いた僕の目の前には、青白く輝く空間がどこまでも広がる。
その中心で、四人の女性に囲まれながら湯浴みをしている女がいる。
「あれは、確か——伊耶那美だよな……」
僕の声が届いたのか、女性たちの視線が一斉に僕に注がれる。
「これは、吾が君にてあられませぬか。かくも早く参られたとは……いと嬉しきかな」
振り向いてみると、そこは紛れもなく僕の部屋だ。さっき並べた本も見えているから間違いない……
——理解が追いつかず、思わずクローゼットを閉じてしまった。
「——なんだこれ……」
一度深呼吸をして、再びクローゼットを開けてみると、やはり湯浴みをしている伊耶那美がこっちを見ている。
「君や、先の刻よりいかがお過ごしにて?さあ、此方へ寄られませ」
招きに応じて、一歩踏み入れようとすると、心から湧き上がってくる感覚——あいつだ……
予想通り僕は暗闇の中に取り込まれるような感覚に陥る……
『——生きるお前が足を踏み入れる場所ではない』
完全に闇に包まれる直前、そんな声が聞こえた。
「俺の部屋で着替えようとしていたと思うんだが、なぜかここに着いた。何かしたのか?」
俺が伊耶那美に歩み寄りながら問いかけると、伊耶那美は嬉しそうに微笑む。
「吾は、なにひとつ為してはおりませぬ。——君の思いが自然と届きしものかと」
確かに、さっきまで伊耶那美のことを考えていたような気もするが——まぁいい、話さなければならないこともあるし、丁度いい機会だろう。
「君も、はしたなきことをなさる……湯浴みに耽る吾のもとへ、いきなり入り来るとは」
伊耶那美は、肌を少し隠すような素振りを見せる。
「君が背を流させてくださるなら、いささか面映ゆきながらも……そう思うております」
伏せ気味の頭から上目遣いで俺を見る伊耶那美——いい女だ……
「そうか、なら頼もうか」
……俺が美しくしてしまったせいで、何と呼べばいいものか分からなくなった黄泉醜女が、俺の服を丁寧に脱がしていく。
「ささ、君よ、こちらへお掛けなされませ」
考えてみれば、着替えようと開けたクローゼットで風呂に入っているってのも変な話だが——着替える前に風呂に入れるのは便利だろう。
だが、クローゼットが風呂場になると、アイツも着る服がなくて困るな。
——まあ、それは後で何とでもなるだろう。まずは伊耶那美と話をしておこう。
「なぁ、伊耶那美。成り行きとはいえ、俺たちはこの世界の戦力をだいぶ削いだんじゃないか?」
「然様なれど、憂慮くださるには及びませぬ。後三日の程もあれば、元の数へと戻りましょうぞ」
「そんなに早くか?」
意外に早く復活するもんなんだな——やはり神と呼ばれる存在は別格だな。
「これらの者共は、悉く吾が身より生まれし者なり。この湯よりも、また新たなものを生み出すやもしれませぬ」
「そうか、例の神とやらが、近いうちに伊耶那美の世界に手を出してきたら厳しいかと心配していたんだが、大丈夫そうだな」
俺の背中を流していた伊耶那美の手が止まる。
「吾より戦いを挑み、あえなく蹂躙されし弱き黄泉の国を気に掛けてくれるとは、君こそ真に器の大きなお方なり」
「そうか……お前は俺の妻だからな。当然だろう。それに俺の部屋からお前の元へ来れることが分かった。これなら例の神とやらの侵攻があっても……俺は愛おしいお前を守れる」
伊耶那美は俺の背中に頬を寄せたようだ。見えはしないが、伝わる感触と、背中を優しく撫でる吐息でなんとなく分かる。
「吾とて、遅れを取るつもりはありませぬが、斯様に大切に遇されることが、これほど心地よいとは思わなんだ。吾は君と、いつでも言の葉を通わせる。然らば、もし恐ろしきことが起これば……君よ、どうか吾を助け賜りたく」
「ああ、任せておけ。だが、お前を助けることは、他の妻との生活を守るためだ。それを忘れるなよ」
「心得ており申す。して、彼奴らは参るであろうや?」
伊耶那美の声が背中を伝わる。
「ああ、奴らの狙いが俺であること、この世界が俺たちに蹂躙されたこと、そのことを、あの金髪の女を通じて知っていること。その三点だけでここを狙ってくるのは当然だろう」
小さな吐息が背中を撫でる。この女——俺を誘っているのか?
