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夫婦の態様

少し雲の多い朝だが、冷たい風が気持ち良くて不思議と心が洗われるような気分だ。

朝食の後、レイは何かを描くと言って部屋に籠ってしまい、アンナはイオナから何か相談されたらしく、珍しく彼女の家に出かけている。

いつも僕に世話を焼いてくれるアンナがいないと、少し寂しい気がするのは、僕がこの生活に馴染んできた証拠かもしれない。

いや、この生活に馴染んだ、自分自身を認めたからだろうか?


今までと違い、自分を認め、自分を自然に表現してみてもいいような気がする。

レイの言う『兄様(にいさま)第二形態』でも悪くないと思うが、記憶が曖昧になるのが難点だ。

記憶が曖昧になるだけじゃない、自分が自分じゃなくなるような——そんな不安が付きまとう。

縁側で風にあたり、外をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていたら、玄関のチャイムが聞こえた。


「……誰だろう——あっ、今日は僕しかいなかったんだ」


レイは部屋に引きこもると、全てを無視する。彼女らしいと言えば彼女らしいが、あまりにも静かなので、いないのかと勘違いしてしまう。

先日もいないと思って、リビングでアンナと戯れていたところを、冷めた目で見つめていた……

玄関に応対に出た僕は、驚きのあまり立ちすくんだ。

——目の前に知紗(ちさ)が立っている。離婚して四年が経っているというのに……

彼女は当時とは違い、何だか影のある笑顔を浮かべている。

少し伸びた前髪が彼女の視線にかかり、目元には薄く小さなクマが浮かんでいるのが見えた。


「——耀たん、ただいま」


無理して作ったような笑顔を僕に向け、知紗は、かつて彼女が毎日僕を出迎えてくれていた玄関に入ってきた。

その笑顔は口角だけが上がり、視線は半拍遅れて僕に追いつく。


「いや、ちょっと待て、何をしにきたんだ?」

「そんな冷たいこと言わないでよ。せっかく帰ってきたんだから」

「『帰ってきた』の意味が分からないんだが……」


玄関先でそんなやり取りをしていると、レイがリビングからひょこっと顔を出してきた。


「兄様、そちらの方はどなたですの?」

「レイには見覚えがあるんじゃないか?」


レイは気づいたことを僕に伝えるように、小さくうなずいた。


「誰なの、この女。私がいない間に、若い子と同棲なんて……酷いことするわね」


そう言いながら、知紗は冷めた目で僕を睨むが、なぜそんなことを言えるのか理解できない。

そもそも接触してくるななどと、弁護士を通じて伝えてきたのはそっちなんだし、僕が何をしていようと、関係ないと思うんだが。


「いや、離婚して何年経ったと思ってる?その間ずっと連絡もなかった奴に、なんでそんな言い方されなきゃいけないんだ」


玄関先での問答を止めるように、レイが口を挟む。


「兄様、上がっていただいたらどうですの?」

「あなたに言われなくても上がるわよ。私の家なんだから」


知紗はそう言い放つと、当然のように玄関を抜け、リビングのソファに腰を下ろした。

後を追おうとした僕を、レイがそっと引き留め、耳元でささやく。


「兄様、少し時間を稼いでくださいまし」


二人でリビングに入ると、レイは知紗に軽く会釈をし、僕に視線を移した。


「兄様、レイはお部屋におりますので、御用があれば呼んでくださいまし」

「分かったよ、レイ」


その言葉を聞くと、レイは微笑みを浮かべてリビングを出ていった。

ソファにじっと座って、やりとりを見守っていた知紗の対面に腰を下ろし、重い口を開く。喉を無理に潤そうと、乾いた唾を無理に飲み込む。


「それで、何をしに来たんだ?」

「帰ってきたって言ってるじゃないの」


不思議だ——なぜそんなに平然と言ってのけることができるのか……


「今更、そんなことを言われても、知紗の住むところは別にあるんだろ?遠回しな言い方はやめて、用件だけ教えてくれないか?」

