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珈琲と会話

「なあ、どうしてそこまで頑なに断るんだ?」


目の前の男は、真剣な目で僕を見つめ、同じ話を繰り返している。

僕はコーヒーをひと口飲み、話し疲れた口を潤す。

——話を繰り返すうちに、コーヒーはすっかり冷めてしまった。

湯気のないそれが口に広がると、風味よりも冷たさが残る。


悠斗(ゆうと)の頼みだからとか、そんな理由ではないのは分かって欲しいんだ。逆に悠斗の頼みだからこそ、こうやって話をしに来たんだ」


僕は久しぶりに連絡をしてきた悠斗に呼び出され、街まで出てきた。

大学時代から、会社勤めをしていた頃まで、よく利用していた喫茶店で悠斗の話を聞いている。


「ああ、来てもらったことには感謝している。でも、悪い条件じゃないはずだ。俺もここまでの好条件を呑んでくれるなんて、思ってもいなかったくらいなんだぜ」


それも、さっき聞いたばかりの話だ。だから僕も、同じ答えをもう一度繰り返す。


「条件の良し悪しの問題じゃないんだ。今請け負っている案件で手一杯だし、先日少し無理をして旅行にも行った。さっき言った通り、追加の仕事を引き受けられる余裕はないんだよ」


「——少しくらい手伝ってもらうこともできないのか?」


悠斗はすがるような表情で、テーブルに肘を突き、身を乗り出してきた。

なぜ、そこまで僕にこだわるのか分からない。


「ああ……それにさ、少し手伝いに来る奴なんて、ほとんどの場合、邪魔にしかならないだろう?」


悠斗だってそれは分かっているはずだが、失念するほどに焦っているのだろうか?


「まぁ、そうだけどさ……うちの会社に今回の仕事をどうにかできそうな人材がいないのが原因なんだ。耀が辞めてからさ、初めてみんな気がついたようで、急いで教育したり、採用したりをしてたんだけど、今になってもいないんだ」


悠斗の言っていることはよく分かる。社員数は多いが急激に大きくなったせいで、人材育成はおろそかになっていた。


「そう高く評価してもらえるのは、ありがたいと思う。でもさ、僕程度の人間ならたくさんいるだろ?」

「グラインドテックの件はやっかいなんだ。喜多原(きたはら)がいろんな業者を使ってやっただろ?多くの業者が入っているにも関わらず、頭を張る人間がいなかったんだ」

「それじゃあ……」


敢えて聞くまでもないが、悠斗も言わなければ気がすまないだろう。


「ああ、使い物にならない状況だ……あいつが好き放題の態度を取るせいで、どこの業者もやっつけ仕事として片付け、やり逃げ状態さ。喜多原が私腹を肥やすために敢えて置かなかったんだろうが、その結果が今の状況さ……」

「一からやり直せないのか?」


すっかり冷めたコーヒーに目を落とす。——もう一杯頼めばこの無駄な時間がさらに延びるよな……

悠斗のカップにも目を向けるが、まだたっぷりと残っている——どこかで話を切り上げないとな。


「それは、喜多原が許さない……」


今度は、暗い表情を浮かべ、手を組んでうつむいている。まったく表情の豊かなやつだ。


「そうだよな。それやっちゃうと、自分の非を認めることになるもんな。その責任を僕に取らせようと図ったわけか」

「ああ、その話も聞いた。上手くいけば耀に責任を押し付けて、一からやり直す算段だったんだろうな」

「それで、再び私腹を肥やすか……その計画が破綻して、僕に再び仕事を頼む。——か。悠斗を使ってまで」


だいたい、あいつらは家にまで来て、因縁をつけていったんだぞ。

警察沙汰にもなっているのに、悠斗を使えば僕が『はい喜んで!』とでも言うと思ったのだろうか?

