初デート
世の中は真夏の盛りを迎えている八月、子供がいない集落だから仕方のないことだが、夏休みなのに子供の声が聞こえてこない。
お盆の頃になれば、里帰りしてきた子供たちの声も聞こえるかな?
「暑いですわ。お野菜に水をやるだけで、汗だくになってしまいましたの」
「もう水やりは終わったんだろ?シャワーを浴びてきなよ」
「そうですわね。でも、兄様と少しお話がしたいですの」
レイは僕と縁側に腰を下ろし話をするのが楽しいらしく、午前中は二人で過ごすことも多くなった。
レイはキッチンに向かい『優しい味』のお茶を淹れてきてくれた。
うれしいのだが、水撒きをして暑いから、レイが飲んでいるジュースの方が欲しかった。
レイが野菜の成長を嬉しそうに話すのを聞いていたら、ポケットの中でスマホが震え、着信音が明るい声を遮った。
画面を確認すると、着信を拒みたい相手が表示されている——
「はい、相葉です」
「相葉様ですか?私、グラインドテックソリューション株式会社の滝川と申します」
以前、喜多原にケチをつけられて、仕事から外された挙句、金ももらえてない、あの会社からの電話だった。
ブラック企業の代名詞のような怪しい名前だが、実は上場目前とも噂される大手人材派遣会社だったりする
「相葉様にお伺いしたいことがございまして、弊社までご足労いただきたいのです」
「話だけなら電話で十分ではないですか?」
「いえ、少し込み入った内容で、弊社の取締役が直接話を伺いたいと申しております。急で申し訳ないのですが、明日の十時三十分にお越しいただきたいのです」
本当に急だし、正直言って面倒だ。『よし、断ろう』と思った時、意外な声が聞こえた。
「兄様、お断りなされずに行く方がいいですわ」
何やら考えがあるようなレイの仕草を見て、断るのをやめた。
「分かりました。明日の十時三十分に伺います」
「では、お待ちしております。受付で滝川あての訪問とお伝えくだされば、案内できるように準備しておきます」
通話を終わり、面倒な用事ができたことにため息をつく僕の顔を、レイが覗き込む。
「兄様、レイも連れて行ってくださいまし」
「えっ、レイも行くの?ていうかさ、聞こえてたの?」
「聞こえておりませんわ。兄様の表情でレイがついて行くべきだと思いましたの。断ってもまた同じことを繰り返すと思いますわ」
レイは時折、こんな感じの鋭い勘を見せてくれる。
「分かったよ。何もかもが今更だし、どうなってもいい話だ。遊びがてら一緒に行こうか」
「うふっ、やりましたわ!兄様との初デートですわ」
——翌朝、レイはいつもと違う服を着てリビングに入ってきた。初めて見る服だが良く似合っている。
「レイ、遊びに行くのではないのです。ご主人様をしっかり見ていてくださいね」
アンナがレイに念を押すが、その言い方だと、僕はダメな子供みたいに思われているのだろうか?
「分かっておりますわ。兄様、準備ができましたの」
そう言って彼女は、僕の前でくるっと回って見せた。
「今日は何だか大人の雰囲気があるね」
「嬉しいですわ。兄様とデートの時に着ようと思って買いましたの」
「レイ、お仕事ですよ」
アンナが念を押す。
「うん、いつもと違うけど、大人な感じのレイもすごく素敵だよ」
大人ぶってもレイは可愛いのだが、今日のコーディネートに『可愛い』なんて言うとレイの機嫌を損ねそうだ。
「兄様、今日は服の中も大人ですの」
「えっ、そうなの?」
思わず声を出してしまった瞬間、背後から殺気を感じる。
「ご主人様……お仕事に行くと聞いておりますが、なぜレイの服の中に興味を示されたのですか?」
アンナが冷たい笑顔で、僕をじっと見ている。その目には見るものを凍り付かせるような瞳を宿していた。
この状態になったアンナは、そっと放置しておいて時が解決してくれるのを待つのが一番いい。
「レイ、タクシーも来たようだし出ようか」
「はい。兄様!」
「戻られたら、ゆっくりお話を伺います!」
アンナの声から逃げるように、レイとタクシーに乗り込んだ。
車内でレイはずっと窓から外を眺めている。レイは初めての遠出だったな。
「兄様はお車を持っていませんの?」
「うん。前は持ってたんだけど、あまり乗らないし手放したんだ」
「でも、あると便利ですわ」
