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微笑みが呼ぶ悪魔  作者: おむすび先輩
第十一章
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変わるとき

ひどい頭痛がする。……私は、あの後どうなったのだろうか。


「どうやら、生きているようです」

「聖女様のもとへ運びましょう」


ふたりの女の声が、どこか遠くから重なって聞こえた。

ゆっくりと(まぶた)を開けると、見知らぬ天井が視界に入る。


「気がつきましたか?」

「……ここは?」

「ラザール様の神殿です」


身体(からだ)を起こそうとすると、隣にいた女性がそっと手を貸してくれた。

私は、建物の廊下にいるようだった。壁も床も淡い光を帯び、見たことのない文様が刻まれている。

死を覚悟していたのに、こうして目を覚ました。どうやら、本当に生きているらしい。

——それよりも、手を貸してくれたふたりは、揃いの白い鎧を身に着けていた。

その姿と、この建物の荘厳な造りを見るだけで、ここが私の知る世界ではないことは、すぐに理解できた。


「我々は、聖女の騎士です。偶然通りかかったこの場所で、あなたが倒れているのを見つけました」

「まだ体調が優れないかもしれませんが、まずは聖女——アドリエンヌ様にお会いください」

「聖女……ですか」


ぽつりと呟いた私に、ひとりの騎士が声をかける。


「歩けますか?」

「……はい、歩けます」


私が立ち上がろうとすると、左右からそっと手が添えられた。

二人の支えを借りながら、私は静かに歩き出した。

長い廊下の先へ、導かれるように——。


豪奢(ごうしゃ)な扉の前で立ち止まり、ひとりの騎士が中へと入る。

しばらくすると、私も部屋に招き入れられた。


部屋では、美しい修道服を(まと)った女性が私を出迎えてくれた。

気品ある顔立ちに、金糸のような長い髪。——けれど、光の加減か、その髪は虹色にも見える。

私の手をそっと取った修道服の女性は、温かい笑顔で口を開いた。


「私は聖女アドリエンヌ。あなたはもしや、人間の世界からの来訪者ではありませんか?」

「……人間の世界?」


思わず問い返す。はっきり言って、何を言っているのか、よくわからない。

聖女——そう名乗った彼女の瞳は、思いのほか濁って見えた。清らかさよりも、どこか世俗の影を宿しているような。


「戸惑うのも無理はありません。もし、あなたが人間であれば理解しがたいことでしょうが……ここは、選別の神ラザール様が創造した神の世界、ヴェリディシアです」


——選別の神、か……聞いたことがない。

いったい、どこの神なのだろう。

そして、——何を選別するというのか。


「少し説明いたしましょう。どうぞ、おかけになって」


私の困惑を察したのか、聖女は柔らかく手を差し伸べてきた。

促されるまま、私は部屋の奥に置かれたソファへと腰を下ろす。

身体を預けた瞬間、ふんわりと沈み込む感触と、わずかに押し返してくる反発が心地よく調和していた。

——高級品だと、素人の私にもわかる。


「まず、この世界のことをお話しましょう」


私の正面に腰を下ろした聖女。その背後には、先ほどの騎士たちが静かに控えている。


「この世界は、選ばれた魂が時を過ごす場所だとお考えください。この神殿を中心に、小さな街がひとつあるだけの世界ですが、今はおよそ百万人が暮らしています」

「……魂、ですか? 私には、皆さんが普通の人間にしか見えませんけど」

「あくまで、わかりやすく例えたまでです。魂に実体がないというのは、人間の世界の常識なのかもしれませんね。たとえばあなたがこれまでに、手を取り合った人や、愛を交わした相手が『本当に人間だった』という証拠を、持っていますか?」

