断鎖の決意
滝川が少しずつ落ち着きを取り戻している頃、玄関のチャイムが響いた。
アンナが席を立ち、すぐにイオナを伴ってリビングに戻ってきた。
「こんにちは、滝川様」
「イオナさん……」
滝川は、恥ずかしそうに視線を落とし、ぎこちなく微笑む。
「あら、今日は可愛らしい格好ですね」
「レイさんの服をお借りしました」
滝川は控えめに答えたが、その顔はほんのりと紅潮していた。
「そうですか。それで、滝川様のスマホはどこにありますか?」
レイがテーブルに置かれたスマホを指差す。
「ここにありますわ。うるさいので電源を切っておきましたの」
「さすがはレイ様です。では、滝川様、出発のご準備をしてください」
「あの、どこに行くのでしょうか?」
「私の家で、使用人として働いていただきます。教育期間はひと月ほどです」
「あの……どういうことでしょう?」
滝川は目を見開き、驚きと戸惑いの色を隠せない。
「この状況を見れば分かります。行くところがないのでしょう?」
「はい」
滝川はうつむき加減でうなずいた。
その声には、全ての準備が整っていたことへの理解と、それに頼るわずかな覚悟が滲んでいた。
イオナはふいに部屋を見回す。
「ところで耀様は?」
白々しいイオナに、レイはあえて無表情で、わざとらしく答えた。
「お部屋におりますわ」
「少しお話をしたいのですが——」
「お部屋に行ってみてくださいまし」
「レイ!」
突然、アンナの声が響いた。その声に滝川は思わず身をすくめる。
「アンナは心配しすぎですわ。イオナはここではできない話をしたいのですわ」
「ご明察です」
「アンナがうるさいので、レイが案内しますわ」
レイはソファから立ち上がり、イオナを連れてリビングを後にした。
——相変わらずノックもなく、いきなりレイが僕の部屋に入ってきた。
その後から、イオナが続いて入ってくるのを見て、何か重要な話があるのだと直感する。
「では兄様、少しでも怪しい声が聞こえたら、アンナが飛んできますのでお気をつけくださいまし」
「分かってるよ」
レイはどこか期待に満ちた笑顔を残して、部屋を後にした。
「耀様、おそらく近いうちに厄介ごとが舞い込んできます」
「うん。それは仕方がないかな。イオナは滝川さんをお願いね」
こうなった以上、何もなしで済むはずがない。敢えて伝えに来た真意を直接言って欲しいんだが。
「匿われるのですか?」
「正直……気乗りはしないけど、こうなったら仕方がないよね」
「滝川様の電話は既に不通ですから、事前に知るのは難しいでしょう」
「何とでもなるよ」
何を遠回しに伝えようとしているのか——なんかむず痒くなってくる。
「では、私は滝川様を連れて帰ります」
「ああ、少し休ませてあげて」
「承知いたしました。滝川様にお優しいのですね」
「そうかな?」
「はい。私にも優しくしていただきたいと思っております」
最近、イオナが時折、こうした含みのある言葉を口にすることが多くなったように感じる。
——いや、たぶん、それを言いに来たんだろうな。
部屋を後にするイオナが、一瞬立ち止まり、僕に視線を送った。
それにどう答えるべきか、僕は何も思い浮かばなかった。
——滝川さんがイオナの家で働き始めて一週間、何事もなく平穏な日々を過ごしていた。——いつもどおり長閑な三人での生活。
あれから何も聞かないが、滝川さんはしっかり働いているのだろうか?何も聞かないということは、うまくやっていると考えていいだろう。
そんな僕の優しい心を邪魔するかのように、突然、三人の男が家に訪ねてきた。
玄関の前に立っていたのは、例の会社の常務で相変わらず目つきの鋭い大河内。
その隣には背が低く小太りで、ハゲ散らかした頭の喜多原。
その後ろには、体格のいい男が控えていた。ボディーガードのつもりだろうか。
さらに目を向けると、道路に停められた二台の車の周りには、目つきの悪い男が三人うろついていた。
「相葉さん、困りますな」
