滝川さん
お昼ご飯を食べて、レイと縁側でのんびり過ごしている。
柔らかな秋の日差しが庭に降り注ぎ、木々の間を通り抜けた風が、時折、レイの髪を揺らしている。
——今は、こうして少し立ち止まることも必要なんだろう。
そう、自分に言い聞かせながら、ゆっくりと流れる時間を味わうしかない。
「兄様、近頃は涼しくなってきましたの」
ぼんやり鳥小屋を眺めながら話しかけるレイに、僕も鳥小屋を眺めながら答える。
「そうだね——暑さが去って、仕事もさっぱりなくなった」
「あの騒動はおさまったのに、どうしてですの?」
「まぁ、疑わしい人には近づきたくないんだろうね。僕程度なら、代わりはいくらでもいるしさ」
「困りましたわ……」
足元の小石をついばみながら、鶏たちは時折小さな羽ばたきを見せる。
秋の風に乗って、庭の草木もかすかに揺れ、そのざわめきが耳に心地よく響く。
昼下がりの庭は、まるで世界から取り残されたかのように、静かだった。
「まぁ、いいんじゃないか?アルバイトでも探してみるよ」
僕もレイも鳥小屋を見つめたまま、流れる時間にぼんやりと身を任せる。
こうやって、何かをついばむ鶏を眺めていると、なぜか無心になれるのが不思議だ。
レイと縁側で静かな時間を過ごしていると、ふいに声が聞こえて振り向く。
「耀様、こちらにいらっしゃったのですね」
いつの間にか来ていたイオナが僕たちを見つけたようで、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「イオナ、今日はどうしましたの?」
レイの声に、イオナはにこりと微笑むと、僕の前に立ち止まった。
「いえ、耀様にお願いがございまして——」
「——僕に?」
なんだろう?ちょっと考えるだけで、いろんな用件が思い当たる。
「私の仕事を手伝っていただけないでしょうか?」
意外な内容で、少し驚く——まぁ暇なら売るほどあるし、聞いてみるだけ聞こうか……
「構わないけど、どんな仕事?」
「こちらをお読みいただければ」
イオナに手渡された資料に目を通してみる。
意外なことに、僕が最も得意としている内容だ。
「ざっと目を通したけど、手伝えそうだよ」
「ありがとうございます」
「僕の方こそありがとう。仕事がなくてさ——」
「詳細はメールでよろしいですか?」
「それでお願いするよ」
ふと思うのだが、イオナはどれくらいの事業に関わっているのだろうか?
聞いたところで、僕のような庶民には理解できないかもしれない。
「イオナは、どれくらいの事業に関わっているんだ?」
イオナは首を傾げて答える。
「ひとつですけど——」
「意外だったな、いろんなことをやっているんだと勝手に思ってた」
「いえ、以前からひとつだけです」
イオナは僕に微笑んで、話を続けてくれる。
「いろんな人が、いろいろ考えて、勝手に事業は広がりましたが、私は関わっていません」
「そんなもんなんだ——」
「そんなものです」
そんな話に興味がないレイは、足をぶらぶらしながら、周囲を見回している。
「兄様、あの方は?」
駐車スペースの前でこちらを窺っている人影に気づいて、声をかけてきた。
レイの視線の先に目を向けると、遠慮がちにこちらを窺っている女性がいる。
「滝川さんだったかな?」
「——そうですわ」
「相葉様!」
滝川さんは僕に気づくなり、小走りで目の前までやってきた。
「どうされたのですか?こんなところまで……」
滝川さんは僕の言葉を最後まで聞かずに、突然、庭に膝をつき、僕に向かって土下座をした。
「相葉様、助けてください!」
「ちょっと、頭を上げて!」
僕は慌てて声をかけたが、滝川さんは地面に頭を付けたまま動かない。
「どうやら込み入った話のようですわ。中に上がってくださいまし」
レイが静かに促し、リビングに通すと、なぜかイオナも一緒についてきた。