「……どういう意味でしょう? 正直、よくわかりません」


「その人は、異なる次元の住人だったかもしれません。今のあなたのように」

「異なる次元……理解は追いつきませんが、私は今、その『異なる次元』にいるんですね?」

「そのとおりです。そして、ここは精神世界の一種とお考えください」

「精神世界?」

「ええ。人間が想像した世界が、実体をもって存在する——そんな異世界とでも言いましょうか」


考えても、混乱が深まるばかりな気がしてきた。


「理解はできませんが、そういうものとして受け入れることにします」

「それは良い心がけです」


聖女は満足げにうなずき、やわらかく微笑むと、騎士のひとりに一瞬だけ視線を送った。

カチカチと金属音を響かせながら、その騎士がティーポットとカップを手に戻ってくる。


「次に、この世界が存在する理由について——お話しましょう」


——この世界が存在する理由……

そもそも、世界に『理由』なんて必要なのだろうか。


「この世界は、ラザール様に選ばれた者が時を過ごす場所。けれど、それは——この街が人間の世界に降臨するための、準備の時間でもあるのです」

「人間の世界に?」


差し出された飲み物に目を落とす。紅茶だろうか。

聖女は静かにカップに口をつけ、続けた。


「はい。私たちも、もとは人間でした。あの世界に深く失望し、何も信じられなくなっていた。その心を救ってくださったのが、ラザール様の教えなのです」

「——その気持ち、わかる気がします」

「そうですか……あなたは、生きながらにして、この世界を求めたのかもしれませんね」

「この街が人間の世界に降臨して……何をするのですか?」

「粛清です」


その言葉に、私は身震いした。

仕返しができるのかもしれない——そんな考えが、思わず胸をよぎった。

……でも、きっとその邪な考えに。

それを思いついてしまった自分自身に。

私は、身震いしたのだと思う。


「人間は、己の都合や時間、欲望に正当性を見出そうとします。私は人間であったころ、聖女と呼ばれ、信仰の対象とされていました。けれどその実態は、時の権力者に利用され、神託という名の圧政を敷かれ、そしてその正当性の象徴として、責任のすべてを背負わされたのです」


聖女の失望は、きっと私のそれよりも深く、重いものだったのだろう。

……でも、人間に対する失望って、大小の問題じゃない。

傷の深さこそが、すべてなんだと思う。


「ラザール様のもとには、現在三人の聖者(せいじゃ)がいます」

「聖者とは……?」

「ラザール様に仕える側近のようなものです。そのうちのひとり、賢者ゼルマリクについてお話しておきましょう」

「賢者……本当に幻想世界そのものですね」

「そう思えるかもしれませんね。ゼルマリクは、生前、錬金術師として時の王に仕えていました。目的は、鉛から金を生み出すこと。けれど彼は、金が生成できない『理由』に気づいてしまったのです」

「できなくて当然じゃないんですか?」

「いいえ、そうではありません。彼は言いました——『鉛を別の力に変換できれば、金にすることは可能だ』と。ただし、そのためには外部から膨大な力を与えねばならない。だから彼は、錬金そのものを犠牲にしてまで、力を追い求めたのです」


錬金術が信じられていた時代を生きた、ひとりの賢者……か。

いったい、この世界はいつから存在しているのだろう?


「……視点は、科学者っぽいですね」

「ええ。でも、結果を出せなかった彼は、やがて王宮から追放されました。横領の罪まで着せられて——彼は、それも仕方のないことだと受け入れていたようです。けれど、名声を失った瞬間、すべてが崩れました。妻も子も、そして……両親にさえ、彼は見捨てられたのです」

「なんだか、人間の汚い部分をすべて見せられたんでしょうね……」

「そうですね。そしてあなたは、四人目となる素質をもっています」

「私が……?でも、それより——もうひとりは?」

「もうひとりについては、私は聖者と認めていません。いずれ知ることもあるかもしれませんが——爵位のないこの世界で、『伯爵』を自称する愚か者、とだけ言っておきましょう」


三人もいれば、いさかいのひとつやふたつ、起こるものだ。聖者なんて言っていても、結局、人間と変わらないじゃない。

私から見れば、自らを『伯爵』と名乗る愚か者と、大差ないのだけれど。

私が思索に沈んでいると、再び聖女の声が届いた。


「もし、あなたが望むのなら——私と賢者のふたりで、あなたの秘めた力を導きます」

「……秘めた力って、なんでしょう?」

「世界を渡る能力——生きながらにして、この世界へと辿り着いた者が持てる、特別な力です」


世界を渡る——もし、それができるなら、私は元の世界に戻れるのかもしれない。

でも、戻って私は何をする? 