「黄泉の国を、通りやすく整えしは吾なれども——ひとたび繋がれし縁あらば、たとえ封じんとすれども、向こうよりこじ開けられるやもしれませぬ」
「そうだろうな。奴は恐怖で人間の信仰を集めようとしているらしい。俺の力を奴が自由に使えるようになれば、それが可能になるだろうと聞いた」
「仰せの通りなれば、吾が君を狙う者あらば、彼奴らを討たねばなりませぬ。されど、それは……いずれの者より聞き及ばれしや?」
「悪魔だな」
その言葉を聞いた伊耶那美が、俺の背中に抱きつき、耳元で問いかける。
「ここに呼び奉ることは叶いましょうか?」
「分からんが、試してみるか?だが、その前に服を着よう」
俺の言葉を聞き、黄泉醜女たちが濡れた身体を拭き、服を着せてくれる。慣れないがこういう仕来りだと思っておく。
「さて、試してみてもいいか?信頼できるやつだから、呼んでも問題は起きないだろう」
「君に任せよう。吾は、それを信ずるのみなり」
「ラウム、ここに来れるなら、すぐに来い」
そう強く念じると、一拍置いて黒い霧が漂い始めた。どうやら上手くいったようだ。
「珍しき者から、珍しきところに呼ばれたようであるな」
ラウムは周囲を一瞥し、言葉を続ける。
「——それで、其方はこんなところまで来て、女と風呂に入っておったのであるか?」
「ああ、そうだ」
「その女は何者であるか?」
「伊耶那美、この黄泉の国の主で、俺の妻だ」
伊耶那美を紹介した俺に、ラウムは呆れた視線を向ける。
「其方は概念世界で、妻を娶ったのであるか」
その一言のあと、しばらく沈黙したラウムがため息をついた。
「本来其方は、某の召喚者ではないゆえ、呼び出せぬはずであるが」
「——気づいたのか?」
俺の軽口に、ラウムは少し笑みを浮かべたように見えた。
「うむ、其方は某が初めて召喚された折に、微笑みの中に見た者であろう」
ラウムが探るように俺の目を見据えてくる。
「そうだとすれば?」
その目の真意を見通すように、じっと見つめ返す。
「全てが繋がる——まず、某が其方の過去の記憶を見た時——」
ラウムは思い返すように言葉を紡ぐ。
「其方の記憶は、生まれてから三年ほどが完全に抜け落ちておった」
「——なるほど」
「さらに、人間でいう十五歳から十八歳頃の記憶もない」
「それがどうした?」
「それは、某を召喚した主人ではなく、其方がその身体で生きた期間であろう」
「鋭いな——まあ、そうかもしれないとだけ答えておく」
俺はラウムの推理に、正直感心したが、その正確な答えは持ち合わせていない。
ただ、ラウムの言うとおり、アイツではなく俺がこの身体を支配していた期間で間違いない。
ラウムが見た過去の記憶は俺ではなく、アイツだ。なら、俺のことをラウムは知らないと見ていいだろう。
——今これ以上語るのは無駄だ。
「今は、俺にも分からん部分が多いからな」
ラウムとの会話に、伊耶那美が割って入る。
「吾が君と初めてまみえし折、生と死とが入り混じりて見えしは、それゆえなるや」
「伊耶那美、今はどう見える?」
「死者にてあられますな」
俺にとってその答えは、正解でしかない。だが、ラウムもうなずいたのを見ると、そう思っていたのだろう。
「否。吾やラウム殿と同じき存在……それでいて、生ける血肉を持つとは——君、真に不可思議なり」
伊耶那美の言葉に、俺は自分の存在に納得したが、ラウムは目を見開いている。
「まあ良い、それで、某を呼び出したのは如何なる用件であるか?」
こいつ考えるのを放棄しやがった。
——だが、これで本題に入れる。
「例の神を名乗る干渉者だが、この黄泉の国を通って俺に声を届けたようだ」
「ほう、それをよく見抜いたものだ」
ラウムは感心したように俺を見ているが、俺が見抜いたのは勘でしかない。
「——伊耶那美に聞いた」
「某が見るに、この世界と現実世界は歪みによって繋がっておるようであるな」
ラウムの言葉に、伊耶那美がうなずいた。
「然ればこそ、人の子らも、今なお信仰を寄せておるのでありましょう」
「然様であるか……だが、一度繋がった概念世界同士を繋ぐのは容易である。油断してはならぬな」
「やはりそうか。準備はしておいた方が良さそうだな」
「然様であるな。其方を狙うなら、一度繋がったこの世界を無理矢理にでも使おうと考えるのが当然であるゆえ」
俺もラウムの考えと同じだ。これほどのことで諦めるようなやつなら、『神』など名乗らない。
俺は伊耶那美の肩を抱き寄せ、顔を近づける。
「なぁ、伊耶那美。黄泉軍を増やすことはできないか?」
「叶うこととて、吾一人でも成せましょう。されど、君の御力を賜れれば、なお心強うございます」
「何をしたらいい?」
「また……接吻など、賜れればと——」
——その顔が、どの女よりも愛おしいと思えた。
俺にとって女性は神秘的な存在——優しくもあり、恐ろしくもあり、弱さもあり、強さもあり、繊細ながらも逞しい、理解し得ない。
だが、今の伊耶那美はその全てを見せず、俺に口づけを強請っている。
俺などいなくても不自由はしないはずだ——不思議でしかない。
顔を近づける俺と伊耶那美を咎めるような声が聞こえる。
「其方、アンナは知っておるのか?」
ラウムはアンナを恐れているのか?それともアンナに何か言われたのか?
