ジョアンナ
堰を切ったように、身体の奥底から溢れ出る欲望に流されるがまま、耀はアンナを求め続けている。
身体の隅々にまで広がる官能に溺れながらも、その脳裏にはひとりの女性の記憶が流れ続けていた。
記憶の中にいる赤い髪と緑色の目の少女……
その緑の瞳が微笑む。その微笑みに、なぜか懐かしさがこみ上げる。
——ああ、これは……アンナだ。
アンナの快楽の歓喜に重なるように、少女のあどけない笑い声が響く。
溶け合う二つの声は、僕の心の深淵から何かを呼び起こす——
——物心ついた頃には、周りの子供達に比べて、私の身体はひときわ大きかった。
父は、私の体格に希望を見出したのか、聖女の騎士にと鍛え上げるべく、毎日欠かさず村を出て、草原で稽古をつけてくれた。
「ジョアンナ。降参か?」
「いえ父上、もう一本行きます!」
私は必死に直突きを放つが、簡単に父の剣に弾かれてしまう。
「今日はここまでにしよう」
「いえ、まだ大丈夫です」
「ジョアンナが大丈夫でも、母さんが大丈夫ではないからな」
家に帰る道中、いつも父は機嫌よく同じ話を聞かせてくれる。
「ジョアンナの槍と体術は父さんを超えそうだな。きっと聖女の騎士にもなれるぞ」
聖女の騎士とは、国で唯一神託を受けることができる聖女の身辺警護を受け持つ女性だけの騎士団。
美しい装いと、規律ある振る舞い、そして、名誉ある職として多くの女性の憧れだった。
私も、あの白い鎧を纏い、聖女の隣で誇らしげに立つ自分を、何度夢に見たかしれない——
「私も聖女の騎士になれるでしょうか?」
「きっとなれるぞ。平民の子でも偉くなった人だっているんだ」
父は元兵士で、平民出身の下級兵でありながら、その剣の実力は一目置かれる存在だったと聞いた。
戦場を幾度となく越えてきたであろう父の言葉は、まるで剣のように私の心に刻まれた。
そんな父とは対照的に、母は私の器用さや、優しさに期待し、料理や裁縫を丁寧に教えてくれた。
父との稽古の後は、母と一緒に夕食を作るのが私の日課となっていた。
「今日の肉は柔らかくて、美味いな」
「ええ、ジョアンナが下ごしらえをしてくれたのですよ。この子は器用ですから」
「ジョアンナは聖女の騎士になれなくても、母さんのようないい妻にもなれそうだな」
「ええ、どちらにしてもこの子の未来は明るいですね」
両親の会話に、嬉しいような、くすぐったいような気持ちになり、私は食事の手を止めずに、——聞こえなかったふりをしてしまう。
夕食のあと、私の大きな身体に合わせた服を、母と一緒に作るのも楽しみだった。
——そんな両親に包まれて私は幸せだった。
両親が私を誇りに思ってくれるなら、私はその期待に応えたい——名誉も収入もある、聖女の騎士になれば、きっと二人も喜んでくれる。
そんな思いが、私の中でいつしか形をなし、夢として息づいていた。
私の生まれ育った村は、王都から遠く離れた辺鄙な場所にあり、領都までも徒歩で二日かかるほどだった。
人口も百人程度と小さく、村の人々は皆、顔見知りだった。
父は午前中、畑仕事に勤しみ、午後からは私に稽古をつけてくれる。
私は父の畑仕事を手伝うのが好きだったが、母に頼まれて村の中心部にある商店に買い物に行くこともあった。
しかし、身体の大きさから、両親以外の人からは奇異の目で見られていた。
陰では『悪魔の子』と呼ばれ、避けられ、心ない言葉を投げかけられることも多かった。
「あなたの大きな身体には、優しさがいっぱい詰まっているのですよ。きっとあなたの優しさに気付いて、その大きな身体を包み込んで、大切にしてくれる人が現れますからね」
心ない言葉に落ち込んで家に帰ると、母はいつもそう言って優しく抱きしめ、慰めてくれた。
——十九歳のある日、父が畑の近くに小屋を作るというので、私は手伝うことにした。
買い物に行くよりも、畑仕事の方が楽しかったからだ。
「この大きな丸太を柱にするんだぞ」
「立派な小屋ができそうですね」
小屋の四隅に立てる丸太を前に、父が少し自慢げに話す。
「これをあの穴に立てるのですね」
「そうだ、父さんは穴をもう少し突き固めるから、ジョアンナは柱を立てる準備をしてくれるか?」
「はい」
返事はしたものの、何を準備すればいいのか、私には分からなかった。
「よし、立てるぞ!」
丸太を眺めて考えていると、父の声が聞こえたので、私は丸太を抱え上げて運び、穴に立てた。
