通う夫
先日、イオナが家に来てほしいと言っていたので、昼食後に隣の彼女の家へ向かう。
考えてみれば、夫が妻の元を訪れるだけだが、不思議な家族関係には……もう従うしかない。
「お待ちしておりました。耀様」
玄関先でイオナが待っていてくれた。多分レイから『兄様、家を出ました!』とでも連絡が入ったのだろう。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「いえ、私が心待ちにしていただけです」
イオナはそっと僕の手を握り、家へと導いてくれる。
玄関を上がり、リビングに案内された僕は、勧められるままにソファに腰を下ろす。
せっかくの機会だ、いろいろ聞いてみよう。イオナならきっと、僕にも理解できるように説明してくれるはずだ。
「その、耀様。アンナ様に妻とお認めいただいたわけですし、お隣に座ってもよろしいですか?」
「ああ、そのことなんだけどさ、イオナと僕が話をしたわけでもなく、僕の意見も聞かれずに決まったのは、どうしてなんだろう?」
僕の問いに、イオナは少しだけ首を傾げた。
「耀様の妻を定めるのは、アンナ様の専権です」
「専権?どういう意味だろう?」
「耀様が望んでも、アンナ様の許しなく妻を持てません。逆に気に入られれば、耀様の意向に関係なく『妻』とされます」
僕の期待は裏切られ、結局、『妻』の定義が分からなくなっただけだった。これ以上考えるのはやめよう……
「アンナがそう言っているなら仕方がないか。そうなると、この家にはもうひとり僕の妻がいるはずだが?」
「真由美は耀様のためにと、お飲み物と軽食を用意しております。後ほど三人でゆっくりいただきましょう。それで……お隣に座っても?」
彼女のねだるような声と、わずかに身を乗り出す仕草を、僕はあえて聞こえなかったふりをした。
「イオナ、まずは用件を聞かせて欲しい」
拒むわけではない。用があると聞いたから来たんだ——そんな強い使命感に僕は動かされただけだ。
イオナがわずかに口角を引き締めて姿勢を正し、いつものクールな表情に戻った。
冷静な口調に、凛とした姿。そして、甘える時に見せる可愛さのギャップに、僕としては惹かれるものがある。
「大した用件ではございません。例の会社ですが、半年以内には経営が覚束なくなると思われます」
「まあ、反社との付き合いが深いのなら仕方がないんじゃないか?」
そう答えながらも、わざわざ日を定めて呼んだわりには、内容が薄すぎると感じた。
「真由美の話では、寮といいつつ実はそのような方々に住居を提供して、頼まれれば派遣すらしているようです」
「資金源にもなっているのか。警察も今回の件で気づいただろうな」
「ご明察です。それで半年以内と申し上げました」
イオナの情報はいつも信頼できる。
だが、そこに僕が何かを意見する余地はない。それこそ僕は『蚊帳の外』だし、そうでないと困る。
「そうか、僕の本音を言わせてもらうと、あの会社がどうなろうと、どうでもいいかな」
「それでは、私の一存で何かを仕掛けてみてもよろしいですか?」
「何か含みのある言い方だし、そんなことする必要があるのか?」
「かねてから、我が夫の受けた侮辱を晴らせないものかと思案しておりましたが、これがいい機会だと考えております」
「その言い方だと、準備は進めているんだろ、あえて僕に確認する必要があるのかな?」
「——妻としては夫の意見も聞いてみたいものです」
クールな表情のイオナの頬が、少し染まったのが見えた。
真面目な話をしているときに、このように表情が表に出ることは珍しい。
それほど惚れていると見抜き、妻と認めたアンナの判断は間違いではなかったようだ。
「そうか、イオナに任せる。僕にできることがあったら、遠慮なく言って欲しい」
「ありがとうございます。楽しみにお待ちください。話は変わりますが、この家に耀様の寝室を作りました」
話の転換があまりにも唐突で、思わず面食らう——けれど、なるほど、こっちが本題らしい。
「——なぜ?」
僕の問いに、イオナが少し頬を膨らませた。
「夫婦ですよ。お部屋のひとつくらいご用意いたします」
以前から、イオナの行動力には目を見張ることが多かったが、抜かりなく周りから囲い込むような、こういうところも感心してしまう。
このまま流されると、思わぬ方向に進みそうだ。とりあえず、やんわりと話を変えてみる。
「いつかは全員で食事ができる部屋が欲しいな」
「いい考えですね。真由美も料理が好きなので、アンナ様に教えを乞いたいのですが、よろしいでしょうか?」
なぜ妻を決めるときには何の相談もないのに、料理をアンナに教わるときは相談するんだ?
