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微笑みが呼ぶ悪魔  作者: おむすび先輩
第十一章
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静かな告白

僕が取締役に就任してから、一ヶ月が過ぎた。

慌ただしい日々ではあるけれど、どこか満たされた気持ちで過ごせている。そして何より、それを誰よりも喜んでくれているのが、真由美だった。

理由を詳しく聞いたわけではないが、イオナが言っていたとおり、安定した収入が心にゆとりをもたらしているのかもしれない。

石井さんからは、リモート勤務でも構わないと言われていた。

それでも僕は、毎日二時間の電車通勤を選んだ。不思議なことに、その時間がむしろ心を整え、思考を整理してくれる気がした。

たぶん、目の前で楽しそうに過ごす四人の姿が、僕に働く理由を与えてくれているのかもしれない。

そして、そんな日々があり、みんながいてくれるからこそ、休日も心から楽しめるのだと思う。


兄様(にいさま)、もうすぐきゅうりが収穫できますわ」


柔らかな日差しの午前中。みんなで草取りをしようと決めていたのに、レイはひとり、きゅうりに夢中になっている。

レイらしいといえばそうだが、ここには姑的立場の人がいることを、忘れているんじゃないのか?


「レイ、今は草取りの時間です。手伝ってください!」

「分かりましたわ」


アンナに叱られたレイは、僕の隣に屈んで、小さな声で僕に呟く。


「兄様が相手して差し上げないので、アンナが不機嫌ですわ」

「そうじゃないと思うけど」

「なぜそう言えますの?」

「いや、僕も気になったから聞いてみたけど、平気だって言ってたから」

「兄様は、もう少し乙女心を知ったほうがいいですわ」


レイがそう言って小さくため息をついたのを見て、僕は思わず微笑んだ。すると彼女も、こちらに笑顔を向けてくれた。


「兄様、もうひとりの兄様はもう出てきませんわ、怖がらずに微笑んでくださいまし」

「そうか、レイにはお見通しなんだね」

「はい、兄様のことなら何でも分かりますわ」


少し離れたところでは、三人が並んで草取りという名の雑談を楽しんでいた。


「アンナさん、レイさんに旦那様が取られてしまいます」

「真由美さん、夜になればあなたが独り占めするんですから、今はレイに譲ってください」

「うーん、心配なんです」

「大丈夫ですよ。あのご主人様はそんなことはしませんから」

「そうです。真由美、もう少し自信を持ちなさい」

「はーい……」


真由美はアンナとイオナに(たしな)められて、大人しく草を摘んでいる。

けれど時折手を止め、耀とレイの様子をちらちらと伺う姿に、アンナとイオナは気づいた。そして、そっと目を合わせて、笑みを交わした。


一段落ついたところで、アンナと真由美は昼食の準備に向かった。

僕はレイとイオナの三人で、庭のテーブルを囲み話をしていた。


「兄様は、厨二形態の兄様を呼ばなくなりましたわ」

「寂しいかい?」

「いいえ、安心しておりますの。真由美が毎日デレておりますわ」

「レイ様のおっしゃるとおりですね。デレるのはいいのですが、あの嫉妬深さは異常です」

「……前に殺されかけたしな」


イオナの言葉に続いて、思わず口を滑らせてしまった。

まずいと思いつつ、二人を見ると、意外にも二人の表情には笑みが浮かんでいた。


「兄様、真由美は兄様を殺せませんわ」

「そうですね。嫉妬はしても、もうそこまでのことはできないはずです」


イオナの言葉に、僕は首を傾げた。


「どうしてそう言えるんだ?」


その問いに、イオナが答える前に、レイが僕に話しかけてきた。


「兄様、不安でしたら、真由美を(めと)るべきですわ」

「はい。もう、お二人は見ていられません。真由美もそれが一番安心するはずです」

「そうだよな……石井さんにもそう言われた」

「石井は見る目がありますわ」

「耀様、真由美の指輪のサイズは六号です」


イオナのその言葉は、僕の心に静かに突き刺さり、それでいて優しくためらいをほどいてくれた。

でも、その前に聞いておきたいことがある。


「みんなは、それでいいのかい?」

「兄様、レイとイオナだけではありませんの、アンナもそれを待っていますわ」

「レイ様のおっしゃるとおりです。アンナ様は二人が結ばれることを心より願っておられます」

「レイとイオナは?」

「レイも同じですわ」

「私もです」

「ミスティはどうだろう?」

「ミスティはもう、この世界への興味すら失って、伊耶那美(いざなみ)のところに住み着いていますわ」


