家の守り
旅行に出発した耀たちを見送ったイオナは、耀から預かった家の鍵に目を落とした。
シルバーのキーホルダーは何かの形みたいだが、趣味の悪さだけが強く印象に残った。
「——鍵を預かりましたが、使うことはないでしょう」
口元だけで笑うイオナを見て、真由美も軽くうなずいた。
「何か頼まれたときだけ、使わせていただけばいいと思います」
「そうですね。真由美、帰りましょうか」
自宅へ向かおうとした二人を引き止めるかのように、軽トラックが入ってきた。
「イオナちゃん、おはよう」
「おはよう、イオナさん」
軽トラックから茂と幸子が降りてきて、にこやかな笑顔を向けてくる。
二人の笑顔は、そこにいる人の心まで緩めてしまう——そんな不思議な気配を帯びている。
「茂様、幸子様、おはようございます」
「お、おはようございます」
イオナに続いた真由美は、初対面の二人に少し焦ったように、スカートの裾をいじり始めた。
「相葉さんたちは出発したんだな?」
そう言いながら、茂は軽トラックの荷台から荷物を下ろし始める。
「はい、先ほど出発なさいました」
イオナの言葉を聞き、茂は嬉しそうにうなずく。
「楽しんできてくれるといいんだ」
「そうですね。アンナ様もレイ様も楽しみにしておられましたので」
茂と話すイオナに、少しおどけたような表情を浮かべ、幸子が近づいてきた。
「アンナさんには相談してみましたか?」
イオナは少しうつむいて——それから、どこか誇らしげに顔を上げた。
「はい、おかげさまで、妻とお認めいただきました」
「それは、良かったですね」
幸子は自分のことのように微笑んで、イオナの背中をぽんと叩いた。
「それと、こちらの真由美も同時に妻と認めてくださいました」
「あらあら、相葉さんは際限がない方ですね」
「真由美です。よろしくお願いします」
丁寧に自己紹介をした真由美を見て、茂と幸子は互いに目を見合わせ、やわらかな笑みを向けた。
「こちらこそ、よろしくお願いするんだ」
「アンナさんの言うことを、しっかり聞くんですよ」
「はい!」
真由美の返事を聞き、幸子は小さくうなずいた。
茂が何かの準備をしながら、二人に話しかける。
「英雄色を好むと言うんだ——相葉さんなら、旅行先でも一人くらい増やして帰ってくるんだ」
「……そのようなことが起きないよう願っております。それでは、私たちはこれで失礼いたします」
帰りかけたイオナたちに、茂が声をかける。
「イオナちゃん、なんで敷地をつなげないんだ?」
その言葉を聞き足を止めたイオナに、幸子も続ける。
「そうですよ。生垣をなくせば、ひとつの敷地になるじゃないですか」
「そうなんだ、相葉さんの家と、イオナちゃんの家は元々ひとつの敷地だったんだ」
「そうなのですか……」
生垣をじっと見つめるイオナの姿を見て、真由美の胸に不安がよぎる。
「イオナさん……」
「すぐに取り払いましょう。耀様に相談するまでもありません」
真由美の不安は的中した。
——耀はいい。だが、最も気にかけなければならない人物を、イオナは失念しているのではないか?
