遠のく空
静かな田舎の駅舎に、ひと組の男女が降り立った。
無言のまま夜のホームを歩く彼らは、すれ違う者の視線を否応なく引き寄せる。
男は帽子を深く被って顔を伏せ、女は真っ直ぐ前だけを見据えながら、一分の揺らぎもなく足を運んでいた。
二人が通り過ぎるあいだ、誰も声を発さなかった。ただ、何事も起きずに通りすぎてくれることを祈るように。
やがて二人の姿は、駅前のホテルへ消えていった。
——翌朝。早朝にチェックアウトした二人は、待たせていたタクシーに乗り込む。
女がひと言運転手に告げると、タクシーは静かに走り去った。
「お母さん、遊びに行っていい?」
「まだ朝ご飯も食べてないでしょ。それに、レイさんに返事はしたの?」
「あっ、忘れてた……」
「奈々美、少しは落ち着きなさい」
綾乃は奈々美の様子にため息をつくと、台所に向かい、朝食の準備を始めた。
「まったく誰に似たのかしら……相葉君は達観しているし、あの性格は私か」
思わず微笑みを浮かべた綾乃の背後から、声がかかる。
「——お母さん、この人がきちゃった」
振り向いた綾乃の目に、グレモリーが映った。
綾乃の目がわずかに見開かれ、すぐに強い語調が口をついた。
「あなた、何をしにきたんですか!」
「母上には相変わらず嫌われているようですね……召喚なくここにいるのは、幼子と母上に危難がせまっているからでしょう」
「危難ってなんですか?あなたがここにいることが危険じゃないですか」
「ひどい言われようですね。気にせずいつもどおりに振る舞ってください。それと、私の朝食は必要ありませんよ」
「はじめから、あなたの分はありません!」
グレモリーはローブの袖で口元を隠しながら肩を揺らしていたが、綾乃はそれを無視し、料理を再開した。
「さて、幼子。父上からもらったネックレスがありましたね」
「うん。あるよ」
「それをつけておきなさい」
「うん。いいよ。でもなんで?」
「せっかくの機会です、母上にも聞こえるように話しておきましょう」
「なんですか、その嫌味な口振りは」
「相葉耀がネックレスを二人に与えた理由です」
グレモリーは振り返った綾乃に笑顔を向けると、奈々美に視線を落とし、口を開いた。
「幼子のネックレスは、魔力を貯めるもの。つけている間は幼子の魔力が全て吸収されます」
「そうなんだ。じゃあ、つけておいたほうがいい?」
「今はつけてください。後はご自由に」
「じゃあ、つけてくるね」
自室に向かう奈々美を見送ったグレモリーは、綾乃に向き直す。
「母上のネックレスは、相葉耀への思いを貯めるもの。つけている間は思いが募るでしょう?」
「だったらどうなんですか?」
「その二つを合わせることで、母上の想い人がいる世界へ、幼子の魔力を使って渡れるのです」
ネックレスを手に取り、目を細め口元に僅かな喜びを浮かべた綾乃を見つめ、グレモリーは静かに微笑んだ。
「では、私はしばらく姿を隠しておきましょう」
グレモリーが霞むように消えた部屋に、奈々美が戻ってきた。
「あれっ、もう帰っちゃったの?」
「しばらく隠れているそうですよ。奈々美、もうすぐご飯ですから、そこに座っていなさい」
「はーい」
何気ない休日の朝食に戻った二人の会話は、自然と耀の話になっていた。
奈々美が耀に会った時のことを嬉しそうに話すのを、綾乃は目を細めて聞いていた。
そんな穏やかな食卓に、玄関のチャイムが鳴り響く。
「誰だろう?」
立ち上がろうとする奈々美の前に、再びグレモリーが姿を見せた。
「二人は食事を楽しんでください。私が対応しますので……そうですね。会話を聞こえるようにしておきましょうか」
綾乃に目を配ったグレモリーは、静かに玄関へと向かう。
「どなたですか?」
「元宮先生はいらっしゃいますか?」
声をかけた女に、グレモリーは小さく首を傾げた。
