表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/137

内緒の合意

朝の支度を終えてリビングに入ると、バターの溶ける美味しそうな香りと、まな板からのトン、トンという心地よい音が聞こえてくる。

すっかり当たり前の日常になったが、考えてみれば幸せな日常である。

その幸せが溢れる空間のソファでは、レイが可愛い顔の眉間にしわを寄せて、テレビを観ていた。


「レイ、おはよう。何をじっと見てるの?」

「あっ、兄様(にいさま)、おはようございます。テレビを観ておりましたの」


うん、それは分かる。——でも、そんな可愛い顔で言われると、許せてしまう。


「何か気になることがあるのかな?」

「なぜか、みなさんが戦っているのが多いので、不思議に思っておりましたの」


確かに、各地で起こっている戦争や紛争のニュースが目立つが、それだけが起きているわけではない。明るい話題もたくさんある。


「どうしても、センセーショナルな映像が多くなって、目に留まるし、印象に残りやすいから、報道する側も扱いやすいんだろうね」

「そうなんですの?この世界は戦いに明け暮れているようにしか見えませんわ」

「そう思われても仕方がないのかな」


何でもない平穏な朝に、いつもと変わらないレイの目に映る、非日常的な映像。

——ついこの間まで、テレビを知らなかったレイは、何を思っているのだろうか。そう考えると、アンナやレイには、この世界がどんなふうに見えているのだろうか?