真由美に巡り会えたことは感謝しているが——


「それは違う。俺はあいつに使われているわけじゃない。うちの会社が請け負うからには、期待値以上の成果を出したい。いやらしい話だけど、そうすれば俺の出世も確実だろう?」


悠斗ははにかむような笑顔を見せる。

——この笑顔に、何人の女が心をときめかせて、勝手に勘違いしてきたのか。

まったく、無意識の仕草で惑わせるなんて、罪深い男だ……


「出世ね……応援したい気持ちはあるけど……悪い悠斗、手伝うこともできない。あの会社に関わると碌な目に遭わないし、心象的にも無理なんだ」

「何かあったのか?」


心配するような、怒りを孕んだような、微妙な表情もイケメンだと絵になる。——こいつ碌な死に目に遭わないぞ。


「いろいろあったけどさ。悠斗が分かる範囲で話すなら、——前の仕事の報酬も貰っていないんだ」

「マジか!?俺は喜多原に全額払うように言ったんだぜ!」


突然悠斗が大声をあげたせいで、店内の注目を集めてしまった——


「そうだったのか……悪い、俺があの仕事を紹介したばっかりに、迷惑をかけたようだな」

「終わったことは、もういいんだ——でも、また同じことになったら、悠斗との関係まで壊れかねないだろ?」

「確かに、耀の言うとおりだな……わりぃ無理な相談に長々と付き合わせて」

「いや、いいんだ。これ以上、悠斗に迷惑はかけたくないし。じゃあ僕は帰らせてもらうよ」

「呼び出して悪かったな。また何かあれば連絡する」

「ああ、またな……」


ようやく解放された僕は、喫茶店を出ると大きく背伸びをした。妻が待つ家に帰ろうか……

——妻が待つ家?どっちなんだ?悠斗を散々に思っていながら、いつのまにか妻が四人になっている僕も、碌な死に目に遭わない気がしてきた。まあいい、今の生活を満喫しよう。


「あいつ……ずいぶん変わっちまったな……」


耀が出ていった店内で、冷めたコーヒーを飲み干した悠斗は呟いた。


「後は色仕掛けか——女は好きそうだし、それが一番堅いか……」


悠斗はわずかに微笑んで、店を後にした。


——僕はもう一つの目的だった古本屋巡りを始めることにした。

悠斗との話が長引いてしまったせいで、時間があまりない。帰りが遅くなると、アンナが凍りついたような笑顔で臭いを嗅ぎにくる。

この街は意外と古書店が多く、珍しい本や懐かしい本に出会える。僕にとっては素晴らしい場所だ。大学時代に見つけて、会社勤めをしていた頃によく通っていた馴染みの店に足を運ぶ。

