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帰る場所

顔を真っ赤にして、目を釣り上げ、歯を食いしばるように田舎の道をひとり歩く女性。

すべてがうまくいくはずだったのに、邪魔が入った挙句、けしかけられた蛇に驚いて、耀の家から慌てて逃げ出した知紗(ちさ)だった。

目論見が外れた今、行き先が決まっているはずもなく、怒りに意識を取られながらも、足は自然とバス停の方へ向かっていた。


『いったい何なのよ!あんな男が女にモテるわけないじゃない!』


考えると余計に怒りがこみ上げてくる。その男は自分の思うように操れるはずだった——


『それなのに妻が四人とか、バカにするのもいい加減にしてよ……!』


知紗はふと足を止め、ゆっくりと後ろを振り向いた。


『——今なら。今すぐ戻って謝れば、許してくれないかしら……』


そう思った直後、その脳裏に自分をバカにした四人の女性が思い浮かぶ。

どう考えても、あの四人は自分より劣っている。容姿も才能も——

あの男『相葉耀』は自分の人生を彩るための『駒』として、自由に動かせるはずだった——

それが、こともあろうに、すべてに秀でた私ではなく、あの四人を選んだ。


知紗は再びこみ上げてきた怒りを抑え込むように、二度と立ち止まることなく、バス停まで歩き続けた。

——最寄りの駅行きのバスはまだ一時間も先。小さくため息をついて、ベンチに腰を下ろす。

曇った空を眺めながら、やり場のない感情を吐き出すかのように、思わず大きなため息を漏らした。

彼女の周囲には、誰の気配もなかった。時刻表のビニールが風に擦れ、ベンチの鉄が湿った空気を吸って冷たい。

——バスを待つ人も——歩いている人も——寄り添う人も——慰める人も——手を差し伸べる人も。


前にここでバスを待っていたとき、私はこれから始まる新しい、輝かしくも甘い生活を夢見ていた。

ここから乗ったバスを降りた近くの銀行で、多額の現金を手に入れ、私の新居となる彼の家へ向かった。

はやる気持ちを抑えつつ、彼の家の玄関をノックすると、たくましくすら感じる声が聞こえてきた。


「——鍵開いてるから、入ってこいよ」


扉を開くと、目に入った彼の姿に思わず抱きついた——

彼を受け入れた私は、彼の胸に抱かれ、語られる夢を聞きながら——その夢を叶えられるのは私だけだと、甘美な優越感に浸っていた。


「楽しみだわ。もうすぐあなたが夢見た理想のお店がオープンできるのね」


彼には私しかいない……私だけが彼の夢を実現できる……そして、私は彼の愛を独り占めできる。

優越感に浸る私に、彼が申し訳なさそうに話しかける。


「……そうなんだけどさ、でも、まだこれだけの費用がかかりそうなんだ」


そう言って、彼が見せてくれたスマホの画面には、内装費用や調理器具、什器などの金額が並んでいた。


「大丈夫よ、これくらいなら何とかなるから」

「知紗、マジ助かるわ」

「あなたのためだもの……」


再び抱き寄せられた私は、彼の胸の中でそっと呟いた。


——夢を見ていた……溶けそうなほど甘い夢を。

その夢を現実だと錯覚している自分に気づかず、私はその世界に溺れ、優越感に浸っていた。

自分には彼の夢を実現する力があると……私は彼にとって唯一無二の存在だと……

それから半年が過ぎ、ついに彼が理想とするレストランが完成した。

開店の前日、完成した店内で、二人きりでの夕食を楽しんでいた。

それは、——彼が私のためだけに作った料理——私のために特別に用意したワイン。


「おめでとう。ついにオープンね」


グラスを重ねる音が、門出を祝うように小さく鳴り響いた。


「知紗のおかげだわ。これから大変になるだろうし、知紗にも手伝ってほしいんだよな」

「もちろんよ。何でも手伝うわ」


私は嬉しかった。頼られ、私の力で彼の夢を叶え、彼に感謝されるのが嬉しかった。

まるで自分が持って生まれた才能を褒められているかのように感じ、心地よい優越感に浸りながら、特別な夜を満喫していた。

すべてが私の思い通りに創られていく——その夢の時間を頬を緩めて堪能していた。


翌日——前評判も良かったせいか、盛況のオープンを迎え、私はフロアに立ってお店の手伝いをした。

勤めていたホテルでの評判も良かった彼は、その手際の良さで多くの注文を的確に仕上げていった。

私の目には、そんな彼が輝いて映った。とても頼もしく、格好良くて……

