烏骨鶏
いつもはゆっくりと時間が流れる相葉家も、自然と朝だけは少し騒がしくなる。
朝食を済ませた耀は、締切の近い仕事に追われ、部屋に引き籠ってしまい、アンナは家事に追われていた。
そんな慌ただしさなどまるで関係なく、朝の日差しが熱く感じられるようになってきた縁側では、茂の手伝いと称してやってきた幸子が、レイと話をしていた。
「少しはここでの生活にも慣れましたか?」
「はい。幸子おばあさまにいろいろ教えてもらえて、楽しく過ごせていますわ」
レイは楽しそうに、幸子に答えた。
「そんな、私はちょこっと口を出しただけですよ。年寄りのお節介ですね」
幸子は庭を眺めながら、にこやかにレイの話に耳を傾ける。
「そんなことありませんわ。お野菜のこともよく教えていただいて、助かっていますわ」
「そうですか。そう言ってもらえると嬉しいですね。相葉さんも畑を手伝ってくれますか?」
「はい、兄様も一日に一回はお庭に出るようになりましたの」
レイは幸子の横顔に微笑みかけた。
「幸子おばあさまと、茂おじいさまのおかげですわ」
「そうですか、それは良かったですね」
「はい!幸子おばあさま」
レイが何かを思い出したように、幸子に顔を向ける。
「幸子おばあさま。草を肥料にするのはどうすればいいですの?」
「ああ、穴を掘ってそこに埋めときゃいいだけですよ」
「それだけでいいですの?」
幸子の口から出た意外な答えに、レイは首を傾げる。
「あとは自然と肥やしになる——自然と暮らす知恵ですね」
「自然と暮らしますの?」
「そうですとも。人間はなんでも作れると思いがちですけど、元になってるものは何でも自然からもらっていますね」
幸子はレイの顔を見て、話を続ける。
「だからレイさんも、自然への感謝を忘れてはいけませんよ」
「はい、幸子おばあさま」
楽しげに庭を眺めているレイの横顔に、幸子は思わず微笑んだ。
そして、再び庭に目を向け、レイに話しかける。
「ところで——レイさんは相葉さんとはうまくやっていますか?」
「はい、兄様はいつでも優しくしてくれますわ。畑仕事の時など、レイやアンナのことばかり気にしていますの」
レイの言葉を聞き、幸子はおかしそうに笑い、レイの顔を覗く。
「相葉さんは優しくていいですね。でもね、その話ではなくて——夜は同衾しているか聞いたんですよ」
「——いえ、レイはまだですの……」
「あら、寂しそうな顔をしますね」
セミの声が聞こえはじめた縁側に、アンナがお茶を持ってきた。
最近は、どことなく自称正妻らしい、落ち着きと余裕が垣間見える。
「幸子様、おはようございます」
幸子はアンナを見上げて、笑顔を向ける。
「アンナさん、おはよう」
「お茶をどうぞ」
「ああ、ありがとうね」
差し出された湯呑を手に取ると、幸子はアンナにも尋ねる。
「アンナさんも、まだなのですか?」
「何がでしょうか?」
首を傾げるアンナに、幸子は含んだ笑みを向けた。
「相葉さんとの同衾ですよ」
「は、はい、まだです……」
アンナは気まずさと恥ずかしさに、頬を染め顔を伏せた。
レイが困ったような笑顔で幸子を見ると、呟くように話し始めた。
「幸子おばあさま。兄様はレイたちに興味がないと思いますの……」
「どうしてそう思うのですか?」
「レイは兄様を積極的に誘っていましたの」
レイは口を尖らせて、つまらなそうに話を続ける。
「兄様はレイを見るだけというか。上手く言えませんがダメでしたの」
そんなレイを穏やかな笑顔で見ていた幸子に、アンナも話しかける。
「——幸子様、私も興味を持たれていないと思います」
アンナは少し残念そうな表情で、幸子の隣に腰を下ろした。
「おや、アンナさんもですか?」
「はい、私も以前は積極的に誘っていましたが、いやらしい目でお胸を見て終わりでした」
幸子がお茶をひと口飲み、庭を眺めながら口を開く。
「お二人とも、そんな弱気じゃいけませんね」
「でも——自信をなくしてしまいます……」
「最近は、兄様からの方が……いいと思っていますの」
「私も、いつかご主人様の方から手を取っていただける日を信じて、待つことにしようと思います」