「どうしてそんな酷いことを言うの?耀たんに少し反省してもらおうと思って、しばらく実家に帰っていただけじゃない」

「反省?」

「そうよ、あの頃、耀たんは仕事を減らしていってたでしょ。それは耀たんが私に甘え過ぎていたからだと思ったの、だからしばらく私に頼らないで頑張って欲しかったの」


ある日突然、ほぼ全財産を持って姿を消した人間が、よくもそんなことを言えるもんだと、呆れを通り越して感心さえしてしまう。


「確かにそうだったかもしれないけど……正直、あの頃のことなんて忘れてしまうほどの時間が経って、今となってはあの頃のことなんて、どうでもいい話なんだけど」

「酷いわ。私は耀たんのことをひと時も忘れたことがなかったのに」


——いつまでこの話を続ければいいのか、少し気が滅入ってきた……

何気なく知紗に目をやると、以前より少し痩せているように見える。

少し濃いめの化粧をして、無理に明るく振る舞っているが、やつれた輪郭は隠しきれていない。


「そうか、知紗は優しいんだな」


ため息まじりにそう言った僕に、知紗は満面の笑みで返す。


「そう、また優しい私と暮らせるのよ。嬉しいでしょう?」

「それは話が違う。優しいからといって一緒に住みたいとは思わない」

「そんなことないわ、耀たんには私が必要なはずよ!」


身を乗り出して声を張り上げた知紗には、一瞬だけ、耀の瞳から輝きが消えたように見えた。

その、異様な瞳に張り上げた声を飲み込み、呼吸が止まるのを感じた。

知紗は、今まで見なかった耀の雰囲気を感じ取り、ゆっくりと背を引いた。


——その直後、リビングのドアが開くと同時に、声が聞こえてきた。


「あなたは必要ありません」


いつもの優しい表情を僕に向けながら、アンナがリビングに入ってくると、僕の右隣に腰を下ろした。スカートの裾がソファの縁でふわりと広がり、香りだけが遅れて隣に届く。


「ご主人様、お茶もお出ししていないのですか?——でも、その必要はなさそうですね」


にこやかな表情を知紗に向けながら、アンナが僕に問いかける。


「それでご主人様、この女性は誰ですか?美しい方ではありませんか」

「何なのこの女は!いきなり入ってきて失礼でしょ!」


知紗が『いきなり入ってきた』とか言い出すなら、彼女自身もいきなり入ってきたんだが——

『過去の夢でも見ているのか?』と、知紗に声をかけようとしたところに、イオナが入ってきた。


「耀様、ご機嫌麗しゅうございます。あら?来客中でしたか」


イオナはそう言いながら、あからさまに知紗に軽蔑の眼差しを向け、僕の左隣に腰を下ろした。


「イオナ、どうしたんだ?」

「耀様にご挨拶に参りました」

「挨拶って、ほとんど毎日会ってるじゃないか」

「いいえ、アンナ様に三番目の妻とお認めいただきましたので、そのご挨拶です」


イオナはそう言って、僕の頬に口づけをした。


「末永く、よろしくお願いいたします」


呆気に取られていた僕が、少し気を取り直してアンナに経緯を尋ねようとすると、リビングに滝川さんが入ってきた。

彼女は静かに歩き、僕の後ろに立つ。


「相葉様、お会いできて嬉しいです」

「すっかりメイド服が板についてきたね。立ち振る舞いもきれいだし、何より可愛いよ」


突然、滝川さんは僕の頬に口づけをして、耳元でささやき始めた。


「アンナさんに四番目の妻になることをお許しいただきました」


そう言うと、滝川さんは静かに歩き、アンナの隣に腰を下ろす。


「あの、これはいったいどうなってるのかな?」


アンナに問いかけるのとほぼ同時に、レイがリビングに入ってきた。


「あら、みなさまお揃いでしたの?困りましたわ……レイの座るところがありませんの」

「レイ様、失礼いたしました」


イオナが僕の隣を空けると、そこにレイが腰を下ろし、イオナはレイの隣に座った。

美人と美少女を合わせて四人も、しかも二人はメイド服という女性に囲まれた僕の姿は、まるでそういうお店で大盤振る舞いしている成金のようだ。とても褒められた光景ではないはずだ。