彼の食事を楽しむ客のすべてが、私と彼に羨望の眼差しを向けているように見えた。

そんな特別な彼を支え、夢であるこの店を開店させられる自分は——さらに特別な存在。

彼への羨望は、私を愛することで、私の力を得て夢を実現できたことへ向けられている。

私への羨望は、敬意でもあり、自分たちとは違う存在への畏怖でもある。

そう思い、接客をする自分に酔いしれた。


「大盛況だったわね」


静かになった閉店後の店内で、彼に声をかけた私に、彼は親指を立てて笑顔を向けてくれた。


「知紗のおかげだわ——でも、二人だけでやり繰りすんのは限界っしょ」

「そうね、休憩する時間もなかったわ」

「今はいいけどさ、子供できたりしたらヤベーよなって思うわ」


その言葉に、私はときめいた。彼が私との結婚を本当に前向きに考えてくれているのだと確信し、これまで彼に尽くしてきたことが、すべて報われた気持ちになった。


「その時はアルバイトを雇いましょうよ」

「今のうちに教えといた方がいいと思うし、早速募集かけてみるわ!」


彼のその言葉は、私の幸せがもう手の届くところにあると、教えてくれたように感じた。


——嬉しかった。


私の不安はすべて払拭され、彼のために惜しみなく私の才能を使い続けた。

客足は順調で、売上もそこから得られる収入も、二人が普通に生活するには十分過ぎるようになった。

雇い入れたアルバイトが、仕事に慣れ始め、店の回転はさらに早くなり、半年が経つ頃には贅沢な生活ができるほどになっていた。

——ただ、少し不満があったのは、私が捨てたあの男より収入が少ないこと。

でも、それを追い抜くには十分すぎる時間と、それには代えられないほどの愛情を、彼から与えられていた。


まもなく、店に近い場所で、広いマンションを借り、引っ越した。

家具もすべて新調し、私は持ってきた服をすべて捨てて、買い直した。

それはさながら、新婚生活が始まったようで、——あとは彼からのプロポーズを待つだけだった。

引っ越して二ヶ月が経つ頃、見せたいものがあると言うので、彼と一緒にマンションの地下に降りると、そこには一台のスポーツカーが停めてあった。

ドイツ製のその車は、薄暗い地下の駐車場でも、ひときわ輝いて見えた。


「買ったんだ。最初に乗せるのは知紗って決めてるし、次の休みにドライブしようぜ」


いよいよ、その時がきた——そう思いながら、私は迷いなくうなずいた。


お店が休みの日、昼過ぎから彼とドライブに出かけた。

風が気持ちよく、——何より行き交う人の視線が心地よかった。

特別な彼と、特別な車でドライブをする、特別な私。

人が羨むのも仕方がないこと、私は優雅な気分に浸りながら、ハンドルを握る彼に身を委ねていた。


二時間ほど走っただろうか。曲がりくねった山道を登りきったところにある駐車場。

平日ということもあってか、空いていた駐車場の端に彼は車を停めた。

山から見下ろす広大な海が、目の前に広がっていた——まるで彼の心の広さを見せてくれたようだった。

包み込まれるような景色に、見とれていると、隣から声をかけられた。


「——知紗!」


振り向くと彼の手には、指輪が握られていた——


「待たせて悪かったな——でも、もう少し俺のわがままを聞いてくれ」


予想と違う言葉に戸惑う私を見て、彼は言葉を続けた。


「俺の店は、次のステージに進むんだ」

「次のステージ?」

「そうだ、俺の創作料理を出すんだ。これが店を出したかった俺の目標——」


素敵な目標——きっと、うまくいく、いいえうまくいかないはずがない。


「それが軌道に乗るまで、もう少し待ってくれ」

「でも、それは?」


私は指輪に視線を移し、問いかけた。


「結婚の約束の証だ。——受け取ってくれ」

「——ありがとう」


——美しかった。淡いプラチナのリングに、少し大きめのサファイア。

私は、彼の夢にもっと力を貸さなきゃ——それが彼の愛を独り占めする私の責任。


それから一年が過ぎた頃、お店を訪れる客が、急に減り始めた。

ネットでの評判は地に落ちるように急落し始め、そのほとんどが彼が考えた料理への期待はずれ感や、価格の高さを訴えるものだった。

オープン当初はスタンダードなメニューが中心だったが、それらと入れ替えるように提供を開始した、彼のオリジナル料理への評判の悪さが、常連客が去る原因を作り、新規客を呼べない原因となっているのは明らかだった。