大河内は歪んだ笑みを浮かべながら、僕に話しかけてきた。
とぼけるような僕に、さらに話を続ける。
「うちの滝川を、どこにやったんですか」
彼の言葉に合わせるように、喜多原が威圧的に声を上げる。
「お前のような奴に、仕事を回してやると言ってるのに、誘拐のような真似などしやがって!」
誘拐という言葉で空気が一気に重くなる。だが、僕は静かに彼らを見据えた。
「滝川さんは自身の意思で、あなた方から身を隠されました。そのような言いがかりをされても困ります」
「滝川は会社の電話を持ち逃げしてるんだよ」
もう言いがかりもいいところだろう、何を言っているんだこの人は——
「それは警察にでも届け出たらどうでしょう。私に言われても困ります」
「お前、ふざけてんのか?」
突然、喜多原が大声を上げるが、どっちがふざけているのか分からない。
「それはお互いさまでしょう」
僕の一言に、大河内たちは一瞬、言葉を失った。道路の向こうに停まった車も、不気味な静けさを纏いはじめる。
「お前、何を偉そうに話してやがる。身の程を思い知らせてやろうか?」
二人の後ろに控えていた男が、低く威圧感のある声を放った。
それと同時に、車の周りをうろついている三人の視線も、僕に向けられる。
彼らは明らかに普通ではない。目つきや横柄な態度、言葉遣いから、常識が欠落しているとしか見えない。
その様子は、まっとうな商売をしているとは到底思えない。
僕はしばらく黙り込んで、心の奥から湧き上がる期待感を必死に押しとどめようとした。
だが、どうやらそれは無理なようだ。僕はもう自分の意識でこれを抑え込めないのか……
僕は心から湧き上がる何者かに——無理やり微笑まされた。
——耀の瞳が輝きを失った。
「面白い。お前の言う、身の程とやらを俺に教えてもらおうか?」
思わず口から出た煽りの言葉。それは、冷静さを保とうとする自分に反した行動だった。
もう、抑えられない——僕の身体が優しい闇に包まれて、今の僕を夢の中で眺めているようだった。
耀の言葉に反応するように、後に控えていた男が拳を握り歩み出る。
「おい待て。相葉さん、コイツは頭がおかしいから、あまり煽ると怪我をさせてしまうかもしれないよ」
「頭のおかしい人を連れてきてるなら、意地でもあの女を守らないといけないな」
「ははっ、やっぱりここにいるのか」
「ここにはいないな。いるところを知ってるだけだ」
喜多原が勢いづいた様子で、取るに足りない提案を持ち出す。
「お前がうちのプロジェクトに手を貸すなら、滝川を見逃してやってもいいんだ。どうだ、無駄に庇って死ぬよりマシだろ?」
「俺を殺すとでも?」
「どうだろうな?お前次第だろ」
喜多原は優越感に浸ったような不気味な笑みを浮かべている。
「面白いじゃないか。殺すと言うなら殺される覚悟もあるんだよな?」
「なんだと?」
そう呟いた大河内の顔を一瞥した耀は、侮るように見下ろす。
「頭の悪い田舎のガキを相手してるみたいで、楽しくなってきた」
「なめてんのかテメー!」
その怒声と同時に、頭がおかしい男が突然、耀を殴った。
拳が音を立てて当たったが、耀はまるで何事もなかったかのように微動だにしない。
「おい、堂島やめろ!」
大河内が焦って声を荒げる。堂島は一瞬ためらうが、再び耀に向かって挑発的な表情を向ける。
「お前、堂島って言うんだな」
耀が堂島にだけ聞こえる声で、挑発の表情を嘲笑うかの如く呟いた。
「相葉さん、あまり煽ると、私でも止められなくなりますよ。だいたい、なぜそこまでして滝川を庇うのです」
大河内の言葉に、耀は微笑みを浮かべていた。
「可愛いから。それだけだな」
「ふざけてんじゃねーぞ!」
堂島が耀の襟首を掴み怒鳴ったとき、イオナの家にいるはずだった滝川の声が響く。
「相葉様、もういいです。私が会社に戻りますから!」
大河内が滝川を見て薄ら笑いを浮かべる。
「なんだ、いるじゃありませんか相葉さん」
喜多原と堂島が滝川を脅すように取り囲む。