「何なのこれ、何を見せつけてるの?」


焦りと呆れが入り混じった表情の知紗に、レイがゆっくりとした口調で返す。


「見せつけているのではありませんの」

「アンナ様から耀様の妻とお認めいただいたのですから、夫のそばに侍るのは当然でしょう」

「なあ、アンナ。滝川さんもだったのか?」

「はい、イオナさんから相談を受けて、お話を聞きましたが、もうご主人様なしでは生きていけないとまでおっしゃられたので許しました」

「あ、あの、不束者ですが、よろしくお願いします!」

「あ、ああ、こちらこそよろしく」


妻というものは、知らないところでこんなに簡単に決められ、増えていくものなのだろうか?


「相葉様、そ、それと——夜の方は、あの、もう少し時間を置いてから……」

「ああ、その方がいいと思う……」


元妻の前で、とんでもない約束を交わしてしまったが、今はそれどころではない。

——そもそも、この家に『普通』なんてあっただろうか?

そうじゃない、まずは、自分の置かれたこの環境を理解して、整理して、それから……

僕の思考を遮るように、イオナがいつもの冷静な口調で問いかける。


「この女性は、こんなところで何をなさっているのですか?耀様の妻になることを希望されているのでしょうか?」


その問いにレイが、微笑みを浮かべて答える。


「違いますわイオナ。この方は前の奥方ですの」

「この方がそうだったんですね。預金を全額引き出して姿をくらました方と」


イオナが言いかけたところに、アンナが言葉を続ける。


「——ある意味、有名な方ですね」


滝川さんは知紗に軽蔑の眼差しを向け、口を手で覆いながらも、聞こえるように呟く。


「イオナ様から、銀行員を身体(からだ)で黙らせたとお聞きしました」

「そういえば、持ち逃げしたお金を貢いだ男のお店はどうしましたの?」


レイの言葉を聞いた知紗が、焦りを隠せず、少し早口で否定する。


「な、何を言ってるのか分かりません!」


まだ何かを言いそうな知紗に、イオナが冷静な表情で口を挟む。


「何も知らないとでも思っているのですか?」

「ともあれ、アンナさんの承諾は無理でしょうね」


滝川さんは知紗に軽蔑の視線を向け続けている。


「ねえ、アンナ。どういたしますの?」


おどけた表情で問いかけたレイに、アンナが落ち着いた口調で答える。


「——帰っていただきます」


知紗が少し怒りのこもった口調で、僕に対して声を荒げる。


「耀たんは私をここに置いてくれるわよね!」

「いや、僕も嫌だし、ここの四人も誰ひとり賛成していないみたいだから、絶対に無理だよ」

「そういうことですの。お引き取りくださいまし」


レイが言い終える前に、知紗はふてくされたように、ソファに深く腰を下ろした。


「いやよ。行くところがないんだから!」

「それは、相葉様にも私たちにも関係ないと思います」


滝川さんの言葉に、イオナも同意する。


「そうですね。真由美の言うとおりです」

「そういうことだ、知紗、帰ってくれ」

「私の帰るところはここなのよ。耀たんにも私が必要でしょう」


この状況の中で、何をどう見て、どう聞いて、どう考えれば、自分が必要と言い切れるのか——

僕の拙い思考で理解するのは無理なようだ。

イオナがため息をつき、呆れた表情を浮かべる。


「この状況を見て、まだそんなことを言えるのは大したものです」

「兄様を散々バカ扱いしておいて、よく言えますわ」


レイが少し強い口調で言い放った。

アンナの隣で、滝川さんがそっと手を上げているのがふと、目に入った。


「あの、相葉様。アンナさんからミスティさんという方もいると聞いたのですが……」

「ミスティもか?」


僕はアンナに問いかける。


「ご主人様が、家族とおっしゃれば家族です」


アンナもミスティを家族と認めてくれたのだと思うと、少し嬉しくなる。


「じゃあ耀たん、私のことも家族と言ってよ!」


どこかで似たようなセリフを聞いたことがあるが、そんな言葉を無視して僕はミスティを呼ぶ。


「——ミスティおいで」


すると、音もなく縁側の方から大きな蛇が這い出てきて、僕の首にまとわり付き、その長い体が光を反射して艶やかに輝く。

