密室の告白
ランプの揺れる橙色の明かりに、名も知らない小さな虫がまとわりついていた。その羽音が、なぜか優しく響く部屋。そのベッドの上に、影が落ちる。
真っ白なローブを妖艶に乱して着こなす朱美の膝枕で、耀はくつろいでいた。
「今日はよく遊んでましたねー」
「ああ、俺は友と遊ぶなんてことがなかったからな。楽しかった」
「ヴァレリアさんとカリサさんも楽しそうでした。それより、主様にも感情はあるんですねー」
「そうだな。経験したことのないことをすると、湧き上がる感じがする」
朱美が、耀の頬を優しくつねる。
「でもー、あの二人はー、主様を友達の目で見ていませんでしたよー」
「そうかもしれないな」
反対の頬もつねった朱美は、わざとらしく頬をふくらませる。
「そんな態度だから、女性が勘違いするんですー」
「俺には朱美だけだ」
「ほらーそうやって、目の前の人が一番大事に見えるでしょー」
「確かにそうだ、少し口を慎むとしよう」
頬から手を離した朱美は、そのまま耀に唇を重ねた。
「でも、嬉しいですよー。だから、他の人も喜ばせてあげてくださいねー」
「いいのか?」
「はい。主様は何を言っても聞きませんから、二人でいるときだけ大事にしてくれればいいです」
その時、音もなく開いた扉に、朱美が視線を向けた。ほぼ同時に、耀の低い声が響く。
「ゾーヤか」
「んっ、来た」
ゾーヤはためらいなく服を脱ぎ捨て、ベッドに上がると、そのまま耀に覆いかぶさった。
「耀、レイはどうする?」
耀はゾーヤを胸に抱き寄せる。
「分からない。俺には何もできないからな」
「——やっぱりレイは……」
朱美がゾーヤの髪をそっと撫でると、彼女に笑顔を向けた。
「魂はこの世界に残っていますよねー」
朱美の言葉に、耀はゆっくりと目を開け、見上げた。
「なんとかできるのか?」
「できませんよー。レイさんは元々、人じゃありませんからー。身体もありませんしねー」
「そう、レイの存在は悪魔に近かった——」
ゾーヤの言葉に、耀は小さくうなずく。
「俺にはできないが、ラウムにはできるかもしれないな」
「んっ。明日、ラウムのところに行ってみる」
その言葉を最後に、ベッドの上は沈黙に包まれた。耀の胸に頬を擦り寄せるゾーヤに、朱美が声をかける。
「ゾーヤさん。大事な話ってそれですか?」
「……違う」
「もったいぶらないで、話してくださいよー」
ゾーヤは顔を上げ、耀をじっと見つめる。
「耀、約束覚えてる?」
「初めて会ったときのことか?」
「んっ。それ」
「あー、二人の秘密の約束を聞かせるために、私を呼んだんですか?」
朱美はすねたように耀の頬をいじった。
「朱美にも話しておこう」
「んっ。約束は」
「「——ラザールの世界を乗っ取る」」
重なった二人の声に、朱美は目を見開いた。
「それ……乗っ取ってどうするんです?」
「耀にプレゼント」
恥ずかしそうに胸に顔を伏せたゾーヤの背を撫でながら、耀が話す。
「初めて会ったときにそんなことを言ってきたんだ。可愛らしい女だろう?」
「主様の、可愛いの基準が分かりませんよー」
背を撫でられ、ゾーヤが艶やかな吐息を漏らす。
「それでゾーヤさん。どうやって乗っ取るんですか?少なくともラザールに忠誠を誓う奴らは排除しないといけませんよ」
「アンナとレイがいればできる」
「二人ともいないじゃないですか」
「だから、ラウムのところに行く」
「良く分かりませんよー」
不満げに言葉を漏らす朱美の唇を、耀の手がそっと塞いだ。
「ゾーヤに任せる」
「んっ。任された。耀は乗っ取る方法だけ考えて」
「ああ、分かった」
「それと、抱いて」
「あー、ゾーヤさんだけずるいです。私も混ぜてくださいよー」
三人の影が重なり、ベッドの上でひとつに溶けていった。
やがて、橙色の灯りがゆらめきながら静かに落ちていく。
部屋には、乱れきった三人の穏やかな寝息と夜の匂いだけが残った——
翌朝——耀は柔らかく温かい何かに包まれて目を覚ました。
見上げると、耀の頭を膝にのせ、満面の笑みを浮かべるカリサがいた。
「殿様、おはようございます」
「カリサか」
「はい。ミルクの時間です……口を開けてください」
