レイチェル
身体が吸い込まれるような、不思議な浮遊感の直後、足が地につき、それまで周囲を覆っていた、黒紫色の霧が晴れる。
ゆっくりと目を開いた朱美は、周囲を見回す。どうやら建物の中のようだ。
むき出しの地面はよく整備され、観覧席のようなものに囲まれている。だが、頭上には美しい青空が広がっていた。
「どこ……ここ?」
思わずつぶやいた朱美に、ラウムが答える。
「某の屋敷の闘技場である」
「——悪魔の屋敷」
「然様。ここは地獄。天使の汝が立つべき場所ではない」
低く響くラウムの声に、朱美は思わず身震いした。
「——堕ちた天使が地獄に立つ、良いではないか」
高らかに笑う朱美に、ラウムは呆れたような視線を向けた。
「汝、主人の悪い部分を受け継いだようであるな」
朱美は目を見開き、ラウムを見る。
「主様は!」
ラウムが静かに指さした先では、耀がレイを抱きしめていた。
その姿はどこか儚く、まるで終焉を悟ったかのように目を閉じたレイを、耀が抱きとめている。
その腕は力強く、同時に限りなく優しかった。
「あるじ……」
「汝の主人が昇華するのを、邪魔するでない」
駆け寄ろうとする朱美を、ラウムが手で制する。
二人が見つめる中、耀とレイは微動だにせず、目を閉じたまま、最後の時を惜しむように身を寄せ合っていた。
——耀の意識の中、美しい庭園で、十歳ほどの可憐な少女が小さな花を見つめて笑っていた。
金色の髪に、赤みを帯びた瞳。何よりも、その可愛らしい笑顔の奥にひそむ、映るものを見透かすような目の輝き——それは、まぎれもなくレイだった。
「レイチェルお嬢様、そろそろ午後のお勉強の時間です」
「イヤですわ。もう飽きましたの」
初老の男性は、そんなレイチェルに柔らかな笑みを向ける。
「また旦那様に叱られますよ」
「構いませんわ」
頬を膨らませて顔をそらすレイチェルに、彼は静かに言葉を続けた。
「あまりわがままが過ぎますと……お兄様に嫌われてしまいますよ」
ハッと振り返ったレイチェルの目には、うっすらと涙が光っていた。
「お兄様に嫌われるのはイヤですわ」
「では、お嬢様、お部屋に戻りましょう」
そう言ってレイチェルの手を引き、屋敷へと歩き出す初老の男性。
かつてはこの小さな町を治めるロドリゲス男爵家の家令であり、引退後は町外れで隠居生活を送っていたが、ロドリゲス家に末娘のレイチェルが生まれたのを機に、彼女専属の執事として再び仕えることになった。
「お嬢様、夕食までの間、私がお勉強を見て差し上げます」
「爺やは厳しいのでイヤですわ」
「然様でございますか。しかし、明日はお兄様が見てくださるそうですよ」
「本当ですの?嬉しいですわ」
男は、満面の笑みを浮かべるレイチェルを微笑ましく見つめていた。
——ロドリゲス家の夕食は、家族が揃って取るのが、先祖代々の決まりだった。
「お兄様、明日はレイチェルのお勉強をみてくださいますの?」
食事の手を止めたレイチェルが兄を見つめる。兄は申し訳なさそうに目を向けた。
「レイチェル、明日は昼からになるがいいかい?」
「では、午前中は爺に見てもらいなさい」
「お父様、イヤですわ」
「レイチェル、わがままを言うものではありませんよ」
「でも、お母様……」
「レイチェル、母さんの言うとおりだ」
「分かりましたわ、お父様」
「悪いな、レイチェル。兄さんは開拓の手伝いに行きたいんだ」
つまらなそうに顔を伏せるレイチェルに、そっと声がかかる。
「ではお嬢様、明日の午前中は、お庭でお勉強をいたしましょう」
「爺や、本当ですの?」
「はい、お嬢様」
急に目を輝かせて、笑みを浮かべるレイチェルを見て、父は小さくため息をついた。
「やれやれ、皆、レイチェルに甘くなるな……」
ロドリゲス家の夕食は、いつも笑顔にあふれていた。
——朝食を終えたレイチェルの日課は、庭に咲く花々に話しかけることから始まる。
遠目に見守るメイドたちからは、少し風変わりなお嬢様だと思われていたが、
その姿は誰の目にも微笑ましく、屋敷にたくさんの笑顔を咲かせる存在となっていた。
「お嬢様、そろそろお勉強の時間です」
「爺や、お花が不思議な記憶を見せてくれますの」
「どのような記憶ですか?」
「私は、勉強をしてはいけないそうですの」
顔をそむけるレイチェルに、執事はやわらかな声をかける。
