五人の女神
その日の深夜、耀のために用意されたベッドの上では、奈々美が静かな寝息を立てていた。
彼女の両脇に耀と綾乃が身を横たえ、奈々美の寝顔を見ながら小声で言葉を交わす。
「先生、眠くないか?」
「いいえ、大丈夫よ。相葉君は?」
「ああ、大丈夫だ……奈々美は中学生だろ?その割に幼くないか?」
「そうね。無邪気なのかしら……」
部屋は静まり返り、二人はただ奈々美を見つめていた。
「相葉君……私と奈々美も、この世界で受け入れてくれるかしら」
「理由を聞いても?」
「奈々美……学校でいじめられているの。この子は自分に向けられた感情を魔力に変えてしまうから、気にしていないように見えるけど……本当は寂しいのよ。部屋にこもって、一日中絵を描いていることもあるの」
耀は小さく息を吐き、眠る奈々美の無防備な寝顔に目を細めた。
「……俺の子なんだな。俺も同じだった」
「相葉君の子どもかどうか、疑っていたの?」
「疑ってはいない。ただ、似たような行動をするのを聞いて……改めてそう思ったんだ」
耀は綾乃へ視線を移した。
「先生は悩んでいるんだろ?もしこの世界で受け入れれば、二度と元の生活には戻れなくなる」
「そうよね……人間として、奈々美自身の幸せを見つけてほしいわ」
「……俺は中学生の頃、人間じゃなかった。ひとりの男の心の深淵に潜む、ただの存在でしかなかった」
「そうだったの……」
「そいつはただ耐えることしかしなかった。湧き上がる感情をひたすら押し殺し……そして、その感情を、俺は魔力に変え続けていた」
黙ってうなずく綾乃に、耀は言葉を続けた。
「だが、そいつは幸せを掴んだ。真由美という最高の伴侶を得てな。ならば――俺のような訳のわからない存在が巣食っていない奈々美が、幸せになれないはずがない」
綾乃は優しい目で耀を見つめ、やがて静かにベッドを離れて窓辺に立つ。
「そうよね……」
窓の外には、薄暗い街と、その先に広がる真っ暗な草原。二つの月が、そのすべてをやわらかく照らしていた。
耀が静かに綾乃の隣に立ち、窓と綾乃のあいだに指輪を掲げた。
「これは?」
「先生にだ」
綾乃は耀に向かい、そっと左手を差し出す。耀はその薬指に指輪をはめた。
「きれい……」
「今までで最高傑作だ」
月明かりに照らされた細い金の指輪には、咲き乱れる花と二つの月、そして手を合わせる女神が精緻に彫り込まれていた。
「それに願えば、俺のところに来られる。奈々美の逃げ場所にしてくれ」
「そうね……そういう場所があれば、きっと安心できるわ」
「ああ……俺には逃げ場所がなかったからな」
綾乃は指輪を見つめ、そっと耀の手を握り返した。
そして、少し背伸びをして、ゆっくりとまぶたを閉じる。
耀も静かにまぶたを閉じ、そして無言で唇を重ねた。
「相葉君。愛してるわ」
うなずいた耀が、ふと眉を寄せて綾乃に話しかけた。
「先生、もうひとり……話を聞いてやってほしいんだ」
「いいわよ」
「案内する。ただ、どの部屋にいるのかは分からないが……」
「待って……奈々美は?」
「先生を送ったら、俺が見ておく」
部屋の扉を開くと、二人の聖女の騎士が警護に立っていた。
耀が小声で何かを尋ねると、ひとりが前に出て案内する。
やがて、ひとつの扉の前で立ち止まり、軽くノックすると――中から応じる声が返ってきた。
聖女の騎士に促されて耀が部屋に入ると、春子が少しやつれた微笑みを浮かべていた。
「おにぃ……どうしたの?こんな遅くに」
耀の後から部屋に入った綾乃は、そこに立つ人物を見て、思わず息を呑み、目を見開いた。
「……大橋さん」
「元宮先生……?」
二人は思わず歩み寄り、手を取り合った。
「なぜここにいるの?」
「先生こそ……」
言葉を詰まらせた二人に、耀が声をかける。
「先生……悪いが、春子の話を聞いてやってほしい。俺は部屋に戻る」
耀はそう言い残し、静かに部屋を後にした。
——翌朝、先に起きた綾乃は、ひとり部屋の外に出て警護の聖女の騎士に声をかけた。
「あの……エドリックさんとお話がしたいのですが」
綾乃に向き直った聖女の騎士が、姿勢を正し、静かに敬礼をする。
見慣れぬ所作に、綾乃も思わず敬礼を返してしまった。