イオナの暴走を止めようと、イオナに少しだけ強く声をかける。
「アンナさんには相談した方が……」
「確かに——真由美の言うとおりですね。戻られたら相談してみましょう」
胸を撫で下ろす真由美を見て、幸子が珍しく声を上げて笑っている。
「すっかり、アンナさんが手綱を握ったようですね。いいことですよ」
「茂様、幸子様、御用が済まれましたら、家に寄ってください。お茶をご用意しておきます」
「相葉さんとこの嫁さんは、みんな気が利くんだ」
「あらあら、爺さんとこの嫁は気が利かないみたいですね」
幸子は拗ねたように顔を背ける。
「いや、そうじゃないんだ」
慌てて取り繕う茂の声を無視して、幸子はイオナに話しかける。
「こんな爺さんは放っておいて、私はイオナさんの家にお邪魔しますよ」
「相変わらず仲がよろしいですね。では参りましょうか。茂様、お待ちいたしておりますので、ご心配なく」
姦しい三人が去ったのを見て、茂は安堵のため息を漏らした。
「やれやれ、相葉さんは大したもんだな。四人もいれば、気が休まる暇もないんだ……」
そう漏らしながら、掃除道具を手に鳥小屋へと向かった。
鳥小屋の前に立つと、茂は鶏を一羽ずつ観察してみた。
「大事に育てられとるんだな。レイちゃんが可愛がってくれとるんだろ」
感心したように呟くと、小屋に入り、卵を集めて掃除を始めた。
「寒くなってきたのに、卵を産むのは大切にされとる証拠だな」
茂は掃除をしながら鶏たちに話しかける。
「お前らもええ飼い主に養われて良かったんだ」
鶏の世話を終えて大きなため息をひとつつき、卵を手に小屋を出た茂は、かがめていた腰を伸ばし、背伸びをした。
ふうっと息を吐いて何気なく縁側の下に目をやると、大きな蛇がこちらを見ているのが目に入り、思わず声を上げる。
「でっけー蛇だな」
近寄ってみるが、蛇は逃げる様子もなく、茂の行動を窺っているかのようにも見える。
「こいつは相葉さんの家の守り蛇なんだ。だけど、鶏を食ったらいかんから……」
三つの卵をそっと差し出し、にこやかに微笑みながら地面に置いた。
「これをやるで鶏を食わんでくれよ?」
蛇はゆっくりと近づき、卵を探るかのように、舌をチロチロと出した後、一つの卵を飲み込んだのを見届けると、茂はホッとしたようにうなずいた。
「美味いだろ。烏骨鶏の卵だから高級品なんだ。精も付くから、お前はしっかり家を守るんだ」
そう言い残して、茂は耀の家を後にした。
——朝から何やら騒がしいと思い窺ってみれば、妾に名をくれた主人が女を連れて出掛けるようだ。
いつもの四人がおるのだが、なぜか主人は二人だけを連れて出掛けた。
残った二人もどこかに行こうとしておるから、鶏の見張りに戻ろうとすると、別の人間の声が聞こえてきた。
再び窺うと、年寄りが帰ろうとしておった二人の女と話をしておるようだ。
あの二人と親しくしておるようだから、害意のある人間ではなかろうが、妾は主人にこの家と鶏を守るように命じられておる。
さらに主人は留守にしているのだ——気をつけておいたほうがよかろう。
——妾はこの家の底に根を張っておる。見逃しなどせぬ。
床下に戻り四人が見える位置に移り、じっと動向を窺う。何やら楽しげに会話をしておるようだが、何を言っておるのかは分からぬ。
だが、皆がにこやかにしておるところを見ると、悪意はなかろう。
何やら騒がしくしておったが、三人の女が去り、一人の年寄りの男が鳥小屋に歩み寄ってきた。
まさか——主人の大事な鶏を、我がものにするつもりではあるまいな?
まあ良い、この場所であれば、なにかあってもすぐに対処できる。
主人の知り合いであってはいかんので、念のために身構えて、しばらく様子を見ておったが、鳥小屋の前に立った年寄りは、鶏に何かを話しておるようだ。
——鶏をどうにかするようではなさそうじゃが、しばらく用心しておいた方がよかろう。
年寄りの動きを目を凝らして見ておったが、鶏たちの世話をしただけで、鳥小屋から出てきおった。
いつも世話をしている女が主人と出掛けておらんから、代わりに世話をしただけであろうか……
気を張り詰めて年寄りを見ておったせいか、うっかり見つかってしまったようで、妾を見ながら歩いてきおる。
ここは主人の命を果たすためにも、逃げるわけにはいかぬ。鶏たちに親切にしておった奴であるから何かされるとは思わんが、相手は人間である。いざとなれば戦う気で身構えておく。
そんな妾の警戒を知ってか知らずか、年寄りは妾に何かを語りかけながら、卵を差し出して来おった。
これを妾に食えということなのか?舌で感じる限りは食うても問題はなかろうが……
——そうか、いつも卵を食う主人がおらぬよって、妾に与えてくれたのだな。
