表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/137

年寄りの話

軽トラックが止まり、(しげる)がニコニコしながら近づいてくる。

茂の姿を見た瞬間、幸子(さちこ)の表情がわずかに緩み、小さく手を振る。

それがあまりにも自然で、アンナは『愛おしい』という言葉の意味に、ふと思いを寄せる。

手を振るというだけの動作に込められた無意識の優しさに、アンナは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

愛情とは形ではなく、日々の中に染み込む何かかもしれない——そんな思いが胸をよぎる。


私が『愛おしい』と感じるのはなぜ?レイが『アンナが思うようにすればいい』と言った言葉が脳裏をよぎる。

その中で愛おしさは生活に染み込んでいくのかもしれない。


「アンナちゃんもレイちゃんも久しぶりだの」


茂の大きくて優しい声に、アンナの迷いは不思議とかき消される。


「茂おじいさま、お待ちしておりましたわ」

「茂様お久しぶりです」


レイは嬉しそうに出迎え、アンナは感謝の気持ちで頭を下げた。

茂がイオナを見て、少し首を傾げる。


「ありゃ、あんたは」

「隣の家に引っ越してきました……」


茂は嬉しそうに拳を打ち、歯を見せて笑う。


「——イオナちゃんだった」

「はい。その通りです」

「ワシもまだボケとらんの」


高笑いする茂の目に、ラウムが映った。

途端に、息を凝らすようにラウムをじっと見る。そして、何かを納得したような笑顔を浮かべた。


「どこの別嬪さんかと思ったが、とんだ男前だったんだ」

「翁殿、よろしくお見知り置きを」

「うんうん。名は聞かん方が良さそうだの」

「その方が、神主の爺さんに聞きたいことがあるそうですよ」


幸子の声に、うんうんとうなずき、茂は腰を下ろすと、嬉しそうにテーブルを見回す。

——こんなに大勢で話をする機会も減ってきた中、ここに座る自分がとても幸せに感じられた。

茂にはそれだけで、今日はいい一日になりそうだった。

アンナが静かに席を立ち、茂に笑顔で問いかける。


「茂様、お茶でよろしいですか?」

「すまんの。アンナちゃん」

(それがし)には酒を」


あからさまな便乗をするラウムにも、アンナは笑顔を向けるが、口調は少し厳しい。


「分かりましたけど、まだ朝ですよ」


アンナがお茶と酒を準備するために、お盆を片手に家に入っていく。

その背を見送ったラウムが、テーブルの端に留まっていた枯葉を手に取り、茂に掲げる。


「ところで先ほど嫗殿より、この葉の表が人の住むところ、裏が神の住むところという、興味深い話をお聞きしたのであるが、これは真であろうか?」


ラウムの問いに、茂は声を上げて笑う。


「本当かどうかは分からないんだ。でも、そう考えるのが分かりやすいんだ」

「——確かに分かりやすいです」

「そうですわ。レイにも理解できましたの」


イオナの言葉に、レイも納得の表情でうなずく。


「まあ、本当のところは誰にも分からないんだ」


茂の言葉に幸子がうなずき、その言葉を補う。


「そうですね。葉が一枚とも限りませんからね」

「——裏がないかもしれんのだ」


ラウムは自らを召喚した男に、枯葉の話を重ねて考えていた。

それと同時に、自らが存在する『地獄』と呼ばれる世界の『位置』についても、疑念が浮かび始める。

その頃、イオナの瞳はゆっくりと動き、まるで見えない糸を探るかのように虚空を見つめていた。

