二つの蕾が咲いた夜
耀と綾乃、奈々美、そしてカリサとヴァレリア、朱美は、小高い丘の上で湖を眺めていた。
その水面は神々しく、波打ち際までも祝福を受けたように輝いていた。
湖の周囲は平原に広がり、その先には森が茂っている。さらに雪を戴いた険しい峰々が取り巻き、外界からの接触を拒むかのように見えた。
「すごいです……空気がまるで違います」
ため息まじりのカリサの声に、綾乃が肩を揺らす。
「ここは相葉君が謹慎する場所なのよ。私の真心がこもっているの……勝手にここから抜け出せないわよ」
「ふぇぇぇ……なんだか恐れ多いです」
「俺はどうやったらここから出れるんだ?」
「私と一緒にいるか、聖女に求められた時だけ」
「強制的な謹慎だな」
「この家も大きいな」
ヴァレリアが振り返った先には、三階建ての屋敷が建っていた。
「みんなで暮らすんでしょ。それに、三階は相葉君専用よ」
「そうか……奈々美にも部屋をやろう」
「やったー!遊びに来てもいいんだよね」
「ああ、先生と一緒に来るといい」
「うん。お母さんもありがとう」
「奈々美、楽しみが増えたわね」
そのとき、朱美が突然耀の前に片膝をつき、深々と頭を下げた。
「主様、お願いがございます」
いつもの軽い調子が消えた朱美に、カリサとヴァレリアは驚き、揃って耀へ視線を移した。
「ああ、いいぞ……」
「まだ、何も言ってませんよー……主様のいじわるー」
拗ねた表情の朱美が、恨めしそうに耀を見上げる。
「……どうせ面倒なことだろ?」
「主様……ヴェリディシアの娼館で働かされていた女性たちを、この地に住まわせていただけませんか?」
「朱美の癒やし術で何とかなるんじゃないのか?」
耀の言葉に、朱美は悲しげに瞳を伏せた。
「ひとりに術をかけました。地下の住民と同じ術です……でも、彼女は自ら命を絶ちました」
「蘇らせなかったのか?」
「できませんでした。魂そのものが、生き残ることを拒絶したのです」
「理由は?」
「心に刻まれた傷があまりにも深く鮮明で、解放さえ拒んでしまうのです」
「なぜ、ここなんだ?」
「ここは完全に外界と隔絶された清らかな地です。少なくとも自ら命を絶つことはありません」
「だが、住む家すらない地だ……」
耀の言葉を遮り、綾乃の声が響いた。
「相葉君。この地はあなたの自由よ。街でも創ることができるわ。あなたの庇護がある限り、この地は永遠の楽園にだってなるの」
「先生は、受け入れるべきだと思っているのか……」
「そうよ。相葉君は生きることへの執着から今の存在になったのでしょう?その執着すら失った人たちに、わずかでも希望を持ってもらえるなら……受け入れるべきだと思うの」
「……分かった。朱美、何人いるんだ」
「二百人くらいです」
耀は屋敷を振り返り、しばし眺めてから、カリサとヴァレリアの右手の薬指から指輪を外した。
耀を驚いた表情で見つめる二人の左手を順に取り、その薬指へと指輪をはめる。
「カリサ、ヴァレリア、この地を治めてくれ。俺は……ひとりでいたい」
振り向いた耀の視線に呼応するように、街が忽然と姿を現した。そこには住居だけでなく、商店や農場まで備わっている。
ただ、その街並みは森を避け、湖のはるか手前で途切れている。
小高い丘から一望できるほどの、こじんまりとした街――いや、村と言った方が正しいだろう。
「朱美、連れてこれるか?」
「はいー。主様のグルグルをマスターしましたから、すぐに連れてこれますよ」
「そうか。任せた」
朱美が姿を消した瞬間、五人の背後から声がかかった。
「久しいですね、幼子――奈々美ちゃん」
全員が振り返ると、ラクダの背に腰掛けたグレモリーが微笑んでいた。
「うん。今日はどうしたの?」
「珍しい場所にいると知って、会いに来ました」
奈々美は口元に笑みを浮かべ、グレモリーへと流し目を送った。
「お父さんに用事でしょ?」
「おや……幼子だと思っていましたが、いつの間にか淑女になっていましたね」
グレモリーは口元を手で隠し、耀へと視線を向ける。
「俺の女になりに来たのか?」
「違います。母上に叱られてしまいます」
不敵な笑みを浮かべたグレモリーは、綾乃を一瞥してから耀に語りかけた。
「実は……地獄で小さな領地をもつ種族に、跡目争いが起こりました」
「そうか……それは良かったな」
耀は退屈そうに肩を落とした。
