二度目
「ゾーヤ。ルナリアを連れて、ラウムのところに行け」
「ん。分かった」
何が起こっているか理解できていないルナリアを、ゾーヤが力強く抱きしめると同時に、二人は消えるように姿を消した。
「お前ら四人は、伊耶那美のところへ戻れ」
「おとと様、必ず迎えに来てくれまするな」
その言葉を残し、突然現れた空間の澱みに、四人は姿を消した。
「朱美、俺と運命をともにする覚悟はあるか?」
「我が眷属と運命をともにせよと?良かろう……」
「誰が誰の眷属だ?」
「ごめんなさいー。冗談です」
「言い訳は後で聞く。この世界の魔力を、取り込めるだけ取り込め」
「分かりましたー。主様、何を慌てているのですか?」
朱美の問いに、耀は天を見上げ、渦巻く魔力に目をこらした。
「——この世界が、消滅する」
——その少し前。
平日の昼下がり、レイと真由美は庭のテーブルで、冷たいお茶を飲みながら、会話を楽しんでいた。
二人の視線の先にある菜園では、アンナとイオナがピーマンを収穫している。
「真由美、お腹に子供がいるのは、どんな感じですの?」
真由美は、宿る命を慈しむようにお腹をさすりながら、少しだけ微笑んで首を傾げた。
「なんだか、実感が湧きませんね。最近、急に大きくなってきましたから、育っているんだなって思います」
「そうですの?顔色も良くなって、レイも安心していますの」
「つわりが落ち着きましたからね。お腹が空いて困っちゃうくらいです」
「レイも楽しみですわ。元気な子を産んでくださいまし」
「ありがとうございます。レイさん」
「ところで、あの二人はピーマンなんかを収穫して、何が楽しいのかわかりませんわ」
菜園では、アンナとイオナが収穫したピーマンに笑顔を向け、楽しそうに会話をしている。
「レイさん。好き嫌いはダメですよ」
「真由美はお母さんみたいなことを言いますわ」
「そうですね。なんとなく落ち着いてきた自覚はあります。あと、おっぱいも大きくなってるんですよ」
「なぁー!」
レイは真由美の胸元に視線を滑らせ、不敵な笑みを浮かべた。
「——ちょっと見せてくださいまし」
「えぇー、ダメですよ」
「では、今夜は一緒にお風呂に入りますわ」
「えぇー、嫌ですよ。旦那様と入るんですから」
「レイも混ぜてくださいまし」
「——絶対イヤです」
急に浮かんだ真由美の真剣な表情に、レイは思わず笑いだしてしまう。
そんなレイを見て、真由美の顔にも、自然と笑みがこぼれた。
「レイも以前は兄様に愛でてほしいと、心から思っておりましたの」
「そうだったんですか……」
「一度だけ一緒にお風呂に入ったことがありますわ。その時は伊耶那美に邪魔されてしまいましたの。怖がるレイを、兄様は優しく気づかってくださいましたわ」
「レイさん……」
「でも、今は真由美と兄様の幸せを、心から祈っておりますわ」
「良かったんですか?これで……」
「構いませんの。兄様にそのようなことを求めることはもうありませんわ」
「——はい」
レイは真由美の手を取り、けがれのない、輝くような笑顔で、彼女を見つめる。
「レイにやましい気持ちはもうありませんの……ですから、真由美と兄様の入浴に混ぜてくださいまし」
「——絶対イヤ」
レイは微笑んだかと思うと、堪えきれずに吹き出してしまった。
「真由美はぶれませんわ」
「もうっ、からかうのはやめてくださいっ」
二人の笑い声に、菜園から優しい視線が向けられた。
「レイも真由美さんも楽しそうですね」
「レイ様は生まれてくる子供が楽しみで仕方がないようです。『レイお姉さま』と呼ばせたいそうです」
アンナは笑顔を見せながらピーマンを手に取り、小さくため息をついてから、優しく収穫した。
その様子を見たイオナが、気づかうように声をかける。
「何か心配事でもあるのですか?」
「そうですね……真由美は母親らしさを見せ始めていますけど、問題はご主人様です」
「何か問題がございますか?——はっ、もしかして女……」
「今のご主人様に、そんな度胸はありませんよ」
