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黄泉比良坂

——三人で旅行に出発する日の朝。

空はまだ暗い青に染まり、日の出にはもう少しかかりそうだったが、雲ひとつない快晴だと分かる。

今朝は鶏ではなくレイに起こされた——まだ早いだろうと思いながらリビングに入ると、アンナは準備を完璧に整えて待っていた。

そんな早朝にも関わらず、イオナと真由美が見送りに来てくれた。


「耀様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「旦那様、ご無事でお帰りくださいね」

「うん、二泊三日で旅行に行くだけだから、大丈夫だよ。イオナと真由美も家のことお願いね。これ、家の鍵、預けておくよ」

「イオナ、真由美、留守をお願いしますわ」

「今度はみんなで行きましょうね」


レイは助手席から手を振り、アンナは後部座席で少し申し訳なさそうな笑顔を浮かべている。

レンタカーの手配をすっかり忘れていて、昨日の朝に相談したイオナが用意してくれたのは、まさかの高級SUVだった。

シートに腰を下ろし、ハンドルに触れた瞬間、レザーの柔らかな感触が手のひらに伝わってきて、自然と握る手に力が入る。

出発した直後から、早朝の景色に目を輝かせたレイが、嬉しそうに声を上げた。


兄様(にいさま)が運転する車に乗るのを、楽しみにしていましたの」


助手席のレイは浮かれ気味で、僕に笑顔を向けている。


「——ご主人様、そろそろ休憩を」


まだ十分も走っていないのに、後部座席から休憩を勧めてくるアンナ。

どうも二人は休憩のたびに助手席を交代する約束をしているらしい。


「せめて、最初のサービスエリアまでは進みたいな」

「そうですか……仕方がありません」

「アンナは焦りすぎですわ」


結局、助手席の交代が目的の休憩をサービスエリアのたびに取ったので、五時間の予定を七時間かけて旅館に到着した。

車の中ではアンナの僕に関する悩みを聞かされたり、レイの理解しがたいこの世界以外の存在の話を聞いたりしていたせいか、案外短く感じた。ただ、身体は正直で、休養を欲している。