「元のスタンダードなメニューを少し復活したらどうかしら?」

「何言ってんの?材料にもこだわってんだし、客層が変われば絶対ウケるんだって、まあ客が入れ替わるまでの我慢っしょ」

「そうね。あなたの料理が世間にウケないわけないわ」


雇っていたアルバイトも解雇し、オープン当初のように二人で店を仕切る日が戻ってきた。

ただ、当初のような慌ただしさはなく、客が一組も来ない日も出始めた。


——そして、さらに一年が過ぎた頃、客足はますます減り、家賃の支払いさえ滞るようになってきた。


「知紗、また金が足りないんだけど、何とかしてくんない?」


彼はほぼ毎週のように、私にお金を無心するようになり、それに応えるように私は貯金を切り崩す。

——もはや、それも尽きかけていて、このままでは後一年持てばいい状況になっていた。

彼は特に悪びれる様子もなく、客が来ないのは時期が悪いからだと言い張る始末。

もう先は見えているのに……でも、私はとても彼のことを見捨てることなんてできなかった。


「もう少しなら貯金もあるから、何とかするわ。あなたはお店のことを頑張ってね」

「任せとけよ!夏になったら新メニューで客がバンバン来るようになるからさ!」


秋の気配が漂い出した頃、彼の新メニューも客足を回復する効果を出せず、彼はお店を立て直すことを諦めた。

私は何も間違っていないし、彼だって頑張っていた——きっと、悪いのは時代であり、客であり……それだけの話。


彼はホテルのレストランで調理師として就職し、私は家で彼の遅い帰りを待つ日が訪れた。

それはそれで幸せなはずだった……しかし、その期待は完全に裏切られ、彼は家に戻らない日が増えていった。

——そして、彼の休日に思わぬ話を切り出された。


「あー、なんだ……もう知紗に用事ねーから、どっか行ってくんない?」


——私は彼のその言葉の意味が理解できなかった。


「え、ちょっと……どういう意味?」

「ここから出て行けって言ってんのが、分かんねーかな?」

「何を言い出すの!私があなたのために、どれだけ尽くしたと思っているの?」

「いや、別に頼んでねーし」

「あなたの夢を叶えたくて、私……これまでどれだけ力を貸してきたと思っているの?」

「ありがとさん。でもさ、その力が足りなかったのが悪いと思ってんのよ」


縋り付く私の心を完全に打ち砕く、言葉が彼の口から放たれる。


「正直、金のないオバサンなんて邪魔なだけだからさ……そろそろ出てってくんない?」

「ちょっと何なのよ!結婚するって話はどうなったの?おかしいじゃない!」

「あー、あん時はそう思ってたけどさ、結局店はうまくいかなかったし、なしってことで頼むわ」


結論の決まっていた押し問答の末、私は彼の家から追い出されるように出ていった。

スマホに登録している連絡先をたどり、頼りになりそうな人物を見つけた。

そう。かつて私に知恵を授けてくれた、あの人に——私はすぐに電話をかけた。


「——もしもし、久しぶり。知紗だけど覚えてくれてる?あのさ、実は彼に追い出されちゃって、しばらく泊めてくれないかな?」

「えっ……そんな、お願い、三日だけでいいから、——お願い」

「ちょ、ちょっと待って、話を——」


耳に残るプツッという断音。スマホを握る指先がじわりと冷えた。

無情にもその後は電話がつながることはなく、仕方なくその日はビジネスホテルに宿泊することにした。

しかし、早めに行き場所を探さないと、お金が尽きてしまう。

頭がぼんやりしている——疲れているのか、泣いていたのか、自分でも分からなかった。


夜になり、空腹を感じたので、コンビニに行くついでに、少し外を歩いてみた。——みんな楽しそうに笑い合っていた。

