代償の連鎖
秋も深まる頃、早朝の起床にすっかり慣れてしまった僕は、朝のうちに仕事を片付けて、昼食後は二時間ほどのんびりと過ごすようになった。
今日もアンナとレイと三人で縁側に座り、なんでもない会話を楽しんでいる。
——無駄に見えるかもしれないが、僕たち三人には大切な時間。
「——兄様、枯葉も肥料にできますの?」
「できるんじゃないかな?幸子さんに聞いてみたらどうだろう?」
「最近は、茂様の畑仕事が少なくなったせいか、あまりお見えにならないのです」
三人の頭は会話ではなく、鳥小屋の鶏たちの動きに合わせて揺れている。
「そうか。うちの畑も休ませるといいって言ってたもんね」
「幸子おばあさまのお話を聞けないのは残念ですわ」
「仕方がありませんよ」
秋の心地よい風に舞う庭の枯れ葉を目で追っていたら、こんな時間には珍しく、前の道路から足音が聞こえてきた。
「先日、ご主人様と私の口づけを覗いて帰った女性が来たようです」
「あれは、アンナが見せつけたとしか思えませんわ」
「なんだか、気まずいなぁ」
顔を合わせる前に、足音でアンナが気づいてくれたが、何となく要件は分かる。
「なあ、レイ、断りの連絡はしたのか?」
「はい、少し前にご連絡しましたの。でも、思っていたよりも、来るのが遅かったですわ」
「あとは、レイに任せていいかな」
「はい、兄様はお仕事をなさってくださいまし」
「ありがとう。そうするよ」
滝川さんの対応はレイに任せて、僕は自室に向かった。
滝川が敷地に足を踏み入れるが、その足元には少し迷いが感じられた。
軽く周囲を見回してから、縁側に座っているレイに気がつき、一度立ち止まって深呼吸する。決意を固めたようにゆっくり歩みを進め、レイの前で深く頭を下げた。
「失礼します。レイさん、相葉様はいらっしゃいますか?」
滝川は少し緊張した様子で、周囲を気にしながら声をかけた。
「こんにちは真由美。兄様はお仕事をしていらっしゃいますわ」
滝川は迷ったように視線を足元に落とし、少し口ごもりながらも言葉を続けた。
「あの、相葉様にお話を聞いていただきたいのですが……お会いすることはできませんでしょうか?」
「どのようなお話ですの。内容によっては兄様にお取り次ぎいたしますわ」
レイのあっさりとした対応に、滝川は目を見開き、唇が小さく震えている。
彼女の目には、動揺と戸惑いがはっきりと映っていた。
「あの、相葉様にお会いできないのであれば、私をここで匿ってください」
滝川のその声は、懇願するようにか細かった。
「あら、意外なお願いでしたわ。あなたがここに来るのは、会社の方もご存知なのではありませんの?」
「はい……今日お話できなければ、私には行くところがありません」
滝川の声は次第に暗くなり、よく見ると、その目には涙が浮かんでいる。
「ですが、ここで匿うことはできませんわ」
「そんな……逃げればいいって……おっしゃったのに……!」
レイの冷静な言葉に、滝川はかすれた声を荒げた。
彼女の胸に秘めた覚悟をも、その声に紛れて、風に流されていく。
虚しさだけが残る滝川に、レイが声をかける。
「ここでは無理と申しただけですわ。兄様に相談してみますので、しばらくお待ちくださいまし」
滝川の切羽詰まった様子を見て心配したのか、アンナが口を挟む。
「レイ、先に上がっていただいたらどうですか?」
「そうですわね。アンナ、リビングに案内してくださいまし。レイは兄様に話をしてきますわ」
滝川は、アンナに案内されてリビングへ、レイは耀の部屋へと向かう。
「——兄様!」
レイが僕の部屋に入ってきた。ノックなどせず、いきなり入ってくるのがレイらしい。
「兄様、真由美は兄様に会えないのであれば、匿って欲しいと言っていますの」
イオナの家の使用人にするのは、最終的に彼女が判断するだろうし、僕が口を挟むべきではない。
「それなら、イオナに相談してみたらどうだろう?」
「電話してみますわ」
レイはイオナに電話をかけるが、繋がらないようだ。
「イオナは電話に出ませんわ」
