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風呂が繋ぐ絆

黄泉(よみ)の国から帰るために、先導している美しくなった黄泉醜女(よもつしこめ)が、ふと足を止めた。

そして、耀とアンナ、レイの三人に道を譲るように脇へと立ち、声をかけてくる。


黄泉津大神(よもつおおかみ)様にお会いになる際は、岩の前でお呼びください」


そんな話を聞かされ、促されるままに三人が一歩を踏み出した瞬間、まるで霧が晴れるように視界が開けた。


「ご主人様……」


アンナが後ろを振り返っている。


「——戻ってこられたね」


僕も後ろを振り返ると、大きな岩の間に、小さく静かな岩が一つ。少し冷たい風が頬を撫で、耳に届く鳥のさえずりが、帰還が現実だと知らせてくれる。

——さっきまでいた世界が、本当にあったのかさえ疑いたくなるほどだった。


「——兄様(にいさま)厨二形態が解けておりますわ」


レイは戻れたことよりも、僕に興味があるようだ。


「うん、あの空間に入ると、強制的にああなるみたい」


——正直、あの空間に入ってからは、眠っているような感覚だった。

そして、夢を見ているかのように、出来事を眺めているだけの状態。

不思議な感覚だが、これは僕にとっては何度も経験があり、時には三年ものあいだ続いたこともある。

でも、今までと違ったのは——その夢が、しっかりと記憶に残っているということ。

そして、僕はあの世界に入ると——死ぬ。

そう思ったこと。きっと死者の世界に生身で入ることを避けるために、自己防衛的にこうなったのだろう。

——それでも、目を覚ました僕の胸の奥には、確かにあの場所の気配が残っていた。

なんとなく夢を辿っている僕の隣で、悲しげな声が聞こえる。


「——私の槍も消えました」


アンナは少し寂しそうに、右の手のひらをじっと見つめている。


「またあの世界に入れば、出てくるのではありませんの?」

「……僕が作った槍だし、たぶんそうだろうな」


それを聞いて、レイはうなずき、僕に視線を向けた。


「最悪の命名センスでしたわ。ところで兄様、今回も記憶はあるようですわね」

「うん、厨二何とか、って名付けられたね」

「それは仕方がありませんの、センスが厨二病でしたわ。それに、兄様はレイを乱暴に扱いましたので、今夜は一緒に寝てもらいますわ」

「——ご主人様、記憶があるのですね……」


アンナが冷たい瞳をたたえて、何かを問い詰めそうな勢いで僕に迫ってくる。


「——記憶……ない」


額を冷たい汗が伝う。


「兄様、もう手遅れですわ……」


レイは同情するような言葉をかけながら、期待に目を輝かせている。


「レイはご主人様と一緒に寝るのですね?」

「そうですわ」


アンナの問いかけにレイが即答すると、彼女は僕の方に冷たい笑顔を向けた。


「では、お風呂でお話をいたしましょう」


そう言うと、僕の腕を掴んだ。それが、ほんの少しだけ痛かった。

……僕がお風呂での会話が苦手なのを、アンナはきっと知っている。

それで、あえてこう言ったんだろうな。


「さあ、ここから一番近いのは揖夜(いや)神社みたいだし、行ってみようか!」


アンナがいろいろ忘れてくれることに期待して、無理やり出した元気な声で二人に呼びかけた。

車で十分もかからずに揖夜神社に着くと、アンナは僕の腕を組んで歩く。肘をきゅっと締め、肩が離れないように半歩ごとに距離を詰めてくる。

この神社の主祭神はさっき黄泉の国で一方的に妻となった伊耶那美(いざなみ)なのだが、それを知って見せつけるかのように、アンナは僕にぴったりと寄り添っている。

僕の歩みがアンナと少しでもずれると、腕をぐっとその胸に引き寄せられる。それが地味に痛い——

そんなアンナとは正反対に、レイは相変わらずあっちを行ったり、こっちに来たり、今は何かを見つけたのか、じっと立ち止まって見入っている。

耳を澄ますように首をかしげ、瞬きがほとんどない。


「レイ。何か珍しいものでも見つけたのか?」

「はい、兄様。家の近くにいる精霊とは全然違いますの。興味深いですわ」


その話だけを聞けば、僕よりレイの方が厨二病だと思うが、レイには精霊が見えているのだろう。

——温かい目で見守っておこう。


「それに、動物が多いですわ。もしかすると動物も精霊という存在を従えているのかもしれませんの」

「そういえば、花の精霊ってどんな存在なんだ?」

「お花が従えているといった感じですわ。お花が本体で、精霊が花の一部……心のような存在ですわ」


そんな感じで揖夜神社、熊野(くまの)大社、六所(ろくしょ)神社、眞名井(まない)神社、神魂(かもす)神社、八重垣(やえがき)神社の順に意宇(おう)六社を参拝した。

