幕開け
耀とレイがアンナを伴って屋敷に戻った、その日の夜。
静まり返った食堂には、レイ、ゾーヤ、ルナリア、カリサ、ヴァレリア、朱美の六人が集まり、紅茶を手に談笑していた。
「殿様は食事を取っていないが、大丈夫なのだろうか?」
ヴァレリアの心配する声に、朱美が笑顔を浮かべる。
「大丈夫ですよー。死んでもすぐなら蘇生できますからねー」
「いや、そういう意味じゃないんだが……」
「朱美の言うとおりですわ。あれは兄様が悪いので仕方ありませんの」
レイの言葉に、カリサが不安げに首を傾げた。
「一体何があったんですか?」
「ルシファーとの口づけに夢中になった兄様が悪いですの」
「はあっ! 魔王様は女性なのか?」
「いいえ、男性ですわ。マッチョの……」
目を白黒させるヴァレリアをよそに、ルナリアは顔を伏せ、頬を染めた。
「み、見てみたかったな……」
「レイは目の前で見ていましたけど、それはもうバラ色に輝いていましたわ」
「んっ。耀は拒まない」
ゾーヤのつぶやきに、全員がうなずいた。
「しかし、アンナさんは聞いていたとおり大きかったな」
「すごいですよね。殿様を軽々と持ち上げて、部屋に消えてしまいました」
ヴァレリアとカリサの会話に、レイが割って入る。
「本気を出した兄様を、力でねじ伏せられるのはアンナだけですわ……たぶん、十日は出てこないと思いますの」
「と、殿様は大丈夫なのか!」
「でも、殿様は転移ができますよ。私、一度見ましたもん」
カリサの言葉を、レイが否定する。
「カリサ、甘いですわ。アンナはあの巨大な胸に兄様を埋めて失神させますの……いくら兄様でも逃げられませんわ」
「そ、そんなにすごいのか?」
「んっ。耀はアンナと相性が悪い」
ゾーヤの言葉にうなずいたレイに、カリサが首をかしげながら問いかける。
「相性って、どういうことですか?」
「兄様の恐ろしいところは力ではありませんの」
「んっ。千人くらいの人なら一気に消し去って、自分の魔力に変える……」
その物騒な言葉に、ルナリアは思わず両腕を擦り、肩をすくめた。
「ゾーヤさん、それは本当か?」
「んっ。本当」
「そんなことしなくても殿様は十分強いだろ。槍を持ったアンナ姉さんと対等だぞ。私は刀で一撃も入れたことがないんだぞ」
「んっ。でも耀は武器を使えないから危険」
ルナリアが息を呑み、視線を落としてつぶやく。
「そう言えば、殿様はいつも素手だな……」
「アンナに槍で切られましたわ」
レイはカップを口に運び、あくまで淡々と付け加えた。
そして、ふいに椅子を引いて立ち上がり、ゾーヤに声をかける。
「アンナが満足するまでに、ゾーヤの作戦を完成させますわ」
「んっ。レイの部屋に行く」
「カリサ、これから食べる分と夜食をお願いしますわ」
「レイさん、さっき食べたところですよ。でも……仕方ありません。約束は守ってくださいね」
「任せてくださいまし」
レイは口元に小さな笑みを浮かべ、楽しげに言い放った。
「兄様を干からびさせて差し上げますの」
部屋を後にする二人を見送った後、残った四人——ヴァレリア、朱美、カリサ、ルナリアが顔を見合わせた。
「やっぱり、あれだよな……殿様とアンナさんは……してるよな……」
「あれー、ヴァレリアさん、気になります?」
おどけた朱美の声に、ヴァレリアは耳まで真っ赤に染め、慌ててキッチンに立ったカリサへ話を振る。
「カ、カリサはどう思う?」
「分かりませんけど……あのアンナさんの様子なら、しないほうがおかしいですね」
ルナリアはうつむき、小さな声で呟く。
「アンナ姉さんの性欲は異常……火が着くと、誰にも止められない……」
余裕の笑みを浮かべる朱美が、恥ずかしそうに話す三人をからかいながら、静かに夜は更けていった……
——耀とアンナが部屋に閉じこもってから十一日目の朝。食堂ではレイとゾーヤが、料理をするカリサをじっと見つめていた。
ちらちらと二人に視線を向けていたカリサが、開いた食堂の扉を見て目を見開く。
「ふぇぇぇー……アンナさん……服を着てくださいよ」
カリサの驚いた声につられ、レイが扉のほうへ視線を向けると、そこには一糸まとわぬアンナが立っていた。
「アンナ、満足しましたの?」
「はい。もう何もわだかまりはありません」
「それは良かったですわ……兄様は?」
「瀕死です」
「ゾーヤ、朱美を起こして兄様の部屋に連れて行ってくださいまし」