「エドリック殿でしたら、執務室にいらっしゃいます。ご案内いたします」
その頃、ベッドで目を覚ました耀は、部屋に綾乃の姿がないことに気づいた。
「……まだ春子のところか?」
何気なく振り向くと、奈々美が眠そうな目で耀を見つめていた。
「お父さん、おはよう」
「起きたか」
「うん」
ベッドから立ち上がり、着替えを始める奈々美を見て、耀が眉を寄せる。
「奈々美、無防備すぎないか?」
「なんで?お父さんしかいないし」
「……そうか」
言葉を失った耀は椅子に腰を下ろし、窓の外へ視線を向けた。
着替えを終えた奈々美が、その向かいに腰を下ろす。
「お父さん。お願いがあるの」
「なんだ?」
「お母さんが可哀そう。だから、いつでも、何度でも会えるようにしてあげて」
奈々美の真剣な眼差しに、耀は小さくうなずいた。
「昨夜、そうできるようにした。奈々美も一緒に来るといい」
「ほんと!良かったー。お母さん喜んだでしょ?」
「ああ……喜んでたみたいだ」
その時、部屋の扉がノックされ、食事が運ばれてきた。続いて綾乃も姿を見せる。
「二人とも、起きたのね」
「お母さん、おはよう」
「おはよう、奈々美。今日のお昼から、新しくなったこの世界を見に行きましょう」
「うん」
綾乃も椅子に腰を下ろし、運ばれてきた朝食を奈々美の前に並べる。
「それまで、朱美さんが遊んでくれるそうよ」
「朱美さんって天使のお姉さんだよね?やったー!」
奈々美の笑顔を囲み、三人は和やかな朝食を楽しんだ。
——その数時間後、耀は綾乃に腕を組まれ、広間の扉の前に立っていた。
「先生、何を始めるんだ?」
「いいから、黙って言われたとおりにするの」
「分かったよ」
広間の扉が開くと、右にはクラリッサ率いる聖女の騎士と、オルセール率いる銀鎧の騎士が列を組み、左にはエドリック率いる文官たちが並び立っていた。
中央にはアンナ、レイ、ミスティ、ゾーヤ、ルナリアが一列に並び、玉座を仰いでいる。
耀は綾乃とともにゆっくりと玉座へ進み、やがてアンナとレイの間で綾乃は耀の腕を離した。
耀はその場で立ち止まり、綾乃だけが玉座の前まで歩みを進め振り返る。
「創造の仕上げです」
堂々とした綾乃の言葉に、騎士も文官も一斉に姿勢を正した。
綾乃の視線がルナリアへ向けられる。慈悲深いその眼差しに、ルナリアは自然と背筋を伸ばした。
「銀狼種族としての優れた力に奢りながら、圧倒的な強者を前にした後は、自らがその者に最も近い立場にあると心のどこかで自負している。けれど、相手を選ばない実直さと誠実さ、そして忠義の心もある。その相反する心を併せ持つルナリアこそ、この世界に秩序をもたらす存在となりえます」
綾乃の視線がゾーヤへと移る。
「幼くしてこの世界に迷い込み、歳を重ねることのない存在へと変えられ、人を殺す技を磨かされ、そして多くの人を殺した。その記憶は、この世界への深い憤りとして心に刻まれた。けれど、多くの孤児に注ぐ愛情は、その憤りすら覆い尽くす。ゾーヤこそ、この世界の命を司る存在となりえます」
続いて綾乃の視線がミスティへと移る。
「無意識の恋心に執着し、死してなお想い人を探し続け、ようやく巡り会えたその人は、多くの妻に囲まれていた。嫉妬のあまり黄泉の国へ身を隠しながらも、戦いとなれば人々だけでなく、恋敵である妻をもその身を挺して守り抜く。ミスティこそ、この世界の守護者となりえます」
綾乃がレイに笑顔を向けた。
「食への執着が増幅し、やがて夫とした相手の血液すら渇望するようになった。その執着の果てに得た召喚士としての力は、類まれなる知識の上に築かれたものであり、さらに多くの知識を、誰に知られることもなく貪欲に求め続ける。レイチェル、あなたこそこの世界の知識を司る存在となりえます」
アンナに視線を移した綾乃が、優しく微笑みかけた。
「肌を重ね続けた相手が、愛した人とは別人だったと知ったとき、快楽の欲望を抑えることができなくなった。けれど、その弱さを受け入れた愛する人のために、人知れず力を磨き続け、ついには圧倒的な強者すら凌ぐ力を手に入れた。それは心の力。ジョアンナ、あなたはこの世界に真の力を与える存在となりえます」
耀に視線を向けた綾乃の表情が険しくなる。
