清爽な朝
朝露に濡れた木々の香りと共に、東の空から差し込む光が、ゆっくりと部屋の影を後退させていく。
だがリビングは、その光に背を向けたように、熱を残した夜の匂いと、未だ解けぬ余韻に包まれていた。
レイとラウムが佇むそこには、アンナの甘く艶やかな声が、夜の続きを密やかに囁き続けていた。
「——いつまで続きますの?」
レイの小さな呟きに、ラウムも小さく呟き返す。
「知らぬ。——が、そろそろ止めた方が良いのではないか?」
「悪魔でも心配することがありますの?」
少し驚いた表情を見せたレイだが、すぐに耀の寝室へ続く扉に視線を向けた。
「でも、確かにそうですわ。弱っている兄様に、アンナが止めを刺しかねませんわ」
「うむ。主人は人間であるからな」
そのラウムの言葉に、レイは疑問を投げかける。
「兄様の限界って、どこですの……?」
「サキュバスは自らが求める限り、相手に快楽を与え続ける。これ以上は主人とて無事では済まぬのでないか?」
「何を冷静に座ってますの!そういう大事なことは早く言ってくださいまし!」
レイは声を荒げると、勢いよく耀の寝室へと駆け出した。
「兄様!アンナ!」
自分の入室を二人に告げるように、レイは扉の前で大きな声を上げる。
扉を開ける瞬間、胸の奥がざわつき、嫌な予感が全身を駆け巡る。
「兄様……ご無事でいてくださいまし」
祈るように手を握りしめたレイは、すぐさま取っ手を掴んだ。
「アンナ!兄様をそろそろ解放してくださいまし!」
すぐに扉を開けると、そこではアンナが耀の上に乗り恍惚の表情を浮かべていた。
「すごいですわ……ではなくて、兄様もアンナも、もう朝ですわ!」
「——もうそんな時間ですか……」
アンナが見下ろすと、白目を向き、口を半開きにして衰弱しきった耀の姿が目に入った。
意識があるかどうかも怪しく、誰が見ても瀕死の状態となっていた。
「ご主人様!しっかりなさってください!」
慌てるアンナにレイは頭を抱える。
「手遅れでしたわ……」
「あ、ああ……大丈夫……ではないけど……」
アンナは、自分の声で意識が戻った耀を気づかいながらも、降りる素振りを見せない。
「アンナおはよう……」
白目のまま、耀はまるで壊れた機械のように、レイへと視線を向ける。
「レイもおはよう、ラウムは?」
「リビングにおりますわ。でも、少しお休みになってくださいまし、ラウムは兄様の都合で呼べばいいのですわ」
「いや、早めに聞きたいことがあるんだ」
耀は自分の状況が理解できないのか、何事もないかのようにレイに話しかけている。
「アンナは早く兄様にお食事を作ってくださいまし」
「着替えたら行きますので……」
返事は聞こえたが、アンナが動く様子はない。
「早く着替えてくださいまし、兄様が限界ですの!」
レイの言葉を無視して、アンナは耀を愛おしそうに見つめている。
「アンナ!なぜ、黙っていますの!」
「大丈夫だよレイ、僕も忘れないうちにラウムに聞かなきゃいけない事がある」
「分かりましたわ……ラウムに待つよう伝えておきますわ」
レイが部屋を後にすると、アンナは再び耀の身体を指でなぞり始める。
「アンナ、離してくれるかい?」
「……」
「——アンナ?」
「はい、ご主人様。また今夜に……」
耀の声にアンナは少し物足りない表情を浮かべながらも、ようやく耀の身体から降りる。
——その肢体からは、ひと夜の幸せを湛えた光が、床に滲むように漂っていた。
身支度を整えリビングに入ってきた耀に、ラウムがゆっくりと視線を向ける。
「其方、顔がやつれておるが、張り切り過ぎではないか?」
「聞かないでくれ。気まずい……」
「一晩中あのような声を聞かされては、某とて思うところがある」
嫉妬じみた皮肉に、耀はわずかに眉をひそめたが、深くは考えずソファへと向かった。
「——で、話があるとか」
耀はソファに腰を下ろし、話を切り出す。
「そうなんだ。——僕が錯乱してたのは見てたか?」
「うむ。あれは錯乱というより、別人であった」
