黄泉の国
「三人が足を踏み入れると、さっきまで見ていた景色とは全く異なる、永遠に続くかのような闇の世界が広がっている。
空間全体が淡く青白い光を帯び、その光を通して目に入るもの全てが不気味に見える。
その光のおかげで、この空間を見渡せるが、その先に境界があるのか無限に続くのか、三人の立つ場所からは見渡すことができない。
「ここは何ですの?」
レイは興味深そうに周囲を見回している。
「なんだか、気味が悪いです」
アンナは身をすくめて、腕を擦っている。
立ちすくむ三人に、どこからともなく声がかかる。
「これは、神隠されし子か?」
「神隠されし?……いったいなんですの?」
「迷ひ子なれば、いとあはれなれど……ここは、命あるものの踏み入るべき処にはあらぬ」
その声が空間に溶けるように消えると同時に、闇が蠢きはじめた。四つの人影が、地の底から這い出るようにして姿を現す。
青白く照らされたその姿は、身体のところどころが腐敗し、乱した長い髪の向こうから、生気のない目で三人を伺っている。
「黄泉の国より、生きて帰すわけには参らぬ。黄泉醜女よ——彼の者に、死を賜れ」
「に、兄様、下がってくださいまし」
「ご主人様……私の後ろへ」
アンナとレイの声を無視するかのように、耀は前に足を進める。
瞳からは輝きが消え、その身体にはいつの間にか限りなく黒に近い紫の魔力を纏っていた。
「何を出すかと思えば、女が寄ってきただけか……」
ゆっくりと四人の前へと進み出る耀は、割って入ろうとするアンナに片手を向けて制した。
「困らせる女も嫌いじゃないが、今日は黙って引っ込んでくれると、ありがたいんだがな……」
その変貌を見て、レイが目を見開く。
「まさか……兄様、なぜ第二形態に?」
レイが驚いた声を聞き、アンナもその変化に気づき、戸惑いを浮かべる。
「ご主人様——いつからそのお姿に……」
耀は二人を気にすることなく、まっすぐに黄泉醜女に視線を向けている。
少しずつ黄泉醜女に向かって歩みを進める耀を、嘲笑うかのような声が響く。
「生ける国の者が、黄泉の者に刃向かおうなどと……思うておるのか?生ける国の者など、神とて逃げ出すものなり」
黄泉醜女が不揃いな歯をむき出しにし、血の気のない唇からは腐肉を燻すような息が漏れた。
四人が足を踏み出したのを見て、耀は目を細めた——
四人の身体がまっすぐに耀を目がけて突き進む。
金属を引き裂くような呻き声をあげながら、朽ちた指先から伸びる、血に濡れたような深紅の爪を、一斉に振り下ろす。
——その瞬間、耀の身体がふっと揺れ、その四人が彼の足元に崩れ落ちていた。
「悪いな……四人ともそこで大人しく寝てろ。後で可愛がってやるよ——」
囁くように呟き、足元の四人を一瞥する。そのとき、焦燥を帯びた声が耀の耳に届いた。
「さても……汝は、生ける者にはあらざりしか。否。まこと、命の鼓動——確かに感じる」
その声を聞いた耀は、目を閉じて思案した後、ゆっくりと口を開いた。
「なあ……お前……」
耀のその言葉に怒りを覚えたのか、激しい口調が響く。
「無礼を働きしうえ、吾をお前などと呼び上げるとは……吾が身より生まれし徒どもよ。あやつらを捕らえ、魂の奥底までも喰らい尽くして構わぬ」
その声が止むと、しばらくの静寂が訪れた。辺りを警戒するアンナとレイとは対照的に、耀はただ正面を見据えている。
雷が迸り、轟音が静寂を引き裂く。落ちた八つの雷光の中心には、八体の異形が影のように立ち上がっていた。
彼らの姿は闇に溶け込みそうなほど黒く、その輪郭を雷の光が覆い、鋭く浮き上がらせる。
その瞳は瞬くたびに、緋色、藍白、黄丹、萌葱、赭、朽葉、滅紫、白練——八つの異なる色が雷光のごとく閃き、周囲の闇を斬り裂いた。
さらに、八体の異形の周囲の闇は深く蠢き、果ての知れぬ奥底から、影が染み出すように湧き始めた。
人影は波のように連なり、無音のまま、いつしか三人を完全に包囲していた。
「——いったい何人いますの?」
「百や二百ではありませんね……」
焦りを見せるレイに対して、アンナは落ち着いて周囲を把握しようと、視線を動かしている。
「八雷神、千五百の黄泉軍が、汝に敵せむ。逃れ得ると思うてはならぬ」
アンナとレイが耀の元に駆け寄る。