思えば、二人には助けてもらってばかりだし。——そうだな、三人でゆっくり話をする機会を作ってもいいかな。

微笑ましくも、感慨深い朝を噛み締めていると、キッチンで朝食の準備をしているアンナの声が届く。


「ご主人様は、あまりテレビをご覧になりませんね」


アンナとは目覚めと同時に、ベッドで挨拶を交わしたが、その時とは違う落ち着いた笑顔を浮かべている。


「うーん、あまり興味をもてないだけかな」

「どうしてですの?」


もう飽きたのだろうか、レイもテレビを観ずに僕を見ている。


「どうして?強いて言えば情報が溢れかえってるから、かな……」

「でも、こうやって映像で見られることは、素晴らしいことですわ」


映像が切り替わり、バラエティ番組でも見かける顔が、まるで専門家のように語り始める。


「確かにそうだね。でも、僕が欲しい情報はこんな知識人気取りの人の話にはないんだ」


アンナが困ったような表情をしている。考えてみれば、アンナはどのような報道にも興味を示さないな。


「だってそうだろう?同じ報道にもSNSでは、もっといろんな意見が出てるじゃないか」

「確かにSNSは凄いことになっていますわ」

「SNSは読み飛ばすこともできるけど、テレビは飛ばせないからね」


レイはテレビを見ながら、不思議そうに首を傾げている。

アンナもテレビに視線を向けて、首を傾げ、僕に問いかける。


「この世界の人たちは、争いを好むのでしょうか?」

「分からないけど、そうではないと信じたいな」

「そうですわ。人間がみんな兄様のように優しい方ばかりだといいと思いますの」

「僕は優しくないよ。この間だって……レイも怖かったんじゃない?」


僕は襲撃された時のことに話題を向けた。

実のところ、夢のような記憶しかなく、自分でも分からないことが多いから、記憶補正の目的だったりする。


「確かに……あの時の兄様は怖いと思いましたの。でも、レイには優しいですわ」

「レイだから優しくなれるんだ」


レイが少しうつむき加減になり、肩をすくめて、照れ臭そうにはにかんでいる。


「ご主人様。私には優しくなれないのですか?」


——おっと、言葉の選び方が悪かったようだ。


「アンナとレイだから優しくなれるんだ」


取ってつけたように言い直したが、アンナは機嫌を直したようで安心した。

僕はレイの隣に座り、何気なくそっと髪を撫でた。振り向いた彼女は僕の目をじっと見つめてくる。

心の奥まで見透かされるのではないか——まるで何かを探るように見つめ続けている。

レイはさらに覗き込むように顔を近づけた。まばたきひとつせず、見つめられると、なぜだろう、少し不安になってきた……

レイの身体(からだ)が触れた瞬間、胸の奥から、何かが静かに湧き上がるのを感じる。驚きに思わず身体が強ばる。

僕の異変に気付いたのか、レイは柔らかな微笑みを見せてくれた。


『——見つけましたわ、兄様』


レイの心の呟きは誰にも届かなかった。——耀の心の深淵で、その微笑みを受け取った存在以外には。

ソファに座り直したレイが、突然、何かを思い出したように、可愛い手を小さくパチンと打った。


「兄様、イオナが兄様に話があると言っていましたわ」

「えっ、電話してくれたらいいのに」

「兄様への連絡はレイが取り継ぎますの」


そう言うと、レイは小さく頬を膨らませ、ぷいっと顔を反らした。

そんな彼女に、そっと感謝の言葉をかける。


「そうか、ありがとう、レイ」

「何でも、グラインドテック社の話だそうですわ」


先日、滝川(たきがわ)さんも来ていたし、何かしらの話はあると思っていたが、意外と早かったな。


「じゃあ、朝ごはんを食べたら、イオナの家に行ってみるよ」

「そうしてくださいまし」


僕の言葉に、レイは小さくうなずきながら、スマホを取り出した。

イオナに連絡をしているのだろうが、その指先は、どこか楽しげで、どこか誇らしげでもある。

テレビに映されている映像と、知識人気取りの素人、匿名を盾に溢れる無責任な情報。

