微笑みが呼ぶ悪魔
ひと月が過ぎた夜、二つの月が重なり合い、静かに空に浮かんでいた。
窓辺に立ち、その不思議な光景を見つめる耀に、柔らかな声が届いた。
「相葉君、久しぶりね」
耀が振り返ると、綾乃が優しく微笑んでいた。
「先生、あの月は不思議だな……」
綾乃も窓辺に並び立ち、空を仰ぐ。
「相葉君と私……特別な夜だからこそ、新しい理を生み出せるの」
耀が綾乃の肩に腕を回すと、彼女はそっと身を寄せた。
「イオナのことか……」
「それともう一つ、この夜が終われば、私は元の時間に戻るの」
「どうして?」
「いつも奈々美を連れてきたら、夫婦の時間が取れないでしょ」
綾乃は耀の頬を軽く突き、恥ずかしそうに微笑んだ。
「さあ、イオナさんを連れて、ヴェリディシアに行きましょう」
綾乃を抱き寄せた耀は、その姿を虚空へと消した。
「――イオナ、待っていたのか」
そこには、かつて耀に褒められたゴスロリ姿のイオナが立っていた。
「はい。あの月を見て、今夜ではないかと」
「察しがいいな。イオナ、掴まれ」
「はい、耀様……」
イオナが寄り添った瞬間、三人の姿は掻き消えた。
――ヴェリディシアの広間、玉座の前ではクラリッサが祈りを捧げていた。
「今宵は想像の母が降臨する夜……この世界を見守ってください」
何度もつぶやきを繰り返すクラリッサに、低い声が届く。
「熱心だな」
顔を上げたクラリッサの瞳は、潤んでいた。
「我が主にして夫、アイバヨー様、それに想像の母綾乃様……」
「そんなのはいい……とりあえず全員を叩き起こしてきてくれ」
「相葉君、優しくしないとダメじゃない」
綾乃が膝をつくクラリッサに歩み寄り、穏やかに声をかける。
「クラリッサさん。新たな女神が生まれます」
目を見開いたクラリッサは、静かに立ち上がった。
「はい、すぐに準備いたします。それまで、お部屋でお待ちください」
クラリッサは小走りで広間を去った。
――数刻後。広間の右には、オルセール率いる銀鎧の騎士と聖女の騎士が列を組み、左にはエドリック率いる文官たちが並んでいた。
中央では耀を中心に、右にアンナ、イオナ、ゾーヤ、左にレイ、ミスティ、ルナリアが一列に並ぶ。耀の背後には聖女クラリッサが、アンナの背後には聖女アーシャが膝をついて控えていた。
綾乃は窓から月明かりが優しく照らす玉座の前に立ち、広間を見渡した。
「——新たな女神が生まれます」
穏やかながらも、堂々とした声に、騎士も文官も一斉に姿勢を正す。
綾乃の視線を受けたイオナは、その慈悲深い眼差しに包み込まれるような感覚を覚えた。
「生まれながらに乖離した心と身体を、忌み嫌った人々を跪かせるために悪魔に魂を捧げた。欲望のままに悪魔の力を借り、富を築いたことで心は優越感に満たされた。ですが、跪かせた人々が自らと共に繁栄していると知ったとき、それは虚無感だけを残した」
綾乃は再び広間を見渡した。
「強欲と繁栄の女神――ナツィオがここに生まれました」
——静まり返った広間に響き渡るオルセールの号令で、すべての騎士と文官が広間を退いた。
「先生……ナツィオって何だ?インテルナツィオナーレじゃないのか?」
「イオナさんの本当の名前。教えてもらったの」
「レイはイオナの方が呼びやすいですわ」
「そうですね。イオナさんのままでいいと思います。でも……ナツィオは男性の名ですね」
アンナの言葉に、イオナは顔を伏せた。
「妾は気づいておったが……」
「はっ、ちょっと待て……イオナさんは……」
ルナリアの言葉を遮り、イオナの声が響く。
「男です……けれど耀様は、私を女の子だと言ってくださいました」
ゾーヤがイオナの顔を覗き込む。
「どっちが入れた?」
イオナは真っ赤に染まった顔を背ける。
「——両方です」
「んっ。良かった」
「ふむ……良かったの、イオナ殿」
ミスティとゾーヤに温かな目で見守られる中、アンナがイオナの手を取った。
「イオナさん!」
「はい、アンナ様……どうなさいました?」
「私が装備できるような張形はありませんか?」
目を輝かせるアンナに、不穏な気配を察した耀が口を挟む。
「アンナ……待て……何をする気だ」
「いえ……アーシャさんに……」
目を逸らしたアンナが、イオナの耳元で何かを囁いた。