鶏といい妾といい、面倒見の良い年寄りのようだ。試しに一つ食ってみると、年寄りはうなずいて満足そうに立ち去ってしもうた。
残りの卵も食って良いということであろう。遠慮なくいただくとしよう。
年寄りが去った後、妾はいつもどおり床下で家と鶏を見守っておるが、静かなものだ。
時折、獣が寄ってくるが妾に気づくと逃げていきおる。
しかし、いつも賑やかな家が静まり返っておると寂しさすら覚える。
——日が傾き始めた頃、また朝の年寄りが来て、鶏に餌を食わせて帰っていった。
そうしておるうちに、日は沈んでしまったが、主人は帰って来んようだ。
この静けさの中で、何かあればすぐに対処せねばならんな。しかし、こう静かな夜は、ここに来て初めてじゃ。
そっと思い返してみると、主人が妾に声をかけてくれた時、一瞬、懐かしい感覚を覚えたの。
じゃが、それは一瞬であったゆえ、何を懐かしく思うたのか、理解する暇もなかった。
——あれはあの時の幼子。
ふいにそんな思いが浮かんだが、妾が普段見ておる主人は違う。
幼子は幾度も妾に話しかけてくれたのじゃ、見間違うわけがない。
——何とも懐かしいの。
あの幼子は恐ろしいほど強く見えるが、人には手を出さぬ。
否、人のことなど気にも留めぬように、いつも一人でおったの。
他の人間と違って、何を考えておるか分からぬ。
妾が気配を感じて覗くと、必ず見つけて話しかけよった。
何を言っておるか分からんかったが、不思議と妾を大切に思っておることは伝わってきた。
思えば一度だけ、恐ろしい顔をして、何かを描いておった。
あれは、あの幼子に渡したくて、妾に身体を与えてくれた男に頼んだが、見つけてくれたのじゃろうか?
もう一度……あの幼子に会いたいの。
——静かな夜が過ぎ、日が昇り始める頃、また年寄りが来おった。
念のために様子を窺っておったが、昨日と同じように鶏たちと話をしながら、世話をしておるだけのようじゃ。
どれほどの時間が過ぎたか分からぬが、帰りに妾に卵を二つ置いて行きよった。
もちろん、遠慮なくいただく。
しかし、この卵には不思議な力が宿っておるようで、身体の芯から何か湧き上がってくるように思える。
——日中も何もなく、時折寄り付く獣を脅した程度で退屈じゃった。
そして、静かな一日が終わろうとする頃、例の年寄りがやってきて鶏の世話を始めた。
今日も主人は戻らんのであろうか……つまらぬ。
今宵も静まり返った暗い家を、妾はただ守っておる。
これまでは思わなんだが、静かなところで佇んでおると、家人が恋しくなる。
この家の賑やかさは、主人を中心に湧き上がっておるのであろうが、女子どもも妾を可愛がってくれる。
家人が戻ってくるのが待ち遠しい。
妾が、これほど誰かの帰りを待つ日が、再び来るとはな……
思えば妾はあの主人のことをあまり知らぬ。
いや、知らぬのであろうか?何か大事なことを忘れておるような気もする。
——違うと分かっておるのだが、なぜか主人と幼子が重なるように思えてならぬ。
何じゃろうか——この感覚は。
妾にこの身体を与えた男……ラウムと言ったかの?あやつはなぜ妾と話ができたのじゃ?
それと妾をここに連れてくる前に言った言葉『望み続ければ待ち人に会えるであろう』あの意味は何であろうか?
分からぬ。ラウムと申す男と主人は親しげにしておった、何か分かることがあるかもしれんな。
戻ってきたら一度じっくりと寝顔を窺ってみるのも良かろう……
そういえば、夕方は卵を貰えんかったの。
夜の静けさが、余計に妾の心の奥にまで染み入るようじゃ。
日が昇ると同じ頃に年寄りが来た。
もう警戒する必要はなかろうが、妾が見えると卵を置いていくので、年寄りから見える位置に移動しておく。
妾に気づいた年寄りは、今日も卵を二つ置いていってくれた。
——あの年寄りは気の良いやつじゃ。
主人にも、この卵を貰えんか聞きたいのだが、妾は人間の言葉は分からぬよって、頼みようがない。
人の言葉を聞いて、話せるようになりたい……否、主人の言葉だけでも良い。
あの不思議な感覚を覚える主人と語り、交わってみたいものだ。
日が傾きかけるとまた年寄りが来おった。
……妾の中に、主人へとぶつけたい何かが芽吹いておるのじゃ。
しかし、あの年寄りが来たということは、今宵も主人は戻らんということ。
気を落としても仕方があるまい、主人は妾に守ることを求めたのである。
妾は主人が戻るまで、この家を守り抜かねばならん。
それが、今宵も妾に課せられた、たった一つのこと——つまらぬの。
日も沈み暗闇が世を飲み込んだ頃、急に騒がしくなったので様子を窺うと、主人が戻ってきておった。
主人の命に従い日々家を守っておるが、主人が見えた後に、妾の中に湧き上がるこの安堵感と喜びはなんであろうか?