「それなら、僕が会って話を聞くよ」
僕はレイと一緒にリビングへと向かう。
——レイが耀の部屋で話をしている頃、リビングではアンナが、滝川に応対していた。
「滝川さんですね」
滝川は、アンナの問いかけに力のない返事で応じる。
「——はい。すみません、急に押しかけて……」
「いいえ、そちらにおかけください」
滝川はソファに腰を下ろすと同時に、肩を落とした。
その頬に伝う汗を見たアンナは、冷たいお茶を差し出す。
「もうすぐご主人様も来られます」
「あ、あの——アンナさんは、相葉様とご結婚されているのですか?」
うつむいたままの問いかけに、アンナは笑顔で応じる。
「いいえ、私も含め、ここに集まる人たちは、そのような形式は気にいたしません」
意外な返事に滝川は顔を上げ、アンナを見る。彼女は優しく微笑みかけていた。
「ただ、ご主人様を慕い、ご主人様に何かを求めて集まっただけなのに、本当の家族より深く繋がっているように感じます」
滝川は不思議そうに首を傾げる。その意味を感じたアンナは言葉を続ける。
「ご主人様が身体を求めるのが私だけなんです。だから、私は正妻としてご主人様の力になります。それだけです——」
アンナの笑顔に、滝川は戸惑いながらもわずかにうなずいた。
自分を受け入れてくれる、新しい場所を見つけたのかもしれない。——そんな希望を込めて。
——僕はリビングの扉を開き、滝川さんを見る。
アンナと話をしていたのだろうか、少し表情が綻んでいる。
だが、僕の顔を見た途端、覚悟と絶望が入り交じるような表情に変わった。
「お待たせしました。どのようなご用件でしょう?」
ソファに腰を下ろした僕を、覚悟を決めた眼差しで見つめてくる。
その瞳には鋭さすら漂うが、なぜだろう——少し可愛いと思ってしまった。
「相葉様、どうか弊社のプロジェクトにご助成いただけませんでしょうか?」
「なぜ、そこまで僕にこだわるのですか?他にも適任の人はいると思うのですが」
頭を下げる滝川さんに、僕は一般的な疑問を投げかける。
——これは、前に滝川さんが来たときから思っていたことだ。
「それが、袴田様が……相葉様がいなければ、袴田様の会社だけでは手に負えないとおっしゃられていまして……現に進んでいない状況なのです」
「そうですか。それなら余計に協力するわけにはいきません」
ふいに僕に向いた顔には、悲痛な雰囲気が漂う。
こうやって間近で滝川さんの顔を見るのは初めてだけど、すごく可愛い顔をしている。
——でも、レイには敵わないな。
「どうしてですか?袴田様と相葉様は親しいと伺っておりますのに」
「親しいからですよ。僕は悠斗が推してくれたから、御社の仕事に携わることになりました」
「はい、それも伺いました」
僕はうなずいて、ひとつずつ断る理由を話していくことにした。
「それなのに僕は、御社の喜多原部長とトラブルとなり、警察沙汰にもなりました」
「しかし、被害届はもう取り下げて、弊社の誤りだったこともお伝えしたと思いますが」
「でも、あった事実は消えません。その一連の件で既に悠斗には迷惑をかけています。これ以上はできません」
「そのようなことには、ならないと思います」
「いえ、十分になり得ます。御社と僕の関係は最悪です。あの後、僕が避けているのは滝川さんもお気づきですよね?」
「分かってはおりますが……そこを何とかお願いできませんでしょうか」
滝川さんの声はすがるようだったが、僕は静かに首を横に振った。
「お気持ちは分かりますが、協力はできませんのでお引き取りください。ここで匿うこともできません」
滝川さんの顔からは血の気が引き、いよいよ絶望の色を帯びた表情になった。
——僕は何も悪いことをしていない。
それなのに、彼女の顔を見ていると、まるで罪を犯したような気がしてしまう。
隣に腰を下ろし、じっと僕の顔を見ていたレイのスマホが鳴り響く。
一瞬滝川さんの肩が震えたように見えた。——レイは電話に出るためリビングを後にする。
「——私はどうすれば……こちらのお二人と私は何が違うのですか?」