「ジョアンナ……お前……」
「父上、私が支えていますから、穴を埋めてください」
目を丸くして驚く父にそう言うと、私は父の作業が終わるまで、しっかりと丸太を支え続けた。
その日の夕食時、いつもは大きな声の父が静かに話を始めた。
「ジョアンナ、今日一番大きかった丸太は重かったか?」
「少し重かったです」
「——そうか、あの丸太は父さんでは持ち上げることはできない」
父は目を伏せ、しばらく黙り込んだ。
「あの場所まで男三人で運んだんだ」
「何かあったのですか?」
尋ねる母に父は経緯を話した。
「まぁ、凄いですねジョアンナ。でもあなた——」
「ああ……ジョアンナ、あの力は他の人に見せてはならんぞ」
「なぜですか?」
「あの力を知られるのは、ジョアンナにとって危険だからだ」
「よく分かりませんが……」
「よく分からなくていいです。でも、分かるまでは、あなたと父さんと母さん、三人だけの秘密にしましょうね」
「はい……」
「——約束ですよ」
——それから一年が過ぎた春、聖女が領都を訪問することになり、元兵士の父にも警備兵として招集がかかった。
私は父の強い誘いもあり、領都に同行することになった。
村から出たことがなく、期待よりも不安が大きかった私の背中を「一度くらいは村から出てみなさい」と母が押してくれた。
領都には三日間滞在する予定で、その間は父の古い知り合いの家に泊まることになっていた。
出発前から父は機嫌が良く、その人に会うのをとても楽しみにしているのが、手に取るように分かった。
父との旅路はとても楽しく、目に映るすべてが私の興味を惹いた。
歩くことの疲れを感じる間もなく、私たちは領都にたどり着いた。
高い塀の威圧感に少しだけ胸がざわついたが、それもすぐに父の背中に吸い込まれた。
門の前では、ぼろを纏った旅人や、香水の匂いを漂わせる商人風の一団が雑然と列を成していた。
待つのを覚悟したが、警備兵として招集された父は、別の門から通され、あっけなく領都に入れた。
父はかつて領都で暮らしていたらしく、街の話を私にしながら、迷わず道を進んでいく。
周囲には立派な建物が並び、行き交う人々はみなきれいな服を纏っていた。
私は興味と憧れで次々と目に入るものを追いかけた。
やがて目的の家に到着すると、父は迷うことなく扉をノックする。
その大きな家の立派な扉から、ひとりの老人が出てきて、出迎えてくれた。
「よく来たの。疲れたじゃろう。ささっ、入ってくだされ」
「ありがとうございます」
「父上、あの方は?」
「父さんの元上官でな。父さんはこの方に一度も勝てたことがなかった」
「懐かしい話をするの。今は引退してただの隠居じゃ。いやぁ、爺ひとりの寂しい家が賑やかになったわい」
老人は皺くちゃの笑顔で、お茶を出してくれた。
「恐縮です」
「気にするでない。ところで娘さんかの?」
「はい。娘のジョアンナです」
「初めまして、ジョアンナと申します」
「ほう。無作法だったお前さんの子にしては、礼儀正しく育っておるの」
老人は私を見定めるように視線を動かした。
「良い体格をしておるようじゃが、稽古はつけておらんのか?」
「毎日つけております。正直、剣の腕は大したことありませんが、槍と体術の才能は抜きん出ております」
「お前さんが褒めるとはの。だが、それでは実力なのか親バカなのか分からんでの」
老人はおもむろに立ち上がり、壁にかかった木剣と木槍を手にした。
「この爺と手合わせしてくだされ——」
老人は目を細め、私を見つめた。その眼差しは、これまでの穏やかさとは違い、鋭く研がれていた。
——三人で庭に出て、私は老人と対峙した。
「遠慮せず本気でかかってきなされ」
私は本気で何度も老人に挑んだが、ほとんど何もさせてもらえず完敗した。
「大したものじゃ。そこらの兵士程度では束になってもお嬢ちゃんに勝てんじゃろうな」
無惨な負けを晒した私を、老人はにこやかに見て、言ってくれた。
——翌日から父が警備兵として仕事をしている間、この老人が領都を案内してくれることになった。
「お嬢ちゃんは教会に行ったことがあるかの?」
「いえ、村に教会はありませんでした」
「では、行ってみるかの」
「警備が厳しいのでは?」
「なーに、問題ないわ」
