消えた男
昼下がりのリビングで、紅茶を飲みながら読書をしていたイオナの耳に、扉の開く音が届いた。
「——イオナさん」
「真由美ですか。どうしました?」
アンナとレイが耀の世界に行ってから、一週間が過ぎていた。
まったく帰ってくる気配のない二人を、真由美は心配しているが、イオナは気に留める様子もなく、ソファでくつろいでいる。
真由美はイオナの向かいに腰を下ろし、話を続けた。
「アンナさんとレイさん、帰ってきませんね」
「そうですね。気にすることはありません」
「なんだか不安なんです」
「不安?」
その言葉に、イオナはわずかな違和感を覚え、首を傾げて真由美を見た。
膝の上で手を組んだ真由美が、うつむき加減で答える。
「はい、だってみなさんは旦那様の心の中にいるんでしょ?」
イオナは開いていた本を閉じ、テーブルに置くと、真由美に微笑んだ。
「真由美、それは違います。耀様の心に縛られた、別次元の世界ですから、心にいるわけではありません」
「そうなんですか……でも、不安です」
「理解し難い話ですから、仕方がありません。真由美も一度行ったのでしょう?」
「はい。不思議な空間でした。それと、時間の流れがゆっくりでした」
「次元が違うとは、そういうことです」
「でも……」
未だに不安を隠しきれない真由美に、イオナは優しく諭すように話を続ける。
「前に黄泉の国に行きましたよね?あの時、この家から黄泉の国に入ったのに、出てきたのは黄泉比良坂でした」
「はい。そうでしたね」
「黄泉の国が黄泉比良坂に繋がっているように、耀様のあの世界は、耀様自身に繋がっているだけです」
「そう言われると、何となく分かりました」
「少しは安心できましたか?」
「はい、イオナさんありがとうございます」
落ち着きを取り戻し、和やかに会話をする二人の時間を切り裂くように、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「イオナさん。私が出てきますね」
リビングを後にした真由美が、困惑に怒りを孕んだ表情で戻ってきた。
その後ろからは、笑顔の恵莉華がついてきている。
「恵莉華、何をしにきたのです?」
二人から向けられる鋭い視線を気にする素振りも見せず、恵莉華はイオナの向かいに腰を下ろした。
「えっと、耀ちゃんは?」
「仕事に行かれています」
「そっか、会えると思ってきたのに」
「何か用ですか?」
冷めた口調で問いかけるイオナに、恵莉華は少し躊躇うような表情を浮かべた。
普段、明るく振る舞う彼女の、その表情に、イオナは目を細めた。
「イオナ様は、耀ちゃんを襲った使徒の名前知ってる?」
「袴田 悠斗」
「知ってたんだ。やっぱ凄いな……」
「それがどうかしましたか?」
「どこ行ったかしらない?」
イオナは小さく笑い、呆れた表情を浮かべた。
「知るわけないでしょう。彼がどうかしたのですか?」
「うちに逃げてきた女の子を、連れ去ったんじゃないかと思って」
イオナは真剣な眼差しを恵莉華に向け、真由美はどこか不安げな表情を浮かべた。
「どういうことです?」
「使徒にしつこく勧誘されて、逃げてきた女の子がいたんだよね」
「その子はいつからいなくなったのですか?」
「三日前から、どこ行ったかわからないんだよねー」
イオナは珍しく口調を荒らげる。
「その子の名前を教えなさい」
「イオナ様こわーい」
イオナの細まった目から向けられる、殺気を帯びた視線に、恵莉華はバツが悪そうにはにかんだ。
「大橋 春子、耀ちゃんの同級生だって言ってた」
「——大橋。他になにか言っていませんでしたか?」
恵莉華は少し考え込むように、首を傾げる。
「うーん。結婚する前に、耀ちゃんに会いたかったって言ってた。それで耀ちゃんが勤めてた会社を調べて行ってみたら、使徒に耀ちゃんと会わせてあげるって言われて、ついて行ったんだって。そしたら信者になれって、しつこく勧誘されたんだって」
「それがなぜ、あなたのところに逃げてきたのです?」
「うちに逃げてきたんじゃないよ。たまたま知紗姉が声をかけたんだよね。財布も荷物もほったらかしで逃げて困ってたんだって」
「警察には?」
「今、知紗姉が警察に行ってる」
あっけらかんと答えた恵莉華に、再びイオナの口調が激しくなる。
「なぜ逃げてきたときに、連れて行かなかったのです!」