「なあ、前から思っていたんだが、この世界の人は寝起きにミルクを飲むのか?」
耀の問いに、カリサは首を傾げて微笑んだ。
「そんなわけないでしょ。お腹こわしちゃいますよ」
「じゃあ今、何をしている?」
「寝起きの殿様にミルクをあげようとしているんです」
「おかしくないか?」
「はい、おかしいです」
カリサの瞳から、ふいに輝きが消えた。わずかに笑みを残した口が、ゆっくりと開かれる。
「殿様、飲んでくれないと……大声で泣きますよ」
「分かった。まずは座らせてくれ」
「ダメです。はい、あーん」
外から聞こえる子どもたちの騒ぎ声が、耀の耳にはどこか罪深く響いた。
耀を胸に抱いたまま、カリサは満足げに問いかける。
「殿様、昨晩何かあったんですか?ゾーヤさんと朱美さんは、朝早くから領主様の屋敷に向かいましたよ」
答えようと口を開きかけた耀を、カリサがぎゅっと抱きしめる。
「このベッドの乱れ方を見たら、なんとなく分かりますけど……ほどほどにしてくださいね」
耀がうなずくと、カリサはさらに問いかけた。
「殿様、今日は何をされるんですか?」
胸の中で必死にうなずく耀に気づき、カリサはようやく手を離した。
「お腹はいっぱいになりました?」
「ああ、強制的に飲まされた気分だ」
「仕方がないですよ。何ヶ月も貯めてたんですから……」
「悪かった」
「殿様は、何でも受け入れますね」
「そうか?」
耀をベッドに寝かせたカリサが、服を着ながらうなずいた。
「それが殿様のいいところです。殿様が領主様になれば、私たち獣人も肩身の狭い思いをしなくて良いかもしれません」
「そうなったら、どうする?」
「何も変わりませんよ。恋人兼従者です」
着替え終えたカリサが、ベッドの端に座る耀の隣へ腰を下ろした。
「でも、いつか私とヴァレリアさんをお嫁さんにしてくださいね」
耀の頬に口づけをして部屋を後にしようとするカリサに、耀が声をかける。
「俺にこの世界の文字の読み書きを教えてくれないか?」
振り返ったカリサが笑顔を浮かべた。
「それなら、ヴァレリアさんがいいです。子どもたちにはルナリアさんが教えられますから」
カリサが部屋を出て、しばらくするとノックの音が響き、一拍遅れて扉が開いた。
「殿様、文字の読み書きを教わりたいと聞いたのですが」
「ああ、ヴァレリア、教えてくれるか?」
「はい、喜んで」
嬉しそうに入ってきたヴァレリアは、耀の前に三冊の本を並べた。
そのうちの一冊を耀が手に取り、首を傾げる。
「この本はカリサが買った本じゃないか?」
「よく覚えていましたね。カリサが買った童話です。読み書きの教材にちょうどいいんです」
「そうか。すまない、俺にも分かるように教えてくれ」
「はい……」
そこで言葉を詰まらせたヴァレリアは、顔を真っ赤にして耀を見つめた。
「でも……その……あっちの方は、結婚してからにしてほしい……です」
「ああ、それなら大丈夫だ」
ヴァレリアが乱れたベッドに視線を向ける。
「そ、そのようですね。と、殿様。ひとつ聞いていいか……ですか?」
「なんでも聞いてくれ」
ヴァレリアはうつむきながら、視線を耀に向けた。
「その……私は腰から下が馬なんだけど。殿様はこんな私でも……その……抱けるのですか?」
「ヴァレリアが俺を求めるなら、問題ない」
「そうか……安心した……さ、さあ、勉強を始めよう」
嬉々として胸を張ったヴァレリアは、耀の隣に腰を下ろし、肩を並べて文字の読み方を教え始めた。
その教え方は、耀の心に幼い頃を思い出させるほど優しく、わかりやすく、どこか愛情も感じられた。
そんなヴァレリアの気持ちを慮ってか、耀も真剣に学び、気づけば窓から差し込む光が傾きかけていた。
「意外と難しいな……」
「そうだろうか?でも、だいぶ読めるようになりました」
「毎日頼めるだろうか?不便のない程度には、読み書きできるようになりたい」
「任せてください。毎日、殿様と二人きりになれるんだな……夢のようだ」
二人の背後で音もなく扉が開き、ゾーヤが入ってきた。
「来た」
「うわっ、びっくりした。ゾーヤさん、ノックくらいしてくれよ」