老人は気に留める様子もなく、教会への道をただ淡々と進んでいく。私ははぐれないように、ただ老人の後ろを黙ってついていった。
聖女が滞在しているためか、兵士が厳重に警備する教会の前で、老人は女性の騎士としばらく話をしていた。
少し離れたところで待っていると、老人が私を手招きするのが見えたので、そのもとに急いだ。
「お嬢ちゃん、行きましょうかな」
柱の燭台の炎が、無言の祈りのように揺れていた。私は息を呑み、歩くたびに床石が冷たく音を返すのを感じていた——ここは、私のいた世界とはまるで違う。
私はどうすればいいのか分からず、ただ老人の後ろを歩き、仕草を真似して何とかやり過ごした。
作法も分からないまま、見よう見まねで教会での礼拝を済ませると、私と老人は教会の奥にある小部屋に案内された。
「あなたがジョアンナですか?」
「はい……ジョアンナと申します」
私に話しかけてきた女性は、その白い鎧から聖女の騎士だと分かった。
その聖女の騎士は、つま先から頭まで私をじっくりと見て、口を開いた。
「なるほど、聞いた通り良い体格をしていますね」
「そうじゃろう。ワシも手合わせしたが、槍の腕は一流といって良かろう」
「隠居殿がそう申されるなら、私から申し上げることはありません」
「そうか、良い返事をもらえて嬉しく思うぞ」
なんの話をしているのか分からないが、どうやら老人と手合わせをしたときの話のようだ。
聖女の騎士は、私の方を向くと口を開いた。
「では、来月、王都まで来てください」
「お嬢ちゃん、心配せんでもこの爺が王都まで案内しますからな」
「いったい王都で何があるのでしょうか?」
「聖女様の護衛騎士団候補生となるのです」
その瞬間、私の心は希望に満ちた。憧れの聖女の騎士への道が開かれたのだ。
何も分からないうちに、私の夢は手の届くものとなっていた。
「お嬢ちゃんには、この爺の姓をやるからの。今からジョアンナ・ド・フェドロニックと名乗ると良い」
「はい!ありがとうございます」
ひと月後、聖女の騎士の候補生として宿舎に入った。
母との約束で、二十三歳の誕生日までに聖女の騎士になれなければ、村に帰らなければならない。
王都までの道のりは期待に胸を膨らませていたが、宿舎の現実は私の思い描いていたものと大きくかけ離れていた。
「あれは誰でございます?」
「姓はありますが、元は平民の子らしくてよ」
「なぜそんな下賤の者がここにいるのです?」
騎士としての訓練時間は僅かで、ただ無意味に時間を潰す日々が続いていた。
午後から訓練場はほとんど使われていないので、私は空いている時間を利用し、ひとりで身体を鍛えた。
身体は鍛えるほどに能力が上がっていくのを実感した——
槍も体術も上達していると思うが、ここには私と手合わせをしてくれる人がいない。
ただひたすらに、父との稽古や老人との手合わせを思い出し、見えない相手と対峙し続けた。
「下賤の者がいい格好を見せようと」
「身分を弁えてもらいましょう」
「出自を調べてみるのも面白そうですわね」
——ここは、貴族の令嬢たちが名声を得るために利用する場と化していた。
聖女の騎士であったという経歴は、良い嫁ぎ先を選ぶのに都合のいい名声だった。
平民の子である私は、誰からも相手にされなくなった。
いつしか、私が村で『悪魔の子』と呼ばれていた話も広まり、孤立は深まった。
宿舎の食堂は使えなくなり、食事もひとり自室で取ることを強制された。
「せっかくの美形もあの身体では台無しですよね」
「平民の割に美人だから、ここに入れたのでしょう。でも、あの身体では嫁ぎ先なんてありませんわね」
「目障りなので、早くあきらめて田舎に帰ればよろしいのです」
あれから二年の月日が流れたが、候補生から騎士となるのは貴族の令嬢ばかりだった。
少し剣が振れて、少し乗馬ができるようになれば、指導教官への心付けと、教会への多額の寄付で騎士となれる。
それができなければ、どれだけの実力があっても候補生のままで過ごさなければならなかった。
——貧しい私が騎士となる道は、初めから閉ざされていた。
しかし、私は父と母に少しでも楽をさせたい一心で、諦めることができなかった。
「もう少し頑張ろう」
そう部屋で呟く夜を幾度も過ごした。
しかし、母との約束した二十三歳になるひと月前、私は退団することを決め、副団長にその旨を伝えた。
