愛おしい人
朝には冬の気配も感じられるようになった庭では、アンナとレイが鳥小屋の前に腰を下ろし話をしていた。
耀は朝から仕事に没頭していて、部屋から出てくる気配はない。
二人は何をするでもなく、ただ、ぼんやりと鶏の動きを目で追っていた。
「ねぇアンナ、鳥は可愛いですわ」
鶏たちは、それぞれが好きなように、鳥小屋の中を動き回る。
何かを探したり、ついばんだり、限られた空間でも、自由にしている様子に、レイが微笑む。
「そうですね。でも、ご主人様の方が可愛いのですよ」
ことあるごとに耀と比較するアンナだが、こんな言い方をする時は、心に寂しさを感じている時なのを、レイは知っている。
だからこそ、少しだけ強く、背中に手を添えたくなる。そして、そんなアンナが可愛らしく見える。
「——そういえば、兄様は最近変わりましたわ」
「はい……レイはどう思いますか?」
「とても魅力的ですわ。アンナはどう思いますの?」
「私は……怖いです」
思わぬ回答に、レイがアンナに視線を送る。
アンナは、まるで鶏に語りかけるように、じっと視線を向けたまま、静かに続ける。
「今の優しいご主人様が、まるで、遠くに行ってしまいそうに感じるのです。あの驚異的な強さをもつご主人様には、優しさを感じません」
レイは一瞬、考え込むように視線を落とした。しかし、すぐに微笑みを浮かべ、優しい声で答える。
「そんなことはないと思いますの。兄様はアンナがそばにいなければ寂しがりますわ。それに、あの兄様はきっとレイたちのことも守ってくださいますわ」
レイは鳥小屋で餌をついばむ鶏に、笑顔を向けながら言葉をつなげる。
「あの兄様を、初めて目にした時、完全に自我を失っていましたわ」
「はい」
虚ろな返事を返したアンナは、手に持っていた雑草を、金網越しに鶏に与える。
「でも、アンナや真由美のためにお力を振るわれたときは……」
「しっかりと意識がありました」
レイは顔を上げて、思い返すように言葉を紡ぎ出す。
「そうですの、真由美のときはちょっとあれでしたけど」
「そういえば、私のときも『俺の女』って言っていました」
レイは何か思うところがあるように、深いため息をついた。
「レイが、あの兄様の世界のようなところに引き込まれたときも、しっかりとお話できましたの」
「そうだったんですね」
「その差が何か?レイはすごく気になって、夜しか寝ないで考えましたの」
「はい、健康的でいいと思います。それで、答えは出ましたか?」
「——女性のため。ですわ」
アンナの方を振り向いて、話を続ける。
「会話の内容はちょっとアレですけど、恐ろしい中に優しさが見えるように思いますわ。それにレイには笑顔を向けてくれたように見えましたわ」
「でも、私と記憶を共有したのは、あの方ではないと思います」
アンナの耀に対する思いは、その経験がほぼ全てと言っていい。レイはアンナの言動からそう解釈している。
「それで、いいと思いますの。ねぇ、アンナ。アンナが思うようにすればいいだけですわ」
アンナがレイに顔を向ける。美しい顔に寂しさを浮かべるアンナを慈しむように、優しく腕に手を添える。
アンナの腕に、レイのぬくもりが重なる。それだけで、少しだけ、寂しさが溶けていくようだった。
そんな二人に、突然声がかかる。
「おはようございます」
二人が振り向くと、イオナが歩み寄りながら、笑顔を向けていた。
「イオナ、おはようございます」
「おはようございます。イオナさん」
二人の前まで来ると、イオナも腰を下ろす。
「何をなさっているのですか?こんなところで」
柔らかいイオナの声に、レイが微笑んで答える。
「兄様のお話をしていましたの」
「そうでしたか。耀様は?」
「兄様は、イオナに頼まれた仕事をしておりますわ」
「ご主人様は、イオナさんからいただいたお仕事が楽しいようです」