その間、アンナはずっと僕の腕を離さず、冷たい笑顔を浮かべていた。

その笑顔は、たぶん、さっきのことを忘れていないという意思表示だ。


——僕はあの時のことを、どう伝えればいいか分からない。

夢の中の出来事でしかないから、下手に取り繕えば決定的な亀裂を生じさせてしまいそうだ。

途中で寄った昼食のときも、頑なに腕を離さないせいで、レイに食べさせてもらうという、始末の悪い子供のような状況を楽しんだりもした。

結局、アンナの機嫌は直らないままだった……

僕は旅館に戻る道中、運転しながら少しでも現状を打開できないか思案したが、何も思いつかず諦めることにした。

そして、その覚悟を伝えるかのようにアンナに声をかける。


「アンナ、お風呂楽しみにしてるね」

「はい、ご主人様」


彼女は一言だけ返し、冷たい笑顔で正面を見つめている。口角だけがわずかに上がり、頬がこわばり、瞬きの間隔が不自然に長い。

旅館に戻り、部屋に入ると、突然——僕はアンナに抱き上げられた。耳元に彼女の息がかかり、腰に回った腕の力で、足が床から離れた。


「レイ、先にお風呂を済ませてください。私はご主人様が逃げ出さないように捕まえておきます」

「分かりましたわ。兄様、諦めてアンナのおもちゃになってくださいまし」


そう言い残して、レイはお風呂に向かった。

レイがお風呂に入っている間、僕はずっとアンナに抱き上げられたまま、冷たい笑顔を間近で見続けている。


「なあ、アンナ」僕が呼ぶと「はい」と短い言葉が戻ってくる。

「話ならここでもできるよな?」僕が聞いても「はい」と返事をするだけ。

それ以上会話が続かない。


少しでもこの後に何を話されるのか探っておきたい僕の思惑は、アンナに見透かされているようだ。

その後は静かな時間が流れていく。外を駆ける風の音だけが遠くからかすかに響き、衣擦れのわずかな気配さえ張り詰めた空気を伝ってくる。


——静かで重い時間が、確かに流れていたことを思い出させるように、ドアの開く音が聞こえた。


「兄様、アンナ、お待たせいたしましたわ」

「では、ご主人様。お風呂に入りましょう」


アンナは僕を下ろし、腕を引いて浴室へ歩き始める。


「兄様、アンナ、お風呂での行為は慎んでくださいまし」


レイ……どう見ても、そんな状況ではないだろう……

作業のように黙々と服を脱いで浴室に入ると、突然アンナが泣き出した。


「なぜ私たちに襲いかかってきた女に優しくしたのですか!女であれば相手は誰でもいいのですか!」


——もうどうすればいいのか分からない。

なぜ?なぜ優しくしたんだ——分からない……優しくしていたのか?

