事後の尋問
それまで気にならなかったが、玄関に入ると、雨に濡れた服が身体に張り付き、不快感が募る。
髪の先から小さな滴を床に落としながら、レイが家の中を慌ただしく行き来し、タオルと救急箱を手に戻ってきた。
「ご主人様、身体を拭きませんとお風邪を召されます」
「ありがとう。とりあえず……降ろしてくれないかな?」
アンナが抱き上げていた僕を、優しく降ろす。
お姫様抱っこをされると、抱き上げられた僕の身体に、アンナの胸が柔らかく重なる——
しかも、今日はいろいろ透けて見えている——僕の身体もいろいろ大変なことになっている。
玄関に腰を下ろした僕を、アンナとレイが甲斐甲斐しく拭いてくれる。
「レイ、先にシャワーを浴びていらっしゃい」
アンナの声に、レイが遠慮がちに答える。
「いえ、兄様が先に……」
アンナはレイに一瞬優しい目を向け、顔を近づけて口元を手で覆いながら耳打ちする。
「ご主人様がこのようになった後は、あちらも凄いことになっていますが、レイがお相手できますか?」
「——ア、アンナにお任せしますわ」
悪いが全部聞こえていた。いったい何を任されたんだ?
「その間に、お怪我の手当を済ませておきます」
「すぐに済ませてきますので、少しお待ちくださいまし」
小走りで浴室に向かうレイの背中を見送った。
アンナが膝を折って、玄関に腰を下ろしている僕に目線を合わせる。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「ああ。落ち着いたよ」
「先程は意識がおありのようでしたが」
「ああ、アンナが怪我をしているのを見たところからは、しっかりと記憶がある」
けれど、それは夢で見たはずの記憶だ。記憶があるというのは、本当はおかしい——
説明するべきかとも思ったが、どうしても言葉にできなかった。
「ご主人様、もしかして私を助けようと?」
「そうかもしれない、でも、途中から目的が変わった。僕を殴ったやつを殺そうと。……いや、最初から、そいつを殺そうと思ってた気がする」
アンナは、出血している僕の手と顔を見て確認するが、感覚的に怪我は軽いと思っている。
「よかったです。お怪我は軽いようです」
「アンナの怪我は?」
「私はご主人様がいらっしゃれば、すぐに治ります」
アンナが耀に見えるように広げた手は、怪我が完全に治り、傷跡すら残っていなかった。
「消毒いたしますので、少し我慢してください」
「悪いなアンナ」
僕は、さっきの出来事を頭の中で整理していた。
その間も、アンナは静かに僕の手当てをしてくれている——なぜか、ため息をつきながら。
唇と口の中が切れているのは分かる。治療しようがないのも分かる。鼻も大したことはない。
だけど——救急箱があるのに、僕の唇を舐めるのは、さっぱり分からない。
アンナの献身的な消毒が終わった頃、レイが脱衣室から出てきた。
目を向けると、どうやら急いで出てきたのだろう、洗い髪のままで声をかけてきた。
「終わりましたわ。アンナ、兄様がお風邪を召さないうちに入ってくださいまし」
「では、ご主人様、参りましょう」
「いや、ひとりで大丈夫だから」
そう言う僕を無視するかのように、アンナはそっと僕の下半身に手を伸ばし、存在感を示している部分に軽く触れた。
「ご主人様、こちらが……大丈夫ではありません」
「——し、しばらくすれば収まるから」
「いけません。私の怪我を治すためでもあります」
「いや、もう治ってただろ?」
アンナは返事をすることなく、レイに目を向けた。
「レイ、イオナさんが来ると思いますから、お願いしますね」
僕の声は完全に無視された。