「そうだね。だけど、今の生活だと、本当に必要なのは、年に数回だけだからね」
「そうなんですの」
「それに、アンナを乗せるなら、少し大きい車がいるんじゃないかな」
「確かにそうですわ。茂おじいさまの車には乗れそうにありませんの」
そういえば、レイは茂さんと一緒に某組合まで買い物に行くことがあるな。
その度に、お菓子を持って帰ってくるから、今度、茂さんを見かけたらお礼をしておこう。
自宅からは最寄りの駅までは四十分ほどかかる。
タクシーだと高くつくが、バスが二時間に一本しかないので、これは仕方がない。
田舎とはいえ、駅の周りは建物も多く、多少は人も歩いている。まあ賑やかさはないが。
「着きましたの?」
「ここは駅だよ。ここから電車に乗るんだ」
「電車とはなんですの?」
「乗ってみれば分かるよ」
切符を買い、ホームに向かう間も、レイは興味深そうにあちこちを見回していた。
ホームに入ってくる電車を見たレイは、僕の手と切符を握り締めて、少し震え始めた。
「に、兄様、あれは何ですの?少し怖いですわ」
「あれが、電車だよ。あれに乗ればあと一時間くらいで着くから」
「あれに乗りますの……乗らなくてもいい方法はありませんの?」
「隣にいるから大丈夫。安心して」
怯えながら僕の手を握り、恐るおそる電車に乗り席に着く。
「兄様、これは大丈夫ですの?」
しばらく僕の手を握り、震えていたレイだったが、発車してしばらくすると、子供のようにはしゃぎ始めた。
「兄様、こんな大きいのにすごく早いですわ。車より速いですわ!」
「慣れたみたいだね?」
「楽しいですわ。みんな追い抜いていきますわ!」
大丈夫だとは思うが、念のため声を掛けておく。
「気分が悪くなったりしたら言いなよ」
「に、兄様……気分が悪くなってきましたの……お膝の上に座らせてくださいまし……」
「ダメ」
「そ、そんな……」
「そんなことより、アンナに自慢するんだろ」
「そうでしたわ、電車に乗った話を、アンナに聞かせてあげますの!」
……さっきまで具合悪かったんじゃなかったっけ?
僕も一緒に窓からの景色を眺めてみる。
思えば今の家に引っ越してから、一年半くらいは、毎日この景色を見ていたはずだが、全然記憶にない。
青々とした稲が風に揺れ、踏切のベルが遠くで鳴っていた——見ていたはずなのに。
電車は予定通り目的の駅に到着した。田舎暮らしとはいえ、一時間も電車に乗ると結構な都会まで出て来れる。
久しぶりに人混みを見て、少し人酔いしている僕を後目に、レイは目を輝かせて周りの建物を見回している。
「さあ、少し早いけど、面倒な用事を済ませて、混雑する前にどこかでご飯を食べようか」
「はい!兄様」
目的のオフィスビルに着いた僕は、最後に来た時に喜多原との会話を思い出した。鮮明に蘇る嫌な記憶を振り払うように、大きく深呼吸をする。
どうせ今日も嫌な話でしかないだろう、レイもいるし前よりは気が楽かな。
「ここですの?」
「そうだよ。本当はもう関わりたくなかったんだけど、また来ることになるとは」
「さあ、兄様、早く終わらせますわ」
レイに促されて建物の中に入る。レイは自動ドアにも興味を持ったようだが、大人しく着いてきてくれた。
「出迎えがありませんわ」
「行く会社は、ここの六階に受付があるからね。この建物にはたくさんの会社が入っているんだ」
話をしながらエレベーターに乗ったが、動き出した途端にレイは少し顔色が悪くなった。
「兄様、気持ちが悪いですわ。抱きしめてくださいまし」
「すぐに着くから我慢して」
「今日の兄様は、なんだか酷いですわ……」
そんなことを言っていたレイだが、エレベーターを降りると、窓から見える景色に目をキラキラ輝かせている。
僕は受付に向かい、声をかける。
「おはようございます。十時三十分に滝川様と約束をしている、相葉と申します。少し早いのですが、よろしいでしょうか」
「——少々お待ちください」
そう言うと、受付のお姉さんは電話を掛ける。
「滝川が参りますので、しばらくお待ちください」
すぐに、受付に一人の女性が現れた。レイより背は低いが、装いからは大人の雰囲気を漂わせ、できる女って感じがする。でも、少し顔色が悪いようだ、疲れているのだろうか?