そして、誕生日の前日、すべての手続きを済ませ、荷物もまとめ終えた。
——明日は王都を発つ。
十日もすれば村に帰り着く、聖女の騎士にはなれなかったが、父と母との生活は楽しみでもあった。
最後に教会を見学したいと副団長に申し出たら、快く許可をもらうことができた。
私は全てが美しく装飾された教会を見回しながら廊下を歩いていた。
少し奥まった廊下の壁に立てかけられた、立派な木材の束に目が止まった。
「こんな木材、村では見たこともありませんでしたが、ここではよく使われていますね」
呟きとともに何となく、父と小屋を建てた時のことを思い出した。
立派ではないが、愛着の持てる小屋ができて、あの時の私は父と手を取り合って喜んだ。
あと十日もすれば、また父と畑仕事に励む日々が戻ってくるのだろう。
夢は破れたが村に戻るのも悪くはない気がして、自然と微笑みがこぼれた。
夢が破れたのではなく、夢の形を変えるだけ——私の心に希望が溢れる。
最後の思い出として見学した教会で気付いた平穏、翌日の出発が楽しみになった。
軽やかな足取りで自室に戻る途中、前から聖女が近づいてくるのが目に入った。
私は失礼のないよう、脇に避けて立ち止まった。
『聖女様のお姿も見納めですね……』
風もなく、人通りもない静かな回廊——それなのに、木材の束が唐突に、まるで聖女を狙ったように崩れた。
私の身体は咄嗟に動き、倒れ込む木材を間一髪で受け止めた。
聖女はそのまま地面に倒れ込んだが、幸い怪我はないようだったが、その顔は恐怖に引きつり、身体は震えている。
「この者は悪魔憑きです!捕らえなさい!」
聖女は私を指差し叫んだ。すぐに聖女の騎士が私を取り囲み、剣を抜く。何かを訴える余地はなかった。
捕らえられた私は、教会の地下にある牢へ連行された。
牢に入れられた私に尋問はなく、ただ明日からの不安が何度も頭を過ぎるだけの夜を過ごした。
——翌朝、牢の前に聖女と三人の聖女の騎士が現れた。
「先ほど神託がありました。この者は悪魔憑きで間違いありません。即刻王都から追放しなさい」
私は聖女の命令を受けた、聖女の騎士によって手枷をかけられ、抵抗する間もなく牢から引きずり出される。
外に出ると、教会の裏には馬車牢が待っており、手荒にその中へ押し込まれ——そのまま王都から追放された。
どこに連れて行かれるかも分からず、誰一人として声をかけてくれる者はいない。
ただ、不安と失望の中、見世物のように道を引かれていく数日間だった。
——そして、ようやく辿り着いたのは、かつて父と訪れ、聖女の騎士となる夢を掴んだと喜んだ、あの領都近くの広場だった。
希望を胸に向かった王都から、失望だけを胸に帰ってきた。
そこは刑場として使われているらしい。
そこに立てられた三つの影……その姿がはっきりと見えた瞬間、世界が音を失った。
「父上!母上!いやああああ!」
私は、胸からこみ上げてくるものを吐き出すように叫び声をあげた。
息絶えていたのは父と母、そして私に姓を与えてくれた老人だった。
そこから私は何もできなかった、身体に力は入らず、歩くこともままならない、声も出なかった。
ただ、無気力のまま、絶望のなか磔にされ、刑場に立てられた。
集まった人々からは、容赦ない罵声を浴びせられるが、もうそんなことはどうでも良かった。
「この者は、神託により悪魔憑きであることが判明した。処刑後に悪魔憑きの親、悪魔憑きを教会に招き入れた元剣聖と共に、灰になるまで焼き尽くす!」
そう言い放たれた直後、私の身体を二本の槍が貫いた——
「父上、母上、約束を守れなくてごめんなさい。ご老人、私に関わったばかりに申し訳ございません……」
私が最後に目にしたのは、青く澄み渡った何もない空だった。
「母上が話してくれた、私を包み込んでくれる方はどこにいるのですか……」
——そして、視界は狭まり暗くなる。
「アンナ!」
ジョアンナの最期の光景をみて、僕はアンナの名を叫んで我に返った。
そして、その瞳に輝きを取り戻しながら思い返す——
アンナの記憶を辿ったのだろう。絶えず身体に湧き上がる快楽と、堰を切ったように、身体の奥底から溢れ出る欲望に流されるがまま、耀はアンナを求め続けている。
身体の隅々にまで広がる官能に溺れながらも、その脳裏にはひとりの女性の記憶が流れ続けていた。
記憶の中にいる赤い髪と緑色の目の少女……