「ん?お邪魔?」
「そうじゃないけど、心臓に悪い」
胸を押さえて深呼吸するヴァレリアをよそに、ゾーヤは耀に歩み寄る。
「耀、ラウムが呼んでる」
「ああ、行けばいいのか?」
「表で馬車が待ってる。ひとりで行ってきて」
「分かった、すぐに行こう」
学ランを羽織り、部屋を出て行く耀を見送ったゾーヤとヴァレリアが、目を合わせた。
「格好いいな」
「んっ。格好いい」
——屋敷に到着した馬車を、執事長が出迎えた。
降り立った耀に丁寧に挨拶し、笑顔で話しかける。
「お久しぶりです。お客人……いえ、旦那様とお呼びしなければなりませんな」
「そうらしいな。俺には意味が分からんが」
「ラウム様にお会いすれば分かります。こちらへ、ご案内いたします」
執事長に案内され、豪華な扉の前に立つと、彼は扉を三回ノックした。
「……構わぬ」
扉の向こうから返ってきたのは、いつも通り落ち着いた口調ではあるが、わずかに高い声だった。
執事長はゆっくりと扉を開き、導くように手を添える。
「さあ、旦那様。中へどうぞ」
耀が部屋に足を踏み入れた途端、静かに扉が閉じられた。
そこに立つ人影を、耀は訝しげに見つめる。
初老の男性ではなく、線の細い女性がひとり立っていた。
振り向いた彼女は、病的なほど青白い肌と、腰まで伸びた真っ赤な髪を持ち、両手の長く伸びた爪も真紅に染まっている。まるで鮮血をまとったかのような真っ赤なドレスが、その姿をいっそう妖しく見せていた。
「待っておった。こちらへ来て、某を抱き寄せてくれぬか?」
「ラウム……なのか?」
「然様であるな。これが本当の某である」
「そうか、執事長に似ていたのは……」
「執事長の姿を借りたまでであるな」
ラウムはゆっくりと歩み寄り、耀の胸に両手を添えて身を委ねた。
耀はその肩と腰に腕を回し、そっと抱き寄せる。
「某の姿はどうであるか?」
「——美しい」
「嬉しいことを言うではないか……そのようにして、数多の女を惹き寄せたのであるな」
「それは俺の本意ではない……それで何の用だ?」
「つれぬ男であるな」
耀から離れたラウムは椅子に腰を下ろし、その対面を勧める。
耀が腰を下ろすと、ラウムはテーブルのベルを軽く鳴らした。澄んだ音が静かな室内に広がっていく。
「まずは、某の領地での決まりを伝えておかねばならぬ」
「ああ、教えてくれ」
「某の領地は一夫一妻制ゆえ、くれぐれも破らぬように。もっとも、屋敷をいくつも持ち、愛人を囲うのは構わぬが……」
「そうか……それで?」
ラウムが何かを言いかけたとき、部屋の扉がノックされ、メイドが静かに入室した。
無言のままテーブルの脇に立ち、二つのグラスを用意してウイスキーを注ぐ。琥珀色の液体が満ちる音が、静かな室内に広がった。
メイドが部屋を後にしようとしたところを、ラウムが制止し、彼女は再びテーブルの横に立った。
「其方を心の深淵に束縛しておった男との約定により、其方は某が貰い受けた」
耀はグラスを手に取り、琥珀色の液面を傾けて香りを確かめる。
「俺の知らないところで勝手に決めたんだろう?なぜ、俺が従わないといけないんだ」
「某が悪魔であるゆえであるな。約定に従うことは、もっとも重要である」
「そうか。なら勝手にしろ」
「その言葉を待っておった」
口元に笑みを浮かべたラウムは、グラスを傾け、ひと呼吸置いた。
「其方は今より、某の伴侶となる。それで良いな?もっとも、其方を拘束できるとは思っておらぬゆえ、この世界、地獄だけでの話であるが」
「——条件がある」
そう吐き、耀はグラスの中身を一気にあおった。
小さな音を立ててテーブルに置かれたグラスに、メイドが静かにウイスキーを注ぎ足す。
「——申してみよ」
「俺に、身も心も捧げ、尽くせ」
「承知した。だが、某も条件を出そう」
「言ってみろ」
「其方は某の亭主ゆえ、女を手篭めにするときは、某が認めた女に限るよう」
「随分と優しいな」
「其方は言っても聞かぬであろう?」
「そうか。……だが、そろそろ本音を話してくれないか」
ラウムは恨めしそうに耀を見つめ、ゆっくりとグラスを傾けた。琥珀色の液面が揺れ、淡い光を反射する。