滝川は一瞬、怯むが、すぐに毅然とした表情を取り戻した。
「おい、滝川。戻ったら分かってんだろうな」
喜多原の言葉に、滝川は震える声で応じる。
「好きにしたらいいです。ただ、私はあなた達のしていることを、世間に知らしめます!」
「笑わせるねえ、親を刺した奴の言うことなど誰が信用すると思う?」
滝川を舐めるように見ていた堂島が、にやりと笑って大河内に話しかける。
「大河内、これいい女じゃないか。借りてもいいか?」
その声に、他の三人も舐めるように滝川を見つめ、いやらしい笑みを浮かべた。
「兄貴、俺達にも恵んでくださいよ」
大河内が呆れたような口調で、割って入る。
「堂島、くだらんことを言ってないで、さっさと車に乗せろ」
堂島は無言で滝川の手首を掴み、乱暴に引っ張る。
「や、やめて、離して!」
滝川の激しい抵抗に、苛立った堂島が彼女の腹を殴った瞬間、耀の身体を魔力が包んだ。
それに気づいたレイがアンナに声をかける。
「アンナ、兄様を止める準備はできていますか?」
「大丈夫です。ただ、今のご主人様には少し頭にきています」
「アンナはいつも可愛がってもらっているんじゃありませんの?」
耀は虚ろな視線を向けながら、堂島と喜多原にゆっくりと歩み寄る。
「おい、お前ら何帰ろうとしてんだ。俺を殴った分の治療費を払えよ」
「ふざけんな……」
堂島の言葉はそれ以上続かなかった……
耀は堂島の顔面を鷲掴みにして、そのまま後頭部を地面に叩きつける。
堂島は意識を失い大の字に倒れたまま動かなくなった。
立ち上がった耀と堂島の間に割って入った男が、その体重を乗せて、勢いよく耀に飛び込んだ。
倒れ込んだままその様子を見ていた滝川が、声にならない悲鳴をあげる。
「——笑わせるな」
そう呟いた耀は、目の前の男を蹴り飛ばした。
そして、肩に刺さっていた小刀を抜き、血の滴を振り払ってから、静かに投げ捨てた。
表情ひとつ変わらない耀の視線は、ゆっくりと喜多原に向けられる。
「金出せって言ってんだよ。刺された分も上乗せだな」
そのまま倒れ込んでいる滝川の前まで歩み寄る。
あまりの変貌ぶりに震える彼女を一瞥すると、男たちに声を張り上げる。
「この女は俺のもんだ。勝手に触るな」
「何言って……」
喜多原の言葉を、耀が遮る。
「おい、喋っている暇があるなら金出せ、ハゲチビ……」
そして、足元で倒れている滝川を耀が抱き上げる。
「お前、俺の女だよな」
「えっ、あの……アンナさんが……」
玄関の前から向けられている、冷たいアンナの笑顔が、滝川の心に痛いほど刺さる。
抱き上げた耀は肩から血を流して、輝きのない瞳で見つめてくる。
どう答えても、私は殺されてしまうんじゃないか……
「俺の女だよな!」
「は、はいっ!そうです。そうでした!」
——目の前の恐怖に、滝川は屈した。
その瞬間、アンナからの視線が鋭く胸に刺さったように感じた。
『後で、謝らなきゃ』
耀は喜多原に向かって振り返り、冷たい声で話しかける。
「おい、ハゲチビ。聞いただろ?俺の女に手を出した分は、そこで寝てる死に損ないと、お前から出してもらうぞ」
「何なんだお前……」
横から聞こえた大河内の声に、耀が振り向く。
「お前?——誰に向かって言ったんだ?」
大河内と喜多原は、ゆっくりと歩み寄ってくる耀に恐怖を感じ、顔が引きつっている。
「喜多原逃げるぞ!」
「常務待ってください!」
慌てて足がもつれ転倒した喜多原は、何かを落とした。
それに気づかず車に飛び乗り、意識が戻らない堂島を置いたまま、五人は逃げ去った。
その様子を横目で見つつ、イオナが歩み寄ってくる。
「真由美。なぜ、勝手なことをしたのです?」
アンナとレイも近づいてくる。
「ご主人様、いつから真由美さんを女になさったのですか?」
「兄様?」
返事をしない二人を見ると、顔を近づけて見つめ合っていた。
滝川はすでに心に火を灯された乙女のように、顔を赤らめていた。