「相葉様、お待たせいたしました。滝川と申します」
「初めまして、相葉です」
「そちらの方は?」
「私の姪です。普段から私の仕事を手伝ってくれているのですが、今日は別件があり、同行してもらっています。もしご迷惑でなければ、同席させていただければと思います」
「そうでしたか。どうぞご同席ください。ではご案内いたします」
嘘はついていない。畑仕事は手伝ってくれるし、この後もデートという別件がある。対外的なレイの姪設定は、完全に板に付いているから問題ない。と思う……
応接室に案内された僕たちは、勧められるままにソファーに腰を下ろす。
「常務の大河内が参りますので、もうしばらくこちらでお待ちください」
滝川さんがお茶を用意してくれた。
「早く着いたのは私ですので、どうぞお気になさらず」
滝川さんは丁寧にお辞儀をして、部屋を出て行った。
出されたお茶をひと口飲む、いつもの超薄味……いや、優しい味のお茶とは違い美味しい。
「兄様、あっという間にこんな高いところにいるなんて、思いませんでしたわ」
どうやらレイは空気を読んで、はしゃぎたい気持ちを我慢していたようだ。
「少し、外を眺めてみなよ」
「はい」
レイは応接室の窓に近づき、見渡すように外を眺める。
《……聞こえる?》
「兄様どうしましたの?」
「どう?何もしてないけど」
「兄様に呼ばれたのかと思いましたの」
「呼んでないよ。早く着いたし、まだ待たされるだろうから、ゆっくりしておきな」
「わ、分かりましたわ……」
《ねぇ、聞いて》
レイは、落ち着かない様子で周りを見回す。
『おかしいですわね。確かに声が聞こえましたわ……』
《目を閉じて。見せてあげる。大切な人》
『あなたは誰ですの?』
《この部屋にある全部の物、ずっとここにいるから全部知ってる》
『もの?ですの』
《知ってること見せてあげる。目を閉じて》
『目を閉じればいいですの?』
目を閉じるとこの部屋の光景がまぶたに浮かぶ。
——そこでは二人の男が会話をしていた。
「君のおかげで相葉に払う予定の金を、会社から現金で出してもらえたよ」
「部長の協力があってのことです」
「で、取り分は私が八割でいいのかね?」
「ええ、私の目的はあいつに身の程を思い知らせて、絶望を味合わせてやることなので、全部部長の取り分でもいいんですよ」
「そうはいかんよ。君にも共犯になってもらわないとな」
そういうと、部長と呼ばれた男が、封筒から札束を取り出し、もう一人の男に手渡した。
「では、これが領収書です。押してある印鑑は本物ですので、あいつ以外には絶対にバレませんよ」
札束と交換するように、一枚の紙を手渡した。
部長と呼ばれる男は、高笑いしている。もう一人の男は背中しか見えないが、肩を揺らしているのは分かる。
『どういうことですの?兄様はお金をもらっていませんのに』
《ねぇ見えた?見えた?》
『見えましたわ』
《私たちは精霊——お姉さんもおじさんも大切な人》
部屋の扉がノックされる。滝川さんと鋭い目つきの男性が、入ってきた。
レイは慌てて僕の隣に移動してきた。
「初めまして、相葉と申します」
「レイと申しますの。よろしくお願いしますわ」
レイはこんな時でもマイペースで可愛い。
「常務の大河内です。どうぞお掛けください」
全員が腰を下ろしたタイミングで大河内が口を開く。
「今日お越しいただきましたのは、あなたが携わった我が社のシステムの件ですが、心当たりはありませんか?」
「その件しか御社との関係はありませんので、予想はしておりましたが、用件は思い当たりません」
「そうですか、うちの喜多原が何度もあなたに電話をしているはずですが?」
「おっしゃっていることが分かりません。私には一度も御社の方から連絡はありませんでした」
大河内は表情を険しくする。険しい表情をしたいのは僕の方だ、言いがかりのためにわざわざ呼び出したのか?