その緑の瞳が微笑む。その微笑みに、なぜか懐かしさがこみ上げる。
——ああ、これは……アンナだ。
アンナの快楽の歓喜に重なるように、少女のあどけない笑い声が響く。
溶け合う二つの声は、僕の心の深淵から何かを呼び起こす——
——物心ついた頃には、周りの子供達に比べて、私の身体はひときわ大きかった。
父は、私の体格に希望を見出したのか、聖女の騎士にと鍛え上げるべく、毎日欠かさず村を出て、草原で稽古をつけてくれた。
「ジョアンナ。降参か?」
「いえ父上、もう一本行きます!」
私は必死に直突きを放つが、簡単に父の剣に弾かれてしまう。
「今日はここまでにしよう」
「いえ、まだ大丈夫です」
「ジョアンナが大丈夫でも、母さんが大丈夫ではないからな」
家に帰る道中、いつも父は機嫌良く同じ話を聞かせてくれる。
「ジョアンナの槍と体術は父さんを超えそうだな。きっと聖女の騎士にもなれるぞ」
聖女の騎士とは、国で唯一神託を受けることができる聖女の身辺警護を受け持つ女性だけの騎士団。
美しい出で立ちと、規律ある振る舞い、そして、名誉ある職として多くの女性の憧れだった。
私も、あの白い鎧を纏い、聖女の隣で誇らしげに立つ自分を、何度夢に見たかしれない——
「私も聖女の騎士になれるでしょうか?」
「きっとなれるぞ。平民の子でも偉くなった人だっているんだ」
父は元兵士で、平民出身の下級兵でありながら、その剣の実力は一目置かれる存在だったと聞いた。
戦場を幾つも越えてきたであろう父の言葉は、まるで剣のように私の心に刻まれた。
そんな父とは対照的に、母は私の器用さや、優しさに期待し、料理や裁縫を丁寧に教えてくれた。
父との稽古の後は、母と一緒に夕食を作るのが私の日課となっていた。
「今日の肉は柔らかくて、美味いな」
「ええ、ジョアンナが下拵えをしてくれたのですよ。この子は器用ですから」
「ジョアンナは聖女の騎士になれなくても、母さんのようないい妻にもなれそうだな」
「ええ、どちらにしてもこの子の未来は明るいですね」
両親の会話に、嬉しいような、くすぐったいような気持ちになり、私は食事の手を止めずに、聞こえなかったふりをしてしまう——
夕食のあと、私の大きな身体に合わせた服を、母と一緒に作るのも楽しみだった。
——そんな両親に包まれて私は幸せだった。
両親が私を誇りに思ってくれるなら、私はその期待に応えたい——名誉も収入もある、聖女の騎士になれば、きっと二人も喜んでくれる。
そんな思いが、私の中でいつしか形をなし、夢として息づいていた。
私の生まれ育った村は、王都から遠く離れた辺鄙な場所にあり、領都までも徒歩で二日かかるほどだった。
人口も百人程度と小さく、村の人々は皆、顔見知りだった。
父は午前中、畑仕事に勤しみ、午後からは私に稽古をつけてくれる。
私は父の畑仕事を手伝うのが好きだったが、母に頼まれて村の中心部にある商店に買い物に行くこともあった。
しかし、身体の大きさから、両親以外の人からは奇異の目で見られていた。
陰では『悪魔の子』と呼ばれ、避けられ、心ない言葉を投げかけられることも多かった——
「あなたの大きな身体には、優しさがいっぱい詰まっているのですよ。きっとあなたの優しさに気付いて、その大きな身体を包み込んで、大切にしてくれる人が現れますからね」
心ない言葉に落ち込んで家に帰ると、母はいつもそう言って優しく抱きしめ、慰めてくれた。
——十九歳のある日、父が畑の近くに小屋を作るというので、私は手伝うことにした。
買い物に行くよりも、畑仕事の方が楽しかったからだ。
「この大きな丸太を柱にするんだぞ」
「立派な小屋ができそうですね」
小屋の四隅に立てる丸太を前に、父が少し自慢げに話す。
「これをあの穴に立てるのですね」
「そうだ、父さんは穴をもう少し突き固めるから、ジョアンナは柱を立てる準備をしてくれるか?」
「はい」
返事はしたものの、何を準備すればいいのか、私には分からなかった。
「よし、立てるぞ!」
丸太を眺めて考えていると、父の声が聞こえたので、私は丸太を抱え上げて運び、穴に立てた。
「ジョアンナ……お前……」
「父上、私が支えていますから、穴を埋めてください」
目を丸くして驚く父にそう言うと、私は父の作業が終わるまで、しっかりと丸太を支え続けた。
