悪魔の罠
突然現れた美しい女性を気に留める様子もなく、平然とグラスを傾けるラウムに、僕は口調を荒げる。
「どうするんだよ。あのジュリアンナさんを」
「ジョアンナです」
「あっ、ごめん——」
「其方の護衛とするのである」
「はっ?」
ラウムはそれが当然であるかのように、話を続ける。
「某も伯爵の身分を持つ身ゆえ、昼夜其方に付いておるわけにもいかぬ。だが、某がおらぬ間に、其方を救えぬようなことが起きぬとも限らぬ。ゆえに、其方の護衛とするのであるな。ジュリアンは其方の魔力と某の術の賜物ゆえ、其方に忠実に仕えよう」
「——ジョアンナです」
ラウムはジョアンナの訂正を無視し、何か納得したようにうなずいている。
「——護衛って言ってもさ」
自分に『護衛』が必要なほどの価値があるのか——そんなことを思ってしまうあたり、僕はまだこの状況を受け入れられていないのかもしれない。
「ご主人様のおそばに仕える栄誉、何よりも光栄です」
僕は、ジョアンナを素直に美しいと思った。
清楚な顔立ちに、真っ直ぐに見つめてくる眼差し。腰の辺りまで伸びた、艶のある黒髪。
——だが、次に目を奪われたのは、その『肉体』だった。
二メートルを超える長身に、たわわな胸と引き締まったウエスト。そして、その存在すら霞むほどの、大きな尻と力強い太もも。
「——デカいな」
「気に入らぬか?」
「そうじゃないけどさ……」
ラウムとの会話を聞いていたジョアンナが、立ち尽くしたまま目に涙を浮かべる。
「私は、ご主人様のお好みではございませんか?」
彼女の声は甘美で、微かに震えていた。その瞳は僕の一挙手一投足を見逃さないかのように、真っ直ぐ見つめたままだ。
「いや、そうじゃないんだ……」
彼女の震える声に、僕の心が揺れ動き、なんとかこの場を取り繕う言葉を必死に探す。その思考を邪魔するかのように、ラウムがジョアンナに声をかける。
「これジョアン、そんなところに立っておらず主人に酌をせぬか」
「ジョアンナです!もう男性の名になっています!」
……もはや、わざとだとしか思えなくなってきた。
少し怒った口調で、ラウムの発言を訂正しつつ、ジョアンナが僕の方に足を踏み出す。
「待って!」
僕は思わず制止してしまった。
「——ご主人様……私のことを嫌っていらっしゃるのですか?」
僕の制止に立ちすくんだジョアンナは、見開いた目に涙を浮かべ、今にも泣きだしそうなほど声を震わせる。
その美しい顔に刻まれた切ない表情に、僕は胸が締め付けられ目を逸らした。
彼女はどこか必死だった。さっきまでの静かな従順さの奥に、何かを試すような、不安げな色があった気がする。
それに気づいてやれなかった自分に、僕は言葉を失っていた。
僕の視線の先では、ラウムが小さく溜息をつき、グラスを一度傾ける。
そして、大きく息を吐き、冷静な口調で冷たく言い放つ。
「汝は酌をせずともよい」
「いや、そうじゃなくて……あのさ……」
僕が言い終わる前に、再び黒い霧が立ち込め渦巻き始めた。さっきも見た光景だ。
この先の結果は完全に読める。焦りを感じながら、無表情で霧を眺めるラウムに、僕は思わず声を上げる。
「何やってんだよ!」
同時に、今度は赤く輝く何かが霧に飛び込んだ。
制止の意味を込めた言葉はむなしくかき消され、霧が晴れると——予想通り女性が立っていた。
「汝、名をなんと申す」
周囲を見渡していた彼女の目が、僕を捉えた瞬間、はっきりと光を帯びた。そして、ジョアンナを押しのけ、まっすぐ僕に飛びついてきた。
「——兄様っ!」
「兄様?えー!」
女性を受け止めた僕は、グラスをひっくり返し、椅子ごと派手に転倒してしまった。
「いたたた……」
「あぁ、兄様なんとおいたわしいお姿に……」
そのおいたわしいお姿になったのは、どう考えても自分のせいだろう——
「女、名を申せ」
「レイチェルと申しますわ、兄様」
レイチェルと名乗った彼女は、僕に抱きついたまま離れる様子はない……が、気持ちいい——いや、悪い気もしない。
「うふっ、兄様は温こうございますわ——兄様……さあ、愛しいレイチェルですわ。どうぞ遠慮なく、存分に愛でてくださいまし」
僕を派手にひっくり返して、意味不明なことを言いながら、抱きついて離れないレイチェルを、ジョアンナが引き離してくれた。ちょっと惜しい気もするが、今は『助かった』と言っておこう。