「確かにそうですね。真由美の嫉妬深さは常識を超えています」
「もう少し、堂々としてほしいですね。ちょっと真由美の具合が悪いと、慌てふためくのを見ていられません」
「私は耀様らしくて、いいと思いますけど……」
おかしそうに肩を揺らすイオナを見て、アンナも微笑んでいた。
「それよりアンナ様、子供の名前を考えませんと、耀様に奇妙な名前をつけられます」
「その件は、私からご主人様に話しました。私たちが考えた案から選んでくださいます」
「それは安心しました。そういえば、綾乃様の件は、レイ様からもうお聞きになりましたか?」
「はい。袴田悠斗が訪ねてきたと聞きました。もうひとりのご主人様にも相談したようです」
「何かされるのでしょうか?」
「いいえ。『お前らが守ってやれ』——それだけだったそうです」
イオナは思わずため息を漏らした。もうひとりの耀が、この世界に対する興味を失っていることを、思い知らされた気がした。
「いずれにせよ、真由美には黙っておいたほうがいいかもしれません」
「そうですね。身重の彼女に余計な負担はかけたくありません。あの男が捕まるまで、私かレイがついていれば大丈夫でしょう」
「仕事中は石井がついています。あれでも人並み外れた身体能力は持っています」
「そうなんですか……一度、私と手合わせをお願いしたいです」
「やめてください、アンナ様と手合わせをすれば、石井が命を落とします」
微笑んだアンナが、収穫したひとつのピーマンを手に持って見せる。
「ところでイオナさん。これはどう料理しましょうか?」
「できれば肉詰めを作っていただけませんか?」
「イオナさんはピーマンの肉詰めが好きですね」
「はい、料理が得意ではなくて……アンナさんに頼り切りになりすみません」
「いいですよ。変わりに……私のちょっと寂しい身体を、イオナさんが埋めてくれませんか?」
イオナの背に悪寒が走る。冗談っぽく話しているが、アンナの目は真剣そのものだった。
うかつに返事ができない……ここで冗談でも『はい』と答えれば、本気で部屋に連れ去られてしまう。
——突然、イオナのスマホが音を上げた。
イオナが電話に出るのを見つめるアンナの瞳が、みるみる艶やかな輝きを帯びていく。
じっと、自分の口元を見つめられているのがわかる……
「——これから石井が来るそうです」
一瞬でアンナの瞳から艶やかさが消えた。
「では、軽食でも準備いたしましょうか」
嬉しそうに話すアンナに、イオナは言葉を続ける。
「アンナ様、お願いがあります」
「何ですか?気が変わりましたか?」
「いえ、できれば……生まれてくる子供のために、ベビー服を作っていただけませんか?」
アンナの頬が喜びに染まり、瞳にはきらきらとした光が宿っていく。
「イオナさん!そうです。子供の服を作りましょう。でも、男の子か女の子のどちらでしょうかね」
イオナは口元を手で隠し、首を傾げるアンナの耳元で囁く。
「——男の子です。まだ、私と真由美しか知りません。内緒にしてくださいね」
嬉しそうに家に向かうアンナに、レイが声をかける。
「アンナ、何かいいことでもありましたの?」
「いいえ。軽食とお茶を準備してきますね」
「アンナさん。私も手伝います」
「真由美さんは、そこで座っていてください。あっ、そうでした。坊っちゃんのために服を作りますから、後で好みを教えてくださいね」
真由美がイオナに視線を向けると、目を閉じたイオナが、呆れた表情で首を振っている。
アンナの背中を見送ったレイの視線が、真由美に向けられる。
「——もしかして……男の子ですの?」
「はい。す、すみません。黙っているつもりはなかったんですけど……」
突然、レイが立ち上がった。握りしめた両手には、言葉にしきれない喜びがあふれている。
「やりましたわ!レイもお姉さま修行、頑張れそうですわ」
弾む声とともに、レイはアンナのあとを追って、小走りに家へと向かっていった。
レイを見送る真由美の隣に、イオナが静かに腰を下ろした。
「真由美、ごめんなさい。その話でもしなければ、貞操の危機を感じましたので」