「もうチェックインできる時間だし、今日は部屋でゆっくりしないか?」


チェックインの前に二人に尋ねてみた。


「そうですね。ご主人様もお疲れでしょう」

「兄様、黄泉比良坂(よもつひらさか)は明日でいいですわ」


正直、運転よりも、サービスエリアで土産物を物色する二人に付き合う方が、よほど疲れた気がした。

なにせ、目にするもの全てに興味をもち、二人が並んで、店内を隅々まで見て回る。——しかも、歩くのが早い。

ともあれ、二人に賛成してもらえたので、フロントでチェックインを済ませ、着物姿の仲居さんに案内されて、宿泊する部屋に向かう。

純和風の客室の大きな窓から、緑に覆われた山々の景色が飛び込んできた。森の自然な香りすら漂ってきそうな見晴らしに、疲れた身体(からだ)と心が安らぐ。


「うわぁ!きれいです、ご主人様!」

「兄様、すごいですわ!」


二人は窓際に駆け寄り、レイはガラス越しに下を覗き込み、アンナは木々の緑にうっとりとして外の景色に夢中になっている。

窓の外に広がる山の緑は、ただの風景ではなく、どこか心を映す鏡のようにも見えた。

旅に出て、こうして日常から離れてみると、いつもは気づけなかった些細なことが、ふと心に沁みる。

レイが窓辺で跳ねるように喜び、アンナの袖を軽く引いて笑う。

その仕草ひとつにも、愛おしさを感じるようになったのは、きっと僕自身が変わった証なのかもしれない。

この穏やかな時間が、いつまでも続いてほしいと、思わずにはいられなかった。

仲居さんは『ご主人様』と『兄様』という呼び方に一瞬目を丸くしたが、やはりそこはプロなのだろう。すぐにお客様向けの笑顔を取り戻した。


「お気に召されたようでございますね。あちらの露天風呂からも景色が楽しめますので、後ほどご利用ください」

「ありがとうございます」

「お茶とお茶うけはこちらにご用意しておきます」


楽しそうに景色を眺める二人を気遣ってか、仲居さんは手早く用意を済ませ、静かに部屋を後にした。

二人は部屋を探索し始めたようだ。僕はひとりお茶を啜りながら、ひと息つくことにする。

しばらくすると、満足したのか、飽きたのか分からないが、二人は僕の近くに腰を下ろした。


「兄様、こちらのお菓子は食べてもよろしいですの?」

「うん、食べなよ。僕はもう食べちゃったよ」

「ご主人様、このお茶すごく美味しいです」


アンナはお茶に興味を示したようだ。帰りに購入できないか探してみよう。

その後、二人の楽しげな話を聞いているうちに、外が少し暗くなっているのに気づいた。


「そろそろ、お風呂に入っておいで」

「ご主人様がお先に」

「僕は少し横になりたいから、先にゆっくり入ってきなよ」

「アンナ、一緒に入りますわ。そうすれば兄様にお待ちいただく時間が少なくて済みますわ」

「そうですね、せっかくなので一緒に入りましょう」


浴室の方からわずかに聞こえる二人の楽しそうな声に心が和み、ぼんやりと横になっていた僕は、いつの間にか夢の中へと入ってしまった。


「ご主人様、起きてください」

「兄様、お風呂に入ってくださいまし」


二人に起こされて、向かった浴室の露天風呂からは最高の眺めを堪能できるはずだった——

少し寝すぎたのだろうか、外はかなり暗くなっていて、森の香りが漂う薄暗い山でしかなくなっていた。

それでも、開放感があって気分は悪くない。

まだ少し眠い目を覚まそうと、お湯で顔を洗っていたら、レイが静かに入ってきたのに気づいた。


「兄様、お背中を流しますわ……」


レイは恥ずかしげに、身体をタオルで隠している。


「——どうしたんだ急に」


その僕の言葉にレイは頬を染める。


「レイも夫婦のようなことをしてみたいですの……」


そういえば、レイとお風呂に入ったことはなかったな。


「じゃあ、お願いするよ」


()が身とて、湯を浴びたく思うこともあれど……朽ちたるこの身にては、叶ふべくもあらず。申すに、彼の者曰く、この身の受けし辱めを晴らす日は、いと近づけり、と。今はただ、眺むるのみ——それといたそう》


レイが僕の背中を洗い始めた直後、怨恨を含んだ低く震える女性の声が、暗くなった山の木々の間を縫う風のようにわずかに聞こえた。腕の産毛がさざ波のように逆立ち、湯面が一瞬だけ細かく震える。