「ご主人様、ここは退くべきかと思います!」
「兄様、いくら第二形態でも、これは無茶ですわ!」
そう言って腕を引く二人を無視し、耀は正面を見据えたまま、突然二人を脇に抱え上げ、獲物を見つけたような目で、前に向かって歩き始める。
「兄様、あり得ませんわ……アンナはともかく、レイには戦う術など、ひとつもありませんの……」
「ご主人様、私も戦います!下ろしてください」
耀はアンナをそっと下ろし、レイを左腕に抱き上げた。
耀の首に必死にしがみつくレイには、耀が無数の黄泉軍の奥に、しっかりと何かを見据えたような視線を向けているのが分かった。
「ほう……その身にて、吾に抗わんと?よきこと。ならば、少しばかり戯れてみせよ」
その声を合図に、三人を取り囲んでいた黄泉軍が一斉に飛びかかってくる。
アンナは拳を握り締め、薙ぎ払うように大きく振るうが、まるで影を相手にしているかのように、本来あるべきはずの衝撃が伝わってこない。咄嗟に飛び退き、掴みかかる相手を躱した。
「ご主人様!」
耀を心配して振り返ると、大きな回し蹴りを放とうとする姿が目に入った。
「その相手には打撃が当たりません!」
アンナの声を無視して、耀が回し蹴りを放つ。
「なぁぁぁぁあああ!」
振り回され、目に涙を浮かべたレイの叫び声と共に、黄泉軍が影のように弾き飛ばされ、地に崩れ落ちていく。
「ご主人様!私が相手をするのは無理です。当てることすらできません!」
その声が耳に届いたのか、耀は静かに歩みを止めた。
耀の身体を纏っていた魔力が右腕へと収束し、生き物のようにうねりながら、細く長い槍の形を象っていく。
一瞬、黄泉軍を怯ませるほどの閃光を放った耀の右手には、漆黒の柄に暗い紫の穂を宿した、十尺の平三角槍が握られていた。
耀はその槍をアンナに差し出す。
「黒紫裂界槍……」
小さな声で呟かれた耀の声を聞き、レイは首を傾げる。そして、その意図を理解しアンナに声をかける。
「アンナ!これを使えばいいと、兄様が言っていますわ!」
駆け寄ってきたアンナが、耀の手から槍を受け取り目を見開く。
「美しい槍です……」
思わず槍に見惚れているアンナに、再びレイが声をかける。
「アンナ、それは境界というものを無視して、あらゆる次元のものを穿つことができる『黒紫裂界槍』という槍だそうですわ!」
「ご主人様、ありがとうございます……」
惚れた異性でもあるかのように、槍を抱きしめるアンナを尻目に、レイは耀の耳元に顔を寄せて囁く。
「この命名センスのなさ——どうやら、第二形態からさらに進化して、兄様厨二形態になったようですわ……」
耀の身体は、再び魔力を纏うが、それが抱きかかえているレイをも包み込む。
暖かく感じるその黒紫の魔力は、レイの身体を耀に引き寄せる。
「兄様、これは妻であるレイを守ろうとしていますの?」
小さくうなずいた耀に、レイは頬を染める。
「嬉しいですわ……兄様。どうぞ優しく扱ってくださいまし」
アンナは槍を立て、耀と背中合わせに立ち、周囲の黄泉軍に目を配る。
突然の轟音と共にアンナの槍に雷が落ちるが、その穂に触れた瞬間、雷は断たれたように裂け、ふたつに割れて落ちた。
その落雷が合図であったかのように、黄泉軍が一斉に突撃してきた。
突出してきた敵の先陣に対して、アンナが槍を真横に振るうと、十数体が真っ二つに切り裂かれた。
「はぁ——ご主人様の深い愛を感じます……」
耀は取り付いてくる黄泉軍から、レイを庇うように攻撃を躱しつつ、自分に一番近い敵をひとりずつ蹴り倒しているが、数の暴力には抗うことができず、次第に群がる黄泉軍に押され始める。
「兄様!退いたほうがいいですわ。数が多すぎですわ!」
耀を見たアンナが助けに向かおうとするが、次々と割って入る黄泉軍に阻まれる。
自らに取り付いてくる黄泉軍を捌くことに精一杯で、耀に近づくことすらできない。
その間も、束になって押し寄せる黄泉軍を捌ききれない耀の姿は、敵の群れに埋もれてしまう。
「ご主人様!」
アンナの声が無情に響く……足止めするかのように、容赦なく向かってくる黄泉軍を、アンナは耀の元へ向かう進路を切り開くように、薙ぎ払い続ける。
「ぬぅぅぅぅなぁぁぁぁあああー!」
レイの叫び声と同時に、耀に群がっていた黄泉軍が一斉に弾かれたように吹き飛ぶ。