その日の夕食時、いつもは大きな声の父が静かに話を始めた。
「ジョアンナ、今日一番大きかった丸太は重かったか?」
「少し重かったです」
「——そうか、あの丸太は父さんでは持ち上げることはできない」
父は目を伏せ、しばらく黙り込んだ。
「あの場所まで男三人で運んだんだ」
「何かあったのですか?」
尋ねる母に父は経緯を話した。
「まぁ、凄いですねジョアンナ。でもあなた——」
「ああ……ジョアンナ、あの力は他の人に見せてはならんぞ」
「なぜですか?」
「あの力を知られるのは、ジョアンナにとって危険だからだ」
「よく分かりませんが……」
「よく分からなくていいです。でも、分かるまでは、あなたと父さんと母さん、三人だけの秘密にしましょうね」
「はい」
「——約束ですよ」
——それから一年が過ぎた春、聖女が領都を訪問することになり、元兵士の父にも警備兵として招集がかかった。
私は父の強い誘いもあり、領都に同行することになった。
村から出たことがなく、期待よりも不安が大きかった私の背中を「一度くらいは村から出てみなさい」と母が押してくれた。
領都には三日間滞在する予定で、その間は父の古い知り合いの家に泊まることになっていた。
出発前から父は機嫌が良く、その人に会うのをとても楽しみにしているのが、手に取るように分かった。
父との旅路はとても楽しく、目に映るすべてが私の興味を引いた。
歩くことの疲れを感じる間もなく、私たちは領都にたどり着いた。
高い塀の威圧感に少しだけ胸がざわついたが、それもすぐに父の背中に吸い込まれた。
門の前では、ぼろを纏った旅人や、香水の匂いを漂わせる商人風の一団が雑然と列を成していた。
待つのを覚悟したが、警備兵として招集された父は、別の門から通され、あっけなく領都に入れた。
父はかつて領都で暮らしていたらしく、街の話を私にしながら、迷わず道を進んでいく。
周囲には立派な建物が並び、行き交う人々はみなきれいな服を纏っていた。
私は興味と憧れで次々と目に入るものを追いかけた。
やがて目的の家に到着すると、父は迷うことなく扉をノックする。
その大きな家の立派な扉から、ひとりの老人が出てきて、出迎えてくれた。
「よく来たの。疲れたじゃろう。ささっ、入ってくだされ」
「ありがとうございます」
「父上、あの方は?」
「父さんの元上官でな。父さんはこの方に一度も勝てたことがなかった」
「懐かしい話をするの。今は引退してただの隠居じゃ。いやぁ、爺ひとりの寂しい家が賑やかになったわい」
そう言いながら、老人はお茶を出してくれた。
「恐縮です」
「気にするでない。ところで娘さんかの?」
「はい。娘のジョアンナです」
「初めまして、ジョアンナと申します」
「ほう。無作法だったお前さんの子にしては、礼儀正しく育っておるの」
老人は私を見定めるように視線を動かした。
「良い体格をしておるようじゃが、稽古はつけておらんのか?」
「毎日つけております。正直、剣の腕は大したことありませんが、槍と体術の才能は抜きん出ております」
「お前さんが褒めるとはの。だが、それでは実力なのか親バカなのか分からんでの」
老人はおもむろに立ち上がり、壁にかかった木剣と木槍を手にした。
「この爺と手合わせしてくだされ——」
老人は目を細め、私を見つめた。その眼差しは、これまでの穏やかさとは違い、鋭く研がれていた。
三人で庭に出て、私は老人と対峙する。
「遠慮せず本気でかかってきなされ」
私は本気で何度も老人に挑んだが、ほとんど何もさせてもらえず完敗した。
「大したものじゃ。そこらの兵士程度では束になってもお嬢ちゃんに勝てんじゃろうな」
無残な負けを晒した私を、老人はにこやかに見て言ってくれた。
父が警備兵として仕事をしている間、この老人が領都を案内してくれることになった。
「お嬢ちゃんは教会に行ったことがあるかの?」
「いえ、村に教会はありませんでした」
「では、行ってみるかの」
「警備が厳しいのでは?」
「なーに、問題ないわ」
老人は気に留める様子もなく、教会への道を淡々と進んでいく。私は逸れないように、ただ老人の後ろを黙ってついていった。
聖女が滞在しているためか、兵士が厳重に警備する教会の前で、老人は女性の騎士としばらく話をしていた。
少し離れたところで待っていると、老人が私を手招きするのが見えたので、そのもとに急いだ。
