干渉の目的
イオナと女性をリビングで見送った僕は、少し休もうとソファを立った。
窓から車が去るのを見届け、自室に足を向けると、背中からレイが話しかけてきた。
「兄様、どちらへ行かれますの?」
「うん、部屋で少し寝ようかと思ってね」
その言葉を聞いたアンナが、慌てた様子で声をかけてくる。
「ご主人様、夕食の準備をいたしますが、イオナさんやラウムさんの分はどういたしましょう?」
「酒と何かつまめるものがあればいいんじゃないかな?」
「そうですね、少し多めにおつまみを作っておきます」
料理の準備を始めるアンナは、さっきの騒動がなかったかのように、いつもと変わらない表情をしている。
「アンナは疲れていないの?」
「私は先ほど、十分なお情けをいただきましたので、大丈夫です」
頬を染めて上目遣いで僕を見るアンナを見て、レイが呟く。
「——兄様が疲労困憊になるはずですわ」
「レイは疲れていないのかい?」
レイに問いかけると、急に疲れたような表情を浮かべた。
「少し疲れましたわ。兄様と一緒に休むことにいたしますの」
さっきまで元気な顔を見せてくれてただろ——可愛らしいもんだな。
「そうか、ゆっくり休んでおきなよ。今夜も長い話になるかもしれないからさ」
「分かりましたわ」
一言答えたレイは、ゆっくりとソファを立つ。
部屋に向かおうと縁側を歩く僕の後を、レイが笑顔でついてくる。
「レイ、僕は寝るだけだし、ついてきてもつまらないと思うよ」
一瞬立ち止まって、声をかけた僕に、レイは迷わず答える。
「レイは兄様と一緒に休むことにいたしましたの」
こんな時のレイは、何か話をしようとしていることが多い。
黙って任せることにして、部屋に入り、ベッドに横たわった。
レイもベッドに入ってきた。
「一緒に寝るのか?」
「はい、怖いことがあったときは、兄様と一緒に寝るとゆっくり寝られますの」
——怖い思いをしても、誰かに頼れるだけの強さを持っている。
そんなレイの優しさに、僕も少し救われた気がした。
甘えるレイが、いつにも増して愛おしく感じられ、思わずその華奢な身体を引き寄せた。
すると、レイは僕の胸に頬を擦り寄せ、もっと温もりを求めるかのように抱きついてくる。
壁に打ち付けられる激しい雨音すら心地よく感じられる。
「おやすみ、レイ」
「兄様、おやすみなさいまし」
僕はレイを抱き寄せたまま、心地よく意識を手放した。
——耀の胸に耳を澄ませていたレイは、その寝息から耀が眠りについたことを悟った。
『兄様——感じますの……レイの声を聞いてくださいまし』
レイが心の中で、呼びかけた。
『兄様——レイには分かっておりますの。声を聴かせてくださいまし』
確かにレイは感じ取っていた。その心に潜む存在を——そして、もう一度話をしたいと願った。
『兄様——隠れるのは淑女に対して失礼ですわ』
《誰が淑女なんだ?》
心の中に直接響く、呑み込まれるような低い声。レイの表情が一気に華やぐ。
『兄様、ここに淑女はレイしかいませんの』
《そうか、それでその淑女が俺に何の用なんだ?》
レイは少し息を整え、そっと心で呼びかける。
『今日お姿を見せたのは、兄様ですの?』
しばらく沈黙が続く。だが、レイにはまだ感じられている。
『——兄様?』
《——格好よかっただろ?》
『ええ、レイは惚れてしまいましたの——』
《身体を使ったのは久しぶりだった》
その言葉でレイの疑問は解けた——この兄様は呼び出せる。
《俺は孤独でいたい——誰にも関わりたくない》
『どうしてですの?』
《分からない——それが俺の存在する理なのだろうか》
『兄様、レイも一緒に考えたいですの。お姿を——』
《それはできない》
レイの言葉は遮られた。
『では兄様、もし……もしレイが、兄様を呼び出せましたら——夫婦の誓いをしてくださいまし』
《面白い、その時が来れば必ず》
『約束ですわ』
《ああ——》
その声を最後に、レイが感じる存在が薄くなった。
『やりましたわ。それに、まだ兄様を感じていますの。絶対に呼び出せますわ』