店に足を踏み入れると、仏頂面の店主が一瞬だけ睨んできた——昔から変わらない、きっと『いらっしゃい』の代わりの伝統的な儀式なのだろう。

店内はわずかに埃っぽい香りが漂い、僕の好奇心を掻き立てる。ここでは、本棚に収まりきらずに積まれた山から、面白い本が見つかることもある。

言ってみれば、宝探しをしているようで、僕の中に残る少年心をくすぐる。


「耀君じゃないか……?」


積んである本を探っていたら、突然名前を呼ばれて振り向くと、懐かしい顔が目に入った。


「——泰嗣(たいじ)じゃないか、久しぶりだな」

「やっぱり耀君だったのか、最近会わなかったね」


この男は、片桐(かたぎり) 泰嗣——大学時代にバイト先で知り合い、本好きの趣味で意気投合した。

そして歳も同じで、大学も同じだったことが後になって分かり、なぜかこいつと過ごすことが多くなった。

誕生日も、クリスマスも、バレンタインデーすら、こいつと飯を食ってたくらいだ。


「ああ、仕事を辞めてから、この辺りに来ることもなくなったんだ」

「そうだったんだ、少し心配してたんだよ」


そう言いながら、彼は額の汗を拭う。

泰嗣は僕より少し身長は低いが、それでも百八十センチはあるだろう。そして、残念なことにブヨブヨ系のデブだ。

さらに残念なことにオタク趣味だ——僕の家に来て、持参した美少女ゲームを一日中遊んでいたこともあった。

バイト代もそんなことにほとんど使っていた。本人曰く『投資』らしいが……

コートを羽織り始めている人もチラホラ見かけるこの時期に、こいつはTシャツ一枚で、フーフー言いながら汗をかいている。

だが、意外なことに柔道がめちゃくちゃ強い。

——強いのだが上がり症で大会で成績を残したことのない、残念極まりないやつだが、僕はこいつと気が合う。

大学を卒業して、お互い別々の道に進んだが、古本屋を巡っていると時折会っていた。

その程度の付き合いだったが、なぜかこいつのことが懐かしく思える。


「泰嗣は相変わらずだな」

「うん、人間そんなに変わるもんじゃないよ」


そういう意味で言ったんじゃないんだが、正論で返されると、もう返す言葉がない。

そんな泰嗣が手に持っていた本に目が止まる。


「その本、ここで見つけたのか?」

「そうだよ、すごく変わった装丁だろう?中は読めない字だったけど、見た目がよくてさ」


泰嗣は僕にその本を手渡してきた。そのなんとも言えない、不思議な触り心地に興味を惹かれた。


「確かに、変わった装丁だな。かなり古い本なんじゃないか?」

「わからないな、でも意外と綺麗なんだよ。シミとか虫食いとかもない感じだな」

「いい本見つけたな」


僕は泰嗣に本を返す。

「まだ悩んでるんだ……結構高くてね」


泰嗣はきっと買うかどうかを悩みながら、店内をウロウロしているうちに、僕を見つけたのだろう。

その本は、確かにそれなりの値段が付けられていてもおかしくはない。

それに、読めないのなら飾りにしておくしか使い道がないし、泰嗣が悩むのも分かる気がする。


「泰嗣が買わないなら、僕が買おうかな」

「耀君も欲しいのかい?」


本に落としていた視線を、僕に向ける。

そんな純粋な表情を向けないで欲しいんだが——


「本棚の飾りにでもしようかと思ってね。目を引くよなその本」

「そうなんだよ。でも、今の僕には高額でさ、悩んでたんだけど、耀君が買うなら譲るよ」

「いいのか?泰嗣が見つけたんだし、欲しいんだろ?」

「うん、でも耀君の家にあるのなら、見せてもらうこともできそうだし」


いや、こいつが家に来たらメイド服姿の二人——特にアンナを見たら、鼻血を吹き出して卒倒してしまうような気がする……

その時が来たら断れるようにしておかなければ……


「そうか、じゃあ僕が買うよ。気が変わったら三倍の値段で売ってやるよ」

「気は変わらないから安心してよ。小遣い稼ぎも諦めてね」


泰嗣から本を受け取り、値段を見て驚いた。先日の旅館の宿泊料より高い……

——でも、この状況で『やっぱりいらないや』なんて言えるわけないよな。

仕方なく本を探す楽しみを諦めて、その本を購入した。

改めて眺めると、古ぼけた革の装丁に浮き彫りされた文字。

だが、書かれている文字は何語なのかもさっぱり分からない。


「耀君、少し時間あるかい?」

「ああ、大丈夫だ。何か飲んで行くか」

「うん、久しぶりだしね」


泰嗣に店を任せて後をついていくが、フーフー言いながら時折汗を拭いている。

本気で暑いのだろうか?などとくだらないことを考えていたら、さっきまで悠斗と話をしていた喫茶店に入っていった……

少し焦ったが、店内を見回すと悠斗の姿はなく、なぜか安堵のため息が出た。


「この店も久しぶりなんだ」

「街で会ったらよく来てたよな」


席に着くと、ホットコーヒーとアイスコーヒーを頼み、出されたおしぼりで顔を丁寧に拭いた泰嗣は、それで手を拭く。

