深夜の帰還
静まり返った深夜の夜道を、音を抑えるように、馬車はゆっくりと進んでいた。
石畳を優しく撫でるように転がる車輪が、静寂をかすめながら進んでいく。
馬車はやがて、一軒の屋敷の前で停まった。
「到着いたしました」
夜の静けさに遠慮するような声が響き、馬車から男女が降り立つ。
「主様、大きなお屋敷ですね」
「ああ、一部屋くらい空いていればいいが」
「探してみます」
屋敷を見上げ、言葉を交わしていた耀と朱美の背後から、穏やかな男の声がかかった。
「旦那様、屋敷の鍵でございます」
耀は首を傾げながら、手渡された鍵を受け取る。
「旦那様?」
「はい。ラウム様が、そのようにお呼びするようにと」
「そうか……何か考えがあるんだろう。送ってもらって助かった」
「では、これにて」
耀と朱美は馬車を見送り、屋敷へと振り返った。
「みんな寝ちゃってるんですかねー?誰もいないみたいに静かです」
「この時間だ。寝ていて当然だろう」
扉を慎重に開け、音を殺して屋敷に入った二人は、静まり返った廊下を見回した。
「部屋を探してきます。主様は、ここで少し待っていてください」
「ああ。頼む」
屋敷の奥へと歩き去る朱美を見送ると、耀は廊下の壁にもたれ、そっと目を閉じた。
「——主様」
「部屋はあったか?」
目を閉じたまま答える耀の頬に、朱美は唇を寄せた。
「二階のいちばん奥の部屋が空いていましたよ。でも、ベッドがないんです」
「床があれば十分だ」
耀の返事を聞くと、朱美はその手を軽く取って、廊下の奥へと歩き出す。
「私が抱きしめて、翼で包んであげますね」
「——そうか」
耀は一拍置いて、短く答えた。
朱美に手を引かれて入った部屋を、耀は見回した。
「——何もないな」
「はい。それに、誰もいませんよ。今日はもう休みましょう」
朱美は身にまとっていた服を脱ぎ、丁寧に床へ広げていく。
「朱美、何をしてる?」
「床に直接寝るよりはマシでしょう?主様も服を脱いでください」
「——俺も脱ぐ必要があるのか?」
「はい。天使の翼は繊細なんです。それに、主様は素肌に触れる羽がお好きでしょう?」
「——そうだな」
仰向けに横たわった耀に、朱美はそっと覆いかぶさると、大きく広げた翼でその身体を包み込んだ。
柔らかく、温かな感触に包まれて、耀の意識は自然とまどろみに引き込まれていく。
「——んっ……」
微かな声に、耀はうっすらと目を開けた。
「——何をしてる?」
「今日の約束ですよ。主様はお疲れなんで、今日は私が……」
「そうだったな」
「普通のお部屋でするの、初めてなんですよー。いつも魔力がぐるぐるしてる変な空間でしたから」
「それは悪かったな」
「いいえ。……ここがとてもつらそうにしてますから、任せてください」
闇に沈む部屋の中、二人の吐息だけが、ゆっくりと、そして次第に熱を帯びて響いていった。
——翌朝
朱美は食欲をそそる匂いに誘われて、一階の食堂へ降りると、覗き込むようにして扉を開いた。
「——ふぇっ。誰ですか?」
キッチンに立っていたカリサが気づき、気の抜けたような声をあげた。
扉をくぐり、食堂へ入ると、朱美は耀の学ランを素肌に羽織っただけの姿で、胸を張ってカリサと向き合う。
「ふはははっ、我は堕ちた天使・朱美。何やら良い香りがしたので、ちょっと覗いてみただけだ」
「ふぇぇぇぇえ!変な人がいる!」
カリサの叫び声を聞きつけ、ヴァレリアが食堂に駆け込んできた。
「どうした、カリサ!……なんだ、この女は」
「ヴァレリアさん。誰か知りませんけど、勝手に入ってきたんです」
「貴様……強盗か!」
ヴァレリアは目を鋭く光らせながら、朱美にじり寄り、部屋の隅へと追い詰めていく。
「ち、違いますよー。ちょっと昨晩、お部屋をお借りしたというか、そ、その……あの……」
「泥棒か……ここが領主様と親しい客人の屋敷と知っての狼藉か……?捕らえて衛兵に突き出してやる」
騒ぎを聞きつけて、ゾーヤとルナリアが食堂へ駆け込んできた。
食堂の隅までヴァレリアに追い詰められている朱美を見て、ルナリアが思わず声を上げた。
「朱美さん!」
「ん、朱美。無事で良かった」
気づかうゾーヤの声に、朱美は振り向き、涙を浮かべながら二人に駆け寄る。
「ゾーヤさん、ルナリアさん。無事で良かったですー」