リビングのソファに腰掛けると、滝川さんは落ち着かない様子で、部屋を見回している。
「どうぞ……」
「——あ、ありがとうございます」
滝川さんは、お茶を持ってきたアンナの体格に驚いたような顔を見せる。
この二人の身長差は五十センチ以上あると思うし、アンナの冷たい視線も十分な威圧感を与えたようだ。
「ご主人様、ちょっと……」
「アンナ、ちょうど良かったですわ。この方はレイとお話がございますの。兄様はお散歩にでも行ってくださいまし」
アンナの冷たい視線がまたたく間に柔らぎ、表情が華やぐと同時に、僕の手を取る。
「そうでしたか。ではご主人様、お邪魔にならないようにお外に行きましょうね」
アンナに手を引かれ、僕はリビングを後にする。まるでダメな子供扱いだ。
耀が出ていった扉に向かって、滝川は手を伸ばし呟く。
「あ、あの——相葉様にお話を聞いてほしくて……」
「あなたのお相手はレイで十分ですの。兄様とのお話はまだ早すぎますわ」
滝川の背中にレイがかけた声に、イオナも応じる。
「では、私もお聞きしておきます。レイ様よろしいでしょうか?」
「イオナがいてくれると心強いですわ」
小さくため息をつき振り返った滝川に、レイは話を促す。
「それで、今日は何の話ですの?」
「先日の話の続きになってしまいますが、どうしても相葉様にシステム修正に加わって欲しいのです」
滝川は深々と頭を下げる。
「——お願いします」
「それはお断りしたはずですわ」
滝川の頼みを、レイはきっぱりと拒否する。
「それが、袴田様という、相葉様と元同僚だった方が、相葉様の協力がないと難しいとおっしゃいまして、社内でも議論したのですが、袴田様の話は筋が通っており、今日、相葉様にお願いに伺った次第です」
「それがどうかいたしましたの?」
「相葉様を外した弊社が間違っておりました。どうかお願いします」
再度、深々と頭を下げる滝川に、イオナが話しかける。
「滝川様でしたか?耀様は御社の弁護士が提出した被害届のおかげで、迷惑を被ったのですが、その件についての謝罪はないのですか?」
「その件は、弊社の調査が不十分だったにもかかわらず、役員会で決議されて、被害届の提出に至ってしまったことをお詫び申し上げます」
「では、なぜその決議をした役員が、ひとりもこの場にいないのですか?」
「それは……」
押し黙った滝川を、レイとイオナが静かに見つめ、言葉を待つ。
ただ沈黙するだけとなった部屋で、レイは小さくため息をつき言葉を紡ぐ。
「押し付けられてきたのですわ。兄様を連れてこいと言われてきたのではありませんの?」
ただ黙ってうつむいてしまった滝川に、イオナが返答を促す。
「どうなんでしょう、滝川様?」
「——そのとおりです」
うつむいて一言だけ呟いた滝川に、レイは優しい視線を向ける。
「あなたの顔を立ててあげたい気持ちはありますの」
わずかな希望に、顔を上げた滝川に、レイは言葉を続ける。
「——ただ、兄様はとても大きい会社から大きな仕事を請けられて、それどころではありませんわ。ねえ、イオナ」
「はい、耀様はインテルナグローバルパートナーズ社の仕事を請けられて、他まで手が回らない状況です」
「インテルナグローバルパートナーズ社って、投資銀行の?」
同時にうなずいたレイとイオナを見て、滝川は一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐにその結果を理解し、顔を伏せた。
「そうですの。兄様の仕事を評価されて、お仕事の話がきましたの。あなたの会社のおかげで、仕事を失っていたので、喜んで請けられましたわ」
「はい、既に契約金も受け取り済みで、今さら断ることはできません」
「——そんな」
レイとイオナの話は半分以上嘘だったが、滝川を諦めさせるには十分すぎる内容だった。
滝川は伏せた顔から血の気が引き、肩を落として小さく震えていた。
「——何とかなりませんか……」