アンナの言葉を聞き、イオナは少しうつむいたあと、寂しそうに微笑んで顔を上げる。
「それは良かったです」
「ご主人様にご用ですか?」
「——そうですね」
イオナは微笑みを浮かべながら、アンナとレイの表情をちらりと見て、二人の様子に少し安心したように、柔らかい声で続けた。
「ただ、お二人が見えたので来てみただけです」
レイは、イオナが耀に会いたくて来たのだろうと思い、少しおかしくなった。
近づいてくるエンジン音に、三人が何気なく顔を向けると、家の前に軽トラックが停車するのが見えた。
その助手席から幸子が降りてきて、軽トラックはそのまま走り去った。
幸子は走り去る軽トラックに小さく手を振ると、三人の元にゆっくりと歩いてきた。
「おはよう。みなさん」
「幸子おばあさま、おはようございます」
「幸子様、おはようございます」
「村上様、おはようございます」
幸子は丁寧に腰を折り挨拶をするイオナをみて、少し首を傾げた。
「おや、あなたは隣の家の——」
「はい、ご挨拶にお伺いして以来です」
イオナは姿勢を正しながら、身なりを整えてお辞儀をした。そんな彼女に、幸子は優しく微笑んでうなずいた。
「お隣同士、仲良くやってるみたいで安心しました」
レイが幸子の隣に立ち、そっと袖を引く。
顔を向けた幸子の目には、困ったような顔をしたレイが映る。
「幸子おばあさま、イオナは兄様に惚れてしまいましたの」
幸子はレイの言葉を聞き、おかしそうに笑った。
「あらあら、アンナさんの苦労が絶えませんね」
アンナはわざとらしく、困ったような表情をつくり答える。
「そうなんです。お茶をお持ちしますね」
幸子が空を眺め、三人に提案する。
「天気もいいし——ほら、今日は少し暖かいでしょう?お庭でおしゃべりしましょうか」
「そうですわ。アンナお庭に行きますわ!」
「そうしましょう、レイも運ぶのを手伝ってください」
「分かりましたわ」
家の中へ入っていくアンナとレイの背中を見送り、イオナが幸子に話しかける。
「村上様、先に行きましょう」
「そうですね」
イオナと幸子はゆっくりとした歩みで、菜園の方へ向かう。
「イオナさんでしたね。あなたも相葉さんを?」
「はい。お恥ずかしながら……アンナ様やレイ様がいるのを知っていたのですが——」
幸子は、今年の収穫を終えた菜園を眺めながら、優しい笑みを浮かべている。
「恥ずかしがることはないですよ。他人を慕う心はとても素晴らしいものです」
「村上様にそう言っていただけると心強いです」
イオナの控えめな様子に気づき、幸子は少し柔らかい声で付け加える。
「アンナさんは許してくれますよ。それと、村上は爺さんがいる時に困るから、幸子と呼んでくださいな」
「かしこまりました」
菜園の横には、木製の大きな机と、ベンチが作られていた。
畑仕事の最中に休憩できるようにとレイが欲しがったのだが、耀が『どうせなら食事も取れるように』と、大きなバーベキューテーブルを購入していた。
二人がベンチに腰を下ろし、何かを話すわけでもなく、秋の色が濃くなった景色を眺めていると、アンナとレイがお茶を運んできた。
「お待たせいたしました」
「ありがとうね」
幸子は湯呑みを手に取りながら、ふと話題を変えた。
「このあいだ、警察が騒がしくしてたのは、相葉さんの災難だったそうですね」
グラインドテックソリューション六人組とトラブルになった時、警察が派手にサイレンを鳴らしながらやってきて、ご近所でちょっとした騒ぎになっていた。
「そうですの。とんだ災難でしたわ」
「幸子様、ご迷惑をおかけしました」
幸子がイオナに視線を向け、にこやかに話を続ける。
「聞いた話だと、女性を助けようとしたと……助けられたのはイオナさんでしたか?」
「——いいえ、うちの使用人です」