「そうか……まあ、それはいい。その時に声が聞こえたんだ」
「皆が呼び掛けておったのである。ひとつくらいは聞こえるであろう」
「いや、違うんだ。なんか不思議な声だった。けど、はっきりと聞こえた」
ラウムは顎を撫でながら少し思案すると、耀に問いかける。
「その声は何と申していた?」
「えっと、『汝、我に救いを求めよ……さすれば永遠の安穏を授けよう……』だった。何度も何度も繰り返し聞こえてた。というより、それしか聞こえなかったんだ」
ラウムの目が大きく見開き、しばらく沈黙する。
「——それは、真であるか?」
「ああ、はっきり覚えてる。男とも女ともつかない、不思議で不気味で、それでいて妙に威厳のある声だった」
ラウムがソファを立つと、その身体が黒い霧に包まれ始める。
「某は領地に戻る。其方の話は何か大事なことであると思うゆえ、知恵を借りたい者もおるのでな」
「ラウムさん朝食は?すぐにできますよ」
「——頂こう」
アンナの声を聞いたラウムが再びソファに腰を下ろすと、黒い霧も消え去る。
「帰るんじゃなかったのか?」
「アンナの作る食事は美味であるゆえ」
耀の呆れたような呟きに、ラウムは平然と答えた。
呆れた表情でラウムを見る耀の前に、静かにレイが立ち、申し訳なさそうに両手を胸の前で結ぶ。
「兄様、レイのせいで申し訳ございませんの……」
レイの表情は、昨日のことに責任を感じているようだが、耀自身は、全くレイに責任がないと考えている。
「僕がお願いしたんだ。それにレイのことを知ることができたのは本当に嬉しい」
「——本当ですの?」
「本当さ」
レイはほっとした様子を見せながらも、まだ何か言いたそうな素振りをしている。
そんなレイを無視するかのように、ラウムの声が耀の耳に届く。
「ところで其方が先に話した声であるが、これまでに聞いたことはあるか?」
「いや、ないな。あの声は一度聞くと忘れないと思う」
耀の返答にラウムはうなずいた。
「似たようなこともなかったのであるな?」
「そうだな。初めてだったからラウムに聞きたかったんだ」
ラウムは顎に手を当て、小さく首を傾けた。その仕草には、僅かな戸惑いすら感じられる。
「なにゆえ、某に?」
「何となくだけど、ラウムと似たような存在に思えたんだ、ラウムの声も時どき男性か女性か分からない時がある。だから感覚的にそう思ったんだ、何の根拠もないけどさ」
「あながち間違いとは言えぬかもしれぬな」
「どういう意味なんだ?」
「某も判断がつかぬ。一度戻って彼奴の意見を聞いてみたい」
「彼奴とは?」
「其方に会いたがっている者であるな」
「お食事ができました」
いつもと同じようにリビングに響くアンナの声が、今朝はどこか、余熱を帯びた響きに聞こえた。
耀たちがいつもの席に腰を下ろすと、ラウムがわずかに椅子を耀の方へとずらしたように思えた。
「美味そうであるな」
ラウムの不自然な行動に、眉をひそめる耀を気に留めることなく、ラウムは食事を始める。
朝食を取りながら雑談をしている中、まだ、何かを言いたそうにしているレイに耀が気付く。
「レイ、どうしたの?」
「あの……」
レイは顔を上げ、耀とラウムを交互に見る。
「——先程、兄様が話された声、レイにも聞こえていましたの」
「真であるか?」
ラウムが食事の手を止め、レイに問い直す。
「はい……レイは兄様が連れ去られると思い怖かったですの。あれは兄様を助けるというより、奪おうとしているように感じましたわ」
アンナは不思議そうな表情を浮かべ、ラウムに問いかける。
「私には何も聞こえていませんでしたが、ご主人様とレイだけが聞いていたのでしょうか?」
「そのようであるな」
レイは真剣な表情で、耀の顔をじっと見つめた。
「それと、兄様が……兄様が『殺してやる』と言っている声も聞こえましたの——」
その言葉に、全員が耀に顔を向ける。
「えっ?僕は、そんなことを口にした覚えはないけど……」
