伊耶那美
黄泉醜女と黄泉軍が左右に控え、割れるように開いた道を、耀はゆっくりと歩き、ずっと視線の先に捉えていた相手の前に立った。
その相手は、まさに異形の様で、身体の半分は腐敗し蛆がたかり、一部は骨が露出して、青白い光を反射していた。
──それは、死を越えてなお動く者の姿。
顔もまた、半分は腐れ落ち、たかる蛆の間から頭蓋骨を曝け出し、片方の眼球は頬の辺りまでこぼれ落ちている。
残った部分の肢体から、かろうじて女とわかる有様だった。
「なぁ、お前……」
「幾たびも、吾をば『お前』と呼びしな……それ、無礼の極み。命を以て償わせてくれようぞ」
あくまで戦う姿勢を崩さないのを見て、耀はそっとレイを降ろした。
レイは耀と対峙する相手をみて、思わず顔をしかめ口と鼻を手で覆った。
「あれは……なんですの?身体がほとんど腐っていますわ」
「アンナ!」
耀が突然大声をあげた。その声に反応して周囲の敵を薙ぎ払い、アンナが駆け寄ってくる。
「——ご主人様」
アンナは一瞬足を止める。
「なんですかあの者は……異様な臭いがします」
そう言いながら、耀の傍まで歩み寄ってくる。
「アンナ、レイを守ってくれ」
耀は相手を見据えたままアンナに指示を出す。
「分かりました。レイ、私から離れてはいけませんよ」
「ようやく兄様から解放されましたわ……アンナはレイを優しく扱ってくださいまし」
レイがアンナの背中にしがみつく。周りは二体の雷神と、まだ多く残る黄泉軍に囲まれているが、耀と女の動向にじっと目を凝らしているかのように、襲いかかってくる気配はない。
「独りにて、吾に敵せんと?愚かなること。身のほどを知るがよい」
怒りに狂ったような金切り声で叫びをあげ、振り乱した髪の隙間から異様な眼光を向け、耀に飛びかかる。
耀は身を躱すこともせず、振り下ろされた爪が耀の背中に突き立てられた。
だが、耀はそれを待っていたかのように、彼女の腐敗した身体の腰と尻に腕を回して、しっかりと抱き留めてしまった。
そのふたりの姿は、立っている耀に異様な女が『だいしゅきほーるど』しているようにしか見えない。
そして耀は、半分腐り落ちた女の顔へと自らの顔を寄せ、その濁った瞳を、まっすぐに見つめ返した。
誰もが想像できなかった展開に、雷神と黄泉軍はたじろぎ、レイは天を仰ぎ、アンナの目は凍りついていく……
敵味方が関係なく、それぞれの思いを胸に、固唾を呑んで事の成り行きを見守る中、耀の低い声が響き渡る。
「——なあ、お前。昨日、俺の風呂覗いてただろ」
辺りはさらに静まり返り、先ほどまで激しい戦闘が繰り広げられていたことを、この空間そのものが忘れ去ったかのように静寂が支配する。
突然、レイの大声が空間を切り裂いた。
「なぁぁぁぁー!そんなことを聞くために、レイは振り回されて、パンツ丸見えの鈍器にされて、朝ご飯をぶちまけましたの!」
両手を振り回し、怒りの声を上げるレイの頭に、アンナの手がそっと添えられる。
「——レイ、今は黙って見ていましょう」
その冷静なアンナの声を聞き、怒りを孕んでいると悟ったレイは、小さな声で呟く。
「分かりましたわ……」
「帰ったらゆっくりと話をお聞きしましょう」
そっと見上げたアンナは、冷たい瞳で笑顔を浮かべ、だいしゅきほーるどされている耀を見つめていた。
レイは、自分を守ってくれているアンナから逃げ出したい衝動に駆られる。
抱き寄せた女の目をじっと見つめ、次第に顔が近づき、もう口と口がついてしまうのではないかと、周囲が不安と期待の目で見守る。
女が耀から顔を反らし、小声で呟いた。
「——見届けておりた」
「やっぱり、お前だったのか。それなら、さっきの四人の女を呼んで、俺の身体にしがみつかせろ」
その言葉を耳にし、女は残っている片方の目を見開く。
「汝はこの姿を恐れぬや?」
驚いたように問いかける女に、耀は首を傾げ、その瞳をじっと見つめたまま答える。
「いい女じゃないか。言われたとおりにしてくれ」
「黄泉醜女よ、此の男にまとひつけ」
その声が届いたのか、四人の黄泉醜女が耀の両腕、両足にしがみつく。