「おやおや……では、その女性も?」
「はい、耀様に惚れているようです。時折、仕事の手を止めて、こちらの庭をぼんやりと眺めていますので——」
イオナが言った瞬間、アンナの顔が曇る。
「やはりそうなりましたか……」
その一方で、レイの表情には諦めが漂っていた。
「アンナ、兄様がたくさんの女性に惚れられるのは、仕方のないことですわ」
「アンナさん、正妻なんですから、もっとこう、余裕をもたないとダメですよ」
幸子はアンナが振り向くのを見て、胸を張ってみせた。
「はい、幸子様……」
幸子は、不安の表情を隠せないアンナの顔を、同情の眼差しを浮かべて覗き込んだ。
少しアンナが微笑んだのを見た幸子が、お茶をひと口啜り、話を進める。
「それで、犯人は捕まりましたか?」
「ひとりは兄様が捕まえましたけど、あとは逃げたままですの」
レイの言葉を補うように、イオナが言葉をつなげる。
「犯人は分かっているのですが、罪に問えるかどうかも微妙ですし、どうも背後関係を調べているようです」
「きっと、おかしな宗教ですわ」
「それはどうか分かりませんが……」
そう言いかけたイオナが、思い出したかのように顔を上げた。
「宗教といえば、この国の方は神に対する感覚が、他の国と異なるように思います」
イオナの疑問に、幸子が湯呑みを置いて答える。
「それはそうですよ。この国では、ありとあらゆるものを神として信仰してきましたからね」
「ありとあらゆるもの、ですの?」
レイはその意味が理解できないのか、首を傾げて幸子を見つめた。
「そうですよ。太陽も月も山も大地も火も水も、すべて神として祀られています」
「そんなに神様が多くては、祈るのが大変ですわ」
「そんなことはありません。自分が祀りたい神様だけ祀ればいいのです」
「それでいいのですか?」
アンナには『祈る側が祈るものを選ぶ』という考えが不可解に思えるようだ。
「それでいいのです。全部の神様を祀るなんてできませんよ」
「八百万の神と言われていますね」
幸子はうなずいて、イオナに目を向ける。
「イオナさん、よくご存知でしたね」
「どういう意味ですの?」
「字のとおりに理解すると、八百万の神様がいることになりますが、そんなにはいません。とてもたくさんの神様がいるという意味です」
「そんなにたくさんいるのですか?」
そう問いかけるアンナの瞳は、疑問ではなく興味の輝きに満ちていた。
「そうですね。自分の親を神様として祀ってもいいのですから、どれほどの神様がいるのかは分からないのではないですか?」
アンナは空を仰ぎ見た。
「そんなにたくさんの神様が見ているかもしれないと思うと、不思議と少しだけ安心します」
幸子の話を聞き、表情が和らいだアンナを見て、イオナは少し胸のつかえが取れたような気がした。
そして、幸子に問いかける。
「この国の人は元々、信仰に寛容だということでしょうか?」
幸子はイオナの問いに、少し笑った後、落ち着いた口調で答え始める。
「それはそうでしょうね。初詣やお盆、クリスマスなど、いろんな宗教の行事を、当然のように楽しむことができますからね」
「神という存在が近いのでしょうか?」
「神様はすぐ隣にいますよ」
そう言いながら、幸子は枯葉を一枚拾った。
「この葉っぱの表が人の住むところ」
幸子が葉っぱを裏返す。
「こっちが神様の住むところ。こんな感じですかね」
表からは見えないだけで裏は存在する——そしてその逆も。
幸子の目は、見えないものを信じる心を語っている気がした。
幸子はその枯葉をそっと膝に乗せた。
「どちらが上でも下でもないんですよ。風が吹けば、ひっくり返るものですから」
アンナとレイは思わず目を合わせた。
二人は言葉を交わさずとも、お互いの思いが理解できた。
