春子の英雄
私は、本当の恐怖を初めて知った——高校生のあの日を、今も忘れない。
歩道に乗り上げて停まっていた車。その脇を通りかかった時、傘がほんの少しこすっただけなのに、男が突然降りてきて、私は腕を掴まれ、地面に突き飛ばされた。
あの時、向けられたギラついた目、欲情に歪んだ口元。そして、あのひと言——
「……修理代いらねぇから、やらせろ」
周囲の人たちは、みんな目をそらして、避けるように通り過ぎていく。
誰も助けてくれない……関わりたくない気持ちは、分かる。でも、誰かひとりくらい……
こんな私なんて——そう諦めかけたその時、前を横切ったおにぃが、男と何か言葉を交わした。
相葉耀。気に入らなければ、腕ずくで黙らせる——鬼のような、隣のクラスの男子。
何を話したかは分からない。でも私は悟った。もう終わりだ。こんな二人に囲まれて、私はきっと乱暴される。
一瞬だった。気づけば、男は道路に大の字で倒れていた。
そして——おにぃの言葉。
「お前も、早く帰ったほうがいい」
その言葉を聞いて、私は無我夢中で駆け出した。
逃げた——あの二人から、必死で。
——翌日、私はおにぃを探した。
休み時間に彼のクラスを覗いてみても姿はなかった。
その次の日も、そのまた次の日も……。
友達に聞いても、授業中しか見たことがないって。
——無関心。誰もおにぃに関わりたくない。
そうか。気に入らなければ、すぐに手をあげる人だもん。
誰だって、関わりたくないよね。
ひと月たっても、おにぃは見つからなかった。
その日も、お昼休みに廊下を歩きながら探していると——後ろから声がした。
「大橋さん、誰か探しているの?」
振り向くと、元宮先生が笑顔を向けていた。
「……隣のクラスの、相葉君を探してて」
「彼なら生徒指導室にいるわ。ついていらっしゃい」
元宮先生に連れられて入った生徒指導室で、おにぃは教科書と参考書を広げ、静かに勉強していた。
私は思わず足を止めた。声をかけるのがためらわれるほど、真剣な横顔だった。
「相葉君」
「先生か。今日は何もしてないぞ」
驚いた。——あのおにぃが、当たり前のように先生と話していた。
「違うわよ、お客さん。——じゃあ、先生は仕事があるから」
おにぃが顔を上げた。
その目が怖かった。光を失った瞳に吸い込まれそうで、思わず足がすくんだ。
でも——お礼だけは、どうしても伝えなきゃ。
きっと、あの時逃げたことを一生後悔する。
「あ、あの……大橋春子です。先日は……助けてくださって、ありがとうございました」
深々と頭を下げた私に返ってきたのは、思いもよらないひと言だった。
「助けた?何の話だ」
「えっ……あの、車に傷をつけたとか何とか言われて……突き飛ばされた私を、助けてくれました」
「いつ頃の話だ?」
「……ひと月ほど前です」
この人、そんなに人助けしてるの?
私が知らないだけで、ほんとはすごくいい人なの?
「そんなこともあったな。気にするな、邪魔になった男をどかしただけだ」
……え?邪魔だからどかした?
思わず笑ってしまった私を、彼は不思議そうに見つめていた。
「何か、面白かったか?」
「いえ……『邪魔』って、なんか」
「まあ、気にするな。それにあの男——いつだったか仕返しに来たが、再起不能なほど叩きのめしておいた。もう安心して帰れる」
とんでもないことを言っているのに、私は彼の優しさが嬉しかった。
鬼のように怖くて、お兄ちゃんのように優しい。——私の中で『おにぃ』が、生まれた瞬間だった。
その夜、私はおにぃが気になって仕方なかった。
何も手につかず、ふと目を閉じると——あの、輝きを失った瞳が、なぜか優しく浮かんだ。
どんな人なんだろう。どこに住んでるの?どんな女性が好きなの……?