「お嬢ちゃん、行きましょうかな」
柱の影に揺れる燭台の炎が、無言の祈りのように揺れていた。私は息を呑み、歩くたびに床石が冷たく音を返すのを感じていた——ここは、私のいた世界とはまるで違う。
私はどうすればいいのか分からず、ただ老人の後ろを歩き、仕草を真似して何とかやり過ごした。
作法も分からないまま、見様見真似で教会での礼拝を済ませると、私と老人は教会の奥にある小部屋に案内された。
「あなたがジョアンナですか?」
「はい……ジョアンナと申します」
私に話しかけてきた女性は、その白い鎧から聖女の騎士だと分かった。
その聖女の騎士は、私をつま先から頭までじっくりと見て、口を開いた。
「なるほど、聞いた通りいい体格をしていますね」
「そうじゃろう。ワシも手合わせしたが、槍の腕は一流といって良かろう」
「隠居殿がそう申されるなら、私から申し上げることはありません」
「そうか、良い返事をもらえて嬉しく思うぞ」
なんの話をしているのか分からないが、どうやら老人と手合わせをしたときの話のようだ。
聖女の騎士は、私の方を向くと口を開いた。
「では、来月、王都まで来てください」
「お嬢ちゃん、心配せんでもこの爺が王都まで案内しますからな」
「いったい王都で何があるのでしょうか?」
「聖女様の護衛騎士団候補生となるのです」
その瞬間、私の心は希望に満ちた。憧れの聖女の騎士への道が開かれたのだ。
何も分からないうちに、私の夢は手の届くものとなっていた。
「お嬢ちゃんには、この爺の姓をやるからの。今からジョアンナ・ド・フェドロニックと名乗るといい」
「はい!ありがとうございます」
一月後、聖女の騎士の候補生として宿舎に入った。
母との約束で、二十三歳の誕生日までに聖女の騎士になれなければ、村に帰らなければならない。
王都までの道のりは期待に胸を膨らませていたが、宿舎の現実は私の思い描いていたものと大きくかけ離れていた。
「あれは誰でございます?」
「姓はありますが、元は平民の子らしくてよ」
「なぜそんな下賤の者がここにいるのです?」
騎士としての訓練時間は僅かで、ただ無意味に時間を潰す日々が続いていた。
午後から訓練場はほとんど使われていないので、私は空いている時間を利用し、ひとりで身体を鍛えた。
身体は鍛えるほどに能力が上がっていくのを実感した——
槍も体術も上達していると思うが、ここには私と手合わせをしてくれる人がいない。
ただひたすらに、父との稽古や老人との手合わせを思い出し、見えない相手と対峙し続けた。
「下賤の者がいい格好を見せようと」
「身分を弁えてもらいましょう」
「出自を調べてみるのも面白そうですわね」
——ここは、貴族の令嬢たちが名声を得るために利用する場と化していた。
聖女の騎士であったという経歴は、いい嫁ぎ先を選ぶのに都合のいい名声だった。
平民の子である私は、誰からも相手にされなくなった。
いつしか、私が村で『悪魔の子』と呼ばれていた話も広まり、孤立は深まった。
宿舎の食堂は使えなくなり、食事もひとり自室で取ることを強制された。
「せっかくの美形もあの身体では台無しですよね」
「平民の割に美人だから、ここに入れたのでしょう。でも、あの身体では嫁ぎ先なんてありませんわね」
「目障りなので、早くあきらめて田舎に帰ればよろしいのです」
あれから二年の月日が流れたが、候補生から騎士となるのは貴族の令嬢ばかりだった。
少し剣が振れて、少し乗馬ができるようになれば、指導教官への心付けと、教会への多額の寄付で騎士となれる。
それができなければ、どれだけの実力があっても候補生のままで過ごさなければならなかった。
——貧しい私が騎士となる道は、初めから閉ざされていた。
しかし、私は父と母に少しでも楽をさせたい一心で、諦めることができなかった。
「もう少し頑張ろう」
そう部屋で呟く夜を幾度も過ごした。
しかし、母との約束した二十三歳になる一月前、私は退団することを決め、副団長にその旨を伝えた。
そして、誕生日の前日、すべての手続きを済ませ、荷物もまとめ終えた。
——明日は王都を発つ。
十日もすれば村に帰り着く、聖女の騎士にはなれなかったが、父と母との生活は楽しみでもあった。
最後に教会を見学したいと副団長に申し出たら、快く許可をもらうことができた。