耀の胸に頬を預け、レイは眠りについた。
——
「ご主人様、そろそろ起きてください」
「もう、そんな時間か」
僕はアンナの優しい声で、目を覚ました。そして、定まらない視界で周囲を見る。
「あれ、レイは?」
「レイ?そういえば見ませんね——」
アンナが突然、勢いよく布団をめくり上げた。
中から、僕のシャツをはむはむしながら、幸せそうに寝ているレイが現れた。
「レイ!」
「アンナ、レイも怖かったんだと思うよ、優しく起こしてあげてくれないかな」
そう言った僕の顔を、アンナは不思議そうに覗き込む。
「——もしかして、ご主人様。レイにお情けを……」
「いや、そうじゃない」
僕の否定を聞いたアンナは、ぱっと表情を明るくした。
「良かったです。私も安心いたしました」
なぜかアンナが頬を染め、期待に満ちた目を僕に向けてくる。
「兄様、おはようございます」
眠そうな目をこすっているレイに、アンナが優しく声をかける。
「レイ、あなたもご主人様にお情けをいただいたのですね。本当に良かったです」
レイは首を傾げてアンナに答える。
「いいえ、兄様と一緒に寝ていただけですわ」
「それだけですか?」
「それだけですわ」
「さっきから、そう言ってるじゃないか——」
「そうですか。三人で楽しめる日はまだ先ですね」
アンナは残念そうな顔をして、部屋を後にした。
いったいアンナがどこを目指しているのか、最近、本当に分からなくなってきた。
その日は早々に夕食を済ませ、三人で雑談をしながらくつろいでいるところに、玄関のチャイムが鳴った。
アンナが対応に出ていくと同時に、リビングに黒い霧が立ち込め、ラウムもやってきた。
最近のこいつは、悪魔の威厳のかけらもなくなってきているんだが、大丈夫なのだろうか?
リビングに入ってきたアンナとイオナに、一瞬視線を移したラウムだが、すぐに僕に近づいてくる。
「災難であったな」
「よく言うよ、見てたんだろ?」
「まあ、よいではないか。まずは酒でも飲まぬか?」
「ああ、そうしよう」
異質な空間だが、この空間だけは、できるだけ壊したくない。誰にも乱されず、みんなでただ笑っていたい。
——そんなことを思う自分に、少し驚いた。
アンナが準備していた料理をリビングへ運び、僕はグラスを取りにキッチンへ向かう。
二つのグラスを手に取ったところで、ふとイオナが何を飲むか聞いていないことに気づいた。
「イオナは何を飲む?」
「耀様と同じものでお願いします」
僕はグラスを三つ手に持ち、ソファに腰を下ろすと、二人にグラスを手渡す。
イオナがボトルを手に取り、僕とラウムのグラスにウイスキーを注いでから、自分のグラスにも注ぐ。
ちなみに、アンナはお茶、レイはジュースを手に、それぞれソファに腰を下ろした。
さっそく、イオナが聞き取った内容をラウムに説明する。
ラウムはグラスを傾けながら、静かに耳を傾けていた。
「目的が明確になったではないか」
ラウムの声に、イオナがうなずく。
「大審判ですね」
「然様、大審判と称して、自らを信仰するか否かは関係なく、大勢の人間を見せしめに殺すであろう」
僕はラウムの言葉が、抵抗なく理解できた。
「生き残った者に恐怖を植え付け、生きたければ自らを信仰せよ、ということか」
「そう考えるのが自然であろう」
「その信仰の力を利用して、何かをなそうとしているのか」
僕は一気にグラスを煽った。
「末期を迎えた独裁者の発想だな」
「自らの概念世界が、末期を迎えているのかもしれません」
そう言うと、イオナもグラスを一気に煽った。
「兄様、結論を出すには早すぎますわ」
静まり返ったリビングに、レイの声が響いた。
「——確かに、レイ様のおっしゃるとおりです。憶測が過ぎました」
「明確なのは、兄様の魔力が欲しい——それだけですの」
「確かに、そうだね。レイのおかげで少し落ち着いたよ」
レイの声は、この場で生まれた憶測を排除し、全員が考えを改めることになる。
僕はラウムのグラスにウイスキーを注ぎながら、問いかける。