知りたい。おにぃのこと、もっと知りたい。
でも誰も知らない。なら、自分で聞くしかない。
——翌日。私は昼休みに生徒指導室へ向かった。
「……相葉君」
おにぃは顔を上げず、黙々と勉強を続けていた。
「——何か用か?」
「ううん。でも、用といえば用かも……」
「何言ってんだ、お前は」
胸にちくりと刺さる。けど、なぜか嬉しい。
おにぃはあまり誰とも話さないのに——私には、話してくれているんだから。
「あのさ、ちょっと教えてほしいんだけど。いい?」
「何だ?」
「相葉君、どこに住んでるの?」
「家」
あまりにストレートな答えに、思わず笑ってしまった。
そうだよね。たぶん、聞き方が悪かったんだと思う。
「じゃあさ、相葉君の家に遊びに行ってもいいかな?」
「やめといたほうがいいぞ」
「どうして?」
「俺に関わると、ろくな目にあわない」
「でも……相葉君は、私を助けてくれたよね。あの時、いろいろ諦めたんだ。相葉君もちょっと怖かったし……」
本から目を離さなかった彼が、ふいに顔を上げて、私を見た。
よく見ると、輝きのないその瞳さえ、どこか可愛く思えてくる。
それに——何か恐ろしいものが、優しく包んでくれるような、不思議な気持ちがした。
「怖いなら、やめておけ」
そう言って、また本に目を落とす彼に——私はすがるように続けた。
「じゃあ……ここに来て、話をするのはいいかな?」
「構わない」
「邪魔にならない?」
「大丈夫だ。ほとんど聞いてない」
その一言で、私の中に何かが灯った。
今は聞いてくれなくても——いつか、ちゃんと話を聞いてもらえるようになる。
それから私は、昼休みに生徒指導室へ通うようになった。
彼も少しずつ、自分のことを話してくれるようになった。
友達はいないし、誰かと遊んだこともない。
付き合っている人も、いない。
そして——好きな子も、いないって……
「あのさ。私が、相葉君のこと好きって言ったら……どうする?」
「感謝する」
ぶっきらぼうだけど、ちゃんと応えてくれる。
こんな調子ながら、彼はたくさん話してくれた。
「はるー、どうしたの?浮かない顔しちゃって」
生徒指導室に行かなかった昼休み、仲のいいクラスメートが声をかけてきた。
「——恋、してるでしょ?」
「ち、違うってば!そんなんじゃないよ」
「はいはい、バレバレ。ちょっとおねーさんに話してみなさい?」
「ちょっと、気になる人がいるかなーなんて思ってて」
「誰?誰なの?言ってごらん?」
「うーん……まだそんなに親しくないし、家も教えてくれないし……」
「もしかしたら、私が知ってるかもよ?」
「うん。隣のクラスの相葉君……」
「マジ?」
「うん。彼、優しいんだよね」
「中学の時はおとなしくて優しかったけど……今のあれ、別人だよ?」
「知ってるの?」
「うん。同じ中学だったし。——でも、やめときなよ」
「やっぱり、そうだよね……」
「でも、はるに優しいなら、相葉君もはるのこと好きなのかなー?」
うつむく私の前に、そっと一枚の紙が差し出された。
「相葉君の家。——でも、あの家庭ちょっと荒れてるらしいから……気をつけなよ」
「あ、ありがとう」
その紙は、私に勇気をくれた。
——おにぃ。私、決めたことがあるの。
次の日、生徒指導室でおにぃと話していたら、思わぬチャンスが巡ってきた。
どうやら、ひと月後の土日——おにぃの家族は旅行に出かけるらしい。
その間、おにぃは家にひとりでいるという。
……もう、行くしかない。
おにぃの部屋で、おにぃのことをもっと知って、そして——
おにぃに、私のことも知ってもらう。
——少し早起きして作ったお弁当を手に、その家の前に立った。
家は最近建て替えられたらしく、綺麗で、とても『荒れた家庭』には見えなかった。
インターホンを押しても、返事はない。
湧き上がる焦りを抑えるように、もう一度押してみた。
……でも、やはり返事はなかった。
諦めて帰ろうと振り返ったそのとき、目の前におにぃが立っていた。
「なにやってんだ?」
「あ、あの。ひとりって聞いたから、お弁当持ってきた……」
「ありがとう」
……おにぃに、お礼を言われた。信じられない。
「一緒に食べよう!」
「ああ。だが、俺の部屋は——この家にはない」
「……どういうこと?」
おにぃが指さした先には、今にも崩れそうな小屋があった。
「俺の部屋は、あれだ」
「うそ……でしょ?」
「そんな嘘ついても、楽しくないだろ」
おにぃについて行ったその小屋は、二畳ほどしかなかった。
中には、おにぃの体格に対してあまりにも小さすぎるベッドと、本棚がひとつだけ。
「こんなところで悪い。適当に座ってくれ」
そう言って、おにぃは部屋を出ようとした。
