妻会議
土曜日の朝に、突然電話をかけてきた悠斗に会うために、気は重いが出掛けることになった。
どうせ話は、例の会社の件だろう……きっちりと断らなければ、この話がいつまで続くか分からない。
いずれはこうなると思っていたが、先延ばしにし過ぎたのか……
それは半分建前で、久しぶりに一人で出掛けられるから、早めに話を切り上げて、古本屋巡りをしようと企んで、少し浮かれていたりする。
「じゃあ行ってくるよ」
玄関で見送るアンナに、声をかけて振り向くと、彼女は少し寂しそうな表情を浮かべていた。
「気をつけて行ってらっしゃいませ」
「うん、アンナが恋しいから早めに帰るよ」
アンナの顔はぱあっと華やぎ、嬉しそうに僕を見つめている。
「レイは恋しくありませんの?」
声が聞こえた先に目を向けると、リビングのドアから可愛らしい顔が覗いていた。
「レイも恋しいよ。じゃあ行ってくるよ」
「兄様、お気をつけて行ってらっしゃいまし」
二人に見送られて、僕は歩いてバス停へと向かう。
——お昼を回ってしばらくすると、耀が不在の家に、イオナと真由美が訪れた。
「お邪魔します」
「イオナ、真由美、お待ちしておりましたわ」
「どうぞ、リビングに」
アンナとレイに出迎えられ、イオナと真由美はリビングへと入る。
「レイ様、先日はお土産を届けてくださり、ありがとうございました」
「あれは兄様が選びましたの。イオナの好みを探ったと申しておりましたわ」
「そんな、こっそり探らなくても、全部お見せいたしますのに——」
少し残念そうな表情を浮かべるイオナの背中から、真由美が申し訳なさそうに声をかける。
「あの、私が旦那様に教えました……」
「兄様も、そうおっしゃっていましたわ」
「そうだったんですか」
一瞬、真由美に厳しい視線を向けたように見えたイオナは、すぐにレイへと話を続ける。
「使用人にまで頂いて、お心遣いに感謝いたします」
「それは、兄様に伝えてくださいまし」
レイは、イオナとの会話も上の空で、真由美が手に持つ箱が気になっていた。しかし、彼女がそのままアンナの方へ向かってしまったので、小さくため息をついてソファに腰を下ろした。
「イオナ、アンナがお茶を用意しておりますので、もうしばらくお待ちくださいまし」
「そういたします」
イオナもソファに腰を下ろし、つまらなそうなレイの表情を見て少し笑みを浮かべていた。
「アンナさん、お手伝いします。それと、これを取り分けたいのですが」
キッチンではお茶を用意しているアンナに、真由美が手にしていた箱を差し出した。
「ありがとうございます。お皿を出しますね」
「いえ、私にやらせてください。私もアンナさんみたいな奥さんになりたいです」
真由美の真剣な表情を見て、アンナはにっこりとうなずいた。
「分かりました。そこの棚にあります。右側はご主人様のものですから、覚えておいてください」
「はい!」
アンナと真由美が紅茶とケーキをリビングに運ぶ。漂う甘い香りに、レイの目がぱっと輝き始めた。
「レイ様、お気に召しましたか?」
イオナの声に、レイは笑顔を浮かべて、彼女の顔を見た。
「はい!ありがとうございます、イオナ」
耀の四人の妻がソファに腰を下ろしたのを見たアンナの表情が、急に険しくなる。
その雰囲気から、どことなく重い空気が漂い始めたリビングに、音もなくミスティが入り込んできた。
「ミスティちゃん!」
気づいた真由美が呼ぶと、ミスティは静かに近づき、真由美の膝の上でとぐろを巻き、鎌首をもたげた。
「——えへへ、可愛いです」
真由美は場違いなほどに表情を緩め、ミスティを撫でている。
「ミスティも、真由美がお気に入りのようですわ」
一瞬和んだ空気が、再び重い気配を漂わせ始めると、アンナが真剣な眼差しで口を開く。
「皆さんにお知らせしておかなければならないことがあります……」
「アンナ様、どうなされたのですか?」
どこか重い口調のアンナに、イオナが問いかけるが、アンナは黙ったままレイに視線を向けた。
「レイ、皆さんにお話してください」
「はい、お任せくださいまし」
レイは姿勢を正し、イオナと真由美に目を配り、その視線を正面へと戻し、静かに目を閉じた。
「兄様の件で、皆さんにご報告がありますの……」
いつもの明るさがないレイの口調に、イオナと真由美も自然と背筋が伸びる。