「全然違いますよ。アンナもレイも僕の家族です」
「では、私も家族にしてください!」
アンナが滝川さんの隣に腰を下ろし、彼女の背中にそっと手を添え、優しく声をかける。
「あなたはどうして、そこまでご主人様を頼るのですか?あなたを守ってくれる家族は、いないのですか?」
「——家族は……いません」
「そうですか。先ほどのあなたの言い方ですと、家族は簡単に作れるのではないですか?」
「——すみません」
「いえ、いいのです。少し落ち着きましょう」
その時、滝川さんのスマホが鳴り、着信画面を見た彼女は動揺した表情で、許可を求めるように僕たちを見た。
「——出てもいいですか?」
その言葉と瞳には、どこか救いを求めるような色を含んでいた。
「どうぞ、お気になさらず」
僕の返事を聞いた滝川さんは、スマホを手に取り、震える指で応答した。
だが、電話の向こうの相手に対してひたすら『すみません』と繰り返すばかり。ただ、その謝罪のたびに、彼女の顔からさらに血の気が引いていくのが、はっきりと見て取れた。
滝川さんのあまりの動揺に心配をしていると、電話を終えたレイが、リビングに戻ってきて僕に耳打ちする。
「兄様、二時間ほどでイオナが来ますの。それまで真由美をここで待たせて欲しいそうですわ」
「ああ、分かったよ」
僕たちは、電話の相手にひたすら謝罪を繰り返す滝川さんを、言葉もなく見つめた。
「ぅうっ、うー!」
小さなうめき声とともに、電話を終えた滝川さんが、突然、目の前で嘔吐した。
咄嗟に口を手で覆ったものの、服も周囲もひどく汚れてしまった。
アンナが滝川さんの背中をさすり、声をかける。
「大丈夫ですか」
「……す、すみません。ご迷惑をおかけしました。今日は失礼します」
立ち上がろうとする滝川さんを、アンナが引き止める。そして僕に視線を移した。
「ご主人様、お席を外していただきたいのですが」
「大丈夫かい?」
「はい、きっと今は殿方に見られたくないお気持ちでしょう。それに、お着替えも必要ですから」
アンナとレイに任せるのが一番いいだろう。心配ではあるが、ここに僕の出る幕はない。
「任せるよ。僕は部屋にいるから」
僕は静かにリビングを後にして、部屋に戻る。
リビングを出る耀の背中を見送った後、アンナが滝川に声をかける。
「真由美さん、かなり責められているのですか?」
親しみを込めたように、名字ではなく名前を呼ばれて、滝川の目から涙がこぼれた。
「はい、何度も何度も『相葉を連れて来い』と言われて、会社を出ても相葉様に断られるのが怖くて——何日か駅のトイレに隠れたりしていました」
「思っていたより来るのが遅かったのは、そういうことでしたの」
滝川は黙って小さくうなずいた。
「とりあえず、シャワーを浴びてきてください。服はレイのものをお貸しします」
アンナの勧めに、レイも言葉を合わせる。
「そうですわ。たぶんサイズは合いますの」
「いえ、そこまでしていただくわけには」
遠慮する滝川に、アンナは諭すように問いかける。
「帰るにしても、そのままでは無理でしょう?」
「レイもそう思いますの。それに、イオナが来ますので、それまでお待ちくださいまし」
「さあ、行きましょう。真由美さん」
アンナに手を引かれながら、滝川は小さく、けれど確かにうなずいた。
案内された浴室で、滝川は泣きながらシャワーを浴びていた。
「——私は……どうすればいいんだろう……」
「お二人は優しくしてくださった……もう、これ以上迷惑をかけたくない……」
「——私なんか、このまま……消えてしまいたい」
シャワーの音にかき消されるような小さな声でそう呟きながら、滝川さんは嗚咽を漏らし、涙を流し続けていた。
少し曇った鏡の向こうに映るのは、誰にも認めてもらえなかった自分の姿——それでも、この家の不思議な温もりの中で、少しだけ泣けている気がした。
「——よく似合っていますわ」
レイ好みの可愛らしい服を着てリビングに戻ってきた滝川に、レイが笑顔で声をかけた。