「んっ。分かった」
ゾーヤは小さくうなずき、席を立った。
目の前に腰を下ろしたアンナに、レイは呆れた視線を向ける。
「アンナ。服を着たほうがいいですわ」
「その前に、レイに聞きたいことがあります」
アンナは腕を組み、鋭い視線を向けた。レイは小さくため息をつき、肩を落とす。
「あの時、レイの身体はラザールに乗っ取られていましたわ……レイの召喚術の隙をつかれましたの」
「どういうことです?」
「レイの召喚術は、一度身体に憑依させていましたの。ですからレイの身体は、そこそこ魔力のある存在なら簡単に乗っ取ることができましたの」
「そうでしたか……それで、今のレイは?」
「兄様に何も聞いていませんの?」
「はい。ご主人様は途中から何も話さなくなってしまいました」
レイはテーブルに肘をつき、頭を抱えた。
「まあ、いいですわ。ラザールに乗っ取られたレイは、兄様に殺されましたわ……そして、ラウムの手で再びこの身体を得ましたの。もちろん弱点はなくなっていますわ」
「そうでしたか……レイを少し恨んだ自分が恥ずかしいです」
「恥ずかしく思うなら、服を着て料理を作ってくださいまし。アンナの料理を、兄様もきっと喜びますわ」
「はい。では着替えてきますね」
アンナは椅子を引いて立ち上がり、食堂を後にした。
「カリサ、アンナに料理を教わるといいですわ」
「アンナさんは料理がお上手なんですか?」
「アンナの料理は絶品ですの。覚えれば兄様も喜びますわ」
「今日から早速教わります!」
カリサは身を乗り出し、目を輝かせた。
「襲われないように気をつけてくださいまし……性的に」
「ふぇぇぇー!な、なんてことを言うんですか!」
カリサは目を丸くして声を上げた。
「カリサのためですわ。男性は兄様にしか興味を持ちませんけど、女性は際限がありませんの。カリサの胸とお尻は危険ですわ」
「じょ、冗談ですよね……」
「本当ですわ。いざとなったら兄様のところに逃げてくださいまし」
「わ、分かりました……」
カリサは肩をすくめ、小さくうなずいた。
じっとカリサの料理を眺めていたレイの耳に、扉の開く音が届く。振り向くと、アンナと朱美が部屋に入ってくる。
「おはようございますー」
朱美はレイの隣に腰を下ろし、にこやかに笑みを向けた。
「朱美、兄様はどうですの?」
「本当に瀕死でしたけどー、もうすぐ起きますよー」
レイがほっと息をつき、視線をキッチンへ向けると同時に、カリサの気の抜けた声が耳に届いた。
「ふぇぇぇ……アンナさん、ちょっと……」
「大丈夫ですよ。お料理を手伝うだけです」
「でも……お尻触りましたよね……」
「はい。とても美味しそうでしたので。さて、何を作っているのですか?」
カリサは頬を赤らめて一歩下がる。そのやりとりを見て、レイは額に手を当てて深いため息をつき、朱美はおかしそうに微笑んでいた。
「レイ、耀が起きた」
いつの間にか食堂に入ってきたゾーヤの声に、レイは嬉しそうに席を立つ。
「ゾーヤ、兄様のところに行きますわ」
「ふぇぇぇぇ……レイさん、置いていかないでください……」
必死に手を伸ばすカリサをよそに、レイとゾーヤは食堂を後にした。
——勢いよく開かれた扉から、レイとゾーヤが入ってくる。部屋の中では、耀とヴァレリアが肩を並べ、窓の外をぼんやり眺めていた。
「兄様、おはようございます」
「レイか」
「はい、愛しのレイですわ」
「んっ。私もいる」
耀は振り向き、二人を一瞥してから椅子に腰を下ろす。その隣にはヴァレリアが凛と立ち、レイとゾーヤも向かいに腰を下ろした。
一瞬の静けさの後、レイが手に持っていた一枚の紙を耀の前に広げる。
「これが二人の悪巧みの成果か?」
「そうですの」
「それで、これは何なんだ?」
耀が目を落とすと、紙には城のような建物と、それを取り囲む町並みが描かれている。さらにその横には、半円状の土台に立つ城の図が添えられていた。
「ヴェリディシアの図ですわ。ゾーヤの記憶を頼りに描きましたの」
「まるで浮遊城だな……それで、これがどうした」
「んっ。乗っ取る」
「そうだったな。だがこちらは小勢だ」
「問題ありませんわ」
レイは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「兄様、ヴェリディシアは百万の民がいると公言しているようですが、実際にはその半分程度ですの」