「それこそ、妻同士の話し合いで決めてくれたらいいんじゃないかな?」
そこへ滝川さんがウイスキーと軽食を持ってリビングに入ってきた。
イオナがそっと席を立ち、僕の右隣に移動し、テーブルにお盆を置いた滝川さんは、僕の左隣に腰を下ろした。
「あ、あの、だ、旦那様……お口に合うとよろしいのですが……」
「ありがとう、滝川さん」
急にイオナの厳しい口調が飛んできた。
「耀様、よそよそしいのではありませんか?」
イオナは、首を傾げた僕に少し呆れた表情を返した。
「妻を名字で呼ぶのはいただけません」
——そのご指摘ごもっともです。
「ありがとう、ま、真由美」
名前で呼ぶと、真由美は顔を真っ赤にして僕の首に抱きついてきた。
「旦那様……嬉しいです……」
「嬉しいのは分かりますが、軽食をいただきましょう」
そのイオナの声で、真由美は僕から離れた。少しは余韻に浸らせるとか、そんな気遣いはできないのだろうか。
真由美が僕のグラスにウイスキーを注ぎ、続いてイオナのグラスにも注ぐ。
「真由美は飲まないの?」
「私は、お酒が苦手なんです。どうぞ召し上がってください」
皿の上に並ぶのは……たしかクロスティーニとかいうイタリアのパン料理だったはずだ。
生ハムやサーモン、トマトもトッピングされていて美味しそうだ。
「これ、すごく美味しいよ。お酒にも合うね」
「気に入ってもらえて良かったです」
喜ぶ真由美と目が合った僕は、その可愛らしさに目が離せなくなった。
そして、真由美も僕を吸い寄せる甘い蜜をたたえたような、潤んだ瞳で僕をじっと見つめていた。
可愛らしい顔がまるで一輪の花のように輝いていた。
真由美を見つめる僕の背中から、わざとらしい咳払いが聞こえ、振り向くと腕を組み、少し曇った表情でイオナが僕をじっと見ていた。
「耀様、私も寄り添ってよろしいでしょうか?」
イオナの腕が首に絡まり、そっと僕の体が引き寄せられる。彼女の囁き声が、耳をくすぐる。
「私はアンナ様に認めていただけるとは思っていませんでした」
「アンナは何か言ってたか?」
「旦那様、アンナさんは『これ以上妻が増えないようにお願いします』とだけおっしゃいました」
真由美の言葉に、イオナは小さく笑みを浮かべながらうなずいて、話をつなげる。
「それと、アンナ様の正妻としての貫禄が増してきました」
最近の僕はアンナにどう思われているのだろうか?かなり不安になってきた——
二人きりでいる時は、僕を抱き上げたり、膝の上に乗せたり、そうかと思うと、大きな身体で子猫のように甘えてきたり、貫禄なんて感じられないが、妻同士の関係はまた別のものなのだろうか?
「真由美はともかく、アンナ様、レイ様、そして私は、一夫多妻がまかり通っていた時代を知っておりますので、抵抗はありません」
確かに三人は生きている時代が違ったわけで、今の状況を当然として受け入れられるかもしれないが、真由美は無理をしているのではないだろうか?
「真由美は良かったの?」
「私は……旦那様がいない生活はもう考えられません」
「吊り橋効果のような気もするけどな……」
「例えそうであっても、私は幸せです」
そう言って、真由美は僕に寄り添ってきた。
「耀様……」
イオナも負けずに寄り添ってくる。
「うん……妻同士が上手くやっているなら、僕が口を挟むべきではないね」
見目麗しき女性たちに寄り添われ、お酒と料理を楽しむ昼下がり。その甘く幸せなひとときに浸っていると、『これで本当にいいのだろうか?』という疑問がふと頭をよぎった。
何となくやるせない気持ちになり、視線を落とすと、真由美のミニスカメイド服から伸びる艶めかしい太ももが視界に飛び込んできた。
その視線に気づいたのか、真由美がスカートの裾を慌てて引っ張る仕草がとても愛らしい。
「そ、そう言えば、真由美は何歳なの?」
「二十七歳です。もうすぐ二十八になりますけど……こんな格好で、ごめんなさい」
彼女は視線を伏せながら、恥ずかしそうに頬を染め、指先でスカートの裾をいじった。
「いや、可愛くていいと思う。誕生日はいつなの?」
「十二月二十日です」
「アンナと近いんだ。一緒に誕生日のお祝いをしたらどうだろう」
「旦那様、よろしいのですか?」
真由美は手を顔の前で組み、嬉しそうな表情を浮かべる。
そんな笑顔を見ていたら、きっとアンナとも上手くやっているのだろうと、少し安心した。