確かにしていた——ような気がする。身体(からだ)を作った?そんなことできるはずがない——それは夢だ……

——僕はどうしていいか分からず、微笑んでしまった。

身体が闇に包まれるような感覚に身を任せる——その闇はいつもと違って優しい。

完全に身体を委ねようとした直後——頭に声が響いた……


『これは俺の責任だ、取り繕わせてくれ——』


声が響いた瞬間、僕の思考は暗い霧に包まれ、意識がゆっくりと沈み、静かに夢の中へと堕ちていく……

——しばらく黙り込んでいた耀が、顔を上げて話し始める。


「女が風呂に入れないのは、気の毒だと思ったんだ」


アンナは、耀の瞳から輝きが失われ、全身に薄い魔力が纏わりついているのに気づかない。


「口づけなどなされなくても、よろしかったのではありませんか!」

「ああするしか、俺は他人に魔力を与える方法が分からないんだ」

「でも私の槍は魔力で創れました!」

「アンナの身体に合う武器を想像したら、あれができたんだ」


アンナが耀に一歩踏み出す。


「それに、私たちを襲った相手ですよ!用件だけ済ませれば慈悲を与える必要なんてありませんでした!」

「確かにそうだったかもしれないな。でも俺は彼女たちが風呂に入るという、平凡な日常を与えたくなった……」

「なぜですか?イオナさんも真由美さんも、ご主人様に少し関わっただけで惹かれてしまいました。そして今日の女もそうです。私ではご不満なのですか!」

「——そうじゃない。アイツにはアンナが必要だ」


アンナは耀の言葉にあった違和感に気づかないまま、畳みかけるように言葉を投げる。


「では、なぜみんなに優しくされるのですか!ご主人様に関わった相手なら、誰にでも優しくできるとでもおっしゃるのですか!」

「あれが優しさなら、優しくできる」

「頼られて、さらに求められれば、どんな女でも抱けると言うのですか!」

「俺は抱ける——だが、アイツ……いつもの俺は知らない」


その言葉を聞いて、アンナは僕の両肩を掴み、声をあげて泣き始めた。


「どうしてですか!どうしてですか!どうしてですか!」


アンナに激しく揺さぶられたその瞬間——耀の瞳の奥に、光が戻ってきた。


——僕はアンナの様子と、何となく聞こえていた会話から、僕が答えられない部分は終わったのだと確信した。

そして、もう一つ気づいた——もう一人の僕が抱く、レイへの特別な感情……たぶんあいつ……もう一人の僕は自覚していない。


「そんなのおかしいです!ご主人様に特別な人はいないのですか!」

「どうしてだろう、分からないんだ。自分に近い人は近い順に大切に思うし、自分から遠い人は知らない人としか認識できない」


アンナが僕の肩を掴んでいた手を離す。


「ご主人様にとって、私は特別でないのですか?」

「アンナとレイは特別だよ」

「ではどうして、私たちを襲った相手にも優しくされたのですか!私たちが死んでいてもおかしくなかったのですよ!」

「敵に慈悲を与えることは悪いことなのかな?僕はそう思わない」


アンナの右腕をそっと撫でる。彼女の肩がびくりと小さく跳ね、力が抜け、そっと身を預けてくる。


「僕にとって大切なのはアンナとレイがいる三人での生活なんだ」


彼女の頬を伝う涙を親指で優しく撫でて拭う。濡れた肌が指先に触れ、体温の残る水滴がすぐに冷えていく。


「それを邪魔するのが、あの干渉者だろ?奴の目的は僕自身だから、奴の目的を挫くだけなら僕一人が死ねばいい。でも、それでは大切にしている三人での生活を犠牲にしなければならない」


なんとなく愛おしくなって、アンナの両頬を優しく撫でてみる。


「奴の大審判とやらで、見知らぬ誰かが死ぬかもしれない。でもその誰かのために、僕が犠牲を払うのはごめんだ」


アンナは涙を浮かべた瞳を向け、じっと話を聞いている。


「奴が僕に関わらずに大審判とやらをするのなら、僕は関わらない。勝手にすればいい」


涙で潤んだ瞳が、純粋なアンナの心を象徴しているようだ。


「今日の話になるけど、奴があの場所を通って僕に声を届けたのは間違いない。そして彼女たちは風呂に入れると、たったそれだけのことで心を開いてくれた。快く協力してくれたことへの対価として、あいつは——あの世界での夫となることを、拒まなかった。」


夫という言葉で、アンナの目に怒りが浮かぶ。


「アンナには大きなことかもしれない。でも、それだけのことで三人の生活が邪魔されないと思うと、僕にとっては些細なことなんだ」

「意味が分かりません……なぜ夫となることを拒まなかったのですか?他にも方法はあったのではないですか?」

「分からない……でももし、彼女たちが協力を拒んだら、あの時の僕は彼女たちを……皆殺しにしたと思う」


アンナが目を見開く。そして気づいた——これはあの時と違う耀だと。


「今の僕にとって全ての中心にあるのは、三人での穏やかな生活なんだ。思わぬ形で一緒に暮らし始めたけど、まともな家族を持てなかった僕が、やっと手に入れた楽しみなんだ、だから誰にも邪魔されたくない」