そして耀は、ひとときも躊躇うことなく、半ば骨と化した唇へ、自らの唇を重ねた。
その瞬間、腐敗と骨の狭間にあった女の中に、微かな火が灯る。
驚き目を見開いた女が受け入れるようにゆっくりと目を閉じると、ふたりは燃えるように互いを求め、受け入れはじめた。
同時に耀の身体から、混沌の色をした魔力が溢れ出す。
それは、あらゆる色が混じり合うことなくゆらめき、意思を持つかのように、ゆっくりと耀の周りで渦巻き始めた。
その瞬間、時間さえも沈黙したように、誰もが息を呑んだ。
魔力は四人の黄泉醜女と、抱かれる女性、そして耀自身を完全に包み込んでしまった。
「アンナ、兄様は女であれば腐っていても大丈夫なようですわ……」
「後でゆっくりとお話を聞きます」
——女は周りに漂い始めた禍々しい気配に薄っすらと目を開く。
そこにはあらゆる色の魔力が渦巻き、蠢いている——そこがどこなのかは分からない、だが、自分が元いた世界と異なるのは、すぐに理解できた。
唇が重なるたび、さらにこの男を求める衝動が、絡みつくように身体の奥へと広がっていく。
その衝動に逆らうことなく、この男から与えられるものを全て受け入れるかのように、再びゆっくりと目を閉じた——
アンナの冷たい笑顔は引き攣り、レイは頭を抱えている。
どれほどの時間が過ぎたのか——誰もが声を失い、ただその場に立ち尽くしていた。
やがて、六人を覆っていた耀の魔力が少しずつ減り始め、人影が浮かび始めた。
完全に魔力が消え去ると、そこには耀の四肢にしがみつく四人の美しい全裸の女性と、珠のように美しい肌の肢体を晒し、耀にだいしゅきほーるどをしたまま口づけを交わしている女性が現れた。
「ご主人様!もう我慢できません!」
アンナの握る槍の石突が床を擦り、鈍い金属音を響かせた。
怒声をあげるアンナを宥めるように、レイがゆっくりとした口調で話しかける。
「アンナ、今は黙って見てくださいまし、後でゆっくりとお話を聞くとよろしいですわ」
耀から離れた四人の女性が、互いの姿に目をまるくして驚く。
そして、耀に抱かれている女性を見た瞬間、涙を流して声をかけた。
「黄泉津大神様……お姿が……誰ぞ姿見を持ってまいれ!」
何が起こっているのか分からないまま、唇を離した男の声が届く。
「大丈夫だったか?」
美しくなった黄泉醜女のひとりが、耀に抱かれている女性の姿を鏡に映し見せると、女性は鏡と耀の顔を交互に見返し、やがて指先を震わせ、息をゆっくり吐いた。
「これは、吾が身に美しさ戻り来たりしものか」
目に涙を浮かべ耀を見つめる。
「汝が戻して賜りしや」
「ああ、そうだ」
「誠に感謝申し奉る」
目に浮かべた涙が頬を伝いこぼれ落ちた。
「……これでお前らも、風呂に入れるだろ」
喜びに震える身体を、だいしゅきほーるどのまま耀に身を預けていた女性が、彼の顔を見つめて呟く。
「——汝に、ひとつ願いがございます」
「どうした?」
「……そろそろ、吾が尻を掴むその手——離してはいただけませぬか」
耀の耳元で恥ずかしそうに呟いた。
耀は名残惜しそうに女性を降ろし、ふと視線を落としてみる。
切れ長の目、小さな鼻、厚い唇がふっくらとした表情を形作り、黒髪は真っ直ぐ背に流れる。
そのややふくよかな体型には、大きな胸と豊かな尻が際立ち、女性は喜びの涙を静かに流しながら、耀を見つめていた。
「なぁ、お前に聞きたいことがあるんだが」
「吾が名は『伊耶那美』なり」
そう言うと、耀の胸にすがり身を委ねる。耀は右腕をそっと伊耶那美の背中にまわす。
「そうか、俺は相葉耀だ」
「さて……聞かんとすることとは何ぞや」
「昨日、俺に声を届けたってことは、ここから出られるんだな?」
「まことに、その通りにてありましょう、吾が君よ」
「君?」
耀の疑問に控えていた黄泉醜女から答えが返る。
「夫のことにございまする」
直後、アンナから恐ろしいほどの闘気と殺気が放たれた。
「兄様、アンナが限界ですわ。これ以上放置すれば、本当にここにいる者を皆殺しにしてしまいますわ!」
「アンナ、レイ。こっちに来てくれ」
「——はい……ご主人様」