そんな、外での現実があの時の夢と同じように感じられる。

朝を知らせる美味しそうな香りと、アンナがキッチンで奏でる軽やかなリズム、目の前で楽しげなレイの表情。

——そんな現実の中にいる僕が見る、現実ではあるが実感のない夢のようだ。


賑やかな朝食を終え、玄関先まで見送ってくれたアンナに、何度も気をつけるように言われた。

挙句の果てには抱きしめられて、離してもらうのに苦労した。なにせ、アンナの心を少しでも逆なですると、僕を抱く腕に力が入る。

ようやく外に出て、道路まで歩み出ると、先日のことが頭をよぎった。


——アンナの怒りに満ちた表情は、想像すらできなかった。でも、夢のような映像の中の彼女の表情は、しっかりと目に焼き付いている。

僕がいることで、二人にはつらい思いをさせた。彼女たちには僕が必要なのも分かる。

ふと、『僕がいなくなれば——』そんな想いが頭をよぎる。でも、それは、さっき抱きしめてくれたアンナの胸の温かさに否定された。

考え込むのは良くない。今は彼女たちとの今を大切にしていこう。きっとその先に答えがあるだろう。


イオナの家の駐車場には、いつもの高級車が停まっている。運転手は見当たらないが、イオナは家にいるだろう。

インターホンを押すと、突然玄関が開いて、いつものクールなイオナが出迎えてくれた。

しかし、押してすぐに扉が開くと、インターホンの存在意義について考えさせられる。


「耀様、ご連絡いただければお伺いいたしましたのに」

「おはよう、イオナ。いや、隣なんだし来たほうが早いだろう。それに、わざわざレイに連絡したところをみると、この方が良かったんじゃないか?」


僕の言葉に、わずかな笑みを見せたイオナがリビングに案内してくれ、洗練された手際で紅茶を淹れてくれた。

カップに注がれた紅茶は淡い琥珀色で優しい香りが立ちのぼった。その美味しさは素人の僕にでも分かったほどで、イオナの教養の深さを垣間見た気がした。

そういえば、レイの淹れるお茶も、日に日に美味しくなっている。

そして、目の前に腰を下ろしたイオナは、静かにカップから立ち上る湯気を見つめている。

僕もこの静けさに身を任せ、この沈黙の中に、確かに滲んでいる何かを感じ取っている。

音もなくイオナが手に取ったカップに口をつけ、ふっと息を吐いたのを見て、僕は話を切り出す。


「ところで、話があるとレイから聞いたんだけど」

「はい。先日滝川様とお話しした後、少しあの会社のことを調べてみました」


イオナは紅茶をひと口含み、話を続ける。


「——どうやら反社との関わりが深いようです」

「あー、何となく分かる気がするよ」


あの会社の雰囲気は普通じゃない、無駄に体育会系を引きずっているというか……僕には馴染めない。


「そこで、滝川様には正式にお断りしようと思っていますが、耀様のご意見をお伺いしたくて」

「別にいいんじゃない?断って」

「そこで、滝川様個人の問題も絡んでくるのです」


当然のように話されたが、滝川さん個人の問題が、僕にどう関係あるのか分からない。


「ごめん、意味が分からないんだけど」

「そうでした。耀様はアンナ様との接吻に夢中で、聞いておられなかったことを失念しておりました」


イオナは、さらっと毒づくよな。


「それは、嫌味を言われているのかな?」


イオナがいつもの冷静な表情で、僕に視線を向ける。


「はい。ご明察です」


一息おいて、イオナが話し始めた。


「正式にお断りを入れると、おそらく滝川様はまた耀様のご自宅にいらっしゃいます。どうやら、袴田(はかまだ)様という方が耀様がいなければ、進まないと強く訴えているようです」

悠斗(ゆうと)か。元々、あの会社の仕事を請けたのは、あいつが強く推してくれたからなんだ」

「では、お断りしにくいのでは?」


僕は小さく首を横に振る。


「その逆だよ。あいつが推してくれた仕事で、僕はトラブルを起こした。だから、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないんだ」