「朱美、泣き虫」
「だってー、心配してたんですよ」
「私たちはゾーヤさんのおかげで、こうして無事だった」
ゾーヤは朱美の服装に目を留め、首を傾げた。
「それ、耀の服」
「はい、主様のを借りしました……」
恥ずかしそうに顔を伏せる朱美。その肩に手を置いたルナリアが、声を張り上げた。
「と、殿様はご無事か!」
「はい、二階でお休みになっています……」
三人の会話を静かに聞いていたカリサが、何も言わずに突然食堂を飛び出し、二階へと駆け上がっていった。
呆れ顔でカリサを見送る三人に目をやりながら、ヴァレリアは首を傾げた。
「カリサはどこに行ったんだ?」
「んっ、耀のところ」
「と、殿様がいるのか!」
「はい。昨晩、ラウムさんに送ってもらって、ここに着いたんですよー」
「なるほど……それでカリサはあんなに慌てていたのか。殿様を無理に起こすのは悪い、私はここで待つことにしよう」
ヴァレリアの言葉に、三人はそろってうなずいた。
「朱美さん、とりあえず座りましょう」
「はい。私も、みなさんにお話したいことがあるんです」
テーブルを囲んだ三人に、ヴァレリアが紅茶を淹れて差し出した。
しばらく落ち着かない空気が流れた。誰も口を開かず、湯気の立つ紅茶だけが静かに香っている。
「あれから、何があった?」
ゾーヤの問いかけに、朱美は少し顔を伏せる。
「順を追って話しますね」
「んっ、それでいい」
「まず、もう一人の主様……人間の方ですね。彼は死にました。でも、私が魂魄を無理やり戻したから、甦っているはずです。ラウムさんもそう言っていましたし」
「あんなヘタレはどうでもいい——」
「そ、そうですよね……」
居心地悪そうに笑った朱美に、ルナリアが声をかける。
「それで、どうしてここに?」
「ラウムさんが、主様と私……それと、レイさんをこの世界に連れてきました」
「レイも?」
「はい。レイさんはラザールに身体を乗っ取られていました。それを——」
朱美は少し申し訳なさそうに全員を見回す。
「主様が、レイさんにとどめを刺しました……」
部屋は、言葉を失ったように静まり返っていた。
「う、嘘だろ?嘘だよな……?」
ヴァレリアの震える声に、朱美はそっと首を振った。
「本当です。ラウムさんと私が見ていました。レイさんが消え去った後に残っていたのは……ラザールだけでした」
「あのジジイは?」
ゾーヤが低く問いかけると、朱美は再び首を振った。
「逃げました。主様が拘束していたのですが、そこへ突然現れた女に連れ去られて……」
「私と同じような存在?」
朱美は深くうなずく。
「はい。ゾーヤさんのように、世界を渡れる存在だと思います」
「……そう」
うつむいていたゾーヤが、呟くように尋ねた。
「耀は?」
「主様は、ずっと何かを考えているみたいです」
「何を?」
「分かりません。昨晩も何かをじっと考えているようで……聞いても、教えてくれませんでした」
「……そう」
突然、食堂の扉が開け放たれ、カリサが泣きながら駆け込んできた。
「レイさんが……」
「ああ、話は聞いた。まずは服を着ろ」
ヴァレリアの声に、カリサは両腕で身体をかろうじて隠す。それでも、頬を伝い床に落ちる涙は止まらなかった。
「カリサ、泣かなくていい。レイは心の強い子、魂は消えていない」
「ゾーヤさん、どういうことだ?」
「……あなたも気づいている。違う?」
ゾーヤの視線が、うつむいたままの朱美に向けられる。
「でも……消えるように感じられなくなったのも事実で、私にも正直わからないですよ」
自信なさげな朱美の声に、ゾーヤは小さくため息をついた。
「カリサ、服を着てきて」
「カリサは裸で何をしてたんだ?」
「えっ……殿様にミルクをあげてました……」
部屋を後にするカリサを、ルナリアが視線で追った。
「胸もそうだが、尻もでかいよな……」
「んっ、アンナには勝てない」
「確かに……アンナさんは身体だけじゃなく、強さも規格外だった」
静けさの戻った部屋に、カップがソーサーを叩く音だけが響く。
誰も口を開かず、それぞれの思いを胸に、ただ時間だけが過ぎていった。
「と、殿様がいなくなりました!」
激しく開かれる扉と同時に、食堂へ飛び込んできたカリサに、ヴァレリアが呆れたように口を開く。