「然様でございますか。それは困りましたね」
「それと、もうひとつ困ったことがありますわ」
「はて、それはどのようなお困りごとでしょう?」
「このままでは、何年か後に凶作になりますの。作る穀物を変えなければいけないそうですわ」
執事の目が一瞬細まり、しかしすぐに穏やかな視線でレイチェルを見つめ返す。
「お嬢様、そのようなお話は、あまり人にされてはいけませんよ」
「分かりましたわ、爺や」
——だが、執事の憂いは、やがて現実のものとなる。
レイチェルは、実家が農家のメイドたちに、作る作物を変えるよう訴え続けた。
「お花が教えてくれましたの。今の気候は、昔の凶作のときと同じですわ」
不思議そうに首を傾げるメイドたちに、レイチェルはあきらめず、繰り返し語りかけた。
あまりに真剣で、あまりに現実味のないその訴えに、やがて使用人たちは、彼女から静かに距離を置くようになっていく。
「レイチェル、使用人たちに話していることは、誰から聞いたんだ?」
「お父様、聞いたのではありませんの。実際に起きたことですわ。繰り返してはいけないと、教えてもらったのですわ」
「……そうか。しかし、そのような根拠のない話ばかりしていると、誰もレイチェルのことを信じてくれなくなるぞ」
——それから二年後。領地は、かつてない凶作に見舞われた。
領主である父は、蓄えを切り崩して近隣の領地から食糧を買い集め、一日一回の炊き出しを行った。
だが、それでも領民すべてに満足な食事を行き渡らせることはできず、彼らの不満は次第に募っていった。
「旦那様、もはや蓄えが底をつきます」
「やむを得まい……寄親である伯爵に援助を要請しよう」
「しかし、伯爵様からは税の督促が届いております。援助を受けられる見込みは薄いかと……」
「それでもだ。頼むしかないだろう」
「承知いたしました……」
「そんな暗い顔をするものではない。凶作はいつまでも続かない。今は耐えるときだ」
ロドリゲス家の食卓も、やがて寂しいものとなっていく。
朝夕の食事は、一切れのパンと薄味のスープだけ。日によっては、それすら覚束なくなることもあった。
そんななか、母はわずかな食料を手に、メイドたちを引き連れて毎日炊き出しに立ち、兄は数人の従者を連れて狩猟に出る日々。
父は援助を求めて使者を送り続けていたが——
決して裕福ではなかったこの領地を襲った凶作は、瞬く間に領民を蹂躙していった。
「旦那様、伯爵様より返答がありました」
「して、何と?」
「税の支払いは一年間猶予する。担保として武器類を供出し、一年後には倍額を納めよと……」
「そんな無茶な……」
「あわせて、食料の援助と引き換えに……」
執事は言葉を濁し、うつむいて震えている。
父は静かに、しかし揺るぎない声で促す。
「構わぬ。話せ」
「……レイチェルお嬢様を、妾に寄越せと」
その夜、食卓を囲む家族の表情は暗かった。
伯爵からの要求はすでに皆の耳に入っており、誰もが口を開くのを躊躇っていた。
食堂に飾られていた絵画や調度品は、すでにすべて姿を消し、殺風景となっている部屋に、父の重たい声が響く。
「伯爵からの要求は、すでに聞き及んでいるだろう。家族のことを私一人で決めるのは憚られる」
「私はイヤですわ。あんな男のところなど行きたくありませんの」
レイチェルのその声に、兄はうなずく。
「父上。その要求をすべて飲んだとしても、十分な援助が得られるとは思えません」
「あなた……私もそう思います。女が口を挟むべきではないかもしれませんが」
父は口元をわずかに緩め、首を小さく振った。
「構わぬ。今の状況では、女性の意見を尊重すべきだろう」
「あなた、私の実家にも、もう一度援助を求めてみましょう」
同じ寄子である近隣の領主と、母の実家からの援助を受けて、辛うじて続けていた炊き出しも、次第に継続が困難になりつつあった。
そんなある日、冬の訪れが本格化し始めた夕刻、家族で細やかな食卓を囲む食堂に、一人の使用人が慌ただしく飛び込んできた。
「旦那様!住民が武装して蜂起いたしました!」
「何故だ!武器類はすべて徴収し、伯爵家に供出したはずだ!」
「それが……」
「どうした」
「伯爵の軍が加わっております。おそらく、武器もそこから……」