うなずいたイオナと、目を輝かせたアンナに一抹の不安を覚えた耀の背中には、綾乃とレイ、ルナリアの冷めた視線が突き刺さっていた。
「相葉君、時間がないから帰りましょう」
綾乃の冷たい声が、広間に低く響いた。
「ご主人様、ハーレムには寄らないのですか?」
耀に歩み寄りその手を取ったアンナが、小首を傾げて見つめる。
「ああ、今日は遠慮しておく」
「じゃあ、いつか寄るつもりなのね……」
さらに低くなった綾乃の声を聞き、ミスティがルナリアの肩を叩く。
「ルナリア殿、帰ろうかの……しかし、クラリッサ殿は殿だけでなく妾たちも呼び出せるとはの」
「そうだな、大したものだ……殿様の寵愛を受けたに違いない」
不敵な笑みを浮かべた二人は、広間を後にした。
「——相葉君、クラリッサさんも……」
「ちょっと待て先生、俺は謹慎していただけだ」
「そう……早く行きましょう」
——イオナの城に戻った、耀と綾乃、そしてイオナはテーブルを囲んでいた。
「綾乃様、耀様に『悪』を作るように言われたのですが、高い知性を持つ生き物を襲う獣でいかがでしょう?」
「イオナさんにお任せします」
「怒っています?」
「いいえ、相葉君の底の抜けた大きな器に、呆れているだけです」
静かに話を聞いていた耀が傍らに視線を向けると、空間が歪み始めた。
歪みは次第に広がり、その中から布一枚だけをまとった女性たちが次々と姿を現す。
「おととさま……お会いしとうございました……」
ひとりが涙を浮かべて声を上げた。
四人が耀に絡みつき、身体のあらゆる場所を撫で始める。
「なんですか?この女たちは……」
「こいつらは、伊耶那美が与えてくれた侍女だ」
耀は侍女たちを順に撫でながら話しかける。
「お前ら生物を生み出せたよな?」
「おととさまのおっしゃるとおりにございまする。われらが生み出し子は子を育みまする」
ひとりが耀の頬に手を添え、期待に満ちた瞳で顔を覗き込んだ。
「今日からイオナに仕えてくれ。伊耶那美から受け継いだ生み出す力を存分に発揮してほしい」
「おととさまのご意向のままに」
ひとりが恭しく頭を垂れる。
「おととさまの子を、幾千幾万と産み出しまする」
さらにひとりが、熱に浮かされたように言葉を紡いだ。
「イオナ、彼女たちの生み出す生物は繁殖も可能だ。朱美も交えて話し合ってくれ」
「分かりました、耀様。お任せください」
四人の侍女はイオナの背後に並び、その肩へそっと手を添えた。
「先ほど訪れたヴェリディシアの地下には、五十層にわたる大空間がある。そこに迷宮を作り魔獣などを住まわせてくれ」
「まあ……それは楽しそうですね」
イオナは目を輝かせ、耀の言葉を待つ。
「時が来れば、俺が地上へ開放する」
笑みを浮かべうなずいたイオナを見て、耀は綾乃に視線を向けた。
「先生、行こう……」
「そうね、相葉君に聞きたいこともありますから」
耀が綾乃を抱き寄せたその時、侍女のひとりが声をかけた。
「おととさま……おかかさまが会いに来てくれと申しておりました……」
「謹慎が解けたら行く……」
耀の寝室に戻った二人は、夜が明けるまで窓からの景色を眺め続けた。
綾乃の説教と耀の言い訳が、寝静まった村をほんの少しだけにぎやかにしていた。
——二つの月が重なった夜から数カ月後の夜。部屋に戻ろうと廊下を歩いていた耀は、隣家にふと目を留めた。
一瞬立ち止まった耀は踵を返し、その家へと向かう。
「邪魔する」
ひとこと告げて家に入った耀は、双子の姉妹には目もくれず、家の中を見回した。
そして、薄いワンピース姿で並んでベッドに腰掛け、耀の様子にあっけにとられた姉妹の前に立った。
「不便はしていないか?」
「は、はい……カリサさんもヴァレリアさんも親切にしてくれます」
「そうか……」
耀は姉妹の顔を見て、眉を寄せた。
「寂しそうだな……ふたりの話を聞かせてくれないか」
顔を見合わせた姉妹が、真ん中を空けて耀を中央に招いた。
「寂しいです。父が亡くなって、跡目争いに巻き込まれ、命はつなぎましたが、もう母親にも会えない」
「すべて私たちの周りが勝手に騒ぎ、勝手に描き、勝手に行動したことです。その結果、私たちはここに来ました」
言葉を終えたあとも、二人の瞳は耀を離さずにいた。そこには怯えではなく、置き去りにしないでほしいという必死な願いが滲んでいる。