そして、ありきたりな話をしながら、両側を女性に挟まれて、酒を煽る。
「旦那様、少し顔が火照っていますよ」
「ああ、そろそろ帰ろうかな」
「耀様、寝室でお休みになってはどうですか?ここも耀様のご自宅なのですよ」
少し強引にイオナに手を引かれ、自分のために用意された寝室へ向かう。
扉が開かれると、思いもよらない人物が待ち構えていた。
「待ってたわよー」
無邪気な笑顔で手を振る女性。
「凛堂さん?」
相変わらず男性を魅了するボディラインに、無意識で放つ魅惑的なオーラ、そして軽い口調……
ギャップ萌えを僕に教えてくれた人物が、ベッドに腰を下ろしていた。
僕の手を握るイオナの手に力が入る。
「耀様、ご協力いただく約束は覚えていらっしゃいますね?」
「そんな約束をしたな」
——本当は忘れていた。
「恵莉華を使徒にする協力をお願いします。詳しいことはお二人で話し合ってください」
寝室で話し合いを勧める理由も分からないが、僕にはもっと危惧すべきことがある。
僕を締め上げ、部屋に連れ去ることができる正妻の存在だ。
「アンナは知っているのか?」
「もちろんご存じありません。くれぐれも間違いのございませんように——では、ごゆっくり」
そう言い終わると、イオナは寝室から出て扉を閉めてしまった。
「ねえ、あんたも座ってよ」
ベッドをポンポンと叩く——そこに座れということか。
僕はあえて少し離れたところに腰を下ろす。
「それで、僕は何を手伝えばいいのかな?」
「抱いてよ」
満面の笑みで放たれた言葉の理解に少し時間がかかった。
「へ?」
思わず変な声が出てしまった。だいたいこの家で、『はいそうですか、では、いただきます』とは言えるわけがない。
「それが、使徒になるために必要なこととは思えないんだが」
「あんたと繋がりを持てば、多分なれるでしょ?」
まったく意味が分からん……
使徒ってこいつらが信仰する神に最も近い地位のはずだ……この子は繋がりの意味を履き違えているんじゃないか?
「その理由を教えてくれないか?」
「うちが仕える使徒様はー、あんたをどうにかして引き込もうと必死なのよねー。うちにそれができれば、使徒になれそうじゃない?」
可愛く首を傾げてこっちを見る。
「いや、僕に聞かれても分からないんだけど……」
「いいの。やってみなきゃ分からないんだし」
やってみなきゃ分からないことで、やることのハードルが高いだろ——こっちは下手すりゃ命に関わる問題だ。
「僕に抱かれることで、引き込むことにはならないだろ?」
「そこは大した問題じゃないのよねー。抱かれたってことが重要なの」
「意味が分からないんだけど」
「えー、マジにぶいんですけどー。だってさ、あんたと親しいうちを蔑ろにできないでしょ?」
「親しくなるだけなら、抱かなくてもいいよね?」
「うちの身体に夢中だっていえるじゃん」
だんだん頭が痛くなってきた。こいつらの信仰している神は、エロが基準なのか?
「誰も見てないんだし、嘘ついとけばいいんじゃない?」
「違うのよ。もー、にぶいわねー。うちの身体があんたを引き込むために必要になるのよ。そしたら、あの使徒も、うちに手を出せなくなるでしょ!」
「——そっちが目的か」
「バレた?」
そう言って、可愛く首を縮めて見せている。
「話がおかしいと思ってたよ」
僕は呆れたように彼女を見るが、まったく悪びれた様子はない。
「だってさー、あの使徒様、キモいんだよ。変な声で喘ぐし、その声オッサンだし。でも逆らえないしさ……それであんたを使おうと思ったワ・ケ……」
その使徒の所業も外道の極みだな。
「つまらない考えだな、もういいだろう」
目的が使徒になるためではなかったと分かり、話を終えようと呟いた。
「じゃあ、協力決定!」
こいつ、『いいだろう』の意味を、自分に都合よく解釈しやがった。
止める間もなく、彼女は服を全部脱いでしまった。
そして、無邪気に笑いながら、僕を迎え入れるように両腕を広げた。
「さーおいでー」
恥じらいのかけらもなく、魅力的な身体がさらけ出されている。
「だが、断る!」
そんな恥じらいのない誘惑に乗る理由はない。
「えー、マジ信じらんないですけどー!」
「その格好で、僕に抱きついている写真でも撮っておけば、済むんじゃないのか?」
ここが僕が最大限妥協できる限界だ。
「それもそうね……おじに抱かれなくて済むしね」
とりあえず安心はできたが、『おじ』呼ばわりはどうなんだ?