今日、こうして話を聞けて良かった。そうだな、僕が煮えきらないせいで、真由美の嫉妬心は、きっと募るばかりだったのだろう。

そんな思いに(ふけ)っていると、アンナと真由美が昼食を運んできてくれた。


「レイ、もう少しありますから、運ぶのを手伝ってください」

「分かりましたわ」

「アンナ様」


レイと一緒に家に向かおうとするアンナを、イオナが呼び止めた。


「どうしました、イオナさん」

「アンナ様のお話も聞かせてほしいのですが」

「何の話でしょう?」

「耀様と真由美のことです」


アンナは笑顔を浮かべ、僕を見つめた。


「ご主人様、もうこれ以上、真由美さんを待たせてはいけません。私も少し寂しく思っていた頃もありましたが、今のご主人様と真由美さんを見ていると、私が身を引いて良かったと思っています」

「そう言われると、僕もなんだか寂しくなるな」

「ご主人様、私もレイもサキュバスで、イオナさんは悪魔の眷属(けんぞく)、ミスティさんはどこにいるかも分かりません。人としてのご主人様を、人として幸せにできるのは、真由美さんだけですよ」

「確かに、そうかもしれないけど」

「耀様、私たちは、笑って過ごせるようになった耀様が、人間として普通の幸せを手に入れることを、心から願っております」

「——そうか」


僕の煮えきらない態度を見て、アンナとイオナはそろって盛大なため息をついた。


「アンナ、全部運んできましたわ」

「レイ、ありがとうございます。真由美さん、ご主人様にお茶を()れてください」

「はい、アンナさん」


真由美が僕の隣に寄り添うように腰を下ろして、淹れてくれたお茶をひと口飲む。

テーブルには、休日の昼食の定番となりつつある、おにぎりと漬物、それに卵焼きが並んでいる。

それを楽しそうに頬張るみんなを見ていると、ふと、過去の思いが頭をよぎった。

僕は、知紗(ちさ)に良いように使われ、全財産を奪われた挙句に離婚した。あの時、二度と結婚はしないと思っていたが、アンナとレイのおかげでその決意は揺らぎ、崩れ去った。

でも、僕が結婚しようと思っているのは、そのどちらでもない。——そんなことが許されるのか?

こんな僕に、その資格があるのだろうか。——ふと、そんな不安が胸をかすめた。それでも、真由美の笑顔を守りたいと思った。

そして僕は思わず微笑んでしまった……


『俺は忙しい、お前をかまってやる暇はないから呼び出すな』


僕の頭の中に、そんな声が響いた。


「あなた、どうしました?」


真由美の声で、現実に引き戻された。


「いやな、一瞬あいつの声が聞こえた」


僕のその一言に、アンナとレイは興味深そうな眼差しを向け、真由美はムッとした表情を浮かべた。

気にする様子もなく、おにぎりを頬張っていたイオナだったが、最初に声を上げたのは、そのイオナだった。


「その声はなんと言っていたのでしょうか?」

「うん。『俺は忙しい、お前をかまってやる暇はないから呼び出すな』って言われたよ」


それを聞いた真由美は、ほっとため息をつき、アンナとレイはムッとした表情を浮かべた。


「それは、あなたが強くなった証拠ですね。私も安心しました」

「そうですね。耀様はもうあの方を必要としなくなったのでしょう」


そう言って笑顔を見せるイオナと真由美の向こうで、アンナとレイはコソコソと話をしていた。


「アンナ、あの兄様は、また女に(うつつ)を抜かしていますわ」

「はい。今度こそ、あのご主人様を切り刻んで差し上げます」


物騒な話が聞こえなかったふりをして真由美の方を見ると、彼女は嬉しそうに、目に涙を浮かべていた。

僕は、そっと抱き寄せ、真由美にだけ聞こえるように(ささや)いた。


「もう少し、考える時間が欲しい」

「はい、あなた」


真由美の声は、少しだけ震えていた。それがどれほどの想いを抑えてきたかを、僕はようやく理解できた気がした。


——昼食を終えた僕は、再び畑へと向かう。

レイも僕の後をついてきたが、イオナとピーマンの前に来たところで、ぷいと顔を背け、テーブルへ戻ってしまった。

片付けをしているアンナと真由美を手伝っているようだ。


「耀様、ピーマンはお好きですか?」

「別に好きというわけじゃないけど、嫌いでもない。肉詰めにすると美味しいけど、イオナみたいに丸かじりするのは遠慮したいかな」

「そうですか、残念です」


イオナは肩をほんの少し落としたが、僕がピーマンを好きじゃないことの、どこがそんなに残念なんだろう。そんなことを考えていたら、彼女は作業の手を止め、首を傾げる僕を見上げた。