神と人の間にあるもの——それは『祈り』なのか、それとも『想い』なのか。もしかすると『信頼』……

彼女の中に、初めて宗教という概念が感情に結びついた気がした。


アンナがお茶とポット、それにグラスに注いだウイスキーを持ち、戻ってきた。

それを見た幸子は、感心したように彼女に声をかける。


「あら、アンナさんは気が利きますね。ちょうどお代わりをもらおうかと思っていました」

「さすがは正妻といったところだの」


レイが茂の言葉に不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げて問いかける。


「茂おじいさま、この国では、妻は一人しか娶れないと聞きましたの」

「まぁ、そういう決まりだがの」

「惚れてしまったものは仕方がありませんね。それも大事な御縁なのでしょう」


幸子が茂の言葉を補う。


「仕方がない……ですか」


そう呟くイオナに、幸子が笑顔で問いかける。


「イオナさんは、アンナさんに『ご主人様に近づくな』と言われたら『はい、分かりました』とあっさり引き下がれますか?」

「いえ、その程度の気持ちではありません」


その決意のこもった声に、幸子は安心したようにうなずいた。


「そうでしょう。人の心は他人がどうにかできるものではありません。だからこそ、自分の心に素直に生きることも、大事なことではありませんか?」

「自分の心に素直に……」


イオナは考え込むような表情を見せる。もうひとり、アンナも考え込むような表情を見せていた。


「その結果として御縁があれば、それでいいではありませんか」


幸子は淹れたての熱いお茶をひと口啜り、話を続ける。


「でもね、決して、アンナさんやレイさんを出し抜こうと考えてはいけません。アンナさんやレイさんとの御縁も、大切なことを忘れてはいけませんよ」


「そうだの。神道ではの『結ひ』が大事な教えなんだ」

「結ひとは?」


ラウムが茂に短く問いかけた。


「まあ、解釈はいろいろあるんだけど、ワシの理解では繋がることだの」


茂も喉を潤すように、お茶をひと口啜り、話を続ける。


「神様との繋がり、土地との繋がり、人との繋がり、男と女の繋がり、自分を中心に広がる全部の繋がりだ」

「特に、男女の繋がりはねぇ、爺さん」

「うん。まぁ——うん、そうだの」


珍しく歯切れの悪い茂の返事を聞いたレイが、おどけた表情で彼の顔を覗き込むように見る。


「茂おじいさま、なんだかバツが悪そうですわ」


幸子が茂から顔を反らし、拗ねるような口調で呟く。


「爺さんはね、私がお産で里帰りしている間に、余所に女を拵えたんですよ」


一瞬、空気が止まったかのように、静寂に包まれた……


「最低ですわ」


レイが冷たい視線を茂に向ける。


「最低ですね」


アンナが怒りのこもった視線を茂に向ける。


「最低です」


イオナが呆れた視線を茂に向ける。


「最低であるな」


ラウムはグラスを傾ける。


「もう、責めんでほしいんだ。つい尻に目がいってしもうた……若気の至りだったと反省しておるんだ」


汗を拭うように、額を擦る茂をよそ目に、アンナが幸子に問いかける。


「幸子様は怒らなかったのですか?」

「怒りましたとも。爺さんに家の食器を全部投げつけました」


笑顔で答えた幸子を見て、レイが呟く。


「幸子おばあさま、怖いですわ……」

「でもね、すぐに諦めましたよ。終わったことは仕方がありません。ただね、その後もコソコソと逢い引きをしていたのは知っていたので、その日の夜は爺さんの枕に針を仕込んでおきました」