「分かりましたわ。しっかりと時間を稼ぎますので、アンナは兄様とゆっくりしても大丈夫ですわ」
「お願いしますね」
レイもアンナのために時間を稼ぐと言い切ってしまった。僕はアンナに手を引かれ、浴室へと向かった。
「兄様、レイは無事をお祈りいたしておりますわ」
そう呟いて、レイは二人の背中を見送った。
レイは耀が襲撃されたことを、思い返しながらリビングでイオナを待っていた。
雨音が小さくなったことに気づき、窓に目を向けたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「お待ちしておりましたわ」
レイが応対に出ると、イオナともうひとり女性が立っていた。
「さすがはレイ様です。お見通しでしたか」
「そちらの女性は?」
「先程の騒動の際に、置き去りにされていた方です」
「そうですの……とりあえずお上がりくださいまし」
イオナと女性はリビングに案内され、ソファに腰を下ろした。
「お二人ともお茶でよろしいですの?」
「いえ、お構いなく」
「そうはいきませんの。アンナに叱られてしまいますわ」
「耀様はどちらに?」
「シャワーに行っておりますので、しばらくお待ちくださいまし」
「アンナ様は?」
「シャワーに行っておりますので、しばらくお待ちくださいまし」
いつも冷静なイオナの顔に、少し苛立ちの色が浮かぶ。
それに気づきながらも、レイはお茶を淹れながら落ち着いた口調で話しかける。
「それで、これからどういたしますの?」
「その相談に伺いました。こちらの女性の話も聞かなければいけません」
「そうですわね。では、もうしばらくお待ちくださいまし」
ただ静かなリビングで待つ三人——
どことなく気まずい空気が漂い始めてから、三十分程経った頃、アンナがリビングに入ってきた。
「イオナさん、お待たせいたしました」
その口調から、すでにイオナが来ているのを知っていたのは間違いない。
アンナはわずかに優越感を漂わせながら、イオナに視線を向ける。
「お済みになりましたか?」
「はい、無事に落ち着いていただけました」
「それは、アンナ様がさぞかしいいお仕事をなさったのですね」
「はい。もうすぐご主人様もいらっしゃいます」
時間を置かずに、耀がリビングに入ってきた。
「耀様、お怪我の具合はいかがですか?」
イオナの声に、耀は手を上げて見せる。
「大丈夫。かすり傷程度だよ」
「安心いたしました」
「待たせたようで悪かったね」
耀がソファに座る見慣れない女性に視線を向ける。
「この人、モデルだよね」
「お気づきになりましたか?」
「うん、どこかで見たことがあると思った。なぜこの人がここに?」
ソファに耀が腰を下ろすのを待って、イオナが話し始める。
「凶暴な御仁に持ち上げられ、胸を揉まれたうえ、恐怖のあまり腰を抜かして失禁しておりましたので、拾って参りました」
「そうか、あの人か。ごめん、悪いことをしたね」
「ごめんなさい。許してください」
女性は震える声でそう言いながら、耀に何度も頭を下げる。
「——許すも何もさ」
「耀様、ここからは私にお任せいただけませんか?」
耀と自分のお茶を淹れたアンナも、ソファに腰を下ろす。
それを待っていたかのように、耀はイオナに向かって小さくうなずいた。
耀のうなずきを肯定と受け取ったイオナが、身体を女性の方に向き直し口を開く。
「では、お伺いしますが、なぜ耀様を襲ったのですか?」
イオナの問いに、女性は声を震わせ答える。
「——神からの啓示って、使徒様が言ってました」
「その啓示はどういった内容なんですか?」
「神がこの世を正すために、この人の力が必要だって」
その話を聞いた全員が首を傾げた——この人……大丈夫なのか?