幸子は湯呑を両手に持ち、庭を見渡す。
「そうですか——女としてその気持ちは分かりますよ。でも、相葉さんも待っているかもしれませんよ」
「——そうでしょうか」
「そうですとも。でも、こんないい奥さんが二人もいるんです。相葉さんにも少しくらい、積極的になってもらわないといけませんね」
アンナとレイが小さくため息をつくなか、幸子は湯呑を縁側に置いた。
ゆっくりと流れる白い雲の下、賑やかなセミの鳴き声に包まれる三人での時間は、不思議と静かに流れていく。
幸子が何かを思い出したかのように一つうなずくと、静かな時間に希望の言葉を紡ぐ。
「そういえば、爺さんが若い頃に『生卵は効く』って言ってましたね」
アンナとレイが同時に幸子に振り向く。その目には僅かな希望を見出した光が宿る。
「生卵ですの?」
レイはそう呟くと、どこか遠くを見つめるように目を細めた。
「そう、有精卵は特に効くとよく言ってましたね。あれでも、若い頃の爺さんはお盛んだったんですよ」
幸子がちょっと眉をひそめつつ、恥ずかしそうに話したのを見て、アンナも呟く。
「生卵……ですか——」
アンナとレイの瞳に、何か『策』を思いついたような光が宿っていた。
以前、こっそり飲ませた赤まむしは、目に見える効果がなかった——
だが、茂の実体験と、幸子をあの表情にする生卵の効果は、それとは格が違うように思えてきた。
「アンナ!有精卵ですわ!兄様の食事はその卵だけにしますわ!」
突然声を張り上げたレイに、幸子は声を出して笑い出した。
「それじゃあ、相葉さんが可哀想ですよ」
「そうですよ、レイ。一日三個にしましょう」
レイを諭すように話しかけたアンナの言葉で、幸子はお腹を押さえて笑う。
「アンナさん——それでも多いですよ」
幸子は笑いながらも、どこか優しい目をしていた。
少し落ち着いた幸子は、二人が元気を出したのを喜ぶように、優しく微笑んでいる。
「でも、その卵はどこで手に入りますの?」
レイの問いかけに、幸子は首をひねる。
「そうですね——そういえば、有精卵を売っているところは少ないですね。毎日買うのは難しいかもしれません」
「そ、そんな……」
世界の終焉を目の当たりにしたかのような表情のレイに、幸子は優しく話を続ける。
「そんなに落ち込まなくてもいいですよ。鳥を飼えばいいです」
「飼うのですか?」
アンナの問いに、幸子は縁側の前の庭を指差し答える。
「この縁側の前に鳥小屋を作ればいいでしょう」
「鳥小屋を作るのですか?」
「何羽か飼っていれば一日か二日に一個くらいの卵は産みますよ」
その言葉を聞き、レイの目には優しい微笑みを湛える幸子が、世界の終焉を救うヒーローのように映った。
「そうですわ!幸子おばあさま、ありがとうございます」
「おや、その様子だと、鳥の世話も楽しくできそうですね」
幸子は庭に降り、二人の方を振り返る。
「ごちそうさま。畑に行って、爺さんにも相談してみますね」
幸子は麦わら帽子をかぶり直すと、腰を軽く伸ばし、背中越しに笑みを残して畑へ向かっていった。
——アンナとレイが、二人揃って朝早くから、縁側の前の庭を掃除している。
「おはよう」
僕が声をかけると、二人は顔を上げ笑顔を向けてくる。
「おはようございます。ご主人様」
「兄様、おはようございます」
朝の日差しも相まって、二人の笑顔が眩しく、尊く見えた。
「朝食の準備をしますね」
アンナはそう言い残して、キッチンへと向かった。
「レイ、そんなにきれいに掃除して、何か始めるのか?」
「そうですわ。兄様、楽しみに待っていてくださいまし」
そう言いながらも、手を休めることなく掃除を続けている。
朝食を済ませた僕は、レイと一緒に畑の水やりと、虫のチェックを済ませて、リビングでコーヒーを飲み、自室へ戻る。
途中、縁側から外を見ると、アンナとレイは小さな石まで丁寧に拾い、何度も箒をかけていた。
いったい何が始まるのだろうか?まあ、二人のことだ、任せておいても問題は起こらないだろう。
しばらくすると、外から何やら賑やかな声が聞こえてきた。茂さんが遊びに来たのだろうか?