「兄様は本日、お出かけになる際『アンナが恋しい』と言い残して行かれましたわ……」
レイの言葉を聞き、耀に関する重大な話が語られるのだと、二人は固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「今夜……兄様とアンナはことに及びますわ!」
大きな声で言い放ったレイは、達成感に満ちた表情で天井を見上げている。
真由美は顔を真っ赤にしてうつむき、ミスティを撫でる。
イオナはカップを手に取り、呆れた表情で紅茶をひと口飲み、小さく息を吐いた。
「それで、今夜は耀様とアンナ様の行為を、皆で見物するのですか?」
「そのとおりですわ。アンナ、見せてくださいまし」
焦る真由美が、胸を張って答えるレイとアンナを交互に見る。
「け、見物だなんて……」
「レイ、そんな話ではないでしょ!」
アンナが顔を真っ赤にして、レイを嗜めるが、彼女は気に留めることなく満足げな表情で紅茶をゆったりと味わっていた。
「えっ、違うんですか……」
「あら、真由美は興味がありますの?」
「あっ、あの……ちょっとだけ……」
アンナが真由美に少し冷めた笑顔を向けた。
「——真由美さん、後で話があります」
うつむいてミスティを撫で続ける真由美に、小さくため息をついてアンナが話を続ける。
「もういいです、私が話します」
アンナが真剣な表情を取り戻し、全員を見回した後、目を閉じ、ゆっくりと口を開く。
「ご主人様ですが……旅行先で、現地妻を娶ってしまいました」
レイは夢中でケーキを頬張り、イオナは天を仰いでため息をつき、真由美は首を傾げている。
「えーーー!」
真由美の理解が追いついたのか、突然の大声が響く中、アンナは静かに頭を下げる。
「私がついていながら、このようなことになったことを、皆さんにお詫びいたします」
真由美が慌てて手を振り、アンナに声をかける。
「アンナさん、頭を上げてください。アンナさんを責める気はありません。あまりのことに驚いてしまっただけです」
「真由美の言うとおりです。アンナ様、まずは顔を上げてください」
真由美に続いたイオナの声を聞き、アンナはゆっくりと顔を上げて、見つめる三人に申し訳なさそうに目を配る。
「アンナが気に病むことではありませんの。あれは、兄様が悪いですわ」
「旅行中に、いったい何があったのですか?」
イオナの問いかけに、真由美も大きくうなずいた。レイが旅行中の出来事を、二人に話し始めた。
——黄泉の国に入り込んだこと、そこで黄泉の国の者と敵対し戦闘になったこと。耀が伊耶那美に『だいしゅきほーるど』されて口づけを交わし、なぜかそのまま妻としたこと。旅行中に起こった出来事を、できる限り細かく、身振り手振りを交えて説明した。
ついでに、慎むように言ったにもかかわらず、耀とアンナが露天風呂で行為に及んだことも暴露した。
「あの——露天風呂での行為はともかく、伊耶那美命って神様ですよ……死者の国に行ったとか、そこで戦ったとか、私が理解できる範囲を超えています……」
そう呟くように話した真由美は、遠い目をしながらミスティを撫で続けている。
「はぁ……仕方がありませんね」
イオナも遠い目をして、部屋の照明を見つめている。
「信じがたい話です……けど、アンナさんは良かったのですか?」
真由美の問いかけに、アンナが軽くため息をつき、真剣な眼差しを窓の外へ向けた。
「あの状況では認めざるを得ませんでした。あの伊耶那美という女性は、とても強いと思います」
「アンナの言うとおりですの。有象無象の連中とは比べ物になりませんわ」
「耀様は、なぜ、その方を妻にしたのですか?」
イオナの疑問にレイが答える。
「あれは兄様の背中に爪を立てた伊耶那美が、勝手に妻となったと宣言しただけですわ」
「レイさん……それを言うと、私も変わりません……」
真由美は膝の上のミスティに視線を落とし、少し困ったように小さく笑った。
「アンナ様に認められたということが、大切なのではありませんか?」
「イオナさん、どういうことですか?」
イオナが持っていたカップを静かに置き、ひと息つく。
「この世界だけではなく、他の世界であっても、アンナ様に認められる必要があることを示したのです。これは、耀様にも十分な牽制になると思います」