綾乃の耳には、玄関での会話がまるで隣で交わされているかのように、はっきりと届いていた。
「元宮……それはどなたでしょうか?」
「ここに住んでいるはずです」
「しばらく前に引っ越しされた方でしょうか?」
「引っ越し?」
「はい、前に住んでおられた親子は引っ越されて、今は私が住んでいます」
そのとき——
女の背後から、無言で話を聞いていた男が、一歩前に出てきた。
彼は女性を押しのけるようにしながら、玄関の前へ進み出る。
「——中を見せろ」
「おや?」
グレモリーは少しだけ眉を上げた。
「なぜ見ず知らずのあなたに、家の中を見せないといけないのですか?」
「いいから」
語気を強め、踏み込もうとする男の肩を、グレモリーが制した。
その手に力はない。それでも男は足を止める。——彼女自身の存在に気圧された。
「まずは、名乗りなさい。礼を失するにも程があります」
沈黙のあと、男はうつむき、ぼそりと呟く。
「——袴田悠斗」
「その袴田悠斗が、物騒なものを背負って、何をするつもりですか?」
「——何のことだ」
「隠したつもりでしょうが、見えていますよ。短刀も——あなたの焦燥も」
「どこに引っ越したんだ?」
「残念ながら、あなたの目的としている人を私は存じません。なので今、どこにいるかも知ることができません」
——しばしの沈黙の後、静かに肩を落とし、踵を返そうとする女性の背中に、グレモリーが呼びかける。
「立ち去る前に、あなたも名乗りなさい」
女は一瞬、隣りに立つ悠斗に視線を送った。
彼が小さくうなずくのを確認すると、唇をわずかに震わせて名乗る。
「……大橋春子」
「大橋春子ですか……お二人は何やら深い事情がおありのようですので、協力したい気持ちはありますが——見知らぬ相手を探すことなど、私にはできません。諦めてください」
春子は小さく頭を下げた。
悠斗は無言のまま、視線を逸らして歩き出す。
二人の背が通りの向こうへと遠ざかっていくのを、グレモリーは黙って見送った。
「いったいどういうことですか?」
部屋へ戻ってきたグレモリーに、綾乃は声を荒らげて問いかけた。
だがその声を無視するかのように、グレモリーは静かに奈々美の髪を撫でた。
「幼子、食事は済みましたか?」
「うん」
「では、しばらく自分の部屋に隠れていてください。そのネックレスを外してはいけませんよ」
「うん、分かった。後で呼んでくれる?」
「もちろんです」
優しく微笑むグレモリーに、奈々美も笑顔を返し、部屋を出ていった。
「奈々美には聞かせられないのですか?」
「はい。あの男は、幼子を殺しに来ました。彼女の内に秘められた魔力を奪うために——」
「な、なぜ? 奈々美は何もしていない。ただ、少し人と違うだけなのに……それだけで命を狙われるなんて!」
綾乃は言葉を吐き出すように叫ぶと、顔を両手で覆い、うつむいた。
グレモリーはそっとその背に手を添え、静かに語りかける。
「幼子が、相葉耀の子だと感づかれたからでしょう。母上は『大橋春子』という名に聞き覚えがあるのでは?」
「——教え子です」
「相葉耀と大橋春子の関係は?」
「相葉君は……あんな調子でしたけど、大橋さんは彼のことを好きだったはずです。たしか、初めての相手同士だったようですし……」
「おや?母上は少し焼きもちを焼いているのですか」
「そんなんじゃありません!」
顔を上げてにらむ綾乃に、グレモリーはやわらかな笑みを返した。
「そうですか……大橋春子が相葉耀に恋慕の情を抱いていたからこそ、幼子のことに気づいたのでしょう」
「なぜ、大橋さんがそんなことに手を貸すんですか!」
「貸したのではありません。袴田悠斗に操られていました……」
「……助けられないんですか」
「残念ながら、袴田悠斗もまた、誰かに操られている。つまり、彼を止めても、根は断てません」