「何をしますの!兄様はレイチェルに会いたかったのですわ!」
「ご主人様……この様な女がお好みなのですか?」
レイチェルを脇に抱え、仁王立ちするジョアンナは、僕を見下ろしながら、震える声を投げかける。
「いや——そうじゃなくて」
さっきまでの切ない表情は、いったい何だったのか——
「兄様、レイチェルのことがお嫌いですの?」
百五十センチくらいの小柄な体に、控えめながら整った胸、くびれたウエスト、そして主張しすぎないけど形のいいお尻。
そんな女性に『兄様』と呼ばれ、潤んだ瞳で見つめられるなんて、とんだご褒美——いや……罪悪感が湧いてくる。
「そうじゃないんだ!」
「では、どうなのですか?ご主人様」
怒りを堪える表情さえも、心を奪いにくるジョアンナ。
「兄様!レイチェルを嫌わないでくださいまし」
涙目ですら、全力で可愛さを主張してくるレイチェル。
「其方はこれも気に入らぬのか?」
空気を読まない元凶のラウム。
この三人にはっきり聞こえるよう、僕は大きな声で叫んだ。
「二人とも——服を着てくれ!」
仁王立ちのジョアンナも、ジョアンナの脇に抱えられたレイチェルも、一糸纏わぬ姿なのだ。
「急なことで……ご主人様にとんだお目汚しを……失礼いたしました——」
レイチェルを開放し、急に恥ずかしそうな表情を浮かべて、両腕で大きな身体を申し訳程度に隠すジョアンナ。
「ふ、服を着ていないことに気が付いていませんでしたわ——はだ、裸で兄様に抱き着いてしまいましたの……」
ジョアンナから解放され、恥ずかしそうにしゃがみ込むレイチェル。
「——そうであったな」
もはや、わざとやったとしか思えないラウムが呟くと同時に、ジョアンナが光に包まれた。
その光が蒸発するかのように霧散すると、ジョアンナの身体を真新しい服が包んでいた。
「なんでメイド服なんだ……」
「其方の好みであろう?」
「——はい」
ジョアンナは胸元が大きく開いた黒のワンピースに、白のピナフォア、袖口には白のカフス、頭にはホワイトブリムを装着した完全かつ魅惑的な装いだ。
見る者の視線を、自然と胸元に引きつけてしまうメイド服のようだ。
続いてレイチェルが光に包まれた。
「——これは」
肩開きで白をベースに、ピンクの縁取りがされたフリル付きブラウス。胸元には黒の可愛らしいリボンが揺れ、フリルのついた黒いスカートがふわっと揺れる。
全体でレイチェルの可愛さに、ちょっと小悪魔的要素を加えるコーディネート。その完璧さに僕は思わず息を飲んだ。
「其方にはご褒美であろう?」
「——ありがとうございます」
空気を読まないラウムに対して、僕は心の底から自然に感謝の言葉が出た。
「その服は傷んでも勝手に治る。主人の魔力が続く限りであるが」
そう言ってラウムは立ち上がり、ジョアンナとレイチェルに声をかける。
「汝らは主人の護衛ではあるが、まずは主人の酒の相手をせぬか」
「——言われなくともいたします」
そう言って僕の右隣の椅子に座るジョアンナ。
「兄様はお酒より、レイチェルの方がお好きなのですわ」
そう言いながら、僕の膝に座ろうとするレイチェルを、ジョアンナが止める。
「あなたの席はあちらです」
「イヤですわ!」
レイチェルはラウムが座っていた隣の椅子を、僕の左隣に運んで腰掛ける。
「今日はここで我慢しますわ」
見るとラウムを黒い霧が包み始めていた。
「某は一度領地に戻る」
「領地?」
「其方ら人間が地獄と呼ぶ場所であるな」
そう言い残してラウムは、その身を完全に包んだ霧と共に消えた——
一人きりになったわけじゃないのに、急に世界が静かになった気がした。
ラウムが去り、三人が残された部屋に、ジョアンナの呟きが響く。
「やっと邪魔者が去りました」
「もうひとり邪魔者が残っておりますの」
レイチェルがジョアンナを睨み呟いた。
美しいジョアンナと可愛いレイチェルに挟まれて、僕は何を話せばいいのかすら分からない。
二人に目を向けることができず、地蔵のように正面を見据えて、心を無にしようと深呼吸を繰り返す。
そうだ、僕は地蔵だ。見目麗しい女を侍らせて、酒を煽るとんでもない地蔵だ——
冷静に考えると、この状況はラウムがあえて作ったのだろう。僕を一度絶望に落としてから、正反対の快楽を与えることで、僕の魔力を借りると言いながら、完全に支配する心積もりじゃないか?