「概念世界っていうのは消滅するものなのか?」
「否、それは考えにくい。一度できた世界は、人間が存在する限り消滅はせぬ」
ラウムはグラスを傾け、話を続ける。
「知る人間がいなくなれば、忘れられた世界となり、誰にも知られずひっそりと時間が過ぎる世界になろう」
イオナのグラスにウイスキーを注ぎながら、僕はラウムに問いかけた。
「なあ、この大審判は悪魔の発想じゃないよな?」
「然様。悪魔は人間の願望と欲望を体現する存在であるゆえ、そのような行動に出る必要がない」
「そうだよな。人間がいなくなると、悪魔の概念すらなくなるよな」
ラウムが僕のグラスに酒を注ぎながら静かに答える。
「我らの存在はなくなるであろうな」
静かに話を聞いていたアンナが、おもむろに口を開く。
「私にはその神が人間のように思えます」
「そうですわね。アンナの言うとおりだと思いますわ」
レイもアンナに同意した。
確かに言われてみれば、目的は分からないが、それに対する行動は——低俗すぎるよな。
「元は人間だった可能性は?」
「可能性は低いが、あり得ない話でもあるまい」
その時、肩をトントンと突かれたので横を見ると、イオナが空になったグラスを差し出していた。
イオナの持つグラスにウイスキーを注ぐと、彼女は頬をほんのり赤らめ、嬉しそうに柔らかい微笑みを浮かべた。
いつもクールで冷静なイオナが、ふいに見せた乙女のような表情に、思わず見惚れてしまった。
「——ご主人様」
背中から声と共に、冷気が押し寄せる。
「はい?」
「イオナさんが可愛らしいですね」
アンナは小首をかしげ、冷たい瞳でにこやかに笑っている。
「いや、そういう意味で見てたんじゃないんだ」
「やっぱり見惚れていましたね」
アンナの見るものを凍りつかせるような視線を感じて、慌ててイオナの方に顔を向ける。
「イ、イオナ、あまり飲みすぎるなよ」
「然様、爺が羨ましがる」
そういうつもりで言ったんじゃないんだが……でも、あれから見ないよな。
「そういえば、ダンタリオンは出てこないよな」
「あの爺は、其方に一度召喚されたのみゆえ、呼び出すには再度召喚せねばならん」
「いや、呼び出す気はない。でも、イオナはどうやって連絡を取ってるんだ?」
「私は眷属ですので、頭の中に直接話しかけられます」
頭の中に話しかけられる……何でもないように言っているが、正直、あの感覚は好きになれない。
そんなやり取りを交わしながら、アンナの料理と酒を楽しんでいたが、ふいにイオナが口を開いた。
「もしかすると、干渉者の名を知ることができるかもしれません」
「爺であるか?」
「いいえ、使徒であれば名を知ることができると言っていました」
イオナの言葉に、レイもうなずく。
「確かにそう言っていましたわ」
「一考の価値はありそうです」
考え込むイオナを見て、僕は首をかしげる。
「何か考えついたのか?」
「先ほどの女性は耀様を恐れておりました。あの女性が使徒になった後に、耀様が捕まえて脅せば、簡単に聞き出せるのではないでしょうか?」
イオナの提案に、一瞬、戸惑いを覚える。
「人聞きの悪いことを言わないでくれないか?」
「いえ、ご主人様、イオナの言うとおりかもしれません」
「確かにそうですわ」
どうやら、女性全員で僕を人攫いに仕立て上げるつもりのようだ——
「もう、好きにしてくれ」
「其方は、投げやりになることが多いな」
ラウムの言葉に『逃げるために俺を使うな——』、その声が頭をよぎり、少し胸が傷んだ。
悪魔に心を傷付けられた僕に、イオナが真剣な目を向ける。
「耀様、時を見て連絡いたしますので、そのときは私に協力いただけませんでしょうか?」
「もちろん、僕にできることなら協力するよ。でも、手荒な真似はしないからな」
「手荒な真似は考えておりません——ただ、純潔を誓う悪魔の眷属ですので、手か口になりますが……」
何の話をしてるんだ?話の流れと僕の傷心と酒の力を利用して、何か良からぬ言質を取ろうとしたな——