「どこ行くの?」
「飲み物、買ってくる。少し待っててくれ」
おにぃを見送ったあと、部屋を見回した。
首をほんの少し動かすだけで、すべてが見渡せるほどの狭さ。
目についたのは、いつも着ている変形の学ラン——
そっと扉を振り返り、壁にかかる学ランに触れてみた。
裏地に刺繍が入っているんだ。——なんか、おにぃと私だけの秘密ができたみたいで嬉しかった。
……でも、この学ラン、ちょっと臭い。
狭くて、座る場所なんてなくて、仕方なくベッドに腰を下ろして、おにぃを待つことにした。
戻ってきたおにぃと、肩を並べて話しながらお弁当を食べた。
おにぃは進学を目指していて、毎日遅くまで勉強しているんだって。
……でも、志望校は教えてくれなかった。
ちょっと残念だったけど、でも——
美味しそうにお弁当を食べるおにぃは、やっぱり可愛かった。
お弁当を片付けた私は、さり気なくおにぃの肩に触れるくらい近づいてみた。
嫌がる素振りがなかったことに安堵し、思い切って家でのことを聞いてみた。
家族とはほとんど口をきかないこと。
ほとんどの時間をこの部屋で過ごしていて、夕食も自分で買って食べていること——
「おにぃは、寂しくないの?」
「……おにぃ?」
思わず『おにぃ』って呼んじゃった。
「ごめん、変な呼び方して、気分悪くしちゃったかな……」
「好きに呼んだらいい」
「怒ってない?」
「なぜ怒るんだ?」
おにぃは、本心で言っている。
輝きのないその瞳が、何よりの証だった。
何も飾らないのに、まっすぐで、静かで——
……それなのに、どうしてこんなに惹きつけられるんだろう。
「あのさ、おにぃに、お願いがあるんだけど……」
「弁当の礼に聞こう」
「本当?」
「ああ」
「——私を、抱いてほしい」
「やめておけ」
「最近ね、よく考えるんだ。あの日、おにぃが助けてくれなかったら、きっと……あの男に、犯されてたと思う」
おにぃは、真剣に聞いてくれていた。
「あいつが刑務所に入っても……私の初めての思い出は、ずっと、消えなかったんだろうなって」
「俺が相手でも、後悔するんじゃないか?」
「その後悔ならいいの。だって、自分で決めたことだもん。それに今日言わなかったら、それも後悔になると思ったから……私、勇気出して言ったんだよ」
「俺は他人に何の感情も持てない。いつか、心を誓いあえる相手に出会えるんじゃないか?」
「それまでに、また怖い目に遭うかもしれない!今は、おにぃのことが大好きだもん」
思わず声を荒らげた私を、おにぃは抱き寄せてくれた。
おにぃの顔がすごく近くて、ドキドキしながら私は目を閉じた。
男子の唇も、柔らかいんだ——
——おにぃは優しかった。怖かったけど、その優しさに包まれて。
痛かったけど……心がいっぱいに満たされて、幸せだった。
ちょっと汚しちゃった布団を拭く私に、おにぃの声が届いた。
「気にするな。後で洗っておく」
「——えっ、だって……恥ずかしいよ」
「そうか。じゃあ後で燃やしておく」
「捨てちゃうの?」
「ああ」
「じゃあさ、おにぃ。もう一回」
——おにぃの家からの帰り道、私は何も後悔していなかった。
心なしか弾む足と、身体に残る痛み、おにぃのことをたくさん知れた喜び。
「えへっ、大人になっちゃった」
——次の日から、おにぃと私の距離はぐっと近くなった。
いっぱい話して、手を繋いで、一緒に下校したり。
三年の夏休みまでは……
後輩に呼ばれて向かった、夏休みの学校で見た朝の光景。
元宮先生の車で、おにぃが登校してきた。
おにぃはいつもどおりだったけど、その背中を見つめる先生の表情は、違っていた。
——生徒と教師の一線を、超えたんだ。
先生は、おにぃの志望校も誕生日も知っていた。
何より——おにぃが普通に話す教師は、元宮先生だけだった。
——そうだったんだ。
それから、おにぃが遠くに感じられるようになった。
恨んだわけじゃない。でもやっぱり、悲しかったし、寂しかった。
生徒指導室に行く回数も、少しずつ減っていった。
おにぃが、私を避けている気がして——。
——卒業式の日、私はおにぃの気持ちを聞きたくて探した。
でも、おにぃはいなかった。教室に戻らず、そのまま帰ってしまったらしい。
だけど——まだ、もう一日ある。大学の合格発表の日。
おにぃは、きっと来るはず。
その日、学校で待っていると、おにぃが来た。
声をかけようとした瞬間、元宮先生が先に話しかけてしまった。
気になって、私はそっと隠れて二人の様子を見ていた。
——でも、おにぃはいつも通りだった。
話し終えたあとの元宮先生だけが、涙を流していた。
……もしかして、先生が辞める理由って、おにぃが関係してるの?