アンナとレイが耀に向かい合うように立つと、伊耶那美は耀の胸に委ねている顔を二人に向けた。
「此の女、何者にてありましょうや?」
「妻のアンナです」
アンナは冷たい表情のまま、伊耶那美を見据え、丁寧に腰を折った。
「妻のレイですわ」
レイは伊耶那美に笑顔を向けた後、半歩下がり、スカートを少し持ち上げ礼をする。
二人の言葉を聞き、伊耶那美は耀から離れ、丁寧にお辞儀をする。
「然もありなん。力ある男に、女が仕うるは……世の常にてございます」
伊耶那美は二人の前に歩み出ると、黙礼をし言葉を続ける。
「吾は黄泉にて、ただ妻として在り続けましょう。それにて現世の奥方らも、さぞや心安くあられることでしょう」
「こうなっては仕方がありません。この世界での妻とおなりください」
諦めたようなアンナの言葉に、レイはうなずいて微笑んだ。
「アンナが認めるなら、レイに異存はありませんわ」
「これにて吾は、黄泉を出ること叶わぬ。されど君よ、ひとつ——頼み申し上げたく存じます」
「ああ、だが俺の命は短いぞ、それに、その姿も俺が生きている間だけだ」
「それは、心得ております。吾は黄泉の国より出ること叶わぬ身なれど……時折、会いに来てくださりませ」
その言葉に、耀は深くうなずき、アンナに目を向ける。
「これでいいか?」
「ご主人様の意のままに」
「兄様、お気をつけくださいまし。アンナはまだ怒っていますわ」
レイの忠告に、耀は深くうなずいた。
耀の右にアンナが、左側にはレイが移動すると、耀は向かい合う伊耶那美に話しかける。
「さて、邪魔が入ったが——」
刹那、耀の喉元に槍が突き出される。
片手で槍を受け止めた耀が、その相手に声をかける。
「——アンナ、危ないだろう」
槍先がわずかに震え、アンナは長い睫毛を伏せる。ひとつ、深い呼吸をつき、艶っぽい瞳で耀を捉える。
「——邪魔とはなんですか」
二人を見ていたレイが、首を小さく横に振る。
「——今のは兄様が悪いですわ」
レイの言葉に耀はうなずき、アンナに声をかける。
「アンナ、俺が悪かった——これを下ろしてくれ」
「はい——ご主人様……おわかりいただけたのであれば収めます」
アンナは静かに槍を引くと、石突を地に当てて、ひとつ音を鳴らした。
後方では、その音に怯える黄泉軍の声が響いた——
耀は再び伊耶那美に向き合うと、慎重に言葉を選び話し始めた。
「さて、話を戻すが……ここを通って人間の世界に抜けている奴がいるよな?」
「それを知りておりたか?」
「——勘だ」
レイはこめかみに指を当て、小さくうなずき、感心したような表情を耀に向けた。
「兄様厨二形態は……とてつもなく頭がキレますわ」
「どういうことですか?」
アンナは不思議そうな顔で耀を見つめている。
伊耶那美はゆっくりと目を閉じ、静かに話し始めた。
「数百年前のことにてございます。偶然にて生じし歪みより、ひとりの翁が迷い込みたり。その者、自らを『人の世に悦びをもたらす神』と名乗り、この地を通りて、現世へと向かわせてほしいと願い出でたり」
伊耶那美は目を閉じたまま、指を胸元で組み、かすかに喉を鳴らした。
「これを拒みし吾なれど、美しき身と現世の姿を与えようとの言葉に、知らず惹かれ……ついに、それを認めてしまいしなり」
伊耶那美の表情に、わずかな怒りの色が滲む。
「されど、一向に約定を果たす気配なく……吾が問いただしたところ、『それができる人間を見つけたり。しばし待たれよ』とのみ語られし。されど結局のところ、ただ反故にされ続けたり」
伊耶那美の目がゆっくりと開かれ、その瞳に耀を映した。
「されど、吾は気づいております。その人間……まこと、君にてあらぬか?」
耀はひとつうなずいて答える。
「ああ、多分俺で間違いない」
「やはり……然様に在りしことか」
納得するようにうつむいた伊耶那美に、耀が口を開く。
「そいつらがここを通れないようにしてくれないか?」
伊耶那美は深くうなずく。
「君の申されしことにて、是非にも及ばざるものなり。吾が力無くば、彼奴らはここにすら来ること能わざる。美しき身体は取り戻し、人の世には、現世の奥方との約定がありて行くこと叶わず。彼奴らに義理を立てる必要も無くなりぬ」