その様子を見る、アンナとレイ、イオナは頭を抱える。
「相葉様、ありがとうございます……」
「怪我はなかったか?」
「はい」
「俺を庇おうとしてくれたんだな?」
「はい……」
二人の空間を断ち切るように、イオナが声をかける。
「真由美、いつまで抱かれているのです。先に帰りなさい」
「はい。イオナさん」
耀に降ろされ、帰ろうとする真由美にイオナが耳打ちする。
「後で話があります」
「はい……」
滝川は足早に立ち去った。
立ち去る滝川に目を細めていた耀が、ふいにレイに振り向いた。
「レイ、頼めないか?」
レイは頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向いた。
「イヤですわ。さっきまで真由美を抱いていましたの」
「可愛いな」
レイは頬を染め、耀に向き直った。
「仕方がありませんわ」
レイは耀に歩み寄ると、彼女の前に膝をついた耀に抱きつく。
そのまま肩の傷口に口をつけると、喉を鳴らした。
一瞬レイの身体が小刻みに震えた。
レイは口を離すと、満足そうに小さく息をついた。
「これで治りますわ。兄様、これからどうしますの」
《この身体を返す》
その声はレイの心に直接響いてきた。
レイは耀の胸に頬を寄せる。
『分かりましたわ。今日はお会いできて嬉しゅうございました』
《ああ——》
その様子を見守っていたアンナとイオナが、耀を包んでいた魔力が消えるのを見て、目を見開いた。
レイが離れた後、イオナが耀の顔を覗き込むと、少しぼんやりした表情だが、その瞳には輝きを取り戻していた。
そのまま、イオナが耀の肩に手を添え、話しかける。
「耀様、大丈夫ですか」
耀は少し虚ろな表情のまま、イオナに目を向けた。
「ああ、大丈夫だ。みんな怪我はなかったかい?」
「はい、それより耀様——」
イオナはその肩を見て、目を疑った。
傷口が綺麗に塞がっている。イオナはレイの背中に視線を向けた。
『——あの方は、いったい何をされたのですか』
耀から離れたレイは、アンナの元に歩み寄る。
「レイ、今のはレイがやったのですか?」
「違いますわ。兄様が自身でなさいましたの。レイは少しお手伝いしただけですわ」
「いままではあれほど冷静に振る舞うことはありませんでしたね」
イオナと話している耀を見ながら呟いたアンナに、レイが答える。
「でも、いつも冷静でいるとは限りませんわ」
「そうですね。その時は二人で止めましょう」
レイはアンナの目が輝いていることに気がついた。
「アンナ、分かっていますでしょう?」
「——はい。尋常ではない魔力がご主人様の身体に漲っています」
「スケベモードアンナの出番ですわ」
頬を染めながらも、アンナはため息をつく。
「それよりも真由美さんです……」
「ええ、落ちましたわ。正妻の気苦労は増える一方ですわ」
レイはいたずらっぽい笑顔を浮かべながら、アンナの横顔を見つめていた。
——この静けさの先に、また何が待っているのかを知っているかのように。
ボディーガードに取り押さえられた堂島を一瞥したイオナが、耀に何かを見せる。
「刑事さんにいいお土産ができました」
「それは?」
「落としていった財布です」
「その男と一緒に引き渡せば喜ぶでしょう」
耀は大きなため息をついた。
「また面倒ごとか……」
「真由美も殴られたので、被害届は彼女に出させます」
「それと、耀様これを——」
イオナは手に名刺サイズの紙を一枚持っていた。
「これは?」
「はい、耀様を襲った連中が被っていた、頭巾に書かれていたものと同じ紋様です。このカードの用途は分かりませんが、これは警察に渡さず、預かっておきましょう」
不敵なイオナの笑顔に少し戸惑う耀だったが、その気持ちはすぐに別の方向に向けられた。
——夢の中で見た滝川さん、可愛かったな。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月23日、一部修正しました。