時折、私に心配するような視線を向けすれ違う人もいるが、ほとんどの人は、私の存在など無いかのように、ただ、すれ違うだけ。

私の目に質店の看板が映った——彼からの指輪、もう必要ない……絶好調のときに買ってくれた指輪なんだから、当面の資金にはできる。

私は指輪を外し、質店に入る——


「……ああ、これね。申し訳ないけど、買い取れません」


その言葉と共に、店主に指輪を突き返された。


「どうして!いいものに違いないでしょう?」


店主はため息をついて、事情を説明してくれた。


「それは粗悪な模造品です。ただの指輪ならいくらかの値打ちはあるかもしれませんけどね——模造品は買い取るわけにはいきませんし、たとえ無料でもお引き取りはいたしかねます」


焦る私を見かねたのか、店主は言葉を続けた。


「もっとも、処分してくれとおっしゃるなら、当店で処分いたしますが、その際は手数料をいただきます」


再び手に取ったそれは、私の心の輝きも奪い去り、冷たく重いだけで、掌に残ったのは虚しさだった。

店を出た私は、ふと空を見上げた。星がいくつか輝いている——子供の頃、輝く星に自分の未来を重ねて、想像していたっけ——


『実家に帰ろうかしら……』


翌日、私は実家を訪れたが、離婚したことと、その原因が私にあること、さらに離婚後すぐに別の男と同棲を始めたことを、父に散々罵られた。

その父の横で、母は「情けない」と言いながら泣き出してしまった。

父は私を追い払うように「出ていけ!」と怒鳴る始末——

その言葉に、肩が小刻みに震えた。母のすすり泣きが、玄関の壁に反響して耳を刺す。

——いったい私が何をしたというの?

せっかく帰ってきたのにあまりに酷い対応に、憤りを隠せず私は「こんな所なんて、二度と帰ってこないわよ!」と啖呵を切って実家を後にした。

しかし、行き場所がないことに変わりはない。とりあえずその日もビジネスホテルに宿泊し、頼れそうな人を思い返していたら、ひとりの男が頭に浮かんだ。


『あいつなら今もひとりでいるはずだし、ちょっと優しい素振りを見せれば、簡単に寄りを戻せそうね。嫌だけど、一番簡単そうだし、明日行ってみようかしら』


目的の男の家は、ひどく田舎なので早めにホテルをチェックアウトして、電車とバスを乗り継ぎ、その家の前に立った。

——縁側でアホのように口を開けたあいつが座っているのが見えた。


『相変わらずのバカっぷりね。これなら簡単にここで住めそうだわ』


しかし、その思惑は完全に裏切られた——そして、今、再び私はバスを待っている。


『誰よりも優れた才能を持っている私がこんなにつらい思いをしているのに、なんで能無しの耀があんなに女を侍らせて幸せそうにしてるのよ!絶対に許せないわ……あいつの幸せをぶち壊してやる!』


心の中に恨みが募ってきて、やり場のない感情をどこかにぶつけたくて、ぶつける先もなく、いつの間にか涙があふれていた。頬を伝う涙が冷えた風にさらされ、かえって熱さを際立たせた。

叫びたい衝動を抑えながら、震える肩を抱くように腕を組んだ——その瞬間。


(なんじ)、我に救いを求めよ。さすれば汝の願いを叶える知恵を与えよう』


耳元ではない、もっと奥……心の奥から、声が聞こえた。


「……誰?誰なの……?」

『汝を救いし神。我に祈れ。願いを語れ。さすれば——』

「お願い……助けて……私を……助けて……」


気がつけば、知紗は操られるようにバスへと乗り込み、その場を後にしていた。

心の奥で渦巻く怨恨の感情とは裏腹に、彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月25日、一部修正しました。

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