「だってー。うちも耀ちゃんの家知ってるし、うちが休みの日に連れて行ってあげるって言ってたんだよ。お金はうちが貸してあげるって言ってたんだし」
呆れたようにため息をついたイオナが、いつもの冷静な表情を取り戻した。
「済んだことは仕方がありません。私も探してみましょう」
「お願いします」
「それで、あなたが耀様に会いたかった目的は……誘惑ですか?」
「あははー。違うよ。もう興味ないもん。あんなの別人だし、知紗姉も興味なくしたって言ってたよ」
その話を聞いた真由美は、ほっとした表情を浮かべた。
「それならなぜ耀様に?」
「うん。あの使徒さ、前にも増して耀ちゃんに執着してたんだよねー。だから、気をつけるように言いたくて」
「なぜ、そこまで気にかけるのですか?」
「ハラミのお礼。あのおかげで、変な宗教から足洗えたし、毎日楽しいし」
「それは良かったです。ラザールの教えなど虚言に過ぎません」
イオナの口から出た、使徒しかしらないはずの神の名に、恵莉華は驚愕の表情を浮かべた。
「なんで?なんで知ってるの?」
「ちょっと待っていなさい」
イオナはリビングを後にし、すぐに一冊の本を手に戻ってきた。
その『ヴェリディシア黙示』を、恵莉華に差し出す。
「——これって」
「知っているのでしょう?」
「うん。これが原典じゃないかな?世界に十冊くらいあるって聞いてたけど……でもこれって」
「人間の皮です」
「やっぱり……そう聞いたことはあったんだ。これを手にすれば絶大な力を手に入れられるって」
「本当なのですか?」
「うーん。たぶん嘘。この間どっかの国で集団自殺あったでしょ。あれって原典の一冊を持ってた人がやったって噂だし」
「あれは、ラザールの教えを信仰していた者たちですか?」
「うん。でもニュースでやってたけど、ほとんどの人は殺されたんでしょ?」
「そうでしょうね。あなたが足を洗えただけでも、良かったです」
「知紗姉もだよ。知紗姉は神の声を聞いたって言ってたし。でも、気がついたら使徒のところにいて、うちと一緒に耀ちゃんを誘惑するように仕向けられただけ」
突然、イオナが恵莉華に疑いの目を向けた。
「足を洗った割に、情報を持っていますね」
「だってさ、信仰しているふりをしておかないと、うちらも危ないじゃん?それに逃げてきた人を受入れるのも悪くないかなって思って。ほら、うちもいちおう使徒じゃん。いい隠れ家になるんだよねー」
「いい心がけです」
「そうかな。あのときのうちは狂ってたんだよ。自分が人より秀でて、神に選ばれた人間だって本気で信じてたもん。でもさ、耀ちゃんのおかげで分かったんだ」
「そうですか」
イオナの素っ気ない返事を聞き、真由美が恵莉華に問いかける。
「あ、あの。何が分かったんですか?」
「耀ちゃんってぱっとしないでしょ?そのぱっとしないおじを、裸になっても誘惑できないうちって、選ばれたんじゃなくて、選ばれたと思いこんでいただけだって」
「旦那様がぱっとしなくて悪かったですね!」
口調を荒げる真由美に、恵莉華はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「それに、あんなことに執心するなら、美味しいお肉食べてるほうがいいって」
その時、恵莉華のスマホが着信のメロディを奏でた。
画面を見た恵莉華は、どこか安心したような笑みを浮かべ、電話に出る。
「知紗姉、全然連絡なくって心配したんだよー」
恵莉華の明るかった表情が、みるみる曇り始めた。
「えっ、嘘?……うん。うちも帰るから、分かった」
通話を終えた恵莉華に、イオナが問いかける。
「どうしたのです?」
「あの使徒、マンションで人殺した容疑で警察も探してるって」
リビングが一瞬の沈黙に包まれた。
「あなたたちに教えるくらいです。指名手配されるのでしょう」
「そっか——うちも帰るね。知紗姉も心配だし」
「家まで送らせます。あなたも気をつけなさい」
「うん。そうする。じゃあ、お邪魔しましたー」
暗い話すら忘れさせるほど、元気な恵莉華を見送った真由美が、寂しそうに呟いた。
「知紗姉って、旦那様の前の奥さんですよね」
「そうです。真由美、耀様は再婚です。あなたはそれを理解したうえで、耀様と結ばれたいですか?」
「はい!」
真由美の返事には、躊躇いも迷いもなく、確固たる決意のみが表れていた。
——それから三日後、イオナと真由美が昼食を取りながら、他愛もない会話で笑顔を交わしていたところに、突然、泣き声が聞こえてきた。