しかし、話が終わりかけたその瞬間——アンナが突然振り返り、槍を振るった。
冷たい金属音と共に二本の短剣が耀の足元に落ちた。
「ご主人様、何かがいます!」
アンナの声を聞き終わる前に、耀は両腕を伸ばし伊耶那美に抱きついた。
「——兄様、このような時に何をしていますの」
レイが呆れた声をかけるが、それを否定するかのように伊耶那美が首を横に振る。
「——君はやはり強き男なり」
そう言いながら、伊耶那美は耀の腕の下をくぐって身を翻す。
耀の腕の先には、金髪の女が耀に首を掴まれ、身体を宙に浮かせていた。
「お前、あの神とやらの下僕か?」
金髪の女は口を固く噤む。
「締め上げていないから喋れるだろう?名前を教えろ」
金髪の女は目を背ける。
「——喋る気はないか」
そう言いながら、女の身体をまじまじと眺める耀の視線が、遠慮がちな胸で止まった。
「お菓子食うか?」
その言葉に金髪の女は耀を睨みつけた。
「大人、バカにするな……」
「それは悪かったな。よく見れば立派なレディだ」
少し頬を膨らませ、顔を反らした金髪の女を、耀は黙って見続ける。
女は唇を尖らせたまま、視線だけを耀に戻した。
「まあいい、女だから殺しはしないが、さっさと帰れ。分かったか?」
金髪の女は小さくうなずいた。
「次に会う時は、俺の女になるか、死ぬか選ばせてやろう。覚悟して来いよ」
そう言って手を離すと、金髪の女は闇に消え去った。
「さて、二度と通ること能わざるようにしておこう」
伊耶那美が軽く祈るような素振りを見せると、金髪の女が去った方の空間がねじれるように歪み、音もなく元に戻った。
それを見届けた耀の袖口を、レイが引っ張る。
「兄様、女の子はお菓子で喜ぶと信じていますの?」
レイは腰に手を当て、呆れ笑いを隠そうともせずに肩をすくめた。
「——違うのか?」
首を傾げる耀に、レイはわざとらしくため息をついた。
「違いますわ——女の子はキラキラ光るものが好きですの」
「そうなのか——次から気をつけよう」
レイ独自の女の子理論を、鵜呑みにした耀に、アンナが呆れたような表情を向けた。
「でも、さっきの女の子は何だったんでしょう?明らかにご主人様を狙っていました」
「きっと干渉者の手下ですわ」
レイの言葉にアンナもうなずいた。
「やはり、そうなのでしょうか?」
「どうでもいい、あいつは可愛かったから、俺の婚約者としておこう」
刹那、耀の眉間めがけて槍が突き出された。
それを片手で受け止めた耀が、再びアンナに声をかける。
「——アンナ、当たったら怪我するだろう」
アンナはため息をつき、軽蔑の視線を耀に向ける。
「——ロリコン」
槍の先がわずかに揺れ、心の震えが伝わる。
「何を言ってるんだ?立派なレディだっただろ」
レイが呆れた顔で、耀に声をかける。
「兄様、アンナはそれに怒っているのではありませんの」
「——そうなのか?」
首を傾げる耀を無視して、レイがアンナに話しかける。
「アンナ、続きは後ほどゆっくり話し合ってくださいまし」
胸がひとつ上下し、アンナは静かに槍を下ろした。
レイが両手を小さく打ち合わせ、耀に振り返り、笑顔を浮かべた。
「さあ、兄様。観光に行きますわ!」
うなずいた耀は、伊耶那美に向かい合う。
「いろいろ迷惑かけたな。俺たちも今日は帰らせてもらう」
「君よ、月に一度、必ず会いに来たれ、賜りたく存じます」
伊耶那美は少し悲しそうな表情で、耀を見つめている。
「——ああ、分かった」
ひとりの黄泉醜女が、耀の前に歩み出る。
「では、ご案内いたしまする」
美しくなった醜女に先導されて歩いていた耀が、ふと立ち止まり、後ろを振り返った。
こちらを見ている雷神と黄泉軍に目を配り、大きな声をあげた。
「みんなも騒がせて悪かったな」
そう言い残した耀と、アンナ、レイの三人は、案内する黄泉醜女の後ろを歩き始めた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月26日、一部修正しました。