「——兄様?」

「レイにも聞こえた?」

「聞こえましたわ」


僕の背中に添えられた、レイの小さな手が小刻みに震え始めた。


「——怨みのこもった声でしたわ」

「ああ、だけど、どことなく上品な印象を受けた」

「兄様、怖いですわ……」


怯えるかのようにレイが背中に抱きついてきた。

僕の背中は柔らかな幸福に包まれるが、レイの震える手から、彼女が感じている恐怖が分かる。


「僕はいいから、部屋に入りなよ」

「兄様は怖くありませんの?」

「大丈夫だ、もう少し温まってから出るよ。もうすぐご飯だし、アンナと待っていてくれるかな?」

「分かりましたわ。兄様、何かあれば大きな声で呼んでくださいまし」


レイが出ていったお風呂に、のんびりと浸かりながら、ぼんやりと闇に包まれゆく山を眺めていたら、木々を優しく揺らす風のように、再び声が聞こえてきた。


《もし吾が身、朽ちたることなくば……湯を浴みて、女子(おなご)としての身のかざりを整えるも叶うものを。口惜しきこと——まこと、限りなし》


この言い方だと絶対に僕の風呂を見ているよな……だが、不思議と怖さは感じない。


「どこかで見られていたとしても、居場所も分からないしな……」


そう呟くと、僕はお風呂を出る——脱衣室に足を踏み入れようとした瞬間、胸から不思議な思いが湧き出し、山の方を振り返る。


《——見つけたら、俺の女にしてやるよ》


浴室から戻ると、ちょうど料理が運ばれてきていた。仲居さんに追加でビール三本を頼み、席に座る。


「すごいご馳走です」

「美味しそうですわ」

「思っていた以上に豪華だな」


秋刀魚の刺し身を皮切りに、鮑や甘エビ、ホタテなど新鮮な海の幸が、繊細な手仕事で盛り付けられたお造り。

向かいには、香ばしく焼かれた松茸、黄金色の南瓜の煮物、柔らかな里芋の煮物などを、色づいた紅葉とともに盛り付けた小鉢が並んでいる。

まるで秋の情景を、そのまま器に移したかのような美しさで、視覚からも秋の風味を味わわせてくれる。


「ご主人様、どうぞ」


アンナが僕のグラスにビールを注いでくれる。僕もアンナのグラスにビールを注ぎながら、二人に明日の話を切り出す。


「あのさ、明日なんだけど、朝早めに出たいんだけど、どうかな?」

「先ほどの声が気になりますの?」

「そういうわけじゃないんだけど、何となく早めに行く方がいいような気がするんだ」

「レイ、先ほどの声とは?」


その瞬間、絶妙に間の悪いことに、仲居さんが追加のビールを運んできてくれた。


「あの、明日の朝、早めに朝食を取りたいのですけど、何時からなら大丈夫ですか?できれば早めに出かけたくて」

「調理の者に確認してまいります」


仲居さんは、そう言って部屋を後にした。


「せっかくだから意宇(おう)六社を回るのはどうだろう?」

「いいと思いますわ。レイもネットで見て興味がありましたの」

「それで、先ほどの声とは?」


話の途中で、またもや絶妙なタイミングで仲居さんが戻ってきた。


「六時三十分にはご用意できます」

「無理をきいてもらって、ありがとうございます。せっかくなので意宇六社を回りたくて」

「いいところでございますよ——」


わずかに微笑んだ仲居さんは部屋を後にした。


「それで、先ほどの声とは?」


ようやく、レイがアンナの問いに答える。


「お風呂に入っていましたら、外の風にのって声が聞こえましたの。恐ろしい声でしたわ」

「あれは、恐ろしいというより、哀しみがこもっていたようにも感じたな」


アンナの視線が鋭くなり、窓の外に目を向けた。


「ご主人様を狙っているのでしょうか?」

「違うと思う。干渉者とはまったく違う声だった」


不安そうな二人に、僕は言葉をかける。


「まあ心配することはないよ。この辺りは神話にも出るような場所が残っているんだし、少しくらいはそんな楽しみもあるさ」


その後、三人でゆっくりと料理を楽しみ、ほどよく酔ったところに、仲居さんが布団を敷きに来てくれた。


「明日も早いし、そろそろ寝ようか」

「レイが真ん中に寝るのでしたね」

「いえ、兄様が真ん中に寝てくださいまし」

「レイ、いい判断です」

「アンナのためではありませんの」

「分かっています。先ほどの声が気になるのでしょう?」

「そのとおりですわ」

「何気に、三人で一緒に寝るのは初めてだよね」

「そうですの。楽しみにしておりましたわ」

「私もです。寝るだけですが、楽しみでした」


僕は酔いと疲れをも優しく包み込むように、沈む布団に身をゆだね、すぐに意識を手放した。


——翌朝、外からやわらかな光が差し込んできて、窓の外に見える木々が優しい風を運んでいるように揺れている。

見ると、レイが窓際で外の景色を眺めている。


「レイ、おはよう」

「おはようございます。兄様」


振り返ったレイの笑顔が朝の光よりも眩しい。


「アンナは?」

「アンナはお風呂に入っておりますわ」


僕もレイと一緒に、窓からの景色を眺めていた。

昨日は暗くて分からなかったが、一本一本の木に表情を持ち、それぞれが思う気持ちに揺れているように見えた。