「えっ、なんですか?ちょっと見てきます」
「真由美、その必要はありません」
立ち上がろうとした真由美を、イオナがそっと制した。彼女は戸惑うように腰を下ろしながらも、気になるように何度も泣き声のする方をちらちらと見ていた。
一瞬、イオナに止まった視線を見て、イオナは微笑みを浮かべ深くうなずいた。
「ただいま戻りましたわ!」
リビングの扉が開かれると同時に、元気のいい声と、笑顔のレイが飛び込んできた。
「レイ様、お帰りなさいませ」
「おかえりなさい。レイさん」
「イオナ、あれから何日経っていますの?」
「——十日です」
「やっぱりですの……アンナが帰りたくないと我儘を言って困りましたわ」
それを聞いたイオナが、クスクスと笑い始めた。
「それで、アンナ様は?」
「レイのお部屋で寝ていますわ。それより、レイは鳥ちゃんを見に行きますわ」
「レイさん、旦那様と私で毎日お世話していたので、みんな元気ですよ」
真由美の声を聞き終わると同時に、レイは庭へと駆け出した。
彼女の背中を見送った、イオナと真由美が顔を見合わせる。
「いったい何があったのでしょうか?」
「アンナさんが泣くほどのことってなんでしょう?」
首を傾げ目を合わせた二人は、安心した表情を浮かべ食事を再開した。
——食事も終わり、真由美が片付けを終えたとき、レイが安堵の笑顔で、リビングに戻ってきた。
「真由美のおかげで、鳥ちゃんたちはみんな元気でしたわ」
「旦那様も可愛がっていましたよ」
「兄様にも感謝ですわ」
ソファに腰を下ろし一息ついたレイに、真由美がジュースを差し出した。
嬉しそうに口をつけるレイに、イオナが問いかける。
「ところで、レイ様。アンナ様はどうなされたのですか?」
「アンナは兄様の世界で大暴れしましたの」
「大暴れ……ですか?」
レイはうなずいて、ジュースで口を潤わせた。
「そうですの。兄様の侍女を何度も槍で切り裂くわ、ルナリアに兄様の愛で方を手ほどきするわ、ゾーヤに世界の渡り方を教えろと泣きつくわ。本当に大変でしたの」
「えっ、侍女さんたち殺しちゃったんですか?」
両腕を擦る真由美に、レイが困った表情を向けた。
「ええ、そうですの。その度に朱美が蘇生していましたわ」
「死んじゃったわけじゃないんですね。——良かった」
「朱美は蘇生ができるのですか?」
ほっとした表情の真由美の隣で、イオナが目を見開いた。
「死後すぐならできると言っていましたわ。どうやら、兄様に鍛えられたようですの。かわりに厨二病がうつっていましたわ」
「——ええー。そっちのほうが気の毒です」
イオナと真由美はそろって、遠くに浮かぶ残念なものを見るように、目を細めてため息をついた。
「その状況で、よく連れ帰ってこれましたね」
「兄様のおかげですの。兄様の説得も聞かず、槍で襲いかかったアンナの意識を、一瞬で刈り取ってくださいましたわ」
「その隙に連れ帰ってきたと」
「そうですの」
真由美はレイに微笑みかけた。
「でも、無事に帰ってきてくれて良かったです。心配したんですよ」
真由美に微笑み返したレイは、すぐに真剣な表情をイオナに向けた。
「それよりイオナ。ゾーヤからの言伝ですわ」
「ゾーヤ?」
「あっ、私が旦那様の世界に行ったときに会った、金髪の子です」
「なぜ、その方が?」
「アンナのせいで、ゾーヤが兄様に伝えられませんでしたの。それで、レイに話してゾーヤは逃げましたわ」
少しの沈黙の後、レイは真由美にも真剣な視線を向けた。
「真由美にも聞いてほしいですの」
「もしかして、ラザールの件でしょうか?」
「そうですの。ゾーヤの話ですと、何かの儀式の準備をすすめているそうですわ」
その言葉を聞き、イオナは頬に手をあて、考え込むように目を閉じた。
「タイミングが良すぎますね……」
イオナと真由美は、顔を合わせ小さくうなずき合った。
「何かありましたの?」
「三日前に恵莉華が来訪し、袴田悠斗が行方不明になったため、警戒するよう忠告していきました」
「そうなんです。人殺しもしたみたいで、警察も探しているみたいですけど、まだ見つかりません」
「何か始める気かもしれませんわ」
そう呟いて、窓の外に視線を向けたレイに、イオナが話しかける。
「それと、レイ様。彼は大橋春子という女性と一緒にいる可能性があります」
「——大橋……イオナ、綾乃に聞いてくださいまし」