しばらく静寂が部屋を包んだ。
「そうか……落ち着いて考えて、俺にできることがあれば遠慮なく言ってほしい」
ベッドから立ち上がった耀を、二人の声が止める。
「お待ちください……時々、お話をしに来てくださいませんか?」
「私たちは貴方の妾と言われてきました。けれど、ただ従うだけではなく……貴方のことを知りたいのです。そばにいたいのです」
「もう誰にも利用されたくありません。女の子として過ごしたいです」
耀は二人の真剣な眼差しを受け止め、静かにうなずいた。
「名前を教えてくれないか?」
「ティアナです」
「タルシャです」
二人の声が重なったのを聞き、耀は小さく目を細めた。
「双子なのか?」
「はい……あの、やっぱり身体が大きいと……怖いですか?」
「いや、二人まとめて抱き上げられる程度だからな」
「本当ですか……あの、もう少しお話をしていただけませんか?」
「分かった。今宵は共に過ごし、互いのことを語り合おう」
その言葉を紡いだ直後、耀の姿は二人の目の前から忽然と消えた。
——人間の世界の病院、消灯後の病室で夫婦は静かな時間を過ごしていた。
事件に巻き込まれながらも、奇跡的に命を取り留めた耀は、混乱する記憶に思考を乱され、虚空を見つめて過ごすことが増えていた。
「あなた……眠れませんか?」
「そうだね。真由美も無理をしないでくれ」
目立ち始めた真由美のお腹を、耀は愛おしげに見つめた。
「僕は相葉耀なのか、それともドナトゥスなのか……その子は……」
「あなた、やめて!」
「ごめん。真由美」
うつむいた真由美が、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「レイさんだけでなく、アンナさんも、イオナさんもいなくなってしまいました……」
耀は真由美の声に静かに耳を傾ける。
「イオナさんが対応してくれていたのですが……イオナさんがいなくなってから、私の両親から頻繁にお金を無心する連絡が来るようになりました」
真由美は膝で拳を握りしめ、うつむいた。
「私、耐えられなくなって……お金を送りました……そしたら家にまで来るようになって、松本さんが追い返してくれましたけれど……ごめんなさい、あなた」
しばらく言葉に詰まった真由美が、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「二人の幸せを壊してしまって……あなたが退院したら、私は出ていきます……」
最後の言葉を聞いたとき、耀は自らの意思で悪魔を求めて微笑みを浮かべた……
「なぜ、俺が呼び出された……」
静かな病室を震わせる低い声に、耀と真由美は顔を上げた。
怪訝な表情を浮かべるその姿を見た次の瞬間、二人は息を呑み目を見開く。
悪魔そのものの威圧感を放つ男は、ベッドに横たわる耀と、傍らに付き添う真由美を見て、目を細めた。
「……久しぶりだな。俺を呼んだということは望みがあるんだろう?」
「そうだな。頼みたいことがある」
「——待って!」
真由美が耀の声を制した。
「あなたが悪魔なら……私の……私の両親を殺してください……」
真由美のその言葉が落ちた瞬間、病室を再び静寂が支配した。
「分かった。ただし……」
悪魔は耀を指差す。
「対価としてお前の大切なものをひとつもらう。それが悪魔の所業というものだからな」
「……構わない。真由美の望みを叶えてくれ」
耀が悪魔の目を見据えたまま答えた、その直後。悪魔の姿は二人の前から消えた。
——繁華街の居酒屋から出た一組の男女が街を歩き始めた。
男の腕をしっかりと抱きしめた女は、その男を愛おしそうに妖艶な瞳で見上げる。
足元をふらつかせながら足を進め、輝くネオンから逃れるように路地裏へ入ったところで、背後から声がかかる。
「随分とご機嫌だな……」
その声に振り向く間もなく、二人は突然殴り飛ばされた。倒れた男を無理やり起こし、なおも容赦なく殴り続ける。
無表情で拳をふるい続ける姿に震える女が、悲鳴を上げかけたとき、その首を掴み、躊躇なく固い路面に叩きつけた。
怯える二人を見下ろす顔に表情はなく、輝きのない瞳は、獲物を狩る悪魔にしか見えない。
そして、その目を細めた悪魔は、喧騒を忘れた暗い路地に、鈍い音だけを響かせた。