「その争いに、地獄の貴族たちが便乗して、再び戦火が広がりそうなのです」
「そうか……それは良かったな」
露骨に面倒げな返事を繰り返す耀を気に留めず、グレモリーは話を続ける。
「貴族たちの御輿に担がれぬよう、姫二人をこの地に住まわせてもらいたいのです」
「殺せばいいだろ?」
「恋心も知らぬ女性を殺すなど……それなら相葉耀の贄としたほうがよいでしょう」
「勝手にしろ」
「では、勝手にいたします……淑女奈々美。女性の美しさは外面よりも心と振る舞いです。ゆめゆめ忘れぬよう」
「はーい!」
奈々美の元気な返事に笑みを浮かべたグレモリーの姿は、陽炎のように揺らめき、やがて消え去った。
「相葉君、邪魔が入ったけど、最後の目的地に行きましょう」
「そうだな。カリサ、ヴァレリア、しばらく頼む」
「ああ、殿様、任せてくれ!」
「殿様……どうかお気をつけて」
ヴァレリアは胸を張り、カリサは祈るように手を組んで、耀と綾乃、そして奈々美が姿を消すのを見送った。
——どこまでも荒野が広がる大陸の中央に建つ城。
ベッドとテーブルセットだけが置かれた殺風景な最上階の一室で、三人は窓から広がる景色を眺めていた。
「お父さん。ここ、つまんない」
「ああ、何もないな……」
「ちょっとやりすぎたかしら……」
「お母さん、なんでこんなところに城を創ったの?」
「なんだか、悪魔が住む土地らしくていいじゃない?」
「まあ、地獄的な景色だな」
三人の会話に、淑やかな女性の声が割り込んだ。
「然様であるな……しかし、地獄にも美しい場所はあるゆえ」
続いて、しゃがれた男の声が響く。
「ラウム、そう言うな。育てがいのある良い土地じゃろ」
「……お前ら、突然出てきて何の用だ?」
耀は窓から景色を眺めたまま、淡々と返す。
「御館様が悪魔を受け入れると聞いてな、ワシがラウムに頼んだのだ」
「然様。ダンタリオンの爺がやかましくてな……許せ」
耀は振り返り、二人を一瞥した。
綾乃と奈々美は異形の存在に慣れないのか、耀の背に隠れて様子をうかがっていた。
「ところで御館様よ。悪魔を束ねられる狡猾さを持つ者が必要ではないか?」
「ダンタリオンの言うとおりだ……だが、そう簡単に悪魔が来るとは思えないがな」
「其方は甘かったようであるな。ルシファーが協力するようである」
「面倒な奴を押し付けるのか?」
「いや、そうではないのじゃ。悪魔とて平穏を求める者もおる。ラウムのようにな」
「ルシファーがいいならそれでいい……それで、悪魔を束ねられる奴がいるのか?」
ダンタリオンは不敵に笑みを浮かべ、床に魔法陣を描いた。
それは淡い光を帯びて浮かび上がり、ゆっくりとせり上がると、そこにひとりの影が姿を現した。
「——おばちゃん……何してんの?」
奈々美の冷徹な言葉と冷たい視線の先には、肩口に可愛らしいフリルのついたコルセット風のトップスに、多段フリルのスカート、小悪魔的イメージ全開の黒と青を基調にしたゴスロリ姿で、可憐なポーズを取り満面の笑みを浮かべる――イオナが立っていた。
一瞬にして笑顔を凍りつかせたイオナが、ゆっくりと視線を動かすと、耀、綾乃、奈々美が残念なものを見るような目で、じっと見つめている。
「——いっそ、殺してもらえませんか……」
振り絞ったイオナの声は、部屋に虚しく消えた。
「イオナはワシの眷属じゃが、狡猾さは誰にも負けん。御館様に譲ろうと思うがどうかの?」
「確かに適任かもしれないな……」
「爺も時には気が利くのであるな」
わざとらしくうなずくラウムを見て、耀がダンタリオンに問いかける。
「条件はなんだ?」
ダンタリオンは顔に皺を寄せ、笑った。
「なに、御館様がイオナを受け入れれば、御館様の眷属となる。しかし、拒めばイオナは命を失う。その覚悟はできておるのじゃろ?」
ダンタリオンの笑顔を湛えた顔を見て、イオナが小声で答える。
「はい。覚悟はできています。ですが——誰か慰めの言葉くらいかけてくれないのですか……」
イオナの覚悟を聞いたダンタリオンは、ラウムに視線を向けた。
「では、帰るかの」
ラウムの身体が黒い霧となって、ダンタリオンを包み込む。
「荒野の向こうに転移陣を刻んでおいたゆえ、地獄から悪魔が訪れる日も遠くはあるまい」
その声とともに、黒い霧は霧散した。
「イオナさん。今日見たことは誰にも話しません……」