イオナはスマホを手に取り、どこかへ連絡を入れる。
「真由美、兄様を頼みますわ」
「はい。旦那様は誰にも渡しません」
拳を握りしめた真由美の力強い返事に、レイは思わず吹き出してしまった。
「レイはアンナを起こしてきますわ」
レイはソファから立ち上がり、そっと真由美の髪を撫でた後、自室へと向かった。
その姿を見送ったイオナが、真由美に問いかける。
「真由美、耀様にこのことを話すべきだと思いますか?」
「あの、話しておいたほうがいいと思いますけど……」
「何か気にかかることでも?」
「旦那様は『ラザール』の名を聞くと、深夜にうなされるんです」
「うなされる?」
「はい……でも、そのことを旦那様は知りません」
つらそうな表情を浮かべ、うつむいた真由美に、イオナが優しく話しかける。
「耀様に伝えるタイミングは、真由美に任せます」
「分かりました」
「耀様の瞳には真由美しか映っていないようです。あなたの判断が一番正しいと思いますから」
「はい、今夜にでも話だけはしておきます」
「私も石井に連絡して、気をつけるよう伝えておきます」
「石井さんなら安心ですね」
「私は少し出かけます。お願いしますね」
「はい。イオナさんお気をつけて」
——真っ暗な部屋で目を覚ましたアンナの頬を、小さな手が優しく撫でた。
その暖かさに、目を細めた彼女に、レイの柔らかい声が届く。
「アンナ寝ている場合ではありませんわ。兄様にいただいたお力を使うときが近いかもしれませんわ」
「レイ……ですか」
「アンナ、寂しいようでしたら、レイがお相手して差し上げますの。ですからアンナ、もう少し頑張ってくださいまし」
「分かりました。レイ、では今からお願いします。話をしながらでも大丈夫ですから」
「はい、困ったアンナですわ……全てはあの兄様のためですわ」
「——あの方には勝てません」
「アンナが羨ましいですわ」
「どうしてですか?」
首を傾げるアンナの顔に、微笑みを浮かべたレイの顔が近づく。
「レイはあの兄様とも肌を重ねたことがありませんの」
二人は見つめ合ったままベッドに沈み、怠惰の海に溺れていった。
——その隣の部屋では、帰宅した耀に真由美が浮かない表情を向けていた。
「あなた、少しお話が……」
「どうしたんだ真由美」
「袴田様が行方不明だそうです」
「——悠斗が?」
目を見開いた耀に、真由美はポツリと呟く。
「はい、人殺しもしたようなんです」
「——まさか」
真由美は耀の胸に手を添え、不安げに彼を見上げるその瞳には、涙を浮かべ寂しさすら滲ませていた。
「大丈夫だと思いますけど、気をつけて」
「ああ、気をつけるよ」
「あなたなしでは、私、もう生きていけませんから」
耀に優しく抱き締められた真由美は、胸から伝わる鼓動に、ほっとため息をついた。
——同じ頃、ダンタリオンにより、地獄へと召喚されたイオナは、ラウムに連れてこられたゾーヤと向かい合っていた。
「ゾーヤ様ですね」
「ん。イオナのことは聞いた」
「ラザールが何をしようとしているか、教えていただけませんか」
「分からない」
「分からないとは?」
「たくさんの人間の命を贄にしてる。それだけしか分からない」
「ただ事ではないということですね」
「ん。耀に伝えに行く」
「ゾーヤ様、伝言をお願いします」
「なに?」
イオナの思いつめたような表情をみて、ゾーヤは不思議そうに首を傾げる。
「人間としての耀様を見捨てないでほしい——と」
「ん。分かった」
一瞬で消えたゾーヤを見送ったイオナは、自らを落ち着かせるように胸に手をあて、深い呼吸を繰り返した。
その背中に、ダンタリオンの声が響く。
「イオナよ。おそらく狙いは御館様ではないと思うのじゃが……」
「——それは」
「案ずるでない。グレモリーがついておるゆえ」
——最終の新幹線の自由席に、不気味な雰囲気を漂わせる男女が静かに座っていた。
男は帽子を深くかぶり、人目を避けるかのようにうつむいたまま、身体を小刻みに震わせ、何かをつぶやき続けている。
その隣の女は表情を失ったかのような顔で、瞳は輝きを失い、ただ前の座席の背もたれをじっと見つめているだけで、ピクリとも動かない。
一瞬、彼女の目に僅かな後悔の光が宿った。
『——おにぃに会いたかっただけなのに』
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