「アンナさんですか……悪いことをしちゃいました。私が旦那様のお相手をできなくなったら、お願いしましょうか?」
「それは、アンナ様が断りますよ」
「どうしてですか?」
「あの方、本気で女性が好きになってしまったようです。しかも、あの身体で責められるのが好きだと、レイ様がおっしゃっていました」
「面倒見がいいから、その反動でしょうか?」
「そうかもしれませんね。でも、あの二人……耀様よりも喜んでくれているみたいです」
「はい。みなさんがいてくれるから、私の心も支えられています」
少し影を落とした表情でうつむいた真由美の背に、イオナがそっと手を添えた。
「——両親の件ですか……まだ、何か言ってきていますか?」
「はい。どこで調べたのか知りませんが、最近はメールでも催促がきます」
「何と?」
「相変わらずです。私のせいで働けなくなったから、仕送りをよこせとか、慰謝料を払えとか……」
「無視しておきなさい。その件は私の方でも手を打っておきますから」
真由美は一瞬、遠くを見つめるような目をしてから、イオナに向き直った。
「イオナさん。ありがとうございます」
その言葉にうなずいたイオナの背中に、明るい声がかかる。
「お茶にいたしますわ」
レイのその声に、真由美の表情も自然と晴れやかになる。
「あれ、石井さんはまだですか?」
「もうすぐ到着するかと思います」
イオナが言い終える前に、一台の車がゆっくりと敷地内へ入ってきた。
停車した車の運転席から、屈強な男が降り立った。
柔らかな笑みを湛え、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「みなさん、お揃いでしたか」
「石井、久しぶりですわ」
手を振るレイに、石井も軽く手を上げて応じた。
空いていた席に腰を下ろすと、そのまま笑顔でレイに問いかける。
「今日は何か、いいことでもございましたか?」
「ずっとですわ。もうすぐレイは、お姉さまになりますの」
「それは楽しみですね」
「滝川さん……おっと、もう『相葉さん』でしたね。体調はいかがですか?」
「おかげさまで、健康そのものです」
「それは良かった」
石井がほっとしたように微笑む傍らで、アンナが静かに冷たいお茶を差し出した。
「ありがとうございます」
「ところで石井さん。とてもお強いそうですが、手合わせをお願いしてもよろしいですか?」
「遠慮しておきます。イオナ様から聞いておりますので。私など一瞬で病院どころか……三途の川の向こうまで送られてしまいます」
「——そうですか、残念です」
額を伝う汗を拭う石井に、イオナが問いかける。
「ところで、今日は急にどうしたのですか?」
「いえ、特に用はございません。相葉さんと、こちらで打ち合わせをすることにしまして」
レイが顔を輝かせて、身を乗り出した。
「兄様が帰ってきますの?」
うなずいた石井が、優しく答える。
「はい。もうすぐ戻ってこられます。この近くで打ち合わせがあったようで、少し相談したいと連絡がありました。ちょうど、私も出張から戻る途中でしたので、ここで合流しようという話になりました」
「そうでしたか。離れを使うといいです。松本もいますから、準備させましょう」
「ありがとうございます。もうすぐ到着されるようなので、ここで少し待たせてください」
「ご主人様のお茶も用意しましょうか」
そう言って、アンナは笑顔を見せた。
家に向かおうと、静かに席を立ったそのとき──家の前に、一台の車が停車した。
助手席から降り立った耀は、運転手に何かを話し、柔らかな表情で手を振る。
車は耀を残して、静かに走り去っていった。
「——女でした」
アンナのその言葉に、真由美の表情が曇る。
小さく肩をすくめながら、石井が苦笑する。
「奥さん、ご亭主は、女性の社員とも一緒に仕事をされていますから……」
真由美をなだめる石井の後ろを、いつの間にか席を離れたレイが、小走りで通り過ぎる。
そして、優しい表情を浮かべる耀に、勢いよく抱きついた。