だが、どうもおかしい——次第に、何やら地面を叩くような音も聞こえはじめ、騒がしくなってきた。
気になった僕は、部屋を出て縁側から庭を覗く。
そこには、木材や波板、金網、ブロックなんかが積まれており、アンナが溝を掘っている。
いったい何を始めるつもりなんだ?僕は縁側から茂さんに声をかける。
「おはようございます。いったい何をされてるのですか?」
振り向いた茂さんは、額から流れる汗を手ぬぐいで拭きながら、笑いかけてきた。
「おお、相葉さん、おはよう。見たら分かるだろ。鳥小屋を作っとるんだ」
「鳥小屋?」
そこに積まれた資材と、掘られた溝を見て、鳥小屋を作ってると、すぐに理解できる人がどれだけいるのだろうか?
——いや、単に僕の経験不足かもしれない……もしかすると、八割くらいの人は『ああ、鳥小屋を作ってるな』的に理解している可能性もある……
いろいろ困惑している僕の元に、レイが近づいてきて顔を見上げる。
「兄様、鳥を飼って卵を産ませるのですわ!」
「鳥を飼うんだ——ちゃんと世話をできるのかい?」
「もちろんですわ!」
「なんで、急にそんなことを思いついたんだ?」
「それは……その……美味しいですの……」
レイのこの表情は絶対何か隠してるな……
作業に精を出すアンナにも声をかけてみる。
「アンナも賛成したの?」
「は、はい……その……ご主人様に元気をつけてもらおうと……」
アンナの方が隠し事をしているのが分かりやすい。
それより、『元気をつける』ってどういうことなんだ?
不穏な空気を感じはじめた僕に、茂さんが笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「まあ、いいじゃないの相葉さん。採れたての卵は美味いんだ。それに糞は畑の肥料にできるんだ」
なるほど——そう考えれば、鳥を飼う理由も納得できる。
「そうなんですか。でも鳥はどうするのですか?」
僕の問いかけに、幸子さんが答えてくれる。
「それは爺さんが用意してくれますよ」
あれ?なんか、準備ができ過ぎていないか?
僕が知らない間に、計画は着々と進んでいたのか?
「さあ、お嬢ちゃんたち、早く作るんだ」
「はい!茂おじいさま」
「茂様、残りの荷物を運んできます」
まあいいだろう。これだけ熱心にやってるなら、きっと『深い理由』なんてものは、ほんのちょっとしかない——と信じておこう。
僕は部屋に戻り、仕事を再開した。
——三日後、茂さんに連れられて、五羽の烏骨鶏がやってきた。
小屋に放された烏骨鶏が、何かをついばんでいる様子を、アンナとレイ、そして茂さんが笑い合いながら眺めている。
僕も縁側に腰を下ろし見ていたが、意外と可愛く見えてきた。生き物は心を和ませてくれるものなんだな。
ただ、茂さんが帰り際に『烏骨鶏は効くんだ』と、二人に耳打ちしていたのが気掛かりではあるが……
「これで兄様も元気になりますわ」
「そうですね。楽しみです」
二人は鶏を見て嬉しそうに何かを話している。
僕は楽しそうにしている二人の様子を眺めて、心を和ませている。
——鶏が来て十日が過ぎた。
何も考えていなかったが、小屋を建てた場所は僕の部屋の前だった。
当然のごとく、毎日、夜明け前から鶏が鳴き出して、無理やり起こされる僕は、寝不足気味になっている。
それと、鶏に無理やり起こされた僕に、採れたての生卵を飲ませるのはやめて欲しい。
せめて、飲み終わるまでキラキラと輝く瞳で、見つめるのだけでもやめて欲しい。
鶏が来てから、レイは鳥小屋の前にいる時間が多くなり、時折、鶏に話しかけている。