「ご主人様どうぞ——」
ジョアンナが睨むレイチェルを無視して、先ほどこぼした僕のグラスにウイスキーを注ぐ。
「あっ、ありがとう……ございます……」
近づいたジョアンナは、地蔵と化したはずの僕の視線を奪う。
黒髪は光を反射した部分が、濃い緑色に輝き、瞳は深緑の宝石のようだ。
「いかがなされました?」
ジョアンナは見惚れている僕の顔を、首を傾げ、不思議そうな表情で見つめ返す。美しくも可愛らしい、おどけたような表情に不意打ちされ、恥ずかしくなり思わず視線を下げる。
そこには、指一本のお手伝いで、メイド服から簡単に開放されそうな、双丘が待ち伏せていた——
「ご自由に弄っていただいても、構いませんよ?」
良からぬ思考を巡らせる僕の耳元で、見透かしたかのようにジョアンナが囁いた。
誘うような言葉と共に、耳を撫でる吐息が僕の心を優しくこじ開け、甘く自然な香りで幾度も鼻孔をくすぐり、開いた心を少しずつ奪っていく。
女性は、自らに向けられる男性の視線に敏感だと聞いたことがある——迂闊だった……恥ずかしくなり、顔を伏せてしまった。
「まさぐ……」
こ……このままでは地蔵失格だ!落ち着け——
よし、僕は粉う方なきお地蔵さんだ……これも全て狡猾な悪魔の策略だ……地蔵と化した僕に色仕掛けは通じない。
僕は煩悩を振り払うように、グラスを一気に煽った。
「お強いのですね」
空になったグラスに、ジョアンナが再びウイスキーを注ぐ。
「レイチェルが注ぎますわ!」
ジョアンナが僕に向けるのとは、明らかに違う視線でレイチェルを睨む。
「レイチェルは先ほどこぼしたでしょう」
レイチェルが僕の腕に抱きつき、ジョアンナに視線を返す。
「兄様、ジョアンナがいじめますの……」
「レイチェルッ!」
ジョアンナの苛立ちに対抗するように、更に強く腕を抱きしめ、上目遣いで僕を見つめてくる。実にあざとい……
だが僕は、鋼鉄のように固く強い心を持っている。ラウムの思う通りにはならない。
「——次はレイチェルが注いでくれる?」
固く強い心とは裏腹に、優しくレイチェルにお願いしてしまった。
このままではラウムの思う壺だ。意思を強く持たなければ——
だが、あの吸い込まれそうな瞳を正面から見てしまえば、拒絶なんて不可能だ。
だから、僕が甘いのではない——人間である以上、仕方のないことだ。
「はい!兄様、早く飲んでくださいまし」
肩より少し上で切り揃えたレイチェルの黒髪は、光を暗い赤色に反射している。白く滑らかな肌に、ピジョンブラッドルビーを思わせる瞳が妖しく光る。
「甘やかしてはいけません!」
突然かけられた声に驚き振り向くと、ジョアンナが不機嫌そうな顔で僕を見ていた。
どのような表情でも美しさは変わらない。だが、この美しさは僕を篭絡するため、酒との相乗効果を最大限得られるよう作られたものだ。分かっている。ここは話の主導権を握るべきだろう。
「アンナは綺麗だな」
「アンナ?」
「親しみを込めて、そう呼びたいんだけど……だめかな?」
親しみを込めたいのであって、呼びにくいとか、舌を噛みそうとか、そんな理由ではない。いや、そんな些細な思惑はバレないはずだ。バレても今なら酒のせいにできる。
「アンナ——はい、私のことはアンナとお呼びください。ご主人様……嬉しゅうございます」
そう言いながら、アンナは僕にそっと寄り添ってくる。アンナが触れた瞬間、柔らかくて温かいものが、僕の理性を一気に崩壊させた。
しまった墓穴を掘った……淑やかな表情と、上品さをも感じさせるしぐさ。
——地蔵失格……ラウムの策略に陥落した……
突然、背中から大きな声が聞こえてきた。
「なぁー!ずるいですわ。ずるいですわ!」
振り向くと『私、激オコです!』と主張した顔が近付く。
『えっ何、この可愛い生き物!愛らしい……実に愛らしい!』
この妖しさを纏う可愛さも、ラウムが自らの大望を達する目的のために作られたものだ。
十分に理解している——そう、鋼鉄の心を持つ僕は、これ以上、悪魔の思い通りにはならない。