考え事をしているような素振りを見せていた彼女が、僕をじろじろと見始めた。
「あんたも脱いでよ」
「なんでだよ」
「だって、うちだけ脱いでてもおかしいじゃない?」
確かに彼女の言い分には一理ある。
「——確かにそうだな」
そう言うと、早くこの件を終わらせたい気持ちも重なって、下着だけ残して服を脱いだ。
彼女の視線が、僕のとある一点にじっと留まった。
「——ちょっ、おじ……なに勃ててんの?」
彼女の呟きが、僕の心に鋭く突き刺さる。
「仕方ないだろ、生理現象だ!」
「エロおじー、まじ草生えるー」
手を叩いて爆笑され、僕のガラスの心は打ち砕かれた。
「まあいいわ、じゃあこっちきて」
仕方なく彼女の言われるままに、ベッドの上で寄り添って写真を撮り始めた。
「もうちょい際どいほうがいいかなー」
張りのある胸を、グイグイ押し付けてくる。
「ちょっ、あんまり近づくなよ」
砕かれた僕の心も、反論程度はできるほどに回復した。
「なんでよ、近づかないと写真撮れないでしょー。撮り終わったら、手でしてあげるから我慢して!」
なんで僕がそれを期待していると思われたのか分からないが、彼女の相手が面倒になってきた。
「そんなことどうでもいいから、早く撮れよ」
「どうでもいいって酷くない?」
「だから、胸を押し付けないでくれよ」
「うっさいわねー!ご褒美でしょ、ご・ほ・う・び!」
「ご褒美じゃなくて拷問だ」
「あんためんどくさすぎー。それよりあんたも嬉しそうな顔くらい作りなさいよ」
「仕方がないだろ、生まれ持った顔なんだから」
流石はモデルと言ったところか、こんな会話をしながらでも、シャッターの瞬間だけは、まるで別人のように恥じらいを滲ませた笑顔を浮かべ、潤んだ瞳で僕を見つめていた。
とても仲睦まじい写真を撮っているとは思えない会話が続くなか、何とか彼女が納得できる写真を撮り終えた。
「今日からうちのことは『恵莉華』って呼ぶこと。分かった?」
最後にそんなことを言われながら、人差し指で鼻をつつかれた。——それが今日一番のご褒美でした。
——身なりを整えて、寝室からリビングに向かうと、真由美とともにソファでくつろいでいたイオナの視線が一瞬刺さった。
何となく重い空気が漂い始め、どこに行くべきか悩んでいる僕に、イオナが冷静な口調で声をかけてきた。
「ずいぶん時間がかかったみたいですが……」
イオナの口調は冷静だったが、その瞳は凍りついたような冷たさが宿っていた。
どうやら、完全に抱いたと思っているらしい。
僕からすればイオナに仕込まれたと思ってしまうんだが……
冷たい視線にさらされている僕を察してか、着替え終わった恵莉華がリビングに入ってきた。
「イオナ様、今日はありがとうございました」
イオナに丁寧なお辞儀をした。さっきまでの僕に対する態度との差が激しすぎるだろ。
「車を用意してありますので、気をつけて帰りなさい」
恵莉華にイオナの冷たい声がかけられた。
「では、失礼します。イオナ様」
恵莉華は再度、イオナにお辞儀をした。
「おじもまたねー」
僕に明るく手を振ってリビングを後にした。
一瞬にして静寂に支配されたリビングに、イオナの声が響く。
「耀様、恵莉華と何をなさったのですか?」
「彼女に言われるとおりに、写真を何枚か撮っただけだよ」
目も合わさず、カップを手にしたイオナを見ると、今の彼女に僕が何を言っても、嘘に聞こえるのだろう。
「今日は帰るよ」
気まずい雰囲気に耐えられず呟いた僕に、冷たい瞳であからさまに作った笑顔をイオナが向けてきた。
「また、いらしてくださいね」
イオナがソファを立ち、その冷たい瞳を僕にロックして歩き始める。
「できれば毎日来てください」
真由美は癒やされるような笑顔を送ってくれた。
「毎日は難しいかもしれないけど、できるだけ来るようにするよ」
ターゲットを捉えるように、イオナが僕の首に抱きつき、その吐息が耳元を撫でる。
「今日のこと、アンナ様には秘密にしておきますね」
「イオナ……多分勘違いしてるぞ」
「そうであることを願っています」
真由美に目を向けると、声には出していないが『大丈夫』と口が動き、笑顔を見せてくれた。
その口パクに、僕はうなずいて家を出た。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月25日、一部修正しました。
 