さらに多くの黄泉軍も、その余波に巻き込まれ、波に飲まれるかのように次々と倒れていく。
そして、その波の中央では、鋭い視線で周りを見回す耀が立っていた。
「兄様……回転するなら先に教えてくださいまし……」
耀の首に必死にしがみつき、涙目で訴えるレイを無視して、耀の視線は一点に固定された。
耀が何かを見つけ、そこに向かおうとしていることに気づいたアンナが耀に声をかける。
「ご主人様、後は私に任せて、前にお進みください!」
「なぁぁぁぁぁー!」
レイの叫び声を残し、耀は視線の先に立つひとりに向かって一直線に駆け出した。
それを阻むように群がる黄泉軍を躱し、見据えた相手を殴り、容赦なく蹴り飛ばしつつ進んでいく。
「兄様……こんなの初めてですの、もっと優しくお願いしますわ……」
レイは青ざめた顔で必死に笑顔を作りながら耀にしがみつく。
「兄様が激しすぎて、レイは朝ご飯をリバースしてしまいそうですの……」
その後方では、アンナが耀の邪魔をさせないように、わざと目立つように立ち振る舞い、八体の雷神と多くの黄泉軍を引きつけていた。
「はぁぁ……この槍は身体の奥まで馴染んできます。まるでご主人様に抱かれているかのようです……」
アンナの槍の前に次々と倒れていく黄泉軍とは裏腹に、アンナの顔は紅潮し、うっとりとした眼差しを相手に配っている。そして、その妖艶な視線が一体の雷神で止まった。
「あの大きいのも、ご主人様に比べれば大したことありません」
そう呟くと、アンナはその雷神に向かって猛然と駆け出した。
立ちふさがる黄泉軍は、その恍惚な瞳に映る順に、艶やかな吐息と共に、槍で薙ぎ倒され、突き通され、切り裂かれていく。
敵からはもはや狂人にしか見えないアンナは、そのまま真っ直ぐに突き進み、雷神を下から真っ二つに切り裂いた。
「あぁ、すごいです——切れば切るほどに、ご主人様の愛に満ち溢れていきます……」
背後で雷神が狂喜の槍の餌食となって倒れるのを、アンナは振り返ることなく、穂先を愛おしそうに撫でながら目を細めた。
「これは、私とご主人様の愛の結晶です。切れないものがあるわけがありませんね……」
再び彼女の周囲を取り囲む黄泉軍に、溶けるように潤んだ瞳が向けられる。
その瞳を目にした黄泉軍は、わずかに足を止めた——愛に満ちた狂気の美が、戦場を支配し始めていた。
アンナが一体の雷神に気を取られている隙に、二体の雷神が耀の前に立ち塞がった。
その威圧感に思わず立ち止まった彼の背後からは、無数の黄泉軍が迫ってくる。
「に、兄様……挟まれてしまいましたわ……」
「手を離す。しっかり掴まって口を閉じろ……」
「——に、兄様?」
魔力を纏った厨二形態の耀に話しかけられたことに驚きながらも、レイは耀の首にしっかりとしがみついた。
直後、耀が後方に向かって回し蹴りを放つ。
レイの足は宙に浮き、次の瞬間には身体まで浮き上がり、倒れていく黄泉軍が猛烈な速度で視界を飛び去っていく。
同時に浮いている足が何かにぶつかる鈍い感触を感じた。
一瞬静止して、足が地面を捉えそうになると同時に逆方向への回転が始まり、レイの身体は宙に浮かされた。その勢いで舞う足が何かを薙ぎ倒していく。
ついに限界を迎えたレイは、リバースした朝食を、遠心力に任せて周囲に撒き散らしてしまう……
「——兄様……レイをパンツ丸見えの鈍器にしましたわね……」
耀の左腕に抱き上げられたレイが、恨めしそうな目で彼を見る。
「おまけに、可憐な淑女が、朝ご飯を撒き散らしてしまいましたの……兄様にも責任を取ってもらいますわ」
リバースの余韻を残したまま震える唇を、耀の唇に重ねた。
耀を抱きしめる彼女の腕に力が込められると同時に、重なる唇の隙間から、血が滴り落ちた——
「レイ、俺の舌、噛んだだろ——」
「はい、噛みましたわ」
「レイ、ここは戦場だぞ……」
「そんなこと分かっておりますの。それでも、レイの気が済みませんわ!」
二人の口づけが終わるのを待ってくれていたかのように、二体の雷神が耀に襲いかかる。
前に飛び出してきた一体が雷を纏った拳を耀に振り下ろすのを見て、一瞬眉をひそめると、耀は自らの拳で撃ち返す。