私を騙して、都合よく操った袴田(はかまだ)という男。

愛していると言いながら、一度も連絡をくれなかった婚約者。

そして……私を置いて、どこかに消えたおにぃ。


そんな世界に戻ったところで、意味なんてないじゃない。

親切にしてくれた人もいた。優しくしてくれた人も、確かにいた。

でも、自ら力を持ち、自らの望みを叶える。

……そんな生き方も、悪くない。


「——お願いします」

「条件があります。ラザール様の側近として仕えること。この世界の存在理由に逆らわないこと。そして、人間を殺すことを——躊躇(ためら)わないこと。……最後の条件だけは、時間が必要になるでしょう」


人間を殺す——そんな言葉に、私は驚かなかった。

躊躇いもしなかった。それは、私の意思で決められることだから。


「——分かりました」


聖女は、そばに控えていた騎士に顔を向けた。


「準備を進めておきます。ゼルマリクを呼んできてください」


敬礼とともに部屋を出ていく騎士を見送りながら、聖女はゆっくりと立ち上がり、私の方へと歩み寄ってくる。


「では、立ち上がってください」


私が腰を上げた、その瞬間だった。

鳩尾(みぞおち)に、鋭い痛みが走る。

視線を落とすと——聖女の腕が、私のお腹に深く刺さっていた。

その腕を伝って、血がぽたぽたと床に落ちている。


「……少し、我慢してください」


私が彼女を睨み返すと、聖女は微笑みながら、そっと目を閉じた。

虹色に揺れる髪が、次第に強く輝き始め、やがて——その光は、全身へと広がっていった。


——どれくらいの時間が経ったのだろうか。

鋭く刺していた痛みは、次第に薄れ、やがて……かすかな心地よさへと変わっていった。

気づけば私は、その感覚に身を委ねていた。


「終わりました。鏡を見てみてください」


聖女の指差した先——姿見に映る自分の姿を見て、私は息を呑んだ。


「……えっ、これ……」


鏡の中に映っているのは、十八歳の頃の私だった。


「能力を引き出すには、少し年齢が高すぎました。ですから、魂そのものを若返らせたのです。もちろん、容姿だけではありません。すべてが——若返っています」


私は思わず、自分の身体に視線を落とした。

服の腹部には、ぽっかりと穴があいている。そこから(にじ)んだ血が、まだ乾ききらずに残っていた。

……さっきの出来事が、幻じゃないことを、それが物語っている。


「そして、魔力を制御できる身体に作り変えました。そのために、あなたは一度命を落としました。もう、歳を取ることもありません」

「——見事ですな」


背後から響いた低い声に、私は思わず振り返った。


「ゼルマリク。後はお願いします」


聖女の言葉に応えるように、ゆっくりと歩みを進めた老人が、私の前で立ち止まる。

細めた目でじっとこちらを見つめ、その横顔には、幾重にも重ねられた年輪と知恵の深みが滲んでいた。


「お嬢さん、お名前を伺いましょう」

春子(はるこ)……大橋(おおはし)春子です」

「春子。よき名ですな。では、儂がその『世界を渡る力』を引き出しましょう」

「は、はい……。あ、あの、私は……死んだのですか?」

「ふん。死んで、(よみがえ)った——人間でありながら、人間でない。……その状態こそが、『世界を渡る』ための条件ですな」


ゼルマリクは、ちらりと聖女に視線を送る。


「十日もあれば、習得できましょう。その間、あの男には内密に願いますぞ」

「もちろんです。傀儡(くぐつ)の術しか使えぬ男に、伝える理由はありません」


『傀儡』——その言葉に、私は一瞬、呼吸が止まった。


「どうかしましたか?」


聖女の問いに、私は小さくうなずいた。


「……私の身体は、ここへ来る前、ある男に操られていました。自分の意思に反して動く——そんな、奇妙で怖い感覚に(とら)われていたんです」

「それは、おそらく何らかの術が施されていたのでしょう。けれど、その状態でなお意識を保っていたとは……並のことではありません」

「ふむ、普通ならば、まず意識から失われるもの。それだけ、強い『魂』の持ち主なのでしょうな」


魂とは、意識なのだろうか。それとも、思念というものなのか。

……よくわからない。ただひとつ言えるのは——

私が思い描いていた『魂』のイメージとは、ずいぶん違っている気がする。