「いえ、ご主人様は私が抱き寄せるまで、ご自身を死に追いやるような願望を呟いていました」
「そうであったな。それは、その声の主に向けられた言葉であるか?」
「いえ、兄様自身にですの。兄様の声は兄様のことを面倒だと言って、でも兄様は逃れようとしていましたの。レイも兄様に呼びかけましたが、兄様には届いていないようでしたの……」
耀ひとりを除いて、レイの言葉を理解できる者はいなかった。
「それで、レイからも逃れて、兄様が遠くに行ってしまうのかと思い、悲しくなって泣いてしまいましたの」
「其方、記憶にあるか?」
「ごめん、僕は全然その辺の記憶がない……」
だが、耀には心当たりがある。——誰も信じないようなそれは、言葉にされなかった。
「でも、あれは兄様の声に間違いありませんの。でも優しさがなくなった兄様の声でしたわ」
レイはうつむき、声を小さくして呟く。
「もうひとりの兄様がいるようでしたの——」
レイのその言葉に、耀は一瞬、微笑んだ。
「レイよ。汝の話は真に重要なことである。話してくれたことに感謝する」
すぐに聞こえたラウムの声で、耀の微笑みを誰も見ることはなかった。
「レイ、僕からもお礼を言うよ。ありがとう」
耀の言葉を聞き、レイが顔をあげるが、未だに不安そうな表情を浮かべたままだった。
「信じてくれますの?」
「ああ、僕は今の話で何か思い出せそうな気がしてきた。レイが呼びかけてくれたのは、僕で間違いないと思う」
ラウムも静かにレイに話しかける。
「某はその話で何かがつながったように思えるゆえな。汝の話は信用に値するのであるな」
アンナはレイの横顔に笑顔を向けている。
「私も信じていますよ。ご主人様は私に抱き寄せられて静かになりました。おそらく救いを求めていたからでしょう」
「あの力で抱きしめられれば、誰でも大人しくなるであろう」
「——ラウムさん?」
三人の会話を聞いて、ようやくレイの表情に、僅かな明るさが戻った。
そして、朝食が再開された。ただ、いつもとは違う静かな食卓で。
朝食を終えたテーブルには静けさが漂い、それぞれが昨晩の出来事と声、レイの話を反芻していた。
ただ、アンナだけは頬を染め、女になった経験と、快楽の記憶に浸るような表情を浮かべていた。
ふいにラウムが席を立つと、耀に視線を向ける。
「では、某は暇を頂くとしよう」
耀はラウムを見上げ答える。
「近々、ラウムの知り合いを呼ばなきゃならなそうだな」
「然様であるな。主人よ、いろいろ馳走になった」
耀に意味深げな言葉を残し、黒い霧に包まれたラウムは消えた。
ラウムの去った席を見ている耀に声がかけられる。
「ご主人様、少しお休みになられては?」
「うん、そうさせてもらうよ」
席を立とうとする耀に、レイがチラチラと視線を向けながら、話しかける。
「あの……兄様がレイを嫌っていなかったら……その……兄様の寝顔を見ていたいですの」
「——どうしたの?」
「兄様がいなくなると思って、——兄様がレイを嫌いになったと思って、——いろいろ考えすぎて一晩中怖かったですの。近くで兄様の寝顔を見ていれば安心できますの……」
一気に思いを吐き出したレイに、耀は優しい声で応じる。
「じゃあ、僕が寝付くまで話し相手をしてくれるかな?」
「もちろんですわ!」
レイの表情が一気に明るくなった。
——レイは嬉しそうに、耀の手を引き寝室へと向かう。
その浮かれた気分は、開いた扉の中に広がる光景で、一気に現実に戻された。
「——この乱れ具合は、何ですの」
「兄様、少しお待ちくださいまし、シーツを取り替えますわ」
この状態のベッドに寝る耀を見るのが、なんとなく気分が悪く、急いでシーツを取り替える。
アンナのにおいが染み付いたシーツは、洗濯機に放り込んだ。
「さあ、兄様、おやすみくださいまし」
「ありがとうレイ」
レイはベッドの横に腰を下ろす。耀は布団を少し持ち上げ、レイに声をかける。
「レイ、こっちにおいで」
「でも、兄様はお疲れですの」