「イオナおばちゃん。私も忘れる……」
綾乃と奈々美の虚しい慰めに、イオナの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「相葉君、とりあえず問題は解決したわね」
「ああ……そうだな」
「この世界に来て、もう何日経ったのかしら?」
「二週間ほどか?」
綾乃は目を見開き、奈々美の肩を掴んだ。
「奈々美、帰りましょう!学校も休んじゃってる……」
「うん。楽しかったー。お父さん、また来るね」
奈々美の笑顔に、耀は小さく手を振り、そして綾乃へと向き直った。
「三日くらいなら大丈夫か?」
「そうね……一週間のつもりだったけど、うっかりしてたわ」
「分かった……三日後に帰せないか試そう」
「お願いできるかしら。無理だったら別にいいわ」
綾乃と奈々美の身体が、黒紫の霧に包まれ始める。
「月が重なる日はいつだ?」
「ひと月後」
「じゃあ、その時に」
「ええ……」
二人を覆った霧は、蒸発するように虚空へと消え去った。
見送った耀は静かに振り返り、涙を流すイオナをそっと抱き寄せた。
「イオナ、似合ってる……その服を脱がしてしまうのが惜しい」
イオナは耀の胸に頬を寄せる。
「耀様……本当によろしいのですか?」
「ダンタリオンが言った受け入れるとは、そういうことなんだろう?」
「はい……もう一度、聞きます。本当によろしいのですか?」
「……ああ、構わない」
イオナは黙って耀の服を脱がし始めた。
一枚ずつ、丁寧に畳んでテーブルの上に置いていく。
「耀様……目を閉じていてください」
耀が目を閉じるのを確かめて、イオナは自らの服を脱ぎ始め……やがてすべてを脱ぎ去った。
「——もう大丈夫です」
「イオナ……お前……」
目の前に立つ裸身のイオナを見て、耀は小さく呟いた。
「はい。男です。女性の心を持つ私は、男の身体を持って生まれてしまいました」
イオナは耀の肩に両手を添え、その胸に頬をすり寄せた。
耀のたくましい胸に、イオナの胸は期待と不安で激しく高鳴っていた。
「——私を抱けますか?」
耀はイオナの腰と背に腕を回し、力強く抱きしめる。
柔らかな肌が耀の身体に密着し、イオナは思わず小さな声を漏らす。
驚いて耀を見上げたイオナに、耀は無言で唇を重ねた。
イオナの心は全て耀に奪われ、真っ白になる頭の中には至福の心地よさだけが残る。
耀は優しく彼女を抱き上げ、ベッドへと導いていった……
荒野を吹き抜けた突風が窓を叩き、苦悶に耐えるイオナのか細い声をかき消す。
その声はやがて艶を帯び始め、二人だけの城を満たしていった。
——耀の胸に頭を預けたまま、イオナは指でその胸をなぞった。
「私は……耀様を満足させられましたか?」
「ああ……イオナは俺の眷属になったのか?」
「はい……嬉しいです……」
「それで、本当に良かったのか?」
イオナは耀の胸に爪を立て、頬を膨らませる。
「終わってから聞くなんて……卑怯です」
「悪かった……」
「ずっと大事にしてください。耀様……」
「そうだな……女の子は大事にしろと先生にも言われてる」
イオナが耀の胸に口を寄せ、そっと歯を立てた。
「耀様にとって、私は女の子なんですね」
「そうだな……可愛いところもある女の子だ」
「耀様、可愛い女の子の私からお願いがあります」
「聞いてやろう」
微笑んだイオナが、耀の太ももに腰を押し付けた。
「可愛い女の子は満足していません……こちらの初めても、お願いします」
耀は深く息を吸い込む。そこへイオナが覆いかぶさった。
「耀様……愛しています……」
——その夜、耀は、男を知った……
翌朝、荒野をかける風が、窓を叩く音で目を覚ました耀に、柔らかな声が届く。
「おはようございます。耀様……」
耀が目を向けると、すでに身支度を整えたイオナが、愛おしげな眼差しを向けていた。
「イオナ、起こしてくれないか?まだ少し違和感が残って……」
イオナはベッドに歩み寄り、耀の背を優しく支える。
「申し訳ありません……何分初めてでして……つい、本能のままに……」
「いや、気にするな。イオナは大丈夫か?」
ようやく上体を起こした耀に、イオナが抱きつき、再びベッドに倒した。
「私は……満たされた感覚を……もう一度……耀様……」
——日が傾きかけた頃。耀とイオナはテーブルを挟み、真剣な表情で向かい合っていた。