その光景を見た知紗の顔色が一瞬にして青ざめた。目を大きく見開き、息を飲む。


「な、なにそれ……!?」


驚愕の声が喉から絞り出される。彼女の目には、恐怖が浮かび上がり、もはや冷静さを失っている。

知紗はソファから滑り落ち、指先で床を掴みながら僕の方に恐怖に満ちた眼差しを向けている。


「な、何なの!?それ、へ、蛇じゃない!」

「ああ蛇だ、よく懐いていて可愛いだろ。さあ、ミスティ挨拶しておいで」


その言葉を理解したかのように、知紗に向かって動き出したミスティを見て、知紗の声は震え、パニック状態に陥っていく。

彼女の瞳孔が開き、視線は蛇の輪郭だけを固く追い続ける。


「や、やめて!冗談じゃないわ!近づけないで!」


知紗は這うようにして、リビングを出ていき、大きな音を立てて玄関の扉が開いた後、そのまま家から走り去る後ろ姿が見えた。

誰も後を追わず、ただ静かに、その場に残された空気だけが、風のように知紗の形跡を吹き払っていった。


「ミスティが怖かったのかな?」


呟く僕に絡みつくミスティを、アンナが撫でている。鱗の光沢が彼女の指の動きに合わせて波打った。


「ミスティさん、お手柄です。よく頑張りました」


頑張ったのか?——まあいい。アンナに褒められれば、ミスティも嬉しいだろう。


「耀様は蛇までお手つきになされたのですか?」


イオナが呆れた表情で僕を見た。——もう何とでも言ってくれ。


「相葉様、この子可愛いです」


意外にも滝川さんはミスティに興味を示す。


「あら、真由美は平気ですの?」


レイは滝川さんの態度に、少し驚いた表情を浮かべる。

滝川さんはミスティにそっと手を伸ばし、嬉しそうな表情を浮かべ、その身体を撫でる。


「はい、冷たくて触り心地がいいですよ」

「良かったですわね。ミスティ」


レイの言葉に反応するように、ミスティは舌をチロチロと出していた。

どうやら、これでミスティも家族の一員だな。うん、良かった、良かった。


「ところで、今頃になってなぜ、耀様に接触してきたのでしょう?」


イオナが口にした疑問は、ここにいる誰もが思っていることだろう。


「いや、全然わからないんだ。僕からすると、嘘八百を並べて帰っただけだからね」

「行くところがないと言っていました——」


アンナの呟きを聞き、滝川さんが思いついたように口を開く。


「相葉様、私にも経験がありますけど、何の思惑もなく訪ねてきたとは思えないです」


真面目に話してくれているのだろうが、笑顔でミスティを撫でているせいで、そうは見えない。


「——確かにそうですわ」


レイは滝川さんに同意したようだが、正直、僕にとってはどうでもいい。


「目的を隠していたのは間違いないと思うけど、まあいいんじゃないか?人の考えなんて他人には想像しかできないんだしさ」


この不毛な会話を断ち切るべく、声に出してみたが、全員が納得したようにうなずいた。


——次は僕が問いかける番だ。


「そんなことより、僕の妻が四人になったことを、誰か説明してくれないかな?」

「はい。アンナ様がお決めになられました」


当然のようにイオナは言い切ったが、僕が知りたいのはなぜそうなったかなんだが。


「そうなんです。幸子(さちこ)様に、そうするよう言われましたので」


『そうなんです』の意味が分からないし、幸子さんがそう言った経緯も知りたい気がする。


「……いや、僕の意見は?」


その言葉に、全員が首を傾げて、沈黙する……

少し焦りを感じる——僕は、何かおかしなことを言ったのかな?


「相葉様、アンナさんがいいとおっしゃればいいのです」


真由美のその言葉は、僕に全てを理解させてくれた。


「そういう家庭内のルールができたんだね……」

「兄様、諦めてくださいまし」


レイがそっと僕の手を握り、優しい笑みを浮かべてくれた。

もう、何をどう考えればいいのか分からないけれど——諦めろという言葉は、信じるしかないと理解できた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月25日、一部修正しました。

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