「それでも、相当な数だと思うが……」
「兄様に歯向かう可能性があるのは、この城と街の住民だけですわ。その数、一万もいませんわ」
「残りはどこにいるんだ?」
レイは半円状の土台を指差す。耀は身を乗り出して紙を覗き込んだ。
「ここですの。地下居住区になっていて、五十階層もあるそうですわ」
「良く調べたな……」
「んっ。レイと調べに行った」
「そうだったのか……」
「はい。この地下居住区に住む者は『永隷』と呼ばれる奴隷身分で、ラザールへの忠誠心は皆無ですの」
耀は腕を組み、ヴァレリアに視線を向けた。目を見開き立ち尽くす彼女の背を、そっと撫でる。
「そいつらを味方につけると?」
「はい。決行の際はレイたちが城に乗り込んでいる間、街の者たちの相手をしてもらいますわ」
「そうなると……朱美か……」
「さすが兄様ですわ。朱美の魔法で地下居住区の者たちの心を癒やしますの。でも、兄様には相当な負担がかかりますわ」
話を聞いていたヴァレリアが、腕を組み難しい顔をして問いかけた。
「それで味方についてくれるだろうか?相当疑心暗鬼になっていそうだが……」
「短期間で十分ですわ。癒やされたのが兄様のおかげだと知れば、短期間は味方になりますの。その手立てはもう打ってありますわ」
「何をしたんだ?」
「この地下居住区は忌み嫌われておりますの。地上の者が入ることはほとんどありませんわ」
レイは顔を上げ、目を細めて耀に微笑んだ。
「兄様が多くの兵を葬ったせいで、ここの警備まで兵として徴用され、治外法権状態になりましたの。必然的に自治組織ができ、多くのリーダーが生まれましたわ」
「そこを手懐けたのか」
レイは小さくうなずき、唇の端を上げた。
「そうですわ。その仕上げが癒やしを与えることですの。すでに仮の拠点も確保してありますわ」
耀は深くうなずき、レイとゾーヤに目を向けた。腕を組み、真剣な表情で口を開く。
「分かった。ここまで準備してくれたんだ。後はやるだけだが……ひとつ問題がある」
耀の低い声に、レイとゾーヤは背筋を伸ばす。
「決行の時までは少人数で潜むんだろ?」
「そうですわ。その間にレイたちは地下居住区の人たちに渡す武器を調達しますの」
「何人で行くんだ?」
「兄様と朱美、そして、居住区に入ろうとする者を始末するためにゾーヤも行きますわ」
「そうか……一部とは言え、俺は相当な人数の負の記憶を背負うことになる。それを魔力に変えると膨大な量になると思う。何せ、ずっと虐げられてきた人たちだからな」
「そうですわ」
「この身体を得てから、急激に魔力が増えると性欲が高ぶるんだが……アンナを連れて行ってもいいか?」
「ダメですわ。アンナには別のことを頼みますの」
レイの視線がヴァレリアに移り、唇の端にわずかな笑みを浮かべた。
「ヴァレリア、同行してくださいまし」
「ええー、私か……今の話だと、その、殿様のアレの世話をするんだろ?ちょっと待ってくれ……」
「イヤですの?」
「そうじゃないが……心の準備というか……覚悟というか……」
レイは目が泳ぐヴァレリアをおかしそうに見る。
「そんなことをする必要はありませんの。胸に抱き締めて、寄り添うだけで大丈夫ですわ。兄様は甘えん坊さんですの」
「そうか……うん。よし行こう。殿様をたくさん甘えさせてやる」
「カリサの方が適任かもしれませんわ」
「んっ。カリサがいいかも」
「いや、待て。私が行く!」
慌てるヴァレリアの背を、耀は無言で優しく撫でながらレイに問いかけた。
「二人の悪巧みは理解した。それで、いつから行くんだ?」
「今からですわ」
平然と答えるレイに、耀は呆れた視線を向ける。
「急だな……朱美は大丈夫なのか?」
「もう準備はできているはずですわ」
「ヴァレリアはいいのか?」
「ああ、殿様と運命を共にしよう」
耀はひとつため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「朱美を呼んできてくれ」
「んっ。待って」
学ランを羽織った耀は、両手を広げ、じっと見つめる。
手のひらに黒紫色の霧が立ちこめ、ゆらゆらと渦を巻きながら次第に短剣の形を成していく。
期待に満ちた瞳でその様子を見つめるレイの目の前で、霧が完全に凝固すると、耀の手には一振りの短剣が握られていた。
「断絶冥葬牙」