「某の目的は其方の魔力である。夫婦となれば、其方の魔力を分けてくれるであろう?」
「いや、そんなことをしなくても分けるが……どうせ有り余ってんだ」
「そうはいかぬな」
「なぜだ?」
「其方の魔力の与え方であるな。口づけをせねばならぬであろう?某も領主としての体裁を保たねばならぬゆえな」
「それだけとも限らないが……レイは俺の血を飲んでいたからな」
「悪魔にとっては同じことであるな」
耀はゆっくりとグラスを傾け、その琥珀色の揺らめきを見つめながら思考を巡らせた。
「レイもそんな感じだったな……」
「然様であろう。もし、この屋敷で女が欲しくなれば、そのメイドが相手する。其方に惚れておるのでな」
「そうか……余計なお世話かもしれないがな」
「そう言ってやるでない」
ラウムは傍らに立つメイドへ視線を向けた。
「汝はこれより、我が夫専属の従者とする。良いな」
「——はい」
「某の目の届かぬところであれば、何をしても良い。子を孕んでもな」
気まずそうに顔を伏せるメイドをよそに、ラウムは耀へ声をかける。
「さて、もう一つの要件であるが、其方の部屋に用意してある」
「俺の部屋?」
「然様。某の部屋では其方と褥を共にできぬゆえ、部屋を用意した」
「ずいぶん気を回すんだな」
ラウムがメイドへ視線を送り、指示を出す。
長い廊下を進み、ひとつの部屋に案内された。
「ここは……前にミスティと泊まった部屋だな」
「然様であるな」
見覚えのある部屋の床には、見慣れぬ魔法陣が描かれていた。
「某が描いたのであるが、魔力が足りず起動できぬ。早速、分けてくれぬか?」
「ああ、分かった」
ラウムの指示でメイドが部屋の明かりを消し、一本のろうそくに火を灯す。
ラウムは耀に歩み寄り、頬に両手を添えて唇を重ねた。耀が応じて抱き寄せると、ラウムも背に腕を回し、強く抱きしめる。
次第に激しく求め合う二人を、メイドはただ佇んで見つめていた。
魔法陣が淡い光を帯び、二人に合わせるかのように静かに脈打ち、空気がわずかに震える。
やがて光は強さを増し、中央に黒い霧が集まり、ゆっくりと渦を巻き始めた。
激しく求め合う二人に呼応するように、霧は漆黒に変わり、大きくうねりながら渦を巻く。
メイドがろうそくの火を吹き消した瞬間、赤く輝く球体が渦巻く霧へと飛び込み、触れた途端に霧は蒸発するように消え去った。
「なぁぁぁあ、レイの前で他の女と口づけとは、何ですの!」
突然部屋に響き渡った声を無視して、耀とラウムは互いを抱き寄せ、求め合い続けた。
「兄様、その女から離れてくださいまし!」
無理やり引き離された二人が視線を向けると、そこにはいつもの可愛らしいブラウスを着て、笑みを湛えたレイが立っていた。
「兄様、ご心配をおかけしましたの。レイはもう消えてなくなると思っていましたけれど……兄様が恋し過ぎて、天には召されませんでしたわ」
「そうか、俺も悪いことをしたと思ってる」
「いいえ、あの時、兄様が少しでも躊躇っていたら、ラザールに余計な力を与えることになりましたわ」
「それでも、すまなかった」
二人はそっと手を取り合う。そのぬくもりに、互いの存在を確かめるように指先がわずかに動く。
そんな二人に、ラウムの声がかかった。
「うまくいったようであるな。後は其方らが好きにすると良い」
部屋を後にするラウムとメイドを見送ると、突然レイが耀に抱きついた。
「兄様、レイの過去を知った上で、抱けますの?」
「もちろん。レイが望むならな」
耀はレイをそっと抱き上げ、唇を重ねた。レイは耀の頭をしっかりと押さえつける。
「レイ、舌を噛んだだろ?」
「……はい、噛みましたわ。たくさん血をいただきましたの」
耀はレイを抱き上げたままベッドへ進み、彼女を優しく寝かせた。
「兄様、優しくしてくださいまし……」
夜の帳が静かに降り、結ばれた二人を温もりと静けさで包み込む。瞬く星々は、遠い昔からその瞬間を待ちわびていたかのように輝き、永遠に続くかのような祝福が降り注いでいた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