その様子を見ていたアンナが、首を傾げる。
いつもと違い、耀の両腕を抱き込むように抱きしめている。まるで、耀の動きを封じるかのように。
顔を上げて耀を見たレイが、不気味な微笑みを浮かべる。
「——捕まえた」
突然、耀の背中に重い衝撃が走った。
異常に気付いたアンナが駆け出す中、再び鈍い振動が背中を叩く。
「……熱い」
身体の力が抜け、脈打つような痛みが、背中から全身に広がっていく。
レイが耀から手を離すと、耀は崩れるように地面に倒れた。
「やったぞ!耀を仕留めた!」
歓喜の声と共に両腕を突き上げる男に向かって、石井が駆け出す。
先に飛び出したアンナが、レイに飛びかかろうとした瞬間、レイの拳が彼女の腹を捉えた。
アンナはその衝撃に、膝から崩れ落ちる。
「そんな……レイにこんな力はないはずなのに……」
ひざまづくアンナを、レイが冷たい笑顔で見下ろした。
「魔力だけでなく、力も十分なようだな」
彼女は振り返り、狂喜に震える男に声をかける。
「我が使徒、悠斗よ。我はこの女の身体と、その男の魔力を得ることにした……止めを刺せ」
——急に力が抜け、地面が僕に迫ってきた。
硬い地面が、僕を優しく包むように受け止めてくれる。
土の匂いか……なんだか、周囲が騒々しい……
霞んで見える視線の先では、アンナが倒れている。石井さんが、迂回するように走っている。
何かを叫びながら僕に向かって手を伸ばす真由美を、イオナが羽交い締めにしている。
そして、目の前に立つ足は……レイか。
いったい何があったんだ……
背中にあった、鼓動するような痛みが、少しずつなくなってきた。
でも、立ち上がろうとしても、身体に力が入らない。
僕は——前にも同じ経験をしたような気がする。
いつだっただろうか?何かが心の奥から湧き上がってくる。
——そうだ。遠い昔に、同じ経験をした。
ラザールとかいう教皇の葬儀に際して、殉教者として——僕は殺された。
その時とまったく同じだ。でも……僕は、僕だったのだろうか?
……僕は——ドナトゥス。
孤児だった僕は教会に引き取られて、そこで育てられた。
ただ、それは生きるためじゃない。
殺されるために育てられた。
——生贄となるための存在だったんだ。
僕が偽物だったんだ……
あいつは、このことを知っていたのだろうか……
知っていて心の奥に閉じこもっていたのだろうか……
でも、もうどうでもいい。取り返しはつかないのだから……
真由美……もういいから。そんな顔を、見せないでほしい。
相葉耀として君と出会えて、支えられて、愛し合って……それで、僕は幸せだったんだ。
アンナ、レイ、イオナ……今までありがとう。君たちの大切な時間を、僕は奪ってしまっていたのかもしれない。
ミスティ……そういえば、最近全然見ないな……
……まあ、いいか……
再び、背中に鈍い衝撃が走る。
幼い頃からの出来事が、一気に脳裏を駆けていく。
……走馬灯、というやつだろうか。
これを見るのも、二度目だな。
今になって、ドナトゥスとして見た走馬灯をも——思い出した。
視界から、光が奪われていく。
なぜだろう、心地よくすら感じている。
あいつに、悪いことをしたのかもしれない。
でも……もう、いいだろう。
——僕は、また……死ぬのだから。
全てがなくなる直前、あいつの声が——頭の中に響いた。
「——これで、お別れだ……ここまで、俺の身体を生かしてくれたことに、感謝する」
……感謝するのは、僕の方さ。
ありがとう……さようなら。
——刃物を手に立ち上がった悠斗が、肩をひとつ揺らしながら、静かに周囲を見回す。
その頬はひくつき、口元には歪んだ笑みを湛え、目は異様なほどに開かれていた。
「……魔力が溢れ出してきたようだ。これで、我が大望も——」
レイの低い呟きが、湿った空気の中に沈み込むように響く。
その言葉に応じるように、耀の身体は黒紫色の霧に、ゆっくりと包まれていった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