アンナはイオナの言葉を噛みしめるように、目を閉じた。
「私はあの時、そこまで考えていませんでした……」
「でも、兄様厨二形態がそれで収まるとは思えませんわ」
「アンナ様なら抑えられるでしょう」
アンナがため息をついて、全く減っていない紅茶に視線を落とす。
「多分、無理だと思います……」
アンナの言葉を補うように、レイが口を開く。
「そうかもしれませんわ。あの時の兄様は、今までとは比べものにならないほど強かったですの」
「えっ?あの時よりもですか?」
真由美が、グラインドテックと揉めた一件を思い出し、目を見開いて問いかける。
「そもそも、あの連中とは比較になりませんの。兄様はレイを抱きかかえたまま、お一人で数百は倒されましたわ」
「えーーー!」
真由美の驚きがリビングに響き渡る。
「まさに蹂躙劇でしたの——おかげでレイはパンツを見せびらかした挙句、朝ご飯をリバースしてしまいましたわ」
そう話すレイの視線は、手が付けられていないイオナのケーキを狙っている。
「やはり、あの時は手を抜いておられましたか……」
イオナがレイにそっとケーキを差し出す。
「イオナさんは気づいていたのですか?」
「はい。真由美、あなたはもっと耀様のことを知るべきです」
「はい……」
うつむいた真由美を励ますように、少し微笑みを向けた後、レイはイオナに真剣な表情を向ける。
「イオナ、もっと大切な話がありますの」
少し首を傾げたイオナへ向けて、レイは話を続けた。
「干渉者が黄泉の国を通って、兄様に声を届けておりましたの。それを伊耶那美に頼み、通れなくしてしまいましたわ」
「それは——現地妻より重要な話ではありませんか。レイ様がお気づきになったのですか?」
「いいえ、兄様ですわ」
「その対価として、妻に迎えることを拒まなかったそうです。もし、協力してもらえなければ、皆殺しにするおつもりだったようですが——」
アンナの最後の言葉に、レイが首を傾げた。
「兄様はそのようなことを言っておりませんでしたわ」
レイの様子を見たアンナが、頬を染めて恥ずかしそうに視線を逸らした。
「——いえ、お風呂の中でお聞きしました」
「それなら、レイが知らなくても仕方ありませんわ。それは行為の前ですの?」
「——前です」
「それなら、アンナの聞き間違いではありませんわ」
イオナと真由美は、会話の意図が理解できず首を傾げている。
「ここからはレイの予想ですが、兄様はあの世界の戦力を、増強しようと考えておられますわ」
「食い止めるために必要ですね」
レイの話に、イオナも納得したようにうなずく。
「どういうことですか!」
突然、大きな声をあげたアンナを、レイが嗜める。
「アンナ、急に大きな声を出したりして、どうしましたの?」
「現地妻とはいえ、妻を盾にしようなどありえません。ご主人様に真意を問わなければなりません!」
レイが小さくため息をつき、アンナに優しい目を向ける。
「アンナ、そうではありませんわ」
「アンナ様、干渉者が黄泉の国に手を出してきた時に、食い止めるためです」
イオナの言葉を聞き、レイも話を続ける。
「そうですわ。兄様とアンナが好き勝手に暴れたおかげで、大打撃を受けていますの」
「増強された戦力が時間を稼ぎ、その間に耀様が加われば、干渉者は何もできない。そのように思わせるのが目的かと思います」
「兄様を襲った、干渉者の手の女も、兄様相手では手も足も出ませんでしたわ。そのことは干渉者ももう知っているはずですの」
アンナが一瞬ためらいの表情を浮かべ、息を整える。
「そういうことでしたか……早とちりしました」
「それに、伊耶那美はアンナより強いですわ。心配には及びませんの」
「これで耀様も安心して生活を送ることができますね」
真由美が静かに手を挙げる。
「あ、あの……私には全く話が分かりません……」
「真由美さん、いい機会です。ご主人様に直接伺ってみてはどうですか?」
アンナの言葉の意図を理解したイオナも後押しする。
「そうですね。耀様と二人きりでゆっくり話をしてみるのもいいでしょう」
「そうですわ。アンナが言うには、兄様は激しいらしいですの」
アンナとイオナが優しく包んだ言葉を、レイが台無しにしてしまった。
不安げな真由美に、アンナが優しい笑顔を向け、話しかける。