「少し落ち着いてくれないか?紅茶でもどうだ?」
ルナリアが紅茶を用意するのを見て、ゾーヤが不安そうな顔のカリサに声をかけた。
「耀は屋敷にいる。もう少ししたら分かる」
「私も分かりますよー。どこへも行ってません」
朱美の言葉に首を傾げたルナリアへ、朱美が微笑みながら答える。
「身体のつながりがあるからですよー」
「んっ、あの魔力は一度抱かれると忘れない」
「ちょ、ちょっと待って……ということはだ……朱美さんも、その……殿様と……アレをしたのか?」
なぜか焦った様子のヴァレリアに、朱美がおどけた表情で問い返す。
「アレって何ですか?ヴァレリアさん」
「それは、アレだ……男女の崇高な愛の営みというか……互いの子孫を残すというか……」
「なーんだ。それなら昨晩もしましたよ」
朱美は三本の指を立ててみせた。
「さ、三回……」
更に焦るヴァレリアに、ルナリアが追い打ちをかける。
「最近は朱美さんが、ずっと殿様の相手をしてたからな」
「そうなんです。今は隠れていますけど、主様は私の翼で包まれるのが好きなんですよー。いやー天使で良かったですねー」
「……ビッチ天使」
「何ですかー?ゾーヤさん」
険悪な空気が漂い始めたゾーヤと朱美の間に、ヴァレリアが割って入った。
「カ、カリサとルナリアは何とも思わないのか?」
「私は——その……アンナさん。いや、アンナ様と一緒に相手してもらう約束をしている」
「んっ、それはもう済んだはず」
「いや、あの時は……アンナ様にすっかり満足させられてしまって、殿様とは何もしていないんだ」
ゾーヤは思わず吹き出した。
「アンナだけ?」
「アンナ様は……そっちも規格外でした……」
ヴァレリアの頭の中で、アンナが怪物のように膨れ上がっていく。
「カ、カリサはどうなんだ?」
「私——今夜、殿様と寝る約束をしましたから……」
「ダメ」
有無を言わさぬゾーヤの声に、カリサも声を上げた。
「なんでですか!私も勇気を出してお願いしたんですからね」
「今夜は私……大事な話がある」
「……分かりましたよ」
いつになく厳しい視線を向けるゾーヤに、カリサは言い返せなかった。
ふくれっ面のカリサを見て、ヴァレリアが声をかける。
「カリサ、焦ることはないさ。私たちは今まで殿様のお役に立てるように、ここでいろんなことを学んできただろう?」
「……そうですね」
拗ねるカリサの耳に、子どもたちのはしゃぐ声が届いた。その楽しげな声に、全員の視線が自然と食堂の扉へ向く。
「——見に行きませんか?」
「んっ」
誰に促されたわけでもなく、全員が楽しげな声に誘われるように、自然と足がそちらへ向かう。
開け放たれた扉から覗くと、馬になった耀の背に二人の子どもがまたがり、笑顔で歓声を上げていた。
部屋の端では、順番を心待ちにする子ども達が目を輝かせている。
耀はいつもどおり、表情のない無愛想な顔をしているが、その姿はどこか楽しそうに見えた。
「主様って、意外と面倒見がいいんですねー」
「んっ、私より子供たちを大事にする」
ゾーヤと朱美の会話にうなずいたヴァレリアが目を細める。
「殿様を背に乗せて、走り回った時を思い出した」
「あっ、ヴァレリアさんの背中で、殿様は楽しそうにしていましたもんね」
「そんなことがあったのか……なんか妬けてくるな」
彼女たちが見守る中、部屋を一周した耀は、子どもたちの列の前で足を止める。
「よし、交代だ」
声をかけられた二人は名残惜しそうに背から降り、そのまま列の最後尾に並ぼうとする。
耀はそれを見て、少し呆れたように眉をひそめた。
「ひとり一回だ。朝ご飯を食べたら別の遊びをするんだろ」
「——はーい」
返事をした二人は、しょんぼりと肩を落とし、その場にぺたりと座り込んだ。
——子どもたちを二人ずつ背に乗せ、耀は部屋を何周も回った。
残り二人になったとき、最後尾に並んでいた一番大きな子が、ためらいがちに声をかける。
「……パパ、私もいいの?」
「ああ、遠慮するな」
その言葉に、少女はぱっと笑顔を咲かせ、耀の背に飛び乗り、前に乗る子の腰を、しっかりと支える。
「ゾーヤさん。あの子、主様を『パパ』って呼びました?」
「んっ、みんな耀と私の子供」
「あとですこーし、お話しませんかー?」