呟いた耀を見て、レイが歓声を上げる。
「出ましたわ。兄様謹製厨二武器!」
「俺の魔力で創る武具は、すべてこんな禍々しい色になる」
耀は黒紫色に輝く短剣をしばし眺め、低く言った。
「主様、準備ができました」
暗い紫色に輝くローブをまとい、裾をわずかに揺らしながら現れた朱美に、レイが問いかける。
「そのローブは兄様が創りましたの?」
「そうなんですよー。『紫宵神隠衣』って言うんです。堕ちた天使にふさわしいローブでしょう?」
「兄様には珍しく落ち着いたデザインですわ」
「でも、これすごいんですよ。魔力を込めると、見る者にとって私は、信仰する神にも悪魔にも見えてしまうんです。それに敵意を向けられると、私の姿は見えなくなるんですよ」
自慢する朱美の脇で、耀がゾーヤに短剣を手渡した。
「くれるの?」
「それはゾーヤのものだ。その剣に斬られた者は、すべての理を無視し、存在したことすら抹消される」
「すごい」
「ああ、俺を殺してみるか?ここにいる全員が俺のことを忘れ、何もなかったかのように振る舞うぞ」
耀が振り向くと、ヴァレリアはわずかに脚を震わせ、ゾーヤの手にある短剣から目を離せずにいた。
「あんな恐ろしいものを、殿様は作れるのか?」
「そうだ。俺は概念を込めた物を創れる」
「そ、そうなのか……とんでもない主に仕えてしまった……」
震えるヴァレリアを耀が抱き寄せる。しばらく身を任せていた彼女に、そっと囁きかけた。
「少し落ち着いたか?」
「ああ。殿様は優しいな」
「そうか」
耀は振り向き、嬉しそうに短剣を眺めているゾーヤに声をかける。
「行こうか」
「んっ。私に捕まって」
ゾーヤに歩み寄る朱美に、レイが声をかける。
「朱美、二十日ですわ。二十日でできるだけ多くの人を手懐けてくださいまし」
「分かってますー」
「兄様に遠慮してはいけませんの。できるだけたくさんお願いしますわ」
「主様のことは大好きですけどー、全裸で宙吊りにされたうえに無視までされた恨みは忘れていませんから、遠慮はしませんよー」
その言葉にうなずいたレイは、続けてゾーヤにも声をかける。
「ゾーヤ、二十日経ったらレイたちを迎えに来てくださいまし。それまでに準備を整えておきますわ」
「んっ、任せて」
「兄様、気をつけてくださいまし。ヴァレリアも兄様を頼みますわ」
返事をすることなく、四人の姿は一瞬で掻き消えた。
四人がさっきまでいた場所に、祈るように手を組んだあと、レイは耀の部屋を後にした。
——レイは食堂に向かい勢いよく扉を開くと、キッチンに並んで立つアンナとカリサを見て、小さくため息をついた。
「ふぇぇぇ……アンナさん、ダメです。そんなところを触らないでください」
「いいじゃありませんか。可愛いですよ、カリサさん」
「アンナ、いい加減にしてくださいまし」
「レイさん、助けてください」
カリサはレイに駆け寄り、その背中に隠れてアンナを警戒した。肩越しに覗く視線は、まだ怯えが抜けない。
「アンナ、出かけますわ。兄様たちも先ほど出かけましたの」
「殿様はどこかに行かれたのですか?えっ、レイさんたちもどこか行くんですか?」
「カリサ、何かあればラウムを頼ってくださいまし」
「ふぇぇぇ……何が始まるんですか」
目を見開き一歩身を引いたカリサをよそに、レイは笑みを浮かべ、正面に片手を掲げる。
「おいでまし、伊耶那美ちゃん!」
次の瞬間、眩い白光が溢れ、渦を巻くように広がった白い霧の中から、伊耶那美がゆっくりと姿を現す。
「これは、正妻殿に第二妻殿。——久しきこと、嬉しゅう思いまする」
「伊耶那美、レイたちをイオナのところに連れて行ってくださいまし」
「容易きことなれど……君は、いずこにおはすや?」
「ラザールを始末しに行きましたわ」
「さすがにてあられます。——さて、汝らもその御業をお支えなさるのでございますな?」
「そうですの」
「然らば、これを断ずる理由も見当たりませぬ。参るといたしましょう」
伊耶那美の衣に包まれたアンナとレイは、カリサの目の前で輝く霧の中へ溶けるように消えた。
「ふぇぇぇ!消えました……」
霧が静かに散った食堂に、カリサの困惑する声だけが虚しく響いた。
その声はやがて静寂に呑まれ、食堂の外から子どもたちの声が届き始めた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