父は目を閉じ、しばらく黙り込むと、やがて静かに命じた。
「使用人を全員ここに集めよ」
食堂に集められた使用人は、半年前の半分ほどに減っていた。
父の前に並ぶ使用人は、怯える者、戦いを望む者、天に祈りを捧げる者、皆が父の言葉を静かに待った。
「住民の蜂起ならば、私兵だけで鎮圧は可能だ。だが、伯爵の軍が加わっているとなれば、我らは弓を引くことができない」
——寄子が寄親に弓を引く行為は、国への反逆とみなされても仕方がない。
「私はここに残り、話し合いの余地があれば試みる。皆はこの屋敷を離れ、できる限り逃げ延びよ」
「旦那様……もはやそれも叶いません。屋敷はすでに包囲されております」
「そうか……だが、使用人に罪はない。皆、ここまでよく働いてくれた。堂々と屋敷を出て、ためらうことなく命乞いせよ」
父は一人ひとりにねぎらいの声をかけ、握手を交わした。
屋敷を出ていく使用人たちを、家族全員で静かに見送った。
「其方らも出ていくといい」
執事の親子は静かに目を伏せ、力強く応じた。
「いいえ、私は最後までレイチェルお嬢様をお守りします」
「私は家令として剣を取り、旦那様とともに戦います」
父は大きくうなずき、レイチェルに視線を向けた。
「レイチェル、爺と一緒に部屋で待っていなさい」
黙って躊躇うレイチェルに、兄が膝を折って笑顔を向ける。
「レイチェル、僕も父さんも強いから、大丈夫。何も心配いらないよ」
おもむろにレイチェルを抱きしめた母が、搾り出すように問いかける。
「あなた……投降するわけにはいきませんか?」
父はしっかりと妻を見つめ、静かに首を振った。
「無理だろう。投降しても抵抗しても、私たち家族の運命は変わらない」
「そうだよ母さん。抵抗する方が、まだ可能性が残ると思う」
母は静かに立ち上がり、父と兄に向き直った。
「分かりました。私も手伝います。明日まで耐えられれば、父から援軍が来るかもしれません」
「そうだな。義父にも世話になった……こんなことなら、礼ぐらい伝えておけばよかったな」
父がわずかに微笑むと、母はレイチェルの頭を優しく撫でた。
「さあ、レイチェル。部屋で待っていなさい。片付いたら迎えに行くから」
「お母様……必ず、必ず迎えに来てくださいまし」
母はうなずき、笑顔でレイチェルを見送った。
爺に手を引かれ階段を登る途中、振り返ったレイチェルは、父と母、そして大好きだった兄の姿を——その瞳にしっかりと焼き付けた。
——部屋に入って、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
屋敷に響いていた怒号と足音が、いつの間にか消えていた。
静まり返った空気と、外から聞こえる勝鬨が、沁み入るような恐怖をもたらす。
震えるレイチェルに、爺がそっと声をかけた。
「お嬢様、しばらくの間、あちらのタンスにお隠れくださいませんか?」
「どうしてですの?爺やも一緒に隠れるといいですわ」
「そういたしましょう。では、お嬢様、先にお入りください。この爺もすぐに参りますので」
「爺や、約束してくださいまし」
「はい、お嬢様」
タンスの中で息を潜め、固く目を閉じるレイチェルの耳に、静かな会話が届き始めた。
「娘はどこに行った」
「これは、伯爵様。こんな辺境まで足を運んでいただき、感謝申し上げます。しかし、あいにくお嬢様は、昨日より母君のご実家に向かわれました」
「見え透いた嘘をつくな」
「嘘ではございません。この地はすでに食料が尽きかけております。口減らしになるのであればと、無理に送り出しました次第でございます」
「——そうか」
次の瞬間、爺の呻くような声と、何かが床に倒れる音が響いた。
「つまらぬ嘘を吐いた報いだ。……我が傀儡と化した使用人から、この屋敷にいることはすでに聞いているというのに」
震える身体を縮め、息を止めていたレイチェルに、コツコツと足音が近づいてくる。
やがてその音が止まり、ゆっくりと、軋むような音を立ててタンスの扉が開かれた。
「こんなところにいては息が詰まるだろう。出てこい」
その言葉と同時に、レイチェルの身体は無理やり引きずり出され、床に投げ出された。
その衝撃を和らげるかのように、彼女の身体の下には爺が倒れていた。
流れた血がその周囲に広がっており、手に触れたそれは、まだ温かさを残していた。