「——これでいいだろう」
小さくつぶやきながら見下ろした先には、顔を打ち砕かれ原形を失い、関節をあらぬ方向へ折られた男女が、ごみのように打ち捨てられ、息絶えていた。
長ランにボンタン姿の悪魔は、裏地に入った般若の刺繡をチラつかせ、その姿を闇に溶かした。
——その頃、加紫久利神社の参道は祭りの参拝客で賑わっていた。その人波の中、手を繋いで歩く母娘に声がかかる。
「先生、奈々美」
振り向いた母娘は、驚いた表情でその声の主を見つめた。
「お父さん……」
「相葉君、どうしてここに?」
耀が二人に歩み寄り、綾乃の手を取ると、三人は並んで歩き始めた。
「呼び出されたついでに寄っただけだ」
「そう……他に着るものはなかったのかしら……」
綾乃は長ランにボンタン姿の耀を見て、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「お父さん。それ恥ずかしいよ……」
奈々美も顔を伏せる。
「これしか持っていないんだ。我慢してくれ……ちょうどいい日に来たな。懐かしい……屋台は少なくなったな」
周囲を見回す耀の姿に、綾乃は思わず噴き出した。
「子供みたいな目をするわね。懐かしいの?」
「ああ、両親と来たことがある。だが、あまり記憶にない」
「そうなの、お祭りなんかにも来てたのね」
「ああ、両親が事業に失敗するまで、俺は愛情に囲まれ幸せだった」
耀の言葉を聞いて、綾乃は立ち止まった。
「そうだったの……相葉君……ねえ、今は幸せ?」
「分からない、だが、悪くはない」
「それなら良かったわ。余計なことをしちゃったかと少し心配してたの」
立ち止まったまま話す二人を、元気で明るい声が呼ぶ。
「お父さん、お母さん、早く行こう!」
三人は再び手を繋ぎ、参道の人波に消えていった。
——それから一年が過ぎた日、相葉家の庭の木に花が咲いた。
まばらに花をつけた桜を、耀と真由美が見つめている。
真由美は腕に女の子を抱き、耀に寄り添っていた。
「あなたが植えた桜、大きくなりましたね」
「うん、花も咲いた……綺麗だ」
「満開の桜を見られる日が待ち遠しいです」
「花見もいいかもしれないね」
敷地に軽やかな音を立てて、軽トラックが入ってきた。
老夫婦が降り、笑顔で二人の元へ歩いてくる。
「相葉さん、花見なんか?」
「こんにちは、茂さん。まだ花見というほど咲きませんよ」
「そうだの、でも二、三年もすれば、満開の花も楽しめるんだ」
「茂さん、今日はどうされたんですか?」
茂は真由美の腕に抱かれた女の子をのぞき込んだ。
「真桜ちゃんを見に来たんだ」
茂の顔を見た途端、真桜のすました表情がみるみる崩れ、泣き出してしまった。
「ほら、爺さんが汚い顔を見せるからですよ」
茂の尻を軽くはたいた幸子が、真由美に話しかける。
「真由美さん、困ったことはありませんか?」
「ありがとうございます。夜泣きもしませんし、病気にもなりませんし、元気ですね」
「そう、女の子は赤ん坊のころは育てやすいけれど、大きくなったら大変ですよ」
「ははは、その時は相談させてください」
「まだ生きているかしらね」
茂と幸子も桜の木を見つめた。
「——満開の桜を見てから死にたいですね」
「そうだな。真桜ちゃんが小学生になるくらいまでは頑張るんだ」
「茂さんも幸子さんも、いつまでも元気でいてくださいね」
耀は桜を見つめながら、三人の会話を静かに聞いている。
柔らかな春風に舞う花びらが、元気な泣き声と、暖かな笑い声に包まれ、庭を彩っていた。
微笑みが呼ぶ悪魔は、彼からドナトゥスとしての記憶を奪い去り、残されたのはただ、相葉耀として過ごす穏やかな時間だけだった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
2024年の8月から投稿を始めて、ようやく第一部が完結しました。
ハッピーエンドかバッドエンドか悩み、途中大改稿をした上で、全てが曖昧に終わるという何とも後味の悪い終わり方にしました。
完結設定はせずに、気が向いたら続きを描こうかと思っています。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