「兄様!親しみを込めた名をつけてくださいまし!」
「レイチェルじゃダメなのか?」
「そんな名前、もう忘れましたわ」
頬を膨らませ、そっぽを向いたレイチェルの顔も、また違った可愛らしさを見せてくる——
「じゃあ、レイでどうだろう?」
「レイ——あぁ、兄様の話す言葉に馴染む素敵な名前ですわ。兄様はやっぱりレイのことを愛しているのですわ!」
たしかに……呼びやすくて、少しだけ甘えた響きが気に入ってしまった自分が、どこかにいた。
レイは柔らかいもので包むかのように、僕の腕をしっかりと抱き締め、うっとりとした表情で見つめてくる。
その可愛さの中に宿る妖艶に輝く瞳と、腕に伝わる柔らかな感触に、鋼鉄の心は甘く溶かされ、ラウムの張った罠にすくい取られた……
「うるさいですわよ。レ・イ・チェ・ル」
「あーら、誰ですのそれは?レイのことではありませんわ」
「ささ、兄様。早くそれを飲んで、レイにお酌をさせてくださいまし」
レイの期待に応えるように、僕はグラスを一気に空けた。
彼女はすぐに満足げな笑みを浮かべながら、ウイスキーを注いでくれる。
もうこんな罠なんて自ら落ちてやろうじゃないか!
だが、どうせ罠に落ちるなら、少しはこの二人のことを知っておこう。
そして、隙あらば抜け出せるよう準備しておけばいい、我ながらいい考えだ。
思えば、この二人は悪魔が僕の目の前でこの姿を作ったのだから、サキュバスとかいうものを土台に作られた、悪魔かその親戚の類なのだろう。
だからと言って、外見はともかく行動も人間の女性にしか見えない二人に、『お前ら実際何者なんだ?』なんて聞くのは無粋だ……よし、先ずは無難な質問から入ってみよう。
「ところで、二人はいくつなの?——」
しっ、しまった……女性にいきなり年齢を訪ねるなんて、紳士としてあるまじき言動ではないか……
慌てる僕に、アンナが優しく答えてくれる。
「私は長く彷徨っていたのですが、死んだのは二十三歳の頃でした。処女でございました。それも今夜で終わりになりそうですが……」
若いな——でも……処女は関係あるのか?護衛ですよね?たじろぐ僕にレイが勝ち誇ったような声で答える。
「あーら、器用な阿婆擦れが起きたまま寝言を言っていますわ。兄様、レイが死んだのは十八歳ですの。もちろん処女は兄様のために守っておりますわ」
もっと若いな——でも、なぜ?純潔は護衛の必須条件なのか?いや、やはり護衛と称したラウムの狡猾な罠……
いや待て……そうじゃない、二人の答えにとんでもない単語があったじゃないか!——死んだ?ということは生きていたってことか?
……あまりに自然に言われた『死』という言葉に、僕の背筋が一瞬だけ凍った。まるで、それが日常会話でもあるかのような軽さだったから。
「えっ、二人とも人間だったの?」
驚いて聞き返した僕に二人は同時に答える。
「「そうです」わ」
二人のことを、悪魔のような良く分からない存在だと思い込んでいた僕は、年齢以上にとても失礼なことを聞いてしまったような気がして——申し訳ない気持ちでいっぱいになりうつむいた。
「ごめん、悪いことを聞いちゃった。気にしないで」
二人が優しく僕の背中に手を添えてくれる。
「大丈夫です、ご主人様。むしろ、こうしてお仕えできることを光栄に思います」
「兄様、気にしてはいけませんわ。兄様と会えたことに、レイは感謝していますの」
「そこは同感です」
「気が合うこともあるのですわね」
「態度は気に入りませんが」
「やはり気が合うところもあるようですわ」
「ご主人様?」
「兄様?」
黙ってうつむく僕を、二人が覗き込む。
「——寝てしまいましたわ」
「ええ、お疲れだったのでしょう」
「素敵な色ですわ」
「ええ、いい方に巡り合えました」
アンナとレイは見つめ合い、微笑みあった——
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。