「殺してー!私も爺やと一緒に殺して!」
そう叫んで、爺にしがみつき涙を流すレイチェルに、伯爵は舐めるような声をかけた。
「そう慌てるな。男を知らないまま死ぬのは、お前も不本意だろう?死ぬ前に、我が優しく教えてやろうではないか」
「イヤ!殺して!爺や、なんで……なんでですの!」
叫ぶレイチェルの眼前に、剣が突き立てられる。
その刃には、流れた血の跡がこびりついていた。
「死にたければ、それで死ね。お前の母親は、兵たちの慰みものになるくらいならと、自ら首を掻き切って果てたぞ」
震えるレイチェルに、容赦のない言葉が続く。
「お前の父親は、領民を説得しようと屋敷を出たところで、守ろうとしたその領民に串刺しにされた。共に汗を流した領民に手を出せなかった兄は、家令とともに剣で胸を突き合い、自ら命を絶った」
突き立てられた剣の向こうに、伯爵の顔が見えた。
「——それで、お前はどうする?」
しばらくの沈黙の後、レイチェルの冷めきった声が部屋に響いた。
「あなたの好きにすればいいですわ。私を汚すだけ汚して、殺してくださいまし」
「そうか。良い心がけだな。死ぬ前に男を知っておきたいわけだ」
不敵で汚らわしい笑みを浮かべる伯爵を、レイチェルは強く睨み返した。
「好きなように辱めればいいですわ。その恨みを私は死んでも忘れませんの。必ず祟り殺してやりますわ」
「威勢のいい女に育ったようだな。では望みどおり女にしてやろう。明日の朝には、領民の前で斬首し、お前の家族とともに、屋敷の庭に飾ってやろう」
レイチェルは静かに立ち上がり、ベッドの上に横たわった。
微笑みながら近づいてくる伯爵を、彼女はまばたきひとつせず、しっかりと睨みつける。
その瞳は、伯爵の行為を一瞬たりとも見逃さず、魂に刻み込むかのようだった。
どれほど辱められようと、どれほど乱暴に扱われようと——
呼吸すら乱すことなく、彼女はただ、じっと見つめ続けた。
虫唾の走るような息使いとともに、果てしなく続く伯爵の欲望の全てを、レイチェルは受け止めた。
……まるで、その一瞬一瞬を、全て魂に刻み込むかのように。
——翌朝。レイチェルは乱れた服装のまま、領民の前に引きずり出された。
昨夜、彼女の身に何があったか。誰の目にも明らかな、非れもない姿だった。
首と両腕は枷で固定され、罵声を浴びせる領民たちの前に組み伏せられる。
死を前にして、父が想い、兄が助け、母が手を差し伸べたはずのその領民たちが——
今は汚い言葉で彼女を罵り、笑い、指差し、唾を吐きかけている。
『何があっても、こいつら全員を殺して差し上げますわ』
そう心でつぶやいた瞬間、地面が回り、意識が遠のいていく……
領民の歓喜に湧く声が、ゆっくりと遠のいていく。
首の高さに切りそろえられた髪が風に舞い、落ちた頭部に首から流れる血が広がっていく。
金色だった髪は、やがて赤黒く染まっていった。
——その日の深夜。家族の遺体とともに、屋敷の庭に打ち捨てられたレイチェルの身体を、酔っ払った二人の兵士が見下ろしていた。
「なあ、これやっちまっていいか?」
「やめとけ、祟られるぞ」
「どうってことねえよ。首がないだけだろ?死んだのは今朝だ、まだ腐っちゃいねえよ」
「勝手にやってろ。俺は帰るぜ」
——そのとき、耀の意識が戻ってくる。同時に、レイの身体をしっかりと抱きしめた。
「もう二度と、死んで屈辱を受けたくないんだな。任せろ」
レイの身体が、耀の腕の中で蒸発するように消えていく。
閉じられた瞼の隙間から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
そして、すでに消えゆく意識の底から、しぼり出すような声が耀の耳に届く。
「兄様……愛していますわ」
耀はその声を聞き終えると、ゆっくりと立ち上がり、ラウムの方へ振り返った。
「レイは昇華されたようであるな……」
ラウムの言葉に、耀は静かにうなずいた。
その姿を見て、朱美は涙を流すしかなかった。
耀の背後――レイの身体が消えた場所には、一人の老人が佇んでいた。
——その老人は、耀の背中を見つめ、ふと微笑んだように見えた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