「理由がなければすべてから逃げる。虐げられた環境で感情を犠牲にして得た、膨大な魔力を生み出す力。それすら逃げるために利用し、孤独のために利用する。自ら行うべきことも、興味がなければ放置する。——その魔力がこの世界を、拒まぬ世界としました。未だ生まれたばかりで、膨大な魔力を必要とするこの世界のために、未来永劫にわたり感情を放棄し、愛を求める人に不安しか与えない無責任さは、もはや慈悲にすら値するのです」
綾乃の視線が広間を見渡す。
「この世界に、ひとりの神と五人の女神を創造します。」
「怠惰と慈悲の神——アイバヨー」
「色欲と力の女神——ジョアンナ」
「暴食と知識の女神——レイチェル」
「嫉妬と守護の女神——ミスティ」
「憤怒と命の女神——ゾーヤ」
「傲慢と秩序の女神——ルナリア」
ひとりずつ呼び上げた綾乃は、その視線をエドリックに向けた。
「この世界の神と女神を、政治的な思惑で利用してはなりません。その時は、すべての女神がその者の存在を否定します」
次に綾乃の視線がオルセールへと移る。
「争いのために神と女神の力を求めてはなりません。その時は、すべての女神がその者たちに死を与えます」
そして綾乃はクラリッサに優しい笑みを向けた。
「クラリッサ。聖女の騎士は、すべての聖女のためにあるものです。あなたが怠惰と慈悲の神の聖女であるように、色欲と力の女神には聖女アーシャがいます。そして他の女神にも、いずれ聖女と呼ぶべき存在が現れるでしょう。聖女の騎士は、そのすべてを守るのです」
「はい……」
「オルセール。聖女の騎士を差配できる者が見つかるまでは、貴殿に任せます」
「承知いたした」
綾乃がミスティとルナリアを見て、微笑んだ。
「女神ミスティと女神ルナリアは、この大陸のはるか東、山脈のさらに向こうに、この世界が受け入れる獣人たちの国を築いてください」
続いて耀に厳しい視線を向ける。
「アイバヨー。この世界にとって、あなたは不可欠な存在です。絶対に逃げ出せない特別な場所を用意しました。そこで怠惰を貪りなさい」
綾乃の声が広間に響き渡る。
「これがこの世界の理です。私は二つの月が重なる夜にだけ、愛しい我が子の成長を見届けるため、このココトゥーラに降臨します」
——オルセールの号令で、すべての騎士と文官が広間を退いた。
神と女神、そして創造の母だけが残った広間に、ため息が響く。
「綾乃が黙っているように言いましたので、黙っていましたが……レイは女神にされましたの?」
「そうよ。レイさんは女神です」
「そんなの、退屈ですわ!」
頬をふくらませたレイに、アンナが諭すように声をかける。
「レイ、女神様もいいじゃないですか。好きなことをしていればいいのです。でも……ご主人様はどこに行かれるのですか?」
綾乃は口元に人差し指を立て、微笑んだ。
「内緒よ。でも、すぐに見つけられると思うわ」
「んっ。すぐに見つける」
「ゾーヤさんなら見つけられそうね」
「んっ。任せて」
胸を張るゾーヤをよそに、レイが耀の腕にしがみつく。
「兄様!レイは退屈ですわ。連れて行ってくださいまし!」
「レイ、この世界に自然が生まれた。人々が自然を尊び畏怖し崇拝すれば、精霊と呼ばれる存在が生まれる」
「そうなると……妖怪も生まれますわ!」
レイは見開いた瞳を輝かせて耀を見つめる。
「そうだな。この街のはるか西、海にたくさんの小さな島が密集した場所がある。そこに精霊や妖怪の国でも作ってくれないか?」
「面白そうですわ……でも、どうやってそこに行きますの?」
「先生が許してくれたら、俺が連れて行こう」
「今すぐ連れて行ってくださいまし!」
レイはあざといほど悲しげな表情で、耀を上目遣いに見つめた。
「いや、俺は先生に言われて謹慎だからな。それに精霊が生まれるまでには時間がかかる」
「綾乃が言うなら仕方がありませんわ……」
突然、耀の背中に柔らかな感触が押し付けられた。
「殿よ、妾とルナリア殿はどうすれば良いのじゃ?」
「俺がこれから連れて行く。そこで先生の話を聞いてくれ」
「承知した。ルナリア殿よ、楽しみじゃの」
「ミスティ様……私には不安しかないのだけど」
「なーに、何とかなるものじゃ」