「真由美さんはどこに住んでおられるのですか?」
冷たい水を滝川に差し出しながら、アンナが問いかけた。
「会社の寮に住んでいます。寮の管理もしていますので……」
「それでは、ずっと仕事しているようなものですわ」
滝川は悲しそうな笑顔を浮かべて、小さくうなずいた。
「はい、ゆっくり休むこともできません。怖い方が多いので」
「——男性も一緒ですの?」
「はい、住むところを借りられない人が多いので、ほとんどが男性です」
「なぜ、そこまでその会社で仕事をするのですか?」
アンナのストレートな問いに、滝川は少し戸惑った様子を見せたが、意を決したようにぽつりぽつりと話し始めた。
「——私は、両親を殺そうとして……刑務所に入っていました」
思わぬ話に、アンナとレイは黙ってうなずき合う。静かに聞こうという暗黙の合図——
「出てきても仕事をするところがなくて、唯一雇ってくれたのが今の会社なのです」
「——そうでしたの」
「少しパソコンを使うことができたので、事務職として採用され、喜びましたが——実際は休みなく働かされる雑用係でした」
「——それは見ていれば分かりますわ」
しばらくの沈黙が、話の終わりを告げ、アンナが滝川の肩をそっと抱き寄せた。
「ご両親はご健在なのですか?」
「はい。ただ、私は両親を包丁で刺しましたので、勘当されてしまいました」
「気を悪くしないでくださいまし。——なぜ、刺しましたの?」
「——暴力に耐えかねました」
滝川の声は震え、握り締めた手にぽたりと涙が落ちた。
——たった一度、我慢できなかっただけで、人生を狂わせたことへの後悔。
——今の自分の状況をどうにもできない悔しさ。
——二人の優しさに何もできない虚しさ。
ひと粒の涙に彼女のいろいろな想いが混ざり合っていた。
「兄様のようですわ」
「はい、ご主人様と同じです」
アンナとレイの脳裏には、耀の記憶が蘇っていた。
二人の言葉を聞きしばらくうつむいていた滝川が、何かに気づいたように目を見開き、驚いた表情で顔を上げる。
「どういうことですか?」
「ご主人様もお許しになると思いますので、お聞かせいたしましょう」
アンナは滝川の肩を抱き寄せる手に、聞く覚悟を求めるように、少し力を込めた。
レイの目を見たアンナは、小さくうなずいた。
——耀の過去を語ることは、簡単なことではない。でも、それでも滝川には伝えるべきだと二人は思っていた。
そして、耀の幼少期の話をはじめた。
家族全員から日常的に暴力を振るわれ——
わずかな楽しい思い出の最後は、全て暴力で幕を降ろされ——
友達はひとりもおらず、学校にも行かなくなり——
家族に怯え、家族からも避けられ——
ひとり孤独にぬいぐるみや、蛇と会話する日々——
唯一の救いは、名前も知らない老人と過ごす時間——
その中で感情を表情に出せなくなり、そのまま大人になった——
「相葉様にそのような過去が……」
涙を浮かべて震える真由美を、アンナが胸に抱きしめる。
「そうです。私も知った時には泣いてしまいました」
「兄様は翌朝、死にそうになってしまいましたの——気の毒でしたわ」
テーブルの上で再び着信音が鳴った。滝川が震える手をスマホに伸ばそうとした目の前で、レイがスマホを取り上げて切ってしまった。
「レイさん……」
「まだ、話は終わっていませんの。これは邪魔でしかありませんわ」
レイはそのまま、スマホからSIMカードを抜き取る。
「これで安心ですの」
「そうですね。もう少し話をいたしましょう」
そう言って、再び滝川をアンナが抱きしめる。
——なぜか艶めいた吐息を漏らしながら。
「アンナ、真由美を離してくださいまし。話ができませんわ」
アンナはつまらなそうに、滝川を解放する。
——その滝川の視線はアンナの大きな胸に向けられていた。
その後、仕事の話は一言も出ることなく、女性三人の世間話に花が咲いた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月23日、一部修正しました。