「イオナ……時間がなくなった……」
「申し訳ございません……何分初めてでして……昂ぶりを抑えることができませんでした……」
「まあいい。俺が頼みたいのは、地獄から来る悪魔の統率と……悪の創造だ」
耀の言葉に、イオナは小さく首を傾げた。
「悪魔の統率は理解できますが……悪の創造とは?」
「分からない。ただ、人同士の争いをなくすには……悪が必要らしい」
イオナは静かに微笑んでうなずいた。
「承知しました。——高い知性を持つ生物を襲う獣がいいでしょう」
「どういうことだ?」
「人は無駄に徒党を組みます。それが争いの火種になる……徒党を組む人の意識をその獣へと向ければ、人同士の争いは減ります」
「そういうことか……イオナに任せる」
「しかし、耀様。私にはそのような生物を生み出す力がありません」
「……考えておこう」
耀が目を閉じると、その傍らに黒紫の霧が漂い、空間が歪み始めた。
やがてその歪みから、朱美がひょっこりと顔を出す。
「あー!主様、こんなところにいたんですかー」
歪みを抜け出した朱美が、イオナを見てニヤついた。
「主様ー……何してたんですか?」
「どうでもいいだろう。それより朱美、イオナに仕えてくれ」
「耀様!このふしだらな天使を私に押し付ける気ですか!」
イオナは厳しい視線を向け、朱美を睨みつける。
「そうですよー!私だって、こんな女に仕えるのはイヤですー!」
「朱美……イオナには悪魔を統率してもらう。その補佐は堕ちた天使にふさわしいと思うが……」
黙り込んだ朱美を見て、耀はさらに言葉を重ねた。
「イオナ、朱美は大天使と呼んでも遜色ない魔法の才がある。必ず役に立つと思うが……」
「耀様がそうおっしゃるなら……致し方ありません」
「そうですねー……主様の言いつけなら、仕方ありませんねー」
二人の返事を聞くや、耀の身体は黒紫の霧に包まれた。
「ひと月後、また来ることになる……この地は二人の好きにすればいい」
その一言を残し、耀の姿は霧とともに掻き消えた。
イオナがため息まじりに呟く。
「はぁ……気乗りはしませんが、この地を何とかしましょう……」
「そうですね……悪魔たちが来る前に、少し準備をしておきましょうか」
朱美も肩をすくめて応じた。
——屋敷に戻った耀は、窓から村を眺めた。
多くの女性たちが生活を始め、少しばかりの賑やかさが感じられる。
そこへノックの音が部屋に響き、ヴァレリアが静かに入ってきた。
「殿様、おかえりなさい……さっそく困ったことがあるんだ……」
「あの、女たちか?」
「いや、彼女たちは問題ない。とりあえず来て欲しい」
「ああ」
屋敷のホールに降りると、質素ながらも気品あるドレスに身を包んだ二人の女性が、床に膝をつき、深く頭を垂れていた。
「彼女たちなんだ……」
ヴァレリアの困惑した声に、耀は二人へ視線を向ける。
「双子か?」
「いや、殿様、問題はそこじゃない……大きさだ」
二人は膝をついているにもかかわらず、その視線の高さは立ったままの耀と変わらなかった。
「確かに……大きいな。よくここに入れたな……」
「無理に屈んで入ってもらっただけだ……彼女たちが住める家がないんだ」
耀は二人の前へ歩み出た。
「お前ら、ここで暮らすのか?」
「はい。グレモリー様が、あなた様の妾となり生き延びろと……」
「そうか……それで本当に良いのか?」
顔を上げた二人を見た耀は、彼女たちの間を抜け扉へと向かう。
「お待ちください。どうか私たち姉妹を……お願いします」
「ついてこい」
慌てて声を重ねた二人に、一言だけ残し、耀は屋敷を後にした。
二人が後を追うと、屋敷のすぐ隣に、一軒の家が建っていた。
「これならお前らでも住めるだろう。狭いかもしれないが我慢してくれ」
振り向いた耀は、二人を見上げる。背丈は耀の倍、四メートルを超えるが、女性らしい柔らかい身体つきをしている。
「カリサとヴァレリアを手伝ってくれ。それと、村の女たちと仲良くしてくれ」
「はい!」
重なる二人の明るい返事を背に、耀は屋敷へと戻っていった。
「面倒だ……先生が謹慎するように言った理由が分かったよ」
部屋に戻った耀は、窓からの景色を眺めながら、ひとり呟いた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