「そうなのですね。では、滝川様への対応はいかがいたしましょう」

「レイの意見は?」

「兄様にお任せしますわ。との事でした」


お任せされても困るのだが。そもそも僕が何かをしないといけない理由が分からない。


「あのさ、根本的な話になるけど、僕が滝川さんをどうにかしないといけないのか?」

「耀様がいい返事をくれるまで、何度でも足を運ばれます」


確かに十分ありえる話だ。


「イオナから貰った仕事で、今は手いっぱいだし、頻繁に来られると困るんだけどな」

「それなら、接吻などといった生やさしいものではなく、アンナ様との行為を見せつけてはどうでしょうか?」


僕はイオナの顔をじっと見つめる。涼しい顔をしているが、今日の態度からして、何か含むものがあるんだろう。


「なぁ……イオナ」

「はい」

「——僕にどうしてほしい?」

「滝川様ですか?」

「イオナだよ」


イオナはティーカップを静かに置き、背筋を正した。そして、ほんの一瞬、言葉を探すように視線を伏せる。


「耀様。包み隠さず申し上げます。私は……耀様を、誰よりもお慕いしております」


息を小さく吸い、決意を込めるように顔を上げたイオナ。その瞳は、凛とした静けさの奥に、かすかな揺らぎを湛えていた。

信じたい──けれど、拒まれるかもしれない、そんな微かな震えが、長いまつげの陰に隠れている。


「時には、そう……少しだけ、甘えてしまっても、構いませんでしょうか?」


いつかそうなるとは考えていたが、思わぬタイミングで出てきた告白に、少し戸惑ったが、僕には思い当たることがあった。


「——レイとは申し合わせ済みだな」

「はい」


僕は、紅茶を飲み干し、イオナに向き直した。


「僕に関わるとトラブルに巻き込まれる。アンナとレイは、僕の力が必要だから、ある程度は仕方がないと思っている。あれでも護衛だしね」

「はい」

「でも、イオナは違う。主人であるダンタリオンの命であるとは言え、社会的な地位もあって、僕がいなくても生きていける」

「つまり、巻き込みたくないと?」


僕は大きくうなずいた。


「それに、純潔を守らないといけないんだろ?」

「そうですが……甘えるくらいは許されると思います」

「僕も男だし、我慢ができなくなるかもしれない」

「それは私を……?」

「——とても、魅力的だと思っている」

「分かりました。そこを何とかすればいいのですね」


何をどう何とかするのかは分からないが、まぁいいだろう。僕の意思は伝わったはずだ。


「まぁ、そういうことだ」

「分かりました」


イオナもうなずいてくれたから、納得したのだろう。そして、再び真剣な顔でカップに目を落とし、話し始めた。


「では、話を戻しまして、滝川様の件はいかがいたしましょう?」


いかがいたしましょうと聞かれても、どのような事態を想定しているのかも分からない。


「どういう選択肢があるか分からないんだ」

「確かに、選択肢がないと言った方が正しいかもしれません。ただ、無駄に曖昧な態度を取るのは悪手ですので、何かしらの対応は必要です」


僕の思いは伝えたし、こうして自宅に呼んだことから考えると、イオナには腹案があるのではないだろうか?


「イオナはどう考えてる?」

「実は、滝川様をこの家の使用人として、住み込みで雇用しようかと考えております」

「たぶん策はあると思っていたが、意外だったな」


イオナが僕のカップに紅茶を注ぎながら、話を続ける。


「この家には、女性の使用人がおりませんので、以前から探しておりました」


ティーポットが机を優しく叩き、コツンと小さな音を響かせ、上質なひとときを演出する。


「先日お話しした感じでは、芯の強さと礼儀正しさを持ち合わせており、使用人に向いているのではないかと考えていました」

「それは、イオナが決めればいいと思うけど」

「ただ、滝川様は既に精神的に追い詰められていると思われます」


訪問直後にいきなり土下座するくらいだ、相当に追い詰められているのは、僕にも分かる。


「あの会社から早めに引き離さなければ、使用人として雇うのが難しい状態になるかもしれません。しかし、早めに手を打つなら、滝川様をあの会社から隠さなければいけません」

「どうして?あっ、あの会社なら探すか」

「そのとおりです。おそらくあの会社にとって重要かつ、使い勝手のいい人材と思われます」


その使い勝手の良さをイオナは見抜いているからこそ、使用人にと思ったんじゃないのか?

イオナの胸の内は、凡人の僕には理解し得ないところが多い。でも、悪い話ではないと思う。


「ここに住み込むんだったら大丈夫なんじゃないのか?この家は、僕の家より安全みたいだし」

「匿うのは簡単だと思いますが、問題はその後です」


イオナは優美な所作で紅茶を口に運び、静かにカップをソーサーに戻した。


「匿うのは、耀様に会いに来られたタイミングになると思います。ですから、あの会社から耀様に接触があるかと」


なるほど、彼女を匿うことが、僕を揺さぶるネタとなり得る。彼女はそれをも見越して来たなら——

勘繰りだしたらきりがないな……他人の気持ちを敏感に察するレイに、任せた方がいいだろう。だが、もし、彼女の意志が離れたいと願うなら、それを手助けしたほうが良さそうだ。


「分かったよ。その時は、レイと僕で対応する」

「お任せしてもよろしいのでしょうか?」

「ああ、大丈夫だろう。それに、あの会社から接触があったら、知らせてほしいと警察からも言われているんだ」

「分かりました。では、後ほどレイ様と相談して、滝川様にお断りの連絡を入れます」

「うん、レイとイオナになら安心して任せられるよ」


イオナの表情が少し綻んだ。その表情は、どこの会話についての表情だろうか?


「それと、知らせてほしいとおっしゃった警察の方の、お名前を教えてくださいませんか?」

「名刺をもらっているから、帰ったらメールで送るよ」


レイではなく、イオナが僕にこの話をしたのは、事前にイオナがレイに相談したのだろうが、二人の考えが分からない。

まぁ、二人が仲良くしてくれているなら、それでいいと思う。

ほっとため息をつき、顔を上げると、イオナが今までとは違う空気をまとい、真剣な表情で僕を見つめていた。


「——耀様、もうひとつお話があります」


これで終わるわけがないか——恐らく、ここからの話が、今日の本題だろう……

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。


2025年9月21日、一部修正しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