「では、行きましょうかな」


ゼルマリクの言葉に小さくうなずき、私は歩き出す。

その背に、柔らかく響く声が届いた。


「春子。私のことは、アドリエンヌと呼んでください。私は、あなたと『友』でありたいと願っています」


振り返った私は、自然と微笑んでいた。

そして、深く、力強くうなずくと——静かに、部屋を後にした。


『私は生まれ変わる。この世界の存在理由なんてどうでもいい、自分のためだけに』


——澄み切った空の下、相葉家は今日も変わらず賑やかだった。

そんな平凡な休日の夕刻、耀はひとり、静かに庭の桜の世話をしている。

春子が忽然と姿を消してから、すでに十数日が経っていた。

けれど——遠く離れた場所で起きたその出来事を、誰ひとりとして知る者はいなかった。


「あなた、もうすぐ夕食です」


真由美(まゆみ)の声に振り向いた耀は、口元に僅かな笑みを浮かべていた。

その笑顔を見て、真由美も自然と微笑み、耀に歩み寄る。


「今日はなんだか雰囲気が違うね」

「いつもどおりですよ。何をしているのですか?」

「桜の葉につく虫には、竹酢がいいって(しげる)さんに聞いたから、撒いてたんだ」

「この、小さな緑色の虫ですか?……なんだか、気持ち悪いですね」

「そうなんだ、刺されると痛いしさ。駆除しようと思って」


真由美は、耀の手をそっと取り、ようやく見せてくれるようになったその笑顔を、見上げた。


「あなた、そろそろ家に入りましょう」

「真由美、少しここで待っていてくれないか?」

「はい……どうかされましたか?」

「ちょっと待ってて」


駆け足で家に入っていく耀の背中を、真由美は静かに見送った。


「まるで子供みたいで、可愛い……」


そう呟いて、真由美は耀が毎日のように世話をする桜に視線を移した。

ふと、ぼんやりとした思いが胸をよぎる。

出会ってから、まだ一年も経っていない——それなのに、目まぐるしく動く日々のせいか、もっと長い時間を一緒に過ごしたように感じる。

ようやく、穏やかな日常を手に入れた。耀も、少しずつ表情を見せてくれるようになった。

真由美が望んでいたのは、こんな日々だったはず。けれど……ごく小さな違和が、日々のなかに忍び込んできていた。

それは、耀ではなく——真由美自身に。


「真由美、ごめん、待たせた」

「いえ、少し考えごとをしていました」

「そういえば……最近、体調はどうなんだ?」

「大丈夫ですよ。今日、イオナさんに無理やり病院に連れて行かれましたけど、問題はありませんでした」

「そうか、それはよかった。イオナにもお礼を言わなきゃな」

「それで、あなた。何かお話でもあるのですか?」


振り返った真由美に、耀が真剣な表情を見せた。

普段はあまり見せない、決意に満ちた眼差しに、真由美は思わず顔を伏せる。

視線の先に映った耀の手——そこには、小さな指輪が握られていた。


「——真由美、結婚してほしい」


見上げた耀の顔には、決心と不安が入り交じった表情が浮かんでいた。


「——不束者ですが、よろしくお願いします」


耀の表情に明るさが戻り、真由美をそっと抱きしめる。


「ありがとう」

「……私も、あなたにお話があります」

「なんでも言ってくれ」


真由美は耀にしっかりと抱きつき、その胸にそっと語りかけた。


「——赤ちゃんが……できました」


桜の前で抱き合う二人を祝福するように、柔らかな風が通り抜ける。

夕焼けに伸びた、ひとつに重なった影も、どこか幸せそうに見えた。

家の中からその様子を見守っていた三人も、息を殺して、そっと祝福していた。


「あなた、そろそろ……」

「ああ、家に入ろうか」

「違います! 指輪をつけてください。後で自慢するんですから」

「子供も生まれるとなると、みんな驚くだろうな」


真由美は、くすくすと肩を揺らす。


「みんな知ってます。イオナさんが喋っちゃいました」


新たな門出と新たな命を祝うあたたかな声に包まれながら、相葉家の夜は、にぎやかに更けていった。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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