「今、俺がここに居ることは知らないが、伊耶那美のことは知ってる」
「然様、その女により、黄泉の国の妻と認められたり」
伊耶那美の言葉を聞き、少し安心した口調に変わった。やはり、アンナからなにか言われていたか。
「然様であるか。其方の励みもあって、アンナは恐ろしいほどの力を得ておるゆえ、甘く見てはならぬ」
「分かってる。それに励んでいるのは——俺じゃない」
「レイも侮ってはならぬ、もとより持つ才であった、概念者との意思疎通能力を鍛え上げておる」
レイからも何か言われているのか?
「ああ、知っている——レイは俺の存在に真っ先に気づいた」
「——其方という男は……」
「心配するな——レイは夫婦の契と言って、俺の舌を噛むくらいだ。多少のことでは動じない」
俺は再度、伊耶那美に向き合う。
「さて、邪魔が入ったが……伊耶那美、お前が満足するまで続けるといい」
伊耶那美は無言で、唇を重ねてきた——
その様子を見ていたラウムは、小さく首を振り大きくため息をつく。
「某はこんなところに呼び出されて、いったい何を見せつけられておるのだ……」
かなりの時間が過ぎたように感じる。満足したのか、伊耶那美は顔を離すと、甘く漂う艶やかな吐息と、恍惚の微笑みを贈ってくれた。
「やはり、君より賜る力は、まことに素晴らしきものにてありましょう」
その言葉を聞いたラウムが、眉をひそめて口づけの余韻に浸る俺たちを見た。
「其方、もしや魔力を与えておるのであるか?」
余韻にも浸らせないとか、無粋極まりないやつだ。
「ああ、そのとおりだ——知らなかったのか?」
ラウムは首を小さく横に振った。
「知るわけがなかろう。某にも試してもらえぬか?」
「断る!」
「——然様であろうな」
寂しそうにするなよ——なんか俺が悪い奴みたいじゃないか。
「レイはもっと凄いことになると思うぞ」
「ほう、それはなにゆえであるか?」
「俺の血を、二度も……たっぷりと飲んでいたからな」
ラウムは呆れたような、納得したような、微妙な表情を浮かべて俺を見ている。
「さて伊耶那美。俺は帰るが、他に必要なことがあったら何でも言ってくれ」
伊耶那美は俺の胸に、そっと手を添えると、鼓動を確かめるかのように頬をつけた。
「本日は、まことにかたじけのうございました。また、君にお越しいただければと——吾は願うております」
「ああ、分かった。ラウム、一緒に帰るか?」
「然様であるな。そろそろ夕食の時間であろう。つまらぬものを見せられたゆえ、馳走になるとしよう」
入ってきた辺りの空間に近づくと、俺の部屋が見えてくる。
「其方、術を心得たのであるか?」
「いや、勝手に繋がっただけだ。伊耶那美のことを考えながらクローゼットを開けたらここに繋がった」
「然様であるか……」
ラウムは右手で顎を撫でながら、物思いに耽っている。
俺の部屋に足を踏み入れると、何の問題もなく元の部屋に戻れた。
「えーーーー!」
突然、真由美の叫び声が部屋に響き、その声にアンナが駆けつけてきた。
「真由美さん、どうしました?」
「だ、旦那様がクローゼットから出てきました……」
とっさにラウムがアンナに声をかける。
「久しいのであるな。アンナ」
「ラウムさん、いらしていたのですか?」
「うむ、食事を馳走になってもよいかな?」
「もちろんです。今日は賑やかな夕食になりそうですね」
アンナはにこやかな表情を浮かべ、真由美を連れてリビングへ戻っていった。
「其方、大事はないか?元に戻っておるようであるが」
「ああ、大丈夫だ。夢から覚めたような感覚なだけだ——それより、真由美に怪しまれたかな?」
「元のクローゼットに戻っておるゆえ、問題はなかろう。其方が秘蔵書を隠しておらねばであるがな」
「それなら大丈夫だ」
僕はラウムとともにリビングへ向かう。
四人の妻にラウムとミスティを加えた、にぎやかで穏やかな夕食の時間が、いつの間にか夜の深みに溶けていった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月29日、一部修正しました。