「私に勝てる?」
「あれから主様に鍛えられてるんですよー」
「そう……楽しみ」
二人の間に、わずかに火花が散る。
そんな空気をよそに、三人の獣人たちは別の話を続けていた。
「殿様、寂しそうだな」
「ああ、仕方がなかったとはいえ、レイさんを手にかけたんだ」
「子どもたちが癒やしてくれそうで、安心しました」
部屋を一周し、子どもたちの前に腰を下ろした耀は、十人の顔を順に見回した。
「楽しかったか?」
「うん。パパ、ありがとう」
「入口から覗いてる年増たちにいじめられたら、パパに言うんだぞ」
言われた子どもたちは、ちらりと扉の方を見て、気まずそうに顔を見合わせる。
「はーい。でもママたちはみんな優しいんだ」
「ルナリアはどうだ?」
「ルナリア姉さんは、ヴァレリア姉さんと一緒に、お勉強を教えてくれます」
子どもたちの答えに、耀は満足げにうなずき、声を落とす。
「そうか、それなら良かった。ただ、不本意ながら昨晩、頭のおかしい女が俺についてきた」
「主様ー、頭のおかしい女って誰ですかー?」
その声に合わせるように、笑顔の朱美が部屋へ入ってくる。
「本当だ、変な格好してる」
「変ではない!」朱美は胸を張る。「これは主様の服に、私の匂いを染み込ませる儀式なのだ!」
子どもたちがきょとんとする中、朱美は視線を巡らせ——ふと足を止め、目を細めた。
「……主様、着替えてきますので、子どもたちと少しここで待っていてください」
部屋を後にする朱美を見送った子どもたちの中から、ぽつりと残念そうな声が漏れた。
「変なお姉さん……」
廊下に出た朱美は、ゾーヤの耳元で問いかける。
「あの子たちは?」
「全員ヴェリディシアで肉親を殺された」
朱美の瞳に、一瞬だけ深い陰が落ちた。
「そうだったんですね」
それからしばらくして——
耀と子どもたちが戯れる部屋に、黒のローブに身を包み、背中に真っ白な翼を広げた朱美が、ゆっくりと姿を現した。
「……天使だ」
驚きに目を丸くする子どもたち。
窓から射す光がローブに反射し、紫の輝きが揺らめき、それはまるで、闇と光を同時にまとう者——堕ちた天使を自称する朱美そのものだった。
子どもたちが息をのむ中、朱美は——翼を大きく広げた。
「その心の闇を、我に捧げよ」
銀白の光がふわりと広がり、子どもたちを柔らかく包み込む。
あっけにとられる子どもたちに、耀が声をかけた。
「朝食にしよう。みんなで食堂に行くぞ」
「はーい」
部屋を後にする子どもたちと反対に、ゾーヤが歩み寄ってくる。
「何をしたの?」
「えー、ゾーヤさんには教えませんよー」
耀が朱美を抱き寄せる。
「良くやってくれた」
「はい。主様の負担になりますけど、これを望んだんですよね?」
「ああ」
朱美は顔を上げ、問いかけた。
「さっきの魔法、他人にかけたのは初めてでしたけど、どうでした?」
「うまくいってる。あの子たちは全員、目の前で親兄弟を殺された。心を奪うためにな」
押し殺した声で、ゾーヤが問う。
「なんで分かるの?」
「子どもたちの記憶を、主様が代わりに背負ったんです。消すと不都合がありますけど、負担を分ければ思い出すことも減ります。そのうち自然に思い出さなくなるはずですよ」
「そこから生まれる感情を、俺は魔力に変えることができる。大した負担ではない」
「そう……ありがとう」
呟いたゾーヤを耀が抱きしめた。
「ゾーヤも辛かったな」
「うん」
「どうしてゾーヤさんも?」
首を傾げる朱美を見て、ゾーヤはうつむき、かすれた声で答えた。
「あの子たちの肉親を殺したのは……私」
「母親代わりをしたのは、せめてもの罪滅ぼしか」
「うん」
ゾーヤは、耀に目を向ける。
「今夜、耀の部屋に行く。大事な話をしたい」
「ああ。構わない」
耀の返事を聞いたゾーヤの視線が、朱美に移る。
「朱美も来て」
「私は主様と同じ部屋ですから、一緒に待ってますよ」
「んっ。お願い」
「さあ、みんな待ってる。飯にしよう」
耀の声で三人は食堂へ向かった。
廊下の向こうからは、パンを焼く香りと、いつもより明るい子どもたちの笑い声がかすかに届いていた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