呆れる僕の腕が、急に暖かくて柔らかいものに包まれた。
ほれ見ろ、イオナ——僕は聞き流しても、聞き流さない人もいるんだ。
「イオナさん、心配はいりませんよ。私がついていますから」
すぐ隣で聞こえたアンナの声は、躍動のない冷たい口調で紡がれた。
僕にはその顔を見る勇気がなかった。
「ところで、兄様」
癒やしを与えてくれる可愛らしい声に振り向くと、レイがちょっと困り顔で、僕を見ていた。
振り向きざまに、一瞬凍りつくような目が視界に入ったが、気のせいだろう。
「どうしたんだ、レイ?」
「結局、兄様はこれからどうしますの?」
そうだ、結局分からないままに、宴会だけで終わってしまうところだった——
「どう……したもんだろうね?」
「おひとりで出歩くのはやめたほうがいいです」
アンナの心配は分かるが、その心配はもう必要ないと思う。
「あれだけのことをされて、また襲ってくることはないと思うんだ」
「耀様のおっしゃるとおりです。再び力に訴えるのは愚かかと」
「然様であるな。某でも関わりたいとは思わぬ」
それほど凄かったのか?断片的にしか記憶にないが、悪魔すら寄り付かせない暴力って——
「私も、ご主人様にあれほどの力が秘められているとは思いませんでした」
「でも、格好よかったですわ」
今日は、レイに癒やされる日だな。
「じゃあ、気をつけるのは何だろう?」
「クスリ?じゃないでしょうか」
確かにありえるな……
「その心配は無用である」
僕の思考はラウムの声に遮られた。だが、心配無用とはどういうことだろう?
「某との契約の効果であるな。其方を害する目的で盛られた薬物は効果を出さぬ」
この悪魔って凄いな。てっきり、空気を読まないことしかできないと思っていたが、ちょっと見直した。
「と、なると——女ですか……」
アンナはなぜそんなに深刻な声で言ったんだ?
ふいに見回すと、アンナだけでなく、レイとイオナも深刻な顔をしている。
僕はこの女性たちに、どのような男だと思われているのだろうか?
一度、腹を割って話したほうがいいかもしれない。
「なあ、僕はどう思わ……」
「むっつりスケベですわ!」
僕の問いかけは、癒やし担当だったはずのレイの一言で強制的に幕を閉じた。
レイの言葉にうなずく女性陣に勝てないことを悟った僕は、無理やり話を戻すことにした。
「これからのことだけどさ。今までどおりでいいんじゃないか?」
僕の声にラウムがうなずいた。
「然様であるな。当面の目的が其方であることは間違いないであろうが、何もできぬ」
「そうなんだよな。どこにいるかも、何をしてくるかも分からない相手にどう身構えても一緒だろう」
「確かにそうですね。今回の件で諦めるということもありえます」
「イオナの言うことも一理あるな。僕の魔力は大審判とやらの手段でしかないんだろう?」
「そうでしたわ。他の手段に出る可能性もありますわ」
「ご主人様の身を案じるばかりに、考えが逸れてしまいました」
「だから、今までどおりでいいと思うんだ」
アンナは、僕の言葉を聞いて満足げに微笑み、
レイは小さな手でグラスを握りしめながら、嬉しそうにうなずいた。
イオナも、グラスを胸に当てるようにして、静かに目を閉じた。
空気を読めない悪魔だけは、酒を飲み続けているが、まあいいだろう。
ラウムも思うところがあって、ここにいるわけなんだし。
僕はそんなみんなの姿を、一人ひとり目に焼き付ける。
これだけの人たちが、僕のために集まって、真剣に考えてくれた——
それがただ嬉しい。
これで、対応を考えるという名目で催された宴は、本当にただの宴会で終わることになる。
たまには、こんな機会もいいだろう。それに、これだけの人が僕を案じて集まって真剣に話してくれたんだ。
心の奥底が、静かに温かく満たされていくのを感じながら——みんなが飽きるまで相手をし続ける。
感謝の気持ちを込めて——
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月20日、一部修正しました。