「ご主人様……」


アンナの脳裏に耀が幼い頃に受けた虐待が思い出された。


「では、あの女は家族でないと?」

「あの世界に行けば妻さ。でも、僕が生きるのはこの世界だから分けて考えた、あの時はただそれだけだったんだ」


どう考えても、自分勝手な理屈だが——あの世界で僕が存在できないことは、事実だった。


「ご主人様、私はご主人様のことを心から愛しております。ご主人様は私のことを愛しておられないのですか?」

「分からない。人を愛すると自分にどのような感情が湧くのか、人に愛されると自分がどう変わるのか、全然分からないんだ」

「人に優しくするのに愛は分からないのですね」


アンナが寂しそうな表情でうつむく。

その表情を見て、僕が理解できていることの全てを、アンナには伝えておかなければいけない気がしてきた。


「そもそも、優しくしているつもりはないんだよな。僕が大事にしたいものを守るためにとった行動が、結果的に優しいと見られているだけなんじゃないか?」

「でも、私やレイにはいつも優しくされます」


顔を上げたアンナが、流れた涙の跡も隠さず、じっと見つめてくる。


「それも少し違う、僕はアンナが大事でもなく、レイが大事でもなく、僕たち三人の生活が大事なんだ。だから必然的に優しくなってしまっているのかもしれない」


僕は、本心をそのままアンナに知ってほしいと思った。


「それに、優しくしようと思ってもできない、どうすればいいか分からないから。ただ、もう一人の僕も三人での生活は気に入っているんだ。その証拠にあいつの記憶が残ることがある」

「その、もう一人のご主人様と、一つになることはできないのですか?」

「できそうな気がする。前と違って心があいつとつながっているような感覚がある……でも怖いんだ」


その言葉で、アンナはレイの撮った写真が表していたことを理解できたような気がした。


「僕が、僕じゃなくなったら、アンナに対するこの気持ちもなくなるんじゃないかってね」

「でも、ご主人様はこっちの世界でも魔力を纏っておられました——」


アンナは僕の瞳をじっと見つめている——もしかすると、どっちに話しかけているのか不安なのかもしれない。


「初めて見た時は悪魔に取り憑かれたかのように自分を死に追い詰めて、二回目に見た時は凶暴さしかない悪魔のような存在で、三回目に見た時は悪魔が誑かすように真由美さんを落としてしまいました」

「悪魔か……言い得て妙だな。悪魔の時の僕は、いつ暴走するのか分からない。あいつの行動を夢に見ている感覚なんだ。見ようと思えば夢の映像のように見える。でも、あいつが暴走するとき、僕が深い闇に取り込まれる感覚になって記憶も曖昧になる」

「でも、今日は悪魔のようなあの感覚はありませんでした」


その言葉に僕はうなずく。理解してもらえるか分からないが、正直に話しておこう。


「僕の感覚では身体の中の表と裏なんだよ、同時に出ることはできないけど、お互いの思考はなんとなく分かる。でも悪魔のあいつは、僕が制御できないんだ。呼び出すなら、その悪魔を止めることのできるアンナとレイがいるときでないとだめだね」


アンナが驚いた表情で、僕をじっと見つめた。


「呼び出せるのですか?」

「微笑むと呼び出せる……そうして僕は無意識にあいつを呼び出して、降りかかる嫌なことをなすりつけてきた。そうしているうちにあいつは僕の意思から独立したんだと思う。小さい頃のことだし、振り返って理由を後づけしただけかもしれないけどさ」

「私にも笑顔を見せてください」

「頼まれて作った笑顔を見たいかい?」


アンナがハッと何かに気づいた表情を浮かべ、僕を抱きしめる。


「見たくありません。今のままがいいです」


少しの時間、アンナの吐息と柔らかな唇が肌に触れた。


「ご主人様、身体が冷えてしまいました。少し温まりましょう」


——レイには慎むように言われたが、僕たちは慎むことができなかった……

露天風呂なのも忘れて、一心不乱にお互いを求め合った。

身も心も満たされ、寄り添って湯に浸かる二人には、さっきまで言い争っていたとは思えないほどの信頼感が漂っていた。


「ご主人様……帰ったら私と手合わせしてください」


アンナが甘えるような声でねだる。


「——分かったよ」


僕は物騒なお願いを承諾し、アンナの肩を優しく抱き寄せた。

——そしてその温もりに、僕は生きていたいと思った。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月27日、一部修正しました。

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