反動で怯んだ相手に、左に倒した身体からしなるような鋭い右蹴りを放つ。その蹴りは雷神の腹に命中し、雷神は膝から前のめりに崩れ落ちた。
その倒れゆく姿を横目に、耀は飛び上がり、後方に構えていたもう一体の雷神の額に拳を叩き込む。
雷神は身体が弾けるように宙に浮き、足が虚空を掻きながら、背中から地面に叩きつけられる。
圧倒的な強さを見せる耀は、倒れる雷神を気に留めることなく、ずっと視界に捉え続けていた相手へと足を進める。
耀の後方では、アンナが艶っぽい微笑みを浮かべ、周囲を見回す。
既に、その足元には無数の黄泉軍が斬り伏せられていた。
「どうしたのですか……私はまだ物足りませんよ」
彼女は振るった槍を立て、石突を打ち鳴らす。
「——誰か、私を満足させてくれる相手はいないのですか?」
にじり寄る黄泉軍を煽るような言葉の直後、槍に雷が落ちる。
それにも微動だにしないアンナの前に、一体の雷神が歩み出てきた。
「あなたは私の火照った身体を、満足させてくれるのですか——」
次の瞬間、雷を纏った雷神の拳が、アンナに振り下ろされる。
わずかに身を躱したアンナは、目を細め雷神を見る。
「あぁ——そうです。もっと私を突いてください……」
妖美に唇を震わせるアンナの隙を突くように後方から黄泉軍が束になって襲いかかる。
アンナは振り向きざまに槍を薙ぎ払い、数人を斬り伏せた。
「貧弱なあなたたちでは、何人相手にしても、私の身体は満たされません」
石突が再び音を立てる。
「——下がっていなさい!」
アンナの怒声に、黄泉軍は一斉に後退する——
戦意を喪失したような黄泉軍の間を縫って、もう一体の雷神が歩み出てきた。
「大きなのを二人同時ですか——私の身体は満足するでしょうか?」
アンナの呟きが終わると同時に、背後から拳が振り下ろされる。
とっさに身を捩りながら躱したアンナが周囲を見渡すと、いつの間にか三体の雷神に囲まれていた。
その光景に、アンナの紅潮した頬がさらに熱を帯びる。
口元に艶やかな笑みを浮かべると、左手をそっと自らの胸へ這わせ、爪先が肉をかすかに捉える。
「——あぁ……素敵です。大きなのを三人同時だなんて、疼いてしまいます……」
槍の穂先を妖しく震わせながら、アンナは頬を紅潮させ、舌で唇を湿らせた。それを見て、雷神たちは一瞬、動きを止める。
その視線の先で、彼女はしっとりと潤んだ瞳を細め、息を吐きながら誘うように告げる。
「さあ……お構いなく。私のすべてを、穿ち尽くしてください……」
刹那、掴みかかろうとする腕を滑るように躱し、そこに振り下ろされた拳に足をかけ、勢いを増して宙を舞うと、雷を放とうとしていた一体の胸に槍を突き立てた。
アンナが優雅に着地すると、その背後で雷神が倒れる。
「もう、ひとり逝ってしまいました——」
つまらなそうに呟くアンナの頭上に拳が振り下ろされる。
アンナがその懐に飛び込むと同時に、槍が雷神の顎から頭頂に突き抜けた。
「もう、二人目です——」
その言葉と同時に倒れる雷神を見たのか、残る一体はがむしゃらに拳を振り乱し、いたるところに雷を落とす。
槍を相手に舞うかのように躱し続けるアンナが、槍を返したその瞬間、横一閃に払われた穂先が、雷神の首を切り落とした。
「三人だけでは物足りません——」
アンナが周囲を一瞥すると、残った雷神も思わず身を引く。
「——後でご主人様に、お情けをいただきましょう」
その様子を愛する人に抱きかかえられながら、見ていたレイが呟く。
「アンナはいったい何をしていますの……」
耀が歩みを止めたのに気づいて、振り向くと、四人の黄泉醜女と無数の黄泉軍が立ち塞がっていた。
再び振り回されるのを覚悟し、目を閉じたレイの耳に、唸るような耀の声が届く。
「せっかく殺さずにおいたのに、また向かってくるのか?」
耀は足を一歩進める。
「女を相手にして、怪我でもさせれば——後で愛でるにも気が引ける」
さらに一歩踏み出し、冷めたまなざしで周囲を見回す。
「——道を開けろ……」
その言葉が落ちた瞬間、まるで王を迎えるかのように、黄泉醜女と黄泉軍が左右に開く。
その先に立つひとつの影に、耀の鋭い視線が向けられた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月26日、一部修正しました。