モヤモヤした気持ちのまま、結局、おにぃに声をかけられなかった。
——このまま、お別れしたほうがいいんだ。
それからも、私の心はおにぃに囚われたままだった。
——ずっと、後悔していた。
おにぃが私を遠ざけたんじゃない。私が、おにぃを避けていたんだって気づいたから。
でも、もう遅かった。遠くへ行ってしまったおにぃには、伝えることもできない。
おにぃが、私の心を解き放ってくれるまで——それから、数年かかった。
さらに十年が過ぎて、私はようやく、心から誓いあえる男性と巡り会えた。
真面目で、優しくて、いつも私のことを気にかけてくれる人。
お互い仕事が忙しくて、なかなか会えなかったけど——それでも、交際して三年目の日、彼はプロポーズしてくれた。
涙が止まらないほど、嬉しかった。
……おにぃの言ったとおりだった。
「いつか、心から誓いあえる相手に出会える」って。
結婚に向けて慌ただしくなる前に、私はどうしても——おにぃに伝えておきたかった。
私がこの幸せを掴めたのは、あの日、おにぃが助けてくれたから。
たくさんの思い出をくれて、それを乗り越えてきたからこそ、今の私がいる。
……本当は、今でも心の片隅にいるおにぃと、ちゃんと決別するため。
自慢してやるんだ。
「おにぃと違って、私を気にかけてくれる人がいるんだよ」って。
そんな浮かれた気持ちのまま、私は——おにぃが働いていると聞いた会社を訪ねた。
けれど、応対に出たのは、『袴田悠斗』と名乗る男だった。
おにぃの同期で、すでに退職しているが、家は知っていると話す彼に——私は何の疑いもなく、ついて行ってしまった。
連れて行かれたのは、薄暗いマンションの一室。
部屋の奥には、奇妙な祭壇のようなものが置かれていた。
すぐに何かの勧誘だと分かった。けれど——それ以上に、この男の瞳が気になった。
見つめられた瞬間、意識がかすみ、足元がふらつく。
——危ない。
本能がそう叫んだ。私はその場から逃げ出した。
息を切らし、ようやく建物を出て——そこで気づいた。
財布も、スマホも、どこにもない。
露頭に迷っていた私に、ひとりの女性が声をかけてくれた。
なぜか安心できて——気づけば、おにぃの話をしていた。
「……相葉耀、か」
「知ってるんですか?」
「うん。私の名前は相葉知紗。耀たんは、元旦那」
「えっ、本当ですか?」
「本当よ。良かったら家に来ない?私は嫌われちゃってるから無理だけど、耀たんと会える人を紹介してあげる」
「でも……ご迷惑かけるのは……。財布もスマホも置いてきちゃって」
「気にしなくていいよ。それに、すぐ取り返せるよ。——連れて行かれたの、袴田悠斗のマンションでしょ?」
「そうです!」
「逃げてこれて良かった。さ、家に行こう」
おにぃに会わせてくれるというその人は、ファッション誌でよく見るモデル——凛堂恵莉華だった。
派手な見た目とは裏腹に気さくで、話もちゃんと聞いてくれて、次の休みにおにぃの家まで連れて行くと約束してくれた。
二日後、気がかりだった財布とスマホを取り戻せないかと思って、あのマンションの近くまで行ったとき——
私は、あの男に会ってしまった。
「この間はごめん」
男はそう言って、私の財布とスマホを差し出した。
恐るおそるそれを受け取り、顔を上げた——
……その瞬間、全身が凍りついた。
見つめ返した男の目から、何かが入り込んできた。意識の奥に、冷たい手が這いずるような感覚。
頭では逃げなきゃと思っているのに、身体は微動だにできない。
言葉をかけられただけで、心が沈んでいく。
嫌だ。怖い。なのに……逆らえない。
この人の言葉に従ってしまう。
まるで、私の中に私がいないみたいに。
——そして今、私はこの男の道案内として、新幹線に揺られている。
……お願い。逃げて。
元宮先生。
……私は、誰も、傷つけたくない——
おにぃ……助けに来て。
私を、もう一度、助けて。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