「実は、真由美も苦手だそうでして」


僕の疑問の答えにはならなかったが、きっとピーマン好きの仲間が欲しかったんだろう。


「そうなんだ。知らなかったな。アンナは?」

「アンナ様は大好きだそうです。というよりも、アンナ様は好き嫌いがありませんよ」

「言われてみればそうだな。何を食べても美味しいって言ってるな」

「そうなんです」

「でも、僕が美味しいって言って食べてると、『ご主人様は、美味しいしか言いません』って不機嫌になることもあるんだ」


イオナはおかしそうに笑い、立ち上がった。

優しい風が畝を渡り、ピーマンの葉影が足元でゆっくりと模様を変える。


「女心は難しいですね」


そう言うと、イオナはテーブルへと戻っていった。

しばらく、僕はひとりで畑の畝に生えた草を摘んでいたが、小さな足音が近づいてきて、背中で停まったのに気付いた。たぶんレイだろうが、気付いていないふりをしておこう。


「兄様!」


その声に振り返ると、つまらなそうな表情を浮かべたレイが、僕を見下ろしていた。


「気付いていましたの?」

「ああ、近づいてきているときから気付いてたよ」

「つまらないですわ。魔力のなくなった兄様にはバレないと思っていましたのに」


『魔力がない』——その言葉が気になって、レイに尋ねようと立ち上がった。だが、ずっと屈んでいたせいか腰が痛み、前のめりになってしまった僕を、レイがくすくすと笑った。


「なあレイ、僕は魔力がなくなったのか?」

「はい、少しずつ減ってはいましたが、最近はまったく感じませんわ」

「そうなのか……僕にとってはいいことなのかな?」


レイは小さく首を傾げ、不安そうな僕の顔から、その答えを探すように見つめてきた。


「何も問題ありませんわ。変わった人が普通の人になっただけですの」

「ウリエルの召喚のときもそうだったのか……」

「そうですわ。もうあの頃には、召喚できるだけの魔力はありませんでしたの。ラウムの召喚で精一杯だったと思いますわ」


レイはにっこり笑って、続けた。


「兄様、不安でしたら、レイがもうひとりの兄様に声をかけてみますわ」

「でも、真由美が見てるよ」


真由美の厳しい視線に気づいてそちらを見た瞬間、レイが僕の胸に飛び込んできた。

真由美の顔がみるみる恐ろしい形相に変わっていくのを、僕は呆然(ぼうぜん)と見つめてしまった。そして、立ち上がろうとする真由美を、アンナとイオナがあわてて押しとどめていた。