「攫ってどうなるというのです」
「神の声に従わないやつは、力づくでも従わせるのが当然でしょ」
気の毒な人を見る目で女性を見ていたが、ふいにレイが口を開いた。
「兄様……もしかすると——」
「——あの声の主かもしれないな」
二人の呟きを聞いたイオナは、小さくうなずくと話を続ける。
「この世を正すとはどういうことなのでしょう?」
「選ばれた人間とそれに従う善良な人間以外を、みんな殺して地獄へ送る、大審判がもうすぐあるって」
「殺す——とは、穏やかではありませんね」
「簡単なことでしょ。この世界から神に選ばれた人以外をいなくしちゃうだけ。絶対幸せな世界になるんだから」
急に弾むような声になった女性に、イオナは変わらぬ口調で問いかける。
「そのための手段が死だと。それで——生き残る選ばれた者とは?」
「神に選ばれた善良な人間のこと。神に忠実で、うちみたいに普通の人間より優れた人は、新しい世界で神に選ばれた人間に相応しい、富と名声をもって永遠に過ごせるんだから」
胸を張って言い切った女性が、ふいに耀に厳しい目を向け、声を張り上げる。
「なぜ、あんたは神に選ばれたのに、それを拒否するの?おかしいでしょ。自惚れてんの?神に従い神の元で生きないといけないことが分からないの!」
アンナは呆れた顔を見せ、レイは右手で頭を押さえた。
「頭が痛いですわ」
「全くです。善良な人間が人攫いとは——」
その態度に苛立ったかのように、さらに張り上げた声が響く。
「神に選ばれたうちらがやることは、全部善良な行いなんです!神に従わないあんたは、どんだけ悪いことをしてるのか分かってないの?」
「神ね。僕の力を借りないと、その大審判とかをできないくせに——それが神ね」
耀は話に興味を持てないような素振りを見せながら、女性に言い放った。
アンナも呆れた表情で、耀の言葉に続いた。
「ご主人様の方が、よほど神なのでは?」
「まぁ、真剣に聞くのがバカバカしくなってきた」
ソファに深く背中を預けた耀に、イオナが笑顔を向ける。
「では、適当に聞き流してください。私がこの方をお相手します」
「——悪いなイオナ、口を挟んでしまった」
「いえ、この方は、死にたくないと私に懇願した割に、態度が大きいようです」
イオナの鋭い視線が、女性を再び捉える。
「——身の程をわきまえてもらう必要があります」
静かに席を立ったアンナが、ウイスキーとグラスを持って戻ってきた。
「ご主人様、ゆっくりとこの場のお話を楽しまれたらいかがでしょう」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
その様子を見て、さっきまで厳しい目を向けていた耀に対して、女性は色目を使い始める。
「神に従うって約束してくれたら、うちの身体をいつでも自由にしていいよ」
その甘く優しい声はさらに響く。
「たくさんの男が憧れてるうちが、お酒の相手もするし、そのあとに抱いてもいいんだよ」
さらに女性がつなげようとした言葉を、イオナの冷たい声が断ち切る。
「あなたの相手は耀様ではなく私です。そこから動かず、話を聞かせてくれるだけで十分です」
アンナは呆れた表情で、耀のグラスに酒を注ぐ。
「先ほど済ませておいて良かったです。人攫いがこのような女だとは思っていませんでした」
「スケベモードアンナも、時にはいい仕事をしますわ」
レイのその言葉に、耀は一抹の不安を覚えた。
「僕はなんだと思われてるんだ」
「むっつりスケベですわ」
清々しく言い切ったレイを横目に、耀はグラスに口をつけた。
——イオナが聞いた内容を要約すると、神は自らが選んだ者だけの世界を作るために、全ての信者を対象に『大審判』を行おうとしている。
そのために、耀の持つ膨大な魔力を利用しようとしたが、彼は神の声に従わなかった。
だから、信者を使い暴力、色仕掛け、薬物、ありとあらゆる手段を使って、耀に絶望を味合わせようとしている。
絶望の淵に追い込まれた耀が、自らの言葉で神に救いを求めれば、神は彼を自由に使えるようになるらしい。
耀とラウムの対等な関係ではなく、耀を神の眷属とするつもりだろう。
——信者は神から直接言葉を得られる『使徒』。その使徒に従う『従徒』。
さらに一般信者に分けられるが、教義によると、人類は全て信者という扱いになっているそうだ。