何を話しているのか分からないが、鶏に微笑みかけて話をするレイを、そっと見ていると愛らしく思う。
アンナも夕方近くになると、鳥小屋の前にいることが多い。
「あっ、兄様!見てくださいまし、鳥は可愛いですわ」
庭に出た僕に、レイが声をかけてきた。
「そうだね。レイは鶏が気に入ったのかい?」
「はい、兄様!」
元気な返事の後に、レイの表情が曇った。
「卵を産まなくなった後に、食べるのが嫌なんだそうです」
そうか、それでそんな顔をしたのか——
何気に聞き流してしまいそうだったが、アンナの言葉に気になる単語があった。
「えっ、食べるの?」
驚いた僕に、レイが悲しそうな声で答えてくれる。
「そうですの。幸子おばあさまがそう言っていましたの」
「なんでも、無駄に生かして死なせるよりも、食べてしまった方がいいとのことです」
頑張って育てた鶏を食べる——前のように獲ってきた小鳥を食べるのとは、わけが違うだろう。
調理されて食卓に並んだそれを見た時、どんな気持ちになるんだろうか?
レイは寂しそうな表情をしているが、アンナはそうでもないようだ。
——普段の行動を見ていても、結構平気で料理しそうだしな。
「そうなんだ、でも、それは今考えても仕方がないよ。食べたくなければ、そのまま飼ってもいいんだし」
「そのまま飼うと、病気になりやすいそうですの」
レイはますます悲痛な表情になる。
「兄様……」
すがるような声に、僕は鶏ではなく、レイの気持ちをどう支えてやるべきか考えた。
——こういう時は今するべきことに集中するのがいいはずだ。
「そうか、その時がきたら幸子さんと茂さんに相談してみたらどうかな?今は元気に育つように世話をしよう」
「そうですね。ご主人様の言うとおりです」
アンナはレイの肩にそっと手を添える。
「その時まで、大切に育てましょうね。レイ」
鶏を見つめている二人に、僕は声をかける。
「それより、今日は草を埋める穴を掘るんだろ?」
アンナが思い出したように、目を見開いたあと、僕に微笑みかける。
「そうでした。涼しくなってきたので始めましょうか」
「僕も手伝おうと思って、着替えてきたよ」
レイはその表情に明るさを取り戻し、いつもの元気な口調に戻った。
「兄様、着替えて参りますので少しお待ちくださいまし」
小走りで部屋に戻る二人を、僕は微笑ましく思い、ぼんやりと眺めていた。
「僕が手伝うだけで、あんなに喜んでくれるんだもんな——」
こんな幸せが、日常として溶け込んでくる……不思議だが悪くない。
——それを見つめる視線があるとは、もちろん知る由もなかった。
「何だよ、話が違うじゃないか……今頃、悪魔に取り憑かれた挙句、借金に喘いで、あの会社に土下座でもしてるはずだろ?」
そんな悪態を吐きながら、遠くの木陰から双眼鏡を向け、耀を見つめる男がいた。
「ちっ、なんで女と楽しそうにしてんだよ……あの女は悪魔じゃねぇだろ——」
双眼鏡を下ろした男は、ポケットから取り出したスマホで、誰かとやり取りする。
「まっ、仕方がないか。攫ってでもあいつに絶望を教え込んでやればいいだけか……我が神の望むままに——」
誰にも聞こえない捨て台詞を吐き、立ち去る男……
——男は、自分が二人に見張られていることに気づいていなかった。
木陰に潜むそのひとりがうなずくと、もうひとりが静かにその男の後を追った。
「素性を調べなさい」
呟いた声は、風にまぎれて誰にも届かないまま、確かに命じられた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月16日、一部修正しました。