『怖い兄様、どこの女と遊んでいるかしりませんが、レイの声に応えてくださいまし』

『……』

『兄様、ルナリアは手篭(てご)めにされましたの?』

『……』

『兄様、レイはもう兄様にお尻を触らせませんわ』

『……それはダメだ』


僕は、レイが何の会話をしているか分からないが、大きなため息をついた彼女を見て、不安を覚えた。

少し離れたテーブルで、アンナとイオナに何かを訴えている真由美の姿が、さらに不安を煽る。


『兄様、近々、レイがアンナを連れて伺いますわ』

『好きにすればいい』

『分かりましたわ。その時はアンナを手篭めにしてくださいまし』

『それは妻が頼むことか?』

『レイがいいと言っていますの』

『そうか、レイには敵わないな。それで、レイは何が欲しい?』

『兄様の血を分けてくださいまし』

『分かった。だが瘴気に満ちているぞ』

『大丈夫ですの。それと、兄様……』

『なんだ?』

『もう人間の世界には現れませんの?』

『ああ、もう俺は不要だろう』

『分かりましたわ。このへなちょこ兄様の相手は、レイが適当にしておきますわ』

『好きにすればいい』

『では兄様、ごきげんようですわ』

『ああ』


レイが胸から離れて、僕を見上げてきた。


「兄様、真由美と一緒に話を聞いてくださいまし」

「どうしたんだ?」


僕の問いなど気にも留めず、レイは僕の手を引いてテーブルへと向かった。


「真由美。アンナも、イオナも。聞いてくださいまし。あの兄様のお話を聞きましたわ」

「えっ、レイさん、本当ですか……?」


真由美は目を丸くして、思わず声を上げた。


「はい、聞きましたの。結論から話しますと、あの兄様はもう人間の世界に来ませんわ」


アンナとイオナは目を見開いて驚いていたが、それとは対照的に、真由美は満面の笑みで僕を見つめてきた。


「はっきりと申されましたわ。この兄様は真由美に任せると」

「レイ、本当ですか?」

「アンナ、本当ですの。もうアンナの役割は姑程度しかありませんわ」

「レイ様、姑程度でも、それなりに大事な役割だと思いますが」


レイはイオナの声を無視して、真由美に話しかける。


「兄様の厨二形態と話すには、レイが兄様に抱きつかないといけませんの。だから怒らないでくださいまし」

「はい、レイさんだけは許します」


その言葉に、アンナとイオナは顔を伏せて肩を震わせた。


「ご主人様、これは真由美の献身的な愛の賜物(たまもの)です」

「そうですわ兄様、お覚悟なさいまし」

「もうこれ以上は申し上げなくてもよろしいですよね。耀様」


三人の声を聞いた真由美は、顔を真っ赤にしてうつむいた。

その姿を見た僕は、思わず彼女を抱き寄せていた。


「あの、あなた……」

「どうしたんだ?」

「二人きりのときに聞きたいです……それに、あなたの心がまとまってからお願いします」


僕がうなずくのを見た三人は、そろって大きなため息をついた。


「素敵な告白を見れると思っていたのですけど」

「つまらないですわ」

「まったくです。アンナ様、お部屋に戻ってお酒でも飲みませんか?」

「はい、イオナさん。そうしましょう」


三人が立ち上がろうとした時、僕の背中から男性の声がかかった。


「相葉さん、お邪魔して申し訳ないです」


その声に顔を向けると、石井さんが笑顔を浮かべ、こちらに歩いてくるところだった。


「石井さん、どうしたんですか?」

「いえ、来週末に引っ越すことになりましたので、ご挨拶に伺いました」


めったに声をかけてくることのない石井さんを見て、三人は再び腰を下ろした。

僕が声を掛ける前に、イオナが石井さんに話し始めた。


「石井、これまで良く働いてくれました。これからも大変でしょうけど、頑張りなさい」

「はい、イオナ様。本当にお世話になりました。ようやく家族と一緒に暮らせます」

「それでは、私が家族と引き離したようではありませんか?」

「申し訳ありません。そんなつもりで言ったわけではありません」


気まずそうな石井さんを見かねて、僕は話に割って入る。


「石井さんが引っ越したら、イオナのボディガードはどうするんだ?」

「もう、必要ありません」


首を傾げる僕に石井さんが説明してくれる。


「イオナ様は、既に一線から退くことを明言されました。これからイオナ様に取り入ろうとする者はいないと思います」

「そうだったんだ。イオナ、何かあったのか?」

「いいえ、何もありません。私は長く居座りすぎました。もう退いてもいい頃です」

「そうなんだ……それで、イオナはどうするんだ?」


イオナは僕に、何かを含むような笑みを浮かべた。


「——国に帰ろうかと思っています」


思いもよらなかった発言に、僕だけでなく、アンナ、レイ、真由美もイオナに視線を向ける。


「イオナさん、どうしてですか?」


アンナの悲しそうな声を聞き、イオナは、どこかぎこちない笑顔で答えた。


「どうしてでしょうね?でもまだ決めたことではありません。もうしばらくは、ここでゆっくり過ごさせていただきますよ」

「イオナ、後で話がありますの」

「はい、分かりました」

「イオナさん。寂しいです」

「真由美。あなたは私よりも耀様のことを気に掛けるべきですよ」

「でも……」

滝川(たきがわ)さん、イオナ様はあなたを高く評価しているのですよ」


石井さんのその言葉に、イオナはもちろん、アンナとレイも静かにうなずいた。

その様子を見た彼は、僕に顔を向けた。


「相葉さん、引っ越した後も、たまに顔を出してもいいですかね?」

「もちろんです。いつでも歓迎しますよ」


石井さんは嬉しそうに微笑んだ後、深々と頭を下げ、その場を後にした。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。


休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。

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