そして、信者の死後は神に対する敬意や貢献度、能力に応じて、神に直接仕える『聖者』。聖者に仕える『聖守徒』。その支配下に置かれる『徒民』とに分けられる。
ただし、聖者になれるのは生前に使徒であった者のみで、聖守徒になれるのは同じく従徒であった者のみらしい。
それ以外の者は、善者とされれば徒民、悪者とされれば地獄に送られる。
その神の地獄とは『永隷』と呼ばれる存在に堕ち、神の世界の維持や、娯楽のためにその命を捧げるらしい。
——と、イオナが淡々とまとめてくれた。女性の話を聞いていても、理解できなかったので助かった。
だが、僕の胸の内には、別の思いが湧き上がっていた。
「でもさ、僕を使って大審判ができるのか?」
「おそらく、自らが顕現化しようとしているのではないかと推察します」
「なるほどね。僕じゃなくて僕の魔力が目当てなんだ」
空になったグラスにアンナがウイスキーを注いでくれる。
その都度、耳元を甘い吐息で撫でるが、何を求めているのか分からない——
「あのさ、イオナ。眷属にすれば僕の魔力を使えるのか?」
「分かりませんが、悪魔の場合は人間の生命を糧としますので……」
「——最後は僕の命……か」
僕とラウムの契約も、僕の命が代償になっている。
イオナの場合は歳を重ねないが、恐らくダンタリオンの眷属でなくなったら死を迎えるのだろう。
うつむいてはいるが、落ち着いた様子の女性に、レイが問いかける。
「あなたはその神を見たことがありますの?」
「ないんだ。神の名と姿を知ってるのは使徒様だけ」
——信仰とはそのようなものなのだろうか?
ただ、レイは少しその言葉に思うところがあるのか、眉を寄せている。
「なあ、この人どうする?」
問いかけた僕に、イオナが問い返す。
「耀様はどうされたいのですか?」
その何かを含んだ表情は、何となく理解できる。
僕が『欲しい』と言えば、——この女性を僕の寝室に送ってくるだろう。
「たぶん、この人は木っ端だし、大した情報も持ってないだろう。面倒だし帰ってもらおうか」
「はい」
僕に短く答えたイオナは、再び女性に問いかける。
「最後にもう一つ聞かせてください。その神はどうやって耀様の存在に気づいたのですか?」
「うちが仕える使徒様が見つけたって言ってた。その貢献で従徒から使徒になったんだって」
「では、あなたは従徒なのですか?」
「そう。使徒様にうちの身体を一晩好きにさせてあげて、従徒になれた」
『欲しい』と言わなくて良かった——
「腐った集団だな」
「では、あなたはご希望の場所までお送りいたしましょう」
リビングを出る際に、イオナが僕の耳元に顔を寄せ囁く。
「耀様、ラウム様をお呼びください」
「同じことを考えていた、夜でいいかな?」
「はい。それでお願いします」
そのイオナの横顔は、なぜか頬がうっすらと染まっていた。
イオナが女性を連れ、耀の家の玄関を出ると、小降りになっていた雨が再び激しく地面を叩いていた。
耀の家の前に横付けされた車から、ボディガードが傘を手にして歩いてきて、イオナと女性を車まで案内する。
後部座席に乗り込んだイオナは、ドアが閉められるのと同時に、女性の額を右手で掴んだ。
「あなたの記憶を少し触らせてもらいます」
イオナの突然の行動に、女性は目を見開き、イオナを睨むが、間もなく戸惑いと恐怖に身を固くした。
「イヤ……頭の中が気持ち悪い……」
「あなたは私のために尽くすのです、これからずっとです。いいですね。それが今日無事に帰れる条件です」
「イオナ様」
「はい、あなたの主人ですよ」
「今日、あなたは何も話さず、黙秘を貫き、使徒に貢献した。そうですね」
「はい、そうです」
「いい子です。では、自宅まで送りましょう。住所を教えなさい」
「はい、イオナ様、ありがとうございます」
イオナの合図で再びドアが開かれた。
「部屋まで送って差し上げなさい」
そう運転手に指示をすると、イオナは車を降り、傘を差したボディガードと共に、静かに自宅へ歩き始めた。
雨を優しく跳ねながら滑り出す車に、目を向けることもなく、彼女の刻むその足音は、激しく降り続く雨に吸い込まれるように消えていった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月20日、一部修正しました。