「大丈夫、そばにいてほしいだけだから」
「はい。兄様……」
耀の顔を恥ずかしそうに見つめると、レイは布団の中に潜り込む。
布団の中に潜り込んだまま、レイは勇気を振り絞っていた。
何度も何度も心の中で繰り返した言葉を、目を閉じてありったけの勇気で声にする。
「兄様……あの……口づけをしてくださいまし」
ゆっくり目を開くと、寝息を立てる耀の顔が映った。
レイはため息をついて、耀の寝顔に微笑みを向ける。
「兄様、レイは心臓が止まりそうでしたの……」
そう耀の寝顔に囁くと、再び布団の中に潜り込み、耀の胸に頬を当てる。
『兄様もお疲れなんですわ。ゆっくり休んでくださいまし——』
心の中で呟き目を閉じた。
《お前はなぜ、俺の存在に気付いた》
突然聞こえた声に、レイは布団を少し持ち上げ、耀の顔を見る。
変わらず寝息を立てる耀を見て首を傾げた。
「兄様の声でしたわ……」
布団に潜り込み、耀に寄り添う。
《本当に俺の声が聞こえているようだな》
昨日聞いた声だと確信し、レイは目を見開く。
『誰ですの?』
《相葉耀……その身体の心に潜む相葉耀》
『兄様を殺そうとした方ですの?』
《そうだ。アンナとレイ、二人の女に邪魔されたがな》
レイに届く声がはっきりとしてきた。
『なぜ殺しますの?兄様が死んだら、心に潜む兄様も死んでしまいますわ』
《面倒だからだ》
『面倒ですの?』
《ああ、いずれ分かる》
『教えてくださいまし……兄様』
《俺にこの身体を殺されたくなければ、そこに寝る俺を支えることだな。俺に頼ることがないように》
レイはしばらく黙り込んだ、運命を変える方法と、自らに沸く気持ちを考える。
果たして受け入れられるのか、——不安と緊張で声が震える。
『いやですわ』
《そうか、それなら構わない》
『レイが支えるのは、今話をしている兄様ですの』
《俺か?》
『そうですわ、どうかレイに姿を見せてくださいまし』
《その身体は俺ともうひとりの俺が共有している、そして俺はただの『潜む者』で姿は変わらない》
『それなら、レイは待ちますわ』
《好きにしろ。俺が拒む理由は何もない》
『わかりましたわ。では、もし本当にお会いできたなら、——そのときは口づけをしてくださいまし』
《それも俺が拒む理由はない》
『約束ですわ』
《ああ》
それを最後に声は聞こえなくなった。
再度、耀の様子を見ると、やはり寝息を立てている。
「もうひとりの兄様は孤独の中にいるのですわ——」
レイの顔には、温かな微笑みが静かに浮かんだ。
「兄様……声を聞かせてくれて、レイは嬉しいですわ……」
レイは、まだ微かに残るその声の残響に耳を澄ませる。
心の奥に潜むその存在の影が、確かに温もりの気配を帯びていたことを、心のどこかで感じていた。
「兄様……どんな存在であろうと、レイは共にありますわ……今は二人だけの秘密にしておきますの」
「——ご主人様」
優しく包まれるような声で耀は目を覚ます。
「ご主人様、昼食にいたしましょう」
「ありがとう。アンナ」
身体を起こそうとした耀は、起きるに起きられないことに気付いた。
「ご主人様、レイは?」
「布団の中にいるよ」
アンナがそっと布団をめくると、耀のシャツにしがみついて寝ているレイの姿があった。
「もう少し、寝させてあげたいくらいだね」
レイは耀の胸にしがみつき「兄様……うふふ……」と呟き、微笑んだ。
「レイも安心したんだろうね」
「はい、きっとそうだと思います」
その静かな寝息とぬくもりが、ようやく訪れた安らぎを、確かに知らせてくれていた。
窓辺から差し込む昼の光が、寝室のカーテン越しに柔らかな陰を落としていた。
微かに揺れるレースの隙間からは、光と影の共演とともに、外の穏やかな気配が流れ込んでくる。
耀の胸に顔を埋めたレイの寝息は、まるで子猫のように安らかだった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月17日、一部修正しました。