今の幸子の話は、耀とその心に潜むもうひとりの耀との関係に似ていると。
「——嫗殿、興味深い話をしておられますな」
和やかな雰囲気を壊さないように気遣っているのか、穏やかな口調の男の声が響いた。
その声の主に、全員が顔を向ける。
穏やかなその声だったが、どこか空気の密度が変わった気がした。
「ラウムさん。いつからいらしたのですか?」
「先ほど参ったのであるが、嫗殿の話に聞き入っておった」
幸子がラウムを食い入るように見つめる。
その探るような視線に、一瞬目を逸らしたのを見た幸子は、優しい笑みを浮かべた。
「おや、いい女が増えたかと思っていましたが、とんだ男前でしたね」
ラウムは何も答えず、空いている椅子に腰を下ろす。
彼の視線は、収穫を終え何もない畑と、それを見つめる幸子の横顔を交互に往復していた。
そこに宿る静かな営みと信仰の形に、何かを探るようなまなざしを浮かべている。
「嫗殿、もう少し詳しくお聞きしたいのであるが——」
その声に、幸子は深くうなずいた。
「——それなら爺さんに聞けばいいですよ」
「茂おじいさまに?」
たまに、茂と出かけることがあるレイには、いつも面白おかしい話をしてくれる茂に、今のような話ができるとは思えなかった。
「はい、あれでもこの近くの神社の神主なんですよ」
「神主とはなんですの?」
レイの問いにイオナが答える。
「神社に祀られている神に奉仕して、祭りの儀式や神社の事務を行う人のことです」
「そうなのですか?」
アンナの問いに、幸子は静かにうなずき、少し頬を染めた。
「はい、私は巫女でした。昔は子どもたちも多くて、お祭りも賑やかだったんですよ」
幸子は懐かしむように、空を見上げる。
「白装束に赤い袴を着て、神楽を舞ったり、お守りを売ったりしていたのが、つい昨日のことのように思えるんですよ」
幸子は少し目を細めて笑う。
「お囃子が響いてくると、皆が自然と集まってきて、子どもも大人も顔を綻ばせていました」
幸子の声に耳を傾けていたアンナとレイも、どこか懐かしい光景を想像するように、ふと静かになった。
「——では、茂様とは神社でお出会いになったのですか?」
イオナの優しい問いに、幸子は恥ずかしそうに湯呑みに視線を落とす。
「はい、爺さんに惚れてしまいましてね」
「——素敵ですわ」
レイは少し頬を染めて、幸子を見つめる。それに釣られるように全員が、幸子に視線を向ける。
「そのように皆さんに見られると、なんだか恥ずかしくなってしまいますね」
目を背けるように、幸子は裏の畑を覗き見る。
その視線の先には、畑仕事を終え、片付けをしている茂がいた。
背中越しの姿は若い頃の人となりそのままで、あの頃の姿が重なるように見え、目元に微かな皺が寄る。
歳は重ねたが、後ろ姿を見て頬を染めた時の気持ちと、何も変わらない。
「——爺さんも、もうじき来ますよ」
幸子は目を細めて、つぶやくように言い、湯呑みを手に取った。
その手元を、小さな風が優しくなぞった。
幸子の膝に乗せられていた一枚の枯葉が、ふわりと優しい風に舞って、テーブルの上にひらりと落ちる。
アンナとレイ、そしてイオナは思わず枯葉に目を向けた。
その一枚の枯葉が教えてくれた意味を、それぞれが違う立場で愛するひとりの男と重ね、三人は静かに思いを巡らせる。
風は止み、葉はテーブルの端にそっと落ち着いた。
それはまるで、あるべき場所に還ってきたようでもあり、少しの風でテーブルから落ちそうにも見える。
その危うさが、三人の心に不安な気持ちを湧き上がらせる——
表を向いているのか、裏を向いているのか分からない枯葉が、これから何かを告げようとしているようでもあった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月23日、一部修正しました。