私は全てが美しく装飾された教会を見回しながら廊下を歩いていた。
少し奥まった廊下の壁に立てかけられた、立派な木材の束に目が止まった。
「こんな木材、村では見たこともありませんでしたが、ここでは良く使われていますね」
呟きとともに何となく、父と小屋を立てた時のことを思い出した。
立派ではないが、愛着の持てる小屋ができて、あの時の私は父と手を取り合って喜んだ。
あと十日もすれば、また父と畑仕事に励む日々が戻ってくるのだろう。
夢は破れたが村に戻るのも悪くはない気がして、自然と微笑みがこぼれた。
夢が破れたのではなく、夢の形を変えるだけ——私の心に希望が溢れる。
最後の思い出として見学した教会で気付いた平穏、翌日の出発が楽しみになった。
軽やかな足取りで自室に戻る途中、前から聖女が近づいてくるのが目に入った。
私は失礼の無いよう、脇に避けて立ち止まった。
『聖女様のお姿も見納めですね……』
風もなく、人通りもない静かな回廊——それなのに、木材の束が唐突に、まるで聖女を狙ったように倒れ込んだ。
私の身体は咄嗟に動き、倒れ込む木材を間一髪で受け止めた。
聖女はそのまま地面に倒れ込んだが、幸い怪我はないようだった。
だが、その顔は恐怖に引きつり、身体は震えている。
「この者は悪魔憑きです!捕えなさい!」
聖女は私を指差し叫んだ。すぐに聖女の騎士が私を取り囲み、剣を抜く。何かを訴える余地はなかった。
捕らえられた私は、教会の地下にある牢へ連行された。
牢に入れられた私に尋問はなく、ただ明日からの不安が何度も頭を過ぎるだけの夜を過ごした。
翌朝、牢の前に聖女と三人の聖女の騎士が現れた。
「先ほど神託がありました。この者は悪魔憑きで間違いありません。即刻王都から追放しなさい」
私は聖女の命令を受けた、聖女の騎士によって手枷をかけられ、抵抗する間もなく牢から引きずり出される。
外に出ると、教会の裏には馬車牢が待っており、手荒にその中へ押し込まれた。
そして、そのまま王都から追放された——
どこに連れて行かれるかも分からず、誰一人として声をかけてくれる者はいない。
ただ、不安と失望の中、見世物のように道を引かれていく数日間だった。
そして、ようやく辿り着いたのは——
かつて父と訪れ、聖女の騎士となる夢を掴んだと喜んだ、あの領都近くの広場だった。
希望を胸に向かった王都から、失望だけを胸に帰ってきた。
そこは刑場として使われているらしい。
そこに立てられた三つの影……その姿がはっきりと見えた瞬間、世界が音を失った。
「父上!母上!いやぁぁぁぁぁ!」
私は、胸からこみ上げてくるものを吐き出すように叫び声をあげた。
息絶えていたのは父と母、そして私に姓を与えてくれた老人だった。
そこから私は何もできなかった、身体に力は入らず、歩くこともままならない、声も出なかった。
ただ、無気力のまま、絶望のなか磔にされ、刑場に立てられた。
集まった人々からは、容赦ない罵声を浴びせられるが、もうそんなことはどうでも良かった。
「この者は、神託により悪魔憑きであることが判明した。処刑後に悪魔憑きの親、悪魔憑きを教会に招き入れた元剣聖と共に、灰になるまで焼き尽くす!」
そう言い放たれた直後、私の身体を二本の槍が貫いた——
「父上、母上、約束を守れなくてごめんなさい。ご老人、私に関わったばかりに申し訳ございません……」
私が最後に目にしたのは、青く澄み渡った何もない空だった。
「母上が話してくれた、私を包み込んでくれる方はどこにいるのですか……」
そして、視界は狭まり暗くなる——
「アンナ!」
ジョアンナの最期の光景をみて、僕はアンナの名を叫んで我に返った。
そして、その瞳に輝きを取り戻しながら思い返す——
アンナの記憶を辿ったのだろう。絶えず身体に湧き上がる快楽と、心に残る絶望感は相対する。
だが、不思議と充足した感じもある——アンナの閉じた目から静かに涙が伝った。
僕はアンナの大きな身体を抱きしめ、全身で温もりを確かめた。心に残る絶望感は相対する。
だが、不思議と充足した感じもある——アンナの閉じた目から静かに涙が伝った。
僕はアンナの大きな身体を抱きしめ、全身で温もりを確かめた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月16日、一部修正しました。