かろうじて声になった言葉を聞き、レイはただ静かに首を横に振る。
「そんな……私……どうすれば——」
部屋の空気に溶けたその声は、静寂を招き入れる。
小さな音を残して、カップを手に取ったレイが、滝川に声をかける。
「そもそも、あなたは大きな間違いをしておりますわ」
そう言ってカップに口をつけるレイに、滝川は顔を上げる。
「——私がですか?」
力のない問いかけに、イオナが答える。
「はい、滝川様は間違いを犯しております」
「——そうですよね……ここに来たのが私ではいけませんでしたよね」
「それは違います」
諦めの中に絶望感すら漂わせる滝川の言葉を、イオナがきっぱりと否定した。
滝川の瞳に映っているレイも、微笑んでうなずいた。
「会社は人を潰すための組織ではありません。それなのに、あなたは自ら潰されようとしています」
「そうですわ。あなたがその会社にいなければいけない理由を教えてくださいまし?」
「それは……」
再び声を詰まらせうつむいた滝川に、レイが話を続ける。
「兄様もあなたの会社に潰されそうになりましたわ」
「そのような会社で働き続ける理由を教えてください」
イオナにも問いかけられ、滝川はうつむいたまま話し始めた。
「いやと言えないんです。やめると言えば恫喝され、過去の話を掘り返され責められる」
膝に置かれた滝川の手は、小さく震える。恐怖と悔しさが入り交じっているのだろう。
「今日だってそうなんです。断れば『はい』と言うまで、延々と話をされるのが目に見えていました——」
「では、兄様に断られたと言えばどうなりますの?」
レイの問いかけに、滝川は震える声で答える。
「私が——責められます」
うつむいたままの滝川に、レイは笑顔を向ける。
「逃げればよろしいですわ」
「そうですね。つらくなったら逃げるのもひとつの手段です」
「私には行くところがありません……」
「それは何とかなりますわ。ねえ、イオナ」
「はい、レイ様のおっしゃるとおりです」
イオナは滝川に身体を向き直すと、話を続ける。
「滝川様、踏み出さずに弱音を吐くだけなら、誰にでもできます。それを他人の責任に転嫁するのも簡単です」
少し首を傾げて、滝川の様子を見る。
「でも、あなたは強い方のようですから、その先に進むこともできるはずです」
『——そうできるのなら、そうしたい。でも、こんな自分に手を差し伸べてくれる人はいないはず』
滝川は胸の中で、そう呟いた。
「そうですわ!」
レイが何かを思いついたように、スマホを手に取り滝川に見せる。
「レイは兄様にスマホを買ってもらいましたの。あなたと連絡先を交換したいですわ」
「連絡先——ですか?」
不思議そうに聞き直す滝川に、レイは笑顔で応じる。
「あなただけに教えますの。これで完全に断られたわけではありませんわ」
「そうですね。レイ様が耀様を説得してくださるかもしれません。悪い話ではないと思います」
イオナの言葉が耳に届くと同時に、滝川の表情に明るさが戻る。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
「ちなみに、そのスマホはご自身のものですか?」
滝川が取り出したスマホに、目を向けたイオナが問いかける。
「はい、会社から支給されるのは役員だけです」
それを聞いたイオナは、小さくうなずいた。
「あの……」
そう言いかけて、滝川は口を噤んだ。
「どうしましたの?」
「相葉様は、協力していただけますでしょうか——」
結果は分かっていても、不安にかられて思わず口にした声に、レイが答える。
「恐らく無理ですわ」
だが、滝川は顔を伏せることもなく、少し微笑んだ。
「そうですよね。普通に考えれば分かります」
「では、なぜ聞きましたの?」
滝川はレイに笑顔を向けて答える。
「それが普通だと思うんですけど、会社の人たちはそう思っていないんです」