「おはようございます。ご主人様」


振り向くとアンナが笑顔を向けていた。窓から入る光に、美しい容姿がさらに輝いて見える。


「おはよう。アンナ——」


お風呂から上がってきたアンナを交えて、朝食を取る。

一見、ありきたりな朝食に見えるが、箸をつけていくと、一品一品に手がかかっているのがよく分かる。

そして、その贅沢な膳の一品に目を奪われ、思わず手に取った。


「兄様、それは何ですの?」

「これは納豆だよ。好みが分かれるけど、僕は好きなんだ」


二人と生活するようになってから、一度も食べていなかったが、やはり好きなので先に食べたくなる。

早速、混ぜ始めた僕を、眉を細めてレイが見つめている。

箸先から糸が伸びる様子に、レイの視線がぴたりと止まる。

そして、とても汚らわしいものを見せつけられた表情を浮かべた。


「兄様、それは糸を引いて異様な臭いがしていますわ。傷んでいるのではありませんの?」


レイは露骨に嫌そうな顔を見せているが、僕の中での納豆は、そのひと粒に日本の発酵文化と、健康への知恵が詰まっている、最強の食べ物だと思っている。


「最初は抵抗があるかもしれないけど、食べてみたら、独特の旨みや食感にハマるかもよ」


ご飯に乗せて美味しそうに食べる僕を見て、アンナも静かに納豆を混ぜ始めた。


「——アンナも食べますの?」

「ご主人様が美味しそうに食べていますので、私も食べてみます」


アンナもご飯に納豆をかけ、恐るおそる口に運ぶ。


「おひぃちいです!」


粘りに舌を取られたのか、ちょっと噛んだアンナがとても可愛く見えた。


「レイも食べてごらんなさい。美味しいですよ」

「レ、レイは遠慮いたしますわ」


レイは納豆以外は全部平らげ、ご飯はお代わりしていた。


——朝食を終えた僕たちは、早速、黄泉比良坂に向けて出発した。

車内での二人はよほど楽しみらしく、話す声が心なしか弾んでいた。ハンドルを握る僕は、よく目立つ看板——というか横断幕のようなもの——を目印に、迷うことなく二十分ほどで到着した。

五台ほどしか停められない駐車場に、他に車はなく、外に出ると少し肌寒く感じる。


「——この池、なんかいいよな」

「朝の光を反射して綺麗ですね」


駐車場の前に広がる池を眺めていた僕とアンナに、案内看板を見ていたレイが声をかけてきた。


「兄様、目的地にどう行くのか分かりませんわ」

「なあ、あれじゃないか?」


僕が指差したのは、駐車場から少し上がったところに見える三つの大きな岩。


「もっと坂を歩くのかと思っていましたが、目の前でしたね」

「車で登ってきた坂がそうなんじゃないかな?」

「歩く覚悟をしてきましたのに、少し拍子抜けでしたわ」

「その割にレイはスカートだよね」

「兄様……下着はピンクですの」


レイは、わざとらしくスカートを押さえて、上目遣いで僕を見つめた。


「——そうか、じゃあ行ってみようか」

「兄様?少しは興味を持ってくださいまし」


駐車場脇の歩道を上がり、右手に小さな池を見ながら少し歩くと、目の前に石と注連縄で作られたこじんまりとした鳥居があった。


「これ——鳥居なのか」

「これはなんですか、ご主人様?」


鳥居の前で、不思議そうに注連縄を見つめるアンナが問いかける。

ただ、注連縄はアンナの目の前に垂れ下がっていて、少しかがまないとくぐれない。


「神の聖域と人間の世界の境界とか言われているけど、どうなんだろうな?」


レイは早速鳥居をくぐり、周りを見回していた。


「これでは、どこからでも入れてしまいますわ」


レイの言葉には、わずかな不安が滲んでいた。

鳥居をくぐると、正面に大きな岩が三つ並んでいる。そして、僕の視線は一点に奪われた。

思わず立ち止まった足が踏みしめた落葉が、ざらっと乾いた音を立てた。


「兄様……」


レイもその違和感に気づいたようで、僕の袖をしっかりと握りしめた。


「ああ、あそこだけ……何か違うな」


レイと僕が見つめる先を見て、アンナは首を傾げた。


「何の話をしているのですか?」


二つの岩の間に、小ぶりな岩があるのだが、その上が歪んで見える。

まるで空間がねじれたように、その向こう側の景色が不自然に曲がって映っている。

だが、隣に立つアンナには見えていないらしく、ただの岩としか思っていない様子だ。

見えているのは僕とレイだけなのか?幻覚かとも思ったが、目を凝らすほどに、その歪みは確かに——そこに、在った。


「なあ、レイ……」

「兄様、入ってみましょう」

「ご主人様、レイ、いったい何の話をしているのですか?」

「アンナは兄様とレイの間を歩いてくださいまし」


僕らはアンナを真ん中に、三人で手をつないでその歪んだ空間に足を踏み入れた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月26日、一部修正しました。

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