再び顔を伏せた綾乃に、グレモリーが話を続ける。
「そう落ち込まないでください。相葉耀なら、解決できるでしょう。ただ、このことを彼に伝える術が、私にはありません」
「レイさんかイオナさんなら?」
「レイなら可能でしょう。そうですね……『袴田悠斗がうちに来て、グレモリーに追い返された』とだけ伝えればいいでしょう。聡い彼女のことです。きっと最善を尽くしてくれるでしょう」
「……分かりました。それと、もう奈々美は、本当に安全なんですか?」
綾乃の問いかけに、グレモリーは深くうなずいた。
「はい。今日のところは、心配ありません。二人は山の方へと向かいました。また近づいてくるようなら、私が排除します」
「なぜ……なぜあなたはそこまでするのですか?いったい、何が目的なんですか?」
「ただ——契約に従っているだけです。幼子と母上を守ること。それが、幼子の願いでした。私はその契約を履行しているだけにすぎません」
「……契約って、じゃあ……対価は……」
「はい、幼子との口づけです」
「あなた……なんてことをしたんですか!」
綾乃が声を荒らげると、グレモリーは眉一つ動かさず、穏やかな口調で答えた。
「これもまた、彼女自身の望みでした。『他の何も渡したくない。お母さんと平穏に暮らせるなら、口づけくらい我慢できる』——そう言い切ったのです」
グレモリーの言葉に、綾乃は息を呑む。
「その覚悟は、父親である相葉耀によく似ています。……とても、強い子です」
「それでも……許せることではありません」
「安心してください。私はこれ以上の対価を求めるつもりはありません。私の本望は、女性が自らの望みを叶えることです」
綾乃はしばし黙ったのち、静かに問いかけた。
「——本当ですね?」
「ええ。悪魔は、契約には忠実です」
グレモリーは綾乃の疑いの視線に、優しく微笑みを返すと、ゆっくりと口を開いた。
「そうでした。私からも幼子に伝えておきますが、あのネックレスは必ず身につけておくよう言ってください。魔力をすべて吸収し、外からは感じ取れなくなります。たとえ神であっても、見つけ出すのは困難でしょう」
「——分かりました」
「まったく、相葉耀というのは恐ろしい存在です。魔力で創造したものに、自らの概念を刻み込むとは……。素晴らしい夫を手に入れましたね、母上。いずれ、あなたの望みも叶えてくれることでしょう」
それでもなお、視線を外さない綾乃を見つめ、グレモリーは小さく首を傾げた。
「……まだ、心配なようですね。ですがもし、私があなたたち母娘を傷つけるような真似をすれば——相葉耀に、存在ごと消し飛ばされます。……本当に、恐ろしい子に関わってしまいました」
そう言って、グレモリーは両腕を擦り、わざとらしく震えるような表情を浮かべた。
そのまま、軽やかな足取りで部屋を後にする。背中に漂う笑みは、どこか満ち足りたものだった。
——寂れた登山道を、ただ黙々と歩いている。
前を行く男は、何かに導かれているかのように、迷いなく足を進めていた。
……元宮先生が、引っ越してくれていて本当に良かった。
先生の子供が、おにぃの子かもしれないって噂になっていたけど——
たとえそうだとしても、先生には何の罪もない。
なのに、私があんなことを話してしまったばかりに、危険な目に遭わせてしまうところだった。
この山、『矢筈山』には、小学生のころに一度だけ登ったことがある。
けれど、こんなにも急勾配で、歩きづらかっただろうか。
山頂に立てば、何かがあるのだろうか。
……いや、何もないことは知っている。それでも私は、逃げることも、足を止めることもできなかった。
——この男の、意のままにされているだけ……そんな自分が、悔しかった。
ただ、向かっている先からは、不思議な気配が感じられた。