二人を微笑ましく眺めていた綾乃が、耀の腕を引く。
「さあ、テラスに行きましょう。奈々美が待っているわ」
「そうだな。謹慎前に羽を伸ばしたいところだ」
「ルナリア殿、妾たちも行こうかの」
テラスに出た耀と綾乃は、奈々美の姿を探した。
「奈々美、どこに行ったのかしら……」
「あそこだ」
綾乃の声に、ルナリアが正面の空を指さす。
「きゃー!朱美お姉ちゃん!空を飛んでるよー!」
奈々美を抱きかかえた朱美が、猛スピードで街の上空を駆け抜けていた。
そして大きく宙返りをして、こちらへ向かってくる。
「わー!もう一回やってー!」
朱美は再び宙返りを決め、そのままテラスへと降り立った。
「奈々美!何をやってるの!」
「空を飛びたいってお願いしただけ」
なおも言葉を続けようとした綾乃を、耀が手で制した。
「奈々美、楽しかったか?」
「うん。気持ちよかった!」
「そうか。それは良かった」
耀は笑顔の奈々美の頭を、そっと撫でた。
「主様ー、出発ですかー?」
「ああ、行こう」
朱美の声に振り向いた耀は、綾乃と奈々美を抱き寄せた。
そこにミスティとルナリア、そして朱美がしがみついた、次の瞬間、耀たちの姿はテラスから消え去った。
「あれー、カリサさんたち、まだいたんですか?」
耀の到着を待っていたカリサとヴァレリアの前に、朱美の気の抜けた声とともに五人が現れる。
「あっ、殿様、綾乃さん、朱美さんも」
「ミスティ様!」
「ふむ、久しいの……」
「行くぞ。二人とも、つかまれ」
「はい」
カリサが綾乃に、ヴァレリアが奈々美に触れた瞬間、耀たちの姿は掻き消えた。
それは、ヴェリディシアの地下五十層にもわたる大空間が、完全に無人の廃墟となった瞬間でもあった。
——耀たちの前には、水面を輝かせる巨大な湖が広がっている。
周囲は平原に覆われ、その先には、どこまでも続くかのような森が広がる。
「でかいの……」
「ああ、すごい……これが湖なのか?」
その雄大さに圧倒されるミスティとルナリアの背後で、奈々美の声が響いた。
「ヴァレリアお姉ちゃん、見て!お城がある!」
その声に二人が振り返ると、森の奥に城がそびえていた。威厳ある佇まいに漂う寂しさは、まるで静かに主の到着を待っているかのようだった。
「綾乃殿、あれが妾たちの拠点になるのかの?」
「そうよ。それと、向こうも見て」
綾乃が指さした先に、塔が建っていた。
「あれは……塔なのか?」
「ああ、塔だ」
ルナリアの疑問に、耀が短く答え、言葉を継ぐ。
「あの塔には、ラウムの領地にある俺の屋敷から転移できる。ただし一方通行だから、戻ることはできない」
「あそこに現れた獣人たちは、自然とあの城を目指すのじゃな」
「それが目的なの」
「ミスティ様、二人では骨が折れます」
「そうじゃの……城に住まわせるわけにもいかぬしの」
見渡す限りの大自然に呆然とする二人へ、綾乃が優しく声をかけた。
「相葉君も手伝うわ」
「殿もここに住まうのか!おお、妾は殿と毎夜褥をともにしようぞ」
「違うわ!」
「な、なんじゃと!違うのか……」
「違うのか……じゃあ、どうやって手伝うんだ?」
肩を落とすミスティとルナリアに、綾乃が微笑む。
「獣人の聖女がいれば、相葉君を呼び出せるわ。ただし、聖女と行動を共にしている間だけね。そうしないと相葉君は逃げちゃうから」
「ふむ、殿は聖女を連れて逃げそうじゃがの……」
「それは二人の人選次第よ」
「そういうことか……でも、少しは希望が持てたな」
「そうじゃな。ルナリア殿、城へ向かうとするかの」
城を目指して森の中へ足を踏み入れる二人を見送り、耀と綾乃は湖へと振り返った。
そこではカリサ、ヴァレリア、朱美が奈々美を囲んで水遊びをしていた。
「奈々美、行くわよ」
綾乃の呼ぶ声に、四人が駆け寄ってくる。
「奈々美、楽しかったか」
「うん。冷たくて気持ちよかった」
「そうか。じゃあ行くぞ」
奈々美をそっと撫でる耀の腕に、カリサが抱きついた。
「いよいよ私たちの家ですね」
「ああ、そうだな」
耀が全員を抱き寄せた瞬間、波の音だけを残して、その姿を消した。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