「不安でしたら、私も同席しましょうか?」
「アンナの場合は、同衾の間違いではありませんの?」
真由美が再び手を挙げ、少し戸惑いながら尋ねる。
「あ、あの……赤ちゃんができたら、どうしましょう……」
レイが興味深そうな表情で、真由美の顔をじっくりと見た。
「真由美もその気になったようですわ」
アンナは嬉しそうに手を組み、真由美に満面の笑みを向けた。
「真由美さん、そうなったらおめでたい話じゃありませんか」
「アンナ様、そのためにも、私からのお願いを聞いていただけませんか?」
「どうしました、イオナさん」
イオナが全員を見回し、意を決したように話し始める。
「全員で同じ家に住めるようにしたいのです。そのためにまずは、生垣を取り払って、ひとつの敷地にしたいのですが」
「茂さんの話では、この家とイオナさんの家は、元々ひとつの敷地だったそうです」
茂の話を聞いていた真由美も、イオナを後押しする。
「いい考えですわ。こちらの家を大きくして、イオナの家は使用人さん専用にしてはどうですの?」
「そうですね。素晴らしい案だと思います」
レイの提案に、イオナも賛同した。
「私も賛成です。賑やかになっていいじゃありませんか」
アンナも明るい表情を浮かべて、賛成したのを見て、イオナと真由美は胸を撫で下ろす。
「そうですわ。では、兄様に相談を……」
「その必要はありません!」
レイの言葉を遮るように、アンナが言い放った。
「どうしてですの?」
レイが小首をかしげてアンナを見る。
「私が正妻として決めました。妻が全員でご主人様を支えるべきです」
「大丈夫ですの?」
「最近のご主人様は、少しやり過ぎなところがあります」
「でも、兄様としているのは、アンナだけですわ」
「その話ではありません……近頃のご主人様は……」
アンナが言いかけたところで、レイが言葉を被せる。
「節操がありませんの——いい機会ですわ、レイの話もみなさんで聞いてくださいまし」
レイは急に真剣な表情になり、小さくうなずいてから口を開く。
「兄様は——お二人いますの」
「レイもそう思いますか?」
アンナの言葉に、レイは首を横に振った。
「思うのではなく、もう一人の兄様とレイは話ができますの」
そのレイの言葉に、アンナは深くうなずいたが、イオナと真由美は考え込んでしまった。
「いつもの兄様は、恐らくそんなに女性が好きではありませんわ」
「確かに——言われてみると女性を避けているような気がします」
イオナが呟いた声に、アンナとレイがうなずく。
「ですが、もう一人の兄様は——拒みませんわ」
「伊耶那美さんを、妻にしたのもそうでしたね」
アンナの言葉にうなずくように、レイがさらに言葉を重ねる。
「あの時、レイはずっと兄様に抱きかかえられていましたが、あれはもう一人の兄様でしたわ」
「私がお風呂で聞いた時は、『微笑むと呼び出せる』って言っていました」
「ひとつの身体に二人の兄様がいる。そう考えれば納得できる部分も多いと思いますわ」
「そう言えば、あの夜の話——ダンタリオンさんを召喚した夜です。今でも忘れられません」
アンナの呟きに、レイもうなずいた。
「ご主人様が自分の中に作ったとおっしゃった、もう一人のご主人様について考えていたんです」
「あの悪魔たちも、もう一人いると言っていましたわ。それに概念者だとも」
アンナが何かに気づいたように、目を見開いた。
「——黄泉の国は概念世界。私たちは概念上の存在ですけど、いつものご主人様は違います」
「そうですの。だから、兄様はあの世界に入ったと同時に第二形態になり、さらなる進化を重ねて厨二形態になっていましたわ」
アンナとレイの会話を聞いていた真由美が、思い出したかのように呟いた。
「私が助けられたときも、いつもの旦那様とは目が違ったような気がします」
「多重人格なのではないかと思っていましたが——」
「イオナの考えも否定はできませんわ」
「ですが——どちらにしても今のご主人様は……」
アンナが言いかけたところで、玄関のドアが開く音と、耀の声が聞こえてきた。
「ただいまー」
リビングでは四人の視線が、一斉に扉へと向いた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月29日、一部修正しました。
 