「どのように考えておられるのですか?」
イオナの問いかけに、困ったような笑顔で答える。
「嫌がらせみたいなことをして、自分たちの意見を通す。今までもそうやってきたようで」
「それなりに大きな会社ですから、何か勘違いなさっているのでしょう」
イオナの言葉に、レイは少し口調を荒げる。
「意見は通るかもしれませんわ。でも、心はついてきませんの」
「確かにレイ様のおっしゃるとおりですが、時には結果を求めるための手段とされることもあります」
「結果重視ですの——」
少し寂しそうな表情を浮かべるレイに、イオナは黙ってうなずく。
「それは、そうでしょうね——私も似たようなことをしたことがあります」
滝川はぼんやりと話を聞いていた……別に二人の話を聞きたいわけじゃなかった。
何となく感じるこの部屋の温かさ、ここにできるだけ長く留まりたい——
「ここは不思議なところですね」
思わず呟いた滝川に、イオナが同意する。
「不思議ですか——確かにそうです」
「はい、なぜか心が落ち着きます」
レイが胸を張る。
「当然ですわ。兄様の優しさに惹かれた人たちが集まっておりますの」
「やっぱり優しいんですね。温厚な方だとは思っていましたけど」
「そうですね。それでいて、耀様はいざとなると頼りになる」
イオナの言葉に、滝川は少し驚いた表情を見せた。
「へぇー、意外でした。相葉様は、頼りになるんですか?」
「はい、それはもう——別人になったかのように……」
レイとイオナは顔を見合わせ、笑い合う。
そんな二人を見て、滝川の心に温かいものが湧き上がった。
話を終え、連絡先を交換した三人はリビングを後にした。
滝川の目的はいったん保留された形だが、それでもわずかな希望を与えられたことで、安堵の表情を浮かべていた。
「兄様たちはどこに行きましたの?」
「まだ、お散歩でしょうか」
「えーーーっ!」
驚きの声をあげた滝川の目は、玄関前の客間に釘付けになっていた。
ふすまが開け放たれた客間では、アンナが耀を腕に抱き、人目も構わず濃厚な口づけを交わしていた。
レイがため息をつき、声をかける。
「——アンナ、何をしてますの?」
「これでは耀様を褒めたレイ様のお話が台無しです——」
レイとイオナの声に、アンナが顔を上げる。
「あら、レイ、お話は終わりましたか?」
「そうではなくて、なぜこんなところでチュッチュしているのか聞いてますの」
「お散歩から帰ってきたら、まだお話中のようでしたので、『こちらでおとなしくしていましょうね』とご主人様に申し上げたのですが……」
アンナが腕に抱いている耀を、愛おしそうに見つめる。
「子供のように扱うなら、いっそ子供になってやると、ご主人様が子供のようなことを言い出したのです」
抱いている耀の髪を優しく撫でる。
「ですから、赤子のように抱っこをして差し上げて、おっぱいをあげようとしたのですが——」
耀の頬を優しく指でつつく。
「ご主人様が恥ずかしがるもので、代わりに口づけをしておりました……」
レイとイオナは頭を抱えてしまった。
「もう、意味が分かりませんわ」
「あの……いつもこうなのですか?」
顔を真っ赤にした滝川の問いかけに、イオナも小さく息を吐いた。
「はい、アンナ様を耀様と二人きりにすると、大体あのようになります」
「アンナに捕まると、兄様でも逃げられませんの」
「そうなんですか……」
目の前で起こっていた光景に頬を染めたまま、足早に玄関を出る滝川。
それを見送りもせず、耀は隠れるようにアンナの胸に顔をうずめたままだった。
門を出た滝川は、耀の家に振り返った。
——強くなりたい。
ここにいる人たちのように。
滝川は胸に小さな誓いを立てながら、静かに帰路についた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月20日、一部修正しました。