こいつは昔からこうなんだ……顔のほうがきっと綺麗なんだろう。さっきまで汗だくだったのは、見間違いだったことにしておこう。

泰嗣は綺麗になった顔で、店内を見回して、ぼそっと呟く。


「結婚してから、来ることがなくなったな」

「そうなんだ……」


軽く聞き流していたが、驚きは後からやってきた。


「——結婚!」


僕が大きな声を出したせいで、店内の視線を集めてしまった。


「そんなに驚かなくてもいいだろう」


泰嗣は呆れたような顔で僕を見ている。


「いや、すまなかった……だけど、驚くだろ」

「僕みたいなデブが結婚したからかい?」

「いや、そうじゃない——それもあるけど、いきなり過ぎてさ……」

「みんな驚くよ。結婚するってなったときは僕も驚いた」

「自分が驚くのはおかしいだろ」

「突然、彼女が家に婚姻届を持ってきて——」


泰嗣の顔が少し赤くなり、目をそらし頭を掻きながら、照れくさそうな表情を浮かべる。


「今すぐ書いてくれるか、別れるか選んでって言い出したんだ」

「それで、どうしたんだ?」

「うん、その日のうちに結婚した」


行動力があるのかないのか、よくわからない。


「良かったじゃないか——でも、そうなったのは泰嗣に否があると思うな」


おそらく泰嗣のはっきりしない態度に、業を煮やしたのだろう。


「うん、そうなんだ。彼女を待たせ過ぎたみたいで……そう言えば耀君は——」


泰嗣の言葉を遮るように、声を被せる。


「僕は離婚したよ」

「ごめん、気を悪くしないでくれよ」

「悪くなんてしないさ。それより奥さんはどんな人なんだ?」

「コスプレのイベント会場で知り合ったんだけど、ちっちゃくて可愛いんだ」


僕はなんだか安心した——これで奥さんまで巨漢だったら『毎晩ベッドで土俵入りか?』なんて口走ってしまいそうだ。

でも、あれだ……惚気るデブは何かムカつくな。


「趣味が合うのか、いいじゃないか。でも休日にこんなところで油を売っててもいいのか?」


ホットコーヒーとアイスコーヒーが運ばれてきた。泰嗣はすぐにコーヒーフレッシュとガムシロップを入れる。

僕は黙って泰嗣にコーヒーフレッシュを差し出す。


「ありがとう」


泰嗣は素直に受け取る。こういうのも、案外……悪くない。


「大丈夫だよ。休日の楽しみなんだ」


泰嗣はひたすらコーヒーを混ぜ続けている。ちょっと乙女な感じだな——


「帰ったら奥さんがコスプレして出迎えてくれる……先週はメイドだった」


そう言ってニヤけるデブ……おいおい、何だか羨ましいじゃないか。

——いや、考えてみれば、僕も家に帰るとメイドが出迎えてくれる。

あまりに馴染みすぎて、すっかり忘れていた。


「それに、僕のことを『可愛い』って言ってくれるんだ」


フーフー言いながら恥ずかしがる泰嗣は、本当に幸せなんだろうな。

多分、奥さんも幸せだと思う——


「幸せそうだな。でも、奥さん以外にその話はしないほうがいいと思うよ。何か危ないやつに見える」

「耀君だから話したんだよ」

「まあそれなら、さっきの本を買うのを躊躇うのも分かる」

「そうなんだ。いろいろとお金も要るし、独身の頃のように、自分のことだけ考えてたらダメだなって思ってるんだ」

「いい心がけじゃないか。感心するよ」

「うん、耀君は変わらないな。いつもそうやって褒めてくれる」


泰嗣が甘ったるそうにアレンジしたアイスコーヒーを、いつものように一気に飲み干すのを見て、少しだけ懐かしい気持ちが湧いてきた。

変わらないな……いつもこうだった。すぐに飲み干すから帰るのも早いんだよな。

そんな思いを胸に、僕もまだ熱いコーヒーを一気に飲んで、二人で店を後にした。


外に出ると、少し人通りが多くなった気がする——その中でも、やっぱり泰嗣は浮いている。

時折、冷たい風が吹くのに、Tシャツ一枚のデブは目立つよな。


「耀君、連絡先変わってないよね?」


泰嗣に話しかけられて、僕はスマホを見せる。


「ああ、変わってないはずだ。泰嗣は?」

「僕も変わってないよ」

「じゃあ、また連絡くれよ」


僕の言葉が嬉しかったのか、泰嗣は笑顔で答える。


「うん、本も見せてもらいたいしね」

「そんなことより、早く帰れ。奥さん待ってんだろ」

「そうだ。待たせちゃ悪いな——じゃあね、耀君」

「じゃあな——」


少し急いで歩き去る泰嗣の背中を見送る。待たせちゃ悪い——か。僕も帰ろうかな。

本を片手に、僕も家へと歩き出す。焙煎と紙の匂いが背後でほどけ、冷たい空気が頬を撫でる。

——大切な家族が待つ場所へ。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月27日、一部修正しました。

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