「あれは、婆さんの仕業だったんか。ワシは布団屋まで怒鳴りにいったんだ」

「こそこそするからです。堂々としていればいいものを」


そんな二人の様子を見ていたアンナとレイ、イオナの顔に笑顔が浮かぶ。


「うふふ。仲がよろしいのですね」


口を手で隠し呟いたアンナの独り言に、イオナがうなずいて同意する。


「まったく羨ましいです」

「夫婦が仲良くするのも、神様の教えなのですわ」

然様(さよう)であるな。見ている某が少し恥ずかしくなってきた」


関心がなさそうにグラスを傾けていたラウムまでもが、年寄り二人を冷やかすような言葉を投げた。

茂と幸子は、照れくさそうな表情でお互いを見ている。

アンナ、レイ、イオナ——それぞれが、愛おしいという言葉の意味を、もう一度考えていた。

しばらく目を閉じていたレイが、不思議そうに茂を見つめる。


「レイちゃん、どうしたんだ?」

「茂おじいさまが『お尻派』とは意外でしたわ」

「そ、そういうわけじゃないんだ」

「ちなみに兄様(にいさま)は『お胸派』ですの」


レイの言葉を聞いて、アンナとイオナがうなずく。


「確かに、私が胸に抱き寄せたときも、すぐに静かになりました」

「私には、はっきりと抱きしめてほしいとおっしゃいました」


アンナとイオナの視線が交差する。レイには、一瞬そこに火花が飛んだように見えた。


『アンナは絞め落としただけですわ』


レイの言葉は、その小さな胸の中に封印された。

交差する二人の視線を断ち切るかのように、幸子の優しい声が聞こえた。


「相葉さんは胸が好きなんじゃなくて、温もりが恋しいのではないですか?」

「「温もり?」」


同時に響いた、アンナとイオナの声に、幸子と茂がうなずいた。


「胸に抱かれた時の、温かさと包み込むような鼓動、幼い子供は母親に求めるものです」


幸子の言葉に茂は、うなずき話をつなぐ。


「そうなんだ、男はいつまで経っても子供のようなもんなんだ」

「なるほど……翁殿は尻を見て、故郷を偲ばれたのであるな」


ラウムの声に、茂は大きくうなずいた。


「そうなんだ、仕方がなかったんだ——」


茂に再び冷たい視線が集まる。

自らに集まる視線を振り払うかのように、茂が焦りのにじむ声で話し始める。


「どこまで話したか分からんようになってしもた。んー、そうだったんだ——結ひとはな、人間同士の関係だけでなくてな、人間と自然との調和、自然そのものの調和も大事にしなさいということだ」

「そう言えば、幸子おばあさまはよく、自然に任せておけばいいとおっしゃいますわ」


レイは右手の拳で、顎を支えるように腕を組み、考え事をしているようだ。


「それは人間と自然の繋がりが大切ということなのですね」


アンナは納得した表情を見せている。


「そうだの。そのいろんな繋がりの中で、子が産まれ、健やかに育つということも大事なことなんだ。これは人間だけでなく動物や虫や花も一緒なんだ。生殖と繁栄、健やかさはワシはもっとも喜ぶべきものだと思っとるんだ」