——なんとなく、おにぃに会えるような気がして。
絶対に会えるはずなんてない。だけど、今の私には、それだけが、心を支える唯一の希望だった。
——一時間ほど歩いただろうか。
ようやく辿り着いた山頂からは、眼下に海が広がっていた。
その光景が、乾いた私の心に、わずかな潤いを与えてくれる。
男は、何かに祈るように膝をつき、手を胸の前で組んで、静かに呟いている。
私の意思が、まだこの身体を動かせるのなら——
逃げなくてもいい。ただ、この男の意に、ほんの少しでも逆らってやりたい。
男は突然立ち上がると、少し下がった場所にある大きな岩のそばで、地面を掘り始めた。
荒く息を吐きながら、素手で土をかき分ける姿は、まるで獣のようで、おぞましさすら感じさせた。
そして——私の身体は、意に反してその男のほうへと動き始める。
私は、残された最後の意識を振り絞り、自らの身体を仰向けに倒した。
空を流れる雲が、私の意思を取り戻してくれるようで。
木々の間を駆け抜ける風が、どこか遠くへと私を攫っていくようで。
一瞬の細やかな安堵の後——
肌を焼くような日差しが、ほんの目前にあった私の幸せを、焦がしてしまうようで。
あの時——おにぃに会いたいと思わなければ。
この男に出会わなければ。
凛堂さんに言われたとおり、諦めていれば——
胸の奥で、後悔と哀しみが、ぐしゃぐしゃに絡まり合って、渦を巻く。
愚かだった——そんな自分自身の行動が、今になって胸にのしかかってくる。
涙が頬を伝い落ちていくのを感じた。
——良かった。私は、まだ人間だった……。
あれから、かなりの時間が過ぎたように感じる。
なぜだろう……肌を撫でていく風が、まるで私に、静かなお別れを告げているようだった。
気がつくと、聞こえていたはずの男の荒い息遣いや、土をかき分ける音が消えていた。
ふと顔を上げると、男が無表情のまま、私に向かって手招きをしていた。
——嫌な予感しかしない。
それなのに、私の身体は逆らうことができず、吸い寄せられるように立ち上がり、歩き出していた。
男の隣に立ち、彼が指差した岩へと視線を移す。
——その表面に、奇妙な違和感があった。
一歩、足を踏み出して近づき、目を凝らす。
岩の表面が、まるで水面のように、波打ちながら蠢いて見える。
ぞくりとした恐怖が背筋を這い上がり、思わず男の方へと振り返った。
次の瞬間、私は男に突き飛ばされた。
背中にぶつかるはずの岩肌を覚悟して、ぎゅっと目を閉じる。——けれど、衝撃も痛みもない。
おそるおそる目を開けると、空を流れる雲が、丸く切り取られたように見えていた。
その丸は、ゆっくりと、しかし確実に小さくなっていく。
まるで井戸に落ちていくような感覚——
いや、それすら曖昧になるほど、真っ暗で何もない空間へと、私は吸い込まれていった。
一瞬、何かが私の横を通り過ぎた。
私とは逆方向、穴の入口へと浮かび上がっていくように見える。
その背中は、年老いた男性のように見えた——けれど、私の意識はしだいに遠のいていった。
前に突き飛ばされたときは、偶然通りかかったおにぃが助けてくれた。
でも、今日は来てくれなかった。おにぃだけじゃない。誰も、誰ひとりとして、私を助けてはくれなかった。
結婚を約束したあの人も、この数日、電話もメッセージもよこさなかった。
本当に……私を愛してくれていたの?
もし、あの人から連絡があったなら——どこかで、自分を取り戻せていたかもしれないのに。
最後の希望だった、小さくなった空が、完全に消えた。
……悲しくなんて、ない。悔しい。
全ての人が、恨めしい。みんな嘘つきだ。
生まれ変わったら——
絶対に、仕返ししてやるんだから。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