今日からはまた、妾が守り抜いたこの家に、賑やかさが戻るのであろう。
妾もその中に加わりたいものだが……妾は人間の言葉が分からぬゆえ、いつもの床下でゆるりと休むといたそう。
「ミスティいるか?」
妾を呼ぶ声が聞こえる——主人の声じゃな……
いや、待て。なぜ主人の言葉が理解できたんじゃ?
「ミスティ、いないのか?——どこに行ったんだろうな……」
——間違いない、妾を呼んでおる。
妾は急いで床下から顔を出してみた。
そこには主人の足が見えておった……妾はためらうことなく主人へよじ登ると、主人は妾を撫でてくれた。
主人の膝の上に落ち着くが、何じゃろうこの違和感は——
妾が思っておったのと違う。静かな夜を幾日か過ごすうちに、妾の思いが幻想を生んだのじゃろうか?
やはりこの手の感触は、あの幼子と違う。——違う、違うのに……なぜ、こうも離れられぬのじゃ。
「ミスティ、鶏たちもみんな元気みたいだし、ありがとうな」
鶏なぞ、妾は見ておっただけで、元気なのはあの年寄りのおかげじゃと思うが——まあ良い、悪い気はせん。
妾は首をもたげて、主人の顔を仰ぎ見る。
主人も妾を見ておるが、美しく輝く優しい瞳をしておる。
人間の目は妾を見ると、恐怖するか威嚇するような影を見せるもの。
それがこの主人は、そのどちらでもない優しい目をしておる。
……そうか、この目があるから、女子どもは迷わず主人のそばへ寄ってゆくのじゃな。
だが、それだけじゃろうか?人間の男は人間の女子を見ると目を輝かすじゃろう——
考えてみれば、それだけで人間の女子を寄り付かせる理由にはならぬの。
妾が首をおろそうとした瞬間、懐かしい気配を感じた。
主人の顔を見ると、一瞬ではあったが瞳から輝きが消えておった。
——見つけた、あの幼子の目じゃ。
この主人の中に幼子がおるのか?
人間とはそのようなものであろうか——否、あのときの幼子と変わらぬのじゃ。
湿った小屋で土にまみれ、一人で一日を過ごしておった幼子じゃ。
いつもは輝く優しい目をしておったが、ふいに妾を飲み込むような気配を感じると、輝きを失った目をしておった。
そうじゃ、それが妾の心を惹いて——あの瞳を見たくて妾は幼子をずっと見ておった。
思えば『お前は俺の友達だ』と二度も言ってくれた。それは妾の理解できる言葉じゃった。
間違いない、妾が恋焦がれて、死んでも死にきれんほどに探し求めた幼子じゃ。
——ラウムと申す男、嘘はつかぬやつであったな。
妾は求む——あの幼子をわが伴侶としたい……この身体に湧き上がる何かを幼子に受け止めてほしい。
身体がうずく——胸元の鱗が退き、薄い皮膚が息を吸うように伸びる。肩の丸みが出て、鎖骨が線を描き、背筋が自ずと起きる。
言葉が出る——喉が開き、口元がかたちを得て、瞳が焦点を結ぶ。
腕から手へ、指は五つ。触れられる。胸に手を当てる。柔らかい。手も胸も人の女子のような柔らかさと、温かさがある。自らの身体を見てみる。
上半身は人の姿じゃが、下半身は蛇のままじゃ……まあ良い、これであの主人に潜む幼子と交わえよう。
ラウムと申す男、もう一つ言っておったの——『求めれば交わることもできよう』と……
主人が人間の女子と交わるところは何度か見ておったが……妾も寝所に向かおうとするかの。
——じゃが、あの乳の大きな女子が入り浸っておるでの……
ふむ、頃合いを見て、妾も主人の寝所にて、その答えを探してみようと思うのじゃ。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月27日、一部修正しました。