「いや、何度も電話を入れているはずだが」
「私が御社からの電話に出なかったとでも?」
「率直に言えばそう思っている」
「であれば、昨日の電話にも出ないはずでは?」
本当に何を言っているのか分からない。そもそも落ち度があるのはそっちの方だろう。
大河内は滝川さんに視線を向ける。
「昨日、私が電話を掛けた際にはすぐに出られました」
大河内は僕を睨むように見る。
「では、今、話をさせてもらいましょう。そのシステムの相葉さんが担当された部分に不具合が多く、改善をお願いしたい」
「私は後半のシステム統合プロジェクトから外されました。完成形を知らない私では、正直無理だと思います」
「そんなはずはないだろう。君には費用を全額支払っているんだ!きっちり収めてもらわなければ困る」
激昂した大河内を滝川さんがたしなめる。もう話が食い違っているのは確定的だ。
それにしても、この会社の偉い連中はなぜ上からものを言うのか分からない。
話を打ち切ってもいいくらいだが、ここで言いたいことを言っておかないと気が済まない。
「費用は頂いておりません」
「何だと!この期に及んでそんなシラを切る気か!」
「事実をそのままにお伝えしただけですが」
レイが隣にいてくれる安心感からか、前に喜多原に呼び出された時より冷静でいられる。
大河内は一枚の領収書を机に叩きつけた。そこには僕の使っている屋号と僕の名前、丁寧に印鑑まで押されていた。
「貴様が金を受け取っているのは間違いないだろう。受け取っていない金の領収書が、なぜここにある」
「これが証拠と?」
「そうだ!貴様に費用を払った証拠だ!直ぐに直さなければ訴えるぞ!」
そこに押されている印鑑は、紛失したものだった。多分、知紗が持ち出したのだろうと思い、買い直したので、この仕事の時には手元に持っていなかった。
——僕は思わず微笑んでしまった。
心の奥から黒い霧のようなものが、静かに、しかし確かに這い上がってくる感覚に襲われる。
『こいつら全員殺せば済むだろ……』
——その瞬間、静かな声が響いた。
『兄様、レイはいつでも兄様のお味方ですの。どうか堪えてくださいまし』
湧き上がってきた何かがレイの声に従うように思え、落ち着きを取り戻せた。
不思議な感覚だが、レイが隣にいてくれたからだろう。ついてきてくれて本当に良かった。
「それは、私が書いたものではありませんし、手書きで領収書を発行することもありません。それに、その印鑑は私が使用しているものではありません」
「何だと!貴様はふざけているのか!」
「ちょっとよろしいですの?」
黙っていたレイが険しい表情で口を挟んできた。
「あなたが兄様に直接お金を渡しましたの?」
「貴様は黙っていろ!」
「いいえ、黙りませんわ。兄様がお金を受け取っていないことは、レイも知っておりますの。そのせいで苦労されたのも見ておりますわ」
「お前は黙れと言ってるだろう!」
レイは激高している大河内を無視し、涼しい顔で話を続ける。
「払うお金を持ち出して、その領収書を受け取った人にこそ、聞くことが多いと思いますの。その程度のことは子供でも分かりますわ」
「何だと!」
怒鳴る大河内を更に無視して、レイは立ち上がり、ゆっくりとした口調で話す。
「さあ、兄様帰りましょう。ここにいても時間の無駄にしかなりませんわ」
「ちょっとお待ちください。弊社は追加で費用を支払うことも検討しております。最後まで聞いていただけませんでしょうか」
滝川さんが咄嗟に止めに入るが、レイは構う様子を見せない。
「イヤですわ。人を泥棒のように扱う、口の利き方も知らない方と、これ以上同じ部屋にいたくはありませんの」
「領収書などの件につきましては、社内でも調査を行いますので、もう少し……」
滝川さんの言葉をレイが遮る。
「待ちませんわ。あなた方の茶番に付き合うほど物好きではありませんの」
「社内はもちろんですが、大河内にとりましても、大切なプロジェクトでしたので、少し気が立ってしまいました。私が代わって無礼をお詫び申し上げますので、なんとかお待ちいただけませんか?」
レイは滝川さんに優しい微笑みを向ける。
「まずは社内で結論を出してからにしてくださいまし」
そう言うとレイはスカートを摘み、片足を半歩引き、軽く膝を折って頭を垂れる。
「では、ごきげんよう」
滝川さんには礼を失しないようにと思っているのだろうか。
僕はレイに手を引かれて、部屋を後にした。閉じた扉から怒鳴る声と何かが割れる音が響いた。
そのまま真っ直ぐにビルを出ると、レイは僕に笑顔を向けた。
「さあ、兄様、ご飯を食べて、アンナにお土産を買いますわ」
前にここを歩いたときは、ひとりきりで苦しかった。でも今日は違う。
僕はレイの手をしっかりと握って、歩き始める。
「——ありがとう、レイ」
手をつないだまま、時折じゃれ合いながら——夕方まで街を歩いた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
2025年9月15日、一部修正しました。
 