「翁殿は神の教えに忠実であっただけであるな」


ラウムのダメ出しに、幸子が笑顔で答える。


「まあ、妻である私が許したのです。それでいいのですが、隠れてコソコソするのはいけませんよ」

「私もその気持ちが分かるような気がします」


幸子の言葉に同意するアンナを見て、幸子はにこやかな表情をアンナに向けた。


「アンナさん、相葉さんの手綱をしっかり取っておかないといけませんよ」

「はい、幸子様」

「アンナさんが認めた人にだけ、妻を名乗らせればいいです。相葉さんの手綱を取る責任は重大ですよ」

「幸子おばあさまは、どうしてそう思いますの?」


レイの問いかけに、幸子はゆっくりとした所作で、お茶をひと口飲んでから答える。


「——相葉さんはきっと、爺さんより女好きです。アンナさんの持つ手綱は暴れ馬ですよ」


さっきまで自ら話していた『温もり』を、全否定する言葉を落とした。


「某は分かる気がするのであるな。だが、それは心の奥に鳴りを潜めておる」


幸子の言葉に納得したような表情を浮かべ、ラウムはゆっくりとグラスを傾けた。


「うん、相葉さんにはスケコマシの才があるんだ」


今まで向けられていた矛先が、外れたことに安堵したような茂の言葉に、イオナがおかしそうに笑った。


「そのような才能は褒められても嬉しくありませんね」

「私が許しているのはレイだけです」


胸を張って言い切ったアンナに、レイが冷たい視線を向ける。


「なぜアンナに許しを得なければいけませんの?」

「なんですか、レイ?」

「なんでもありませんの」


レイは幸子の袖を軽く引く。


「幸子おばあさま、アンナは兄様が悪さをしたら、すぐに捕まえてお部屋に連れ込みますの」


レイがアンナに流し目を向けながら、幸子に告げ口するように口元を覆って話すが、声は全員に聞こえている。


「おやおや、相葉さんも大変ですね」

「大変なのはレイですわ。アンナのアンアンが耳障りで、朝まで寝れませんの」


頬をふくらませるレイを見て、茂は思わず吹き出した。


「はっはっは。面白いのお嬢ちゃんたちは」


笑っている茂に、ラウムが枯れ葉を手に話しかける。


「ところで翁殿、この葉にはここに小さな穴が開いておるが、これはどう思うのが良いであろうか?」


茂はその枯葉に開いた小さな穴を通して、ラウムを見る。


「こうやって向こうを覗いておるかもしれんのだ。そして、その穴から言葉が届いておるかもしれんのだ」


感慨深げに穴を覗くラウムに、茂は話を続ける。


「その穴を通して、何かを送ったり、手を触れることもできるかもしれんのだ」


ラウムは枯葉を裏返した。


「このようにすれば、先ほどまで某が見ていたものが、翁殿に見えるようになる」


茂は大きくうなずいた。


「そうなんだ。ワシが見ていたものはあんたに見えるようになるが、さっきまで見えていたものは、ワシからは見えんようになるんだ」


ラウムがアンナとレイに視線を向けると、二人は真剣な表情で考え込んでいる。

——二人の瞳の奥に、耀という名を持つもうひとりの存在が、静かに姿を現していた。

ラウムは二人の様子にうなずき、再び茂に視線を向けた。


「翁殿の話を聞いておると、このように穴が開いている場所があるのでは?と、某は考えるのであるが?」

「あるとすれば、黄泉比良坂(よもつひらさか)なんだな」


意外にも即答した茂に、ラウムは少し驚いたような目を向ける。


「ほう、それはいかなるところであるかな?」

黄泉(よみ)の国、まあ死人が暮らす国のことだな。あの世とこの世の境目と言われておるんだ」

「実に興味深い話であるな……」


茂はラウムが持っていた枯れ葉を受け取り、秋の日差しにかざす。


「穴だけではないんだ。こうやって日にかざすと透けて見える」


ラウムもその枯葉に目を向ける。確かに少しだけ向こうが透けて見える。

人間の世界と自らが存在する『地獄』と呼ばれる世界、そして耀という男の心に潜む者——

互いに見えることはなくとも、感じることはできる。

人間の世界に存在する概念者も同じこと、同じ世界に存在しても、何もしなければ存在すら知り得ない。

そして、それらの境にあるわずかな綻びが、これらをつなぐこともできる。

——茂の短い言葉は、世界を超えうる可能性を示しているように思える。


「なるほど、翁殿の話は飽きぬな」

「昔はこんなところがたくさんあったと言われておるんだ」

「そうなのですか?」


アンナが問いかけると、茂は微笑んでうなずいた。


「特にな、山岳信仰の対象になった山は、この世と神の世をつなぐ場所で、修行に適しているとされておったらしいんだ」


レイがひらめいたように、アンナに提案する。


「ねえ、アンナ、その黄泉比良坂とやらに行ってみたいですわ」

「それはどこにあるのですか?」

「島根県の松江市です。ここからですと少し距離はありますが、とてもいいところだと聞いたことがあります」


アンナの問いにイオナが即答した。悪魔の眷属となってまで得た知識は本物のようだ。

レイがアンナの手を取る。


「アンナ、兄様にお願いしたいですわ」


戸惑う様子を見せるアンナに、幸子が提案する。


「三人で旅行でもしてきたらどうですか?」

「そうじゃ、畑も休みだし、鳥の世話ならワシがしとくんだ」

「アンナ様、ご自宅に何かあれば私がすぐに連絡をいたしますので、ご安心ください」


幸子の提案に、茂とイオナの後押しする声が続いた。


「ねえ、アンナ。みなさんもこうおっしゃってくださいますの、兄様にお願いしてみますの」

「——そうですね。皆さんに甘えてしまいますが、ご主人様に聞いてみましょうか」


アンナの言葉に、レイの瞳が輝き、可愛い笑顔が咲いた。

思わず両手を胸の前で握りしめたレイの様子に、アンナの頬にも自然と笑みが浮かんだ。

旅が心の戸惑いを導き、答えを与えてくれるかもしれない。そんな予感が漂っていた。


「三人の新婚旅行だの。いや、めでたいんだ」

「私と爺さんの新婚旅行は、出雲大社(いずもたいしゃ)だったんですよ」

「そこも近いのですか?」


アンナの問いに、茂が答える。


「少し足を伸ばせば行けるんだ」

「それも兄様に相談してみますの」

「そうですね。今晩にでも、ご主人様に相談してみましょう」


アンナとレイは、嬉しそうな笑顔を向けあった。茂と幸子はそんな二人に目を細め、イオナも笑顔を向けている。

ただひとり、ラウムは物思いにふけるようにグラスを傾けていた。

『——ただの旅行では済むまい……』言葉には出さず、周りで弾む会話を聞きながら、静かに揺れる琥珀色の液体を、ただじっと見つめる。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月24日、一部修正しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