静かな告白
僕が取締役に就任してから、一ヶ月が過ぎた。
慌ただしい日々ではあるけれど、どこか満たされた気持ちで過ごせている。そして何より、それを誰よりも喜んでくれているのが、真由美だった。
理由を詳しく聞いたわけではないが、イオナが言っていたとおり、安定した収入が心にゆとりをもたらしているのかもしれない。
石井さんからは、リモート勤務でも構わないと言われていた。
それでも僕は、毎日二時間の電車通勤を選んだ。不思議なことに、その時間がむしろ心を整え、思考を整理してくれる気がした。
たぶん、目の前で楽しそうに過ごす四人の姿が、僕に働く理由を与えてくれているのかもしれない。
そして、そんな日々があり、みんながいてくれるからこそ、休日も心から楽しめるのだと思う。
「兄様、もうすぐきゅうりが収穫できますわ」
柔らかな日差しの午前中。みんなで草取りをしようと決めていたのに、レイはひとり、きゅうりに夢中になっている。
レイらしいといえばそうだが、ここには姑的立場の人がいることを、忘れているんじゃないのか?
「レイ、今は草取りの時間です。手伝ってください!」
「分かりましたわ」
アンナに叱られたレイは、僕の隣に屈んで、小さな声で僕に呟く。
「兄様が相手して差し上げないので、アンナが不機嫌ですわ」
「そうじゃないと思うけど」
「なぜそう言えますの?」
「いや、僕も気になったから聞いてみたけど、平気だって言ってたから」
「兄様は、もう少し乙女心を知ったほうがいいですわ」
レイがそう言って小さくため息をついたのを見て、僕は思わず微笑んだ。すると彼女も、こちらに笑顔を向けてくれた。
「兄様、もうひとりの兄様はもう出てきませんわ、怖がらずに微笑んでくださいまし」
「そうか、レイにはお見通しなんだね」
「はい、兄様のことなら何でも分かりますわ」
少し離れたところでは、三人が並んで草取りという名の雑談を楽しんでいた。
「アンナさん、レイさんに旦那様が取られてしまいます」
「真由美さん、夜になればあなたが独り占めするんですから、今はレイに譲ってください」
「うーん、心配なんです」
「大丈夫ですよ。あのご主人様はそんなことはしませんから」
「そうです。真由美、もう少し自信を持ちなさい」
「はーい……」
真由美はアンナとイオナに窘められて、大人しく草を摘んでいる。
けれど時折手を止め、耀とレイの様子をちらちらと伺う姿に、アンナとイオナは気づいた。そして、そっと目を合わせて、笑みを交わした。
一段落ついたところで、アンナと真由美は昼食の準備に向かった。
僕はレイとイオナの三人で、庭のテーブルを囲み話をしていた。
「兄様は、厨二形態の兄様を呼ばなくなりましたわ」
「寂しいかい?」
「いいえ、安心しておりますの。真由美が毎日デレておりますわ」
「レイ様のおっしゃるとおりですね。デレるのはいいのですが、あの嫉妬深さは異常です」
「……前に殺されかけたしな」
イオナの言葉に続いて、思わず口を滑らせてしまった。
まずいと思いつつ、二人を見ると、意外にも二人の表情には笑みが浮かんでいた。
「兄様、真由美は兄様を殺せませんわ」
「そうですね。嫉妬はしても、もうそこまでのことはできないはずです」
イオナの言葉に、僕は首を傾げた。
「どうしてそう言えるんだ?」
その問いに、イオナが答える前に、レイが僕に話しかけてきた。
「兄様、不安でしたら、真由美を娶るべきですわ」
「はい。もう、お二人は見ていられません。真由美もそれが一番安心するはずです」
「そうだよな……石井さんにもそう言われた」
「石井は見る目がありますわ」
「耀様、真由美の指輪のサイズは六号です」
イオナのその言葉は、僕の心に静かに突き刺さり、それでいて優しくためらいをほどいてくれた。
でも、その前に聞いておきたいことがある。
「みんなは、それでいいのかい?」
「兄様、レイとイオナだけではありませんの、アンナもそれを待っていますわ」
「レイ様のおっしゃるとおりです。アンナ様は二人が結ばれることを心より願っておられます」
「レイとイオナは?」
「レイも同じですわ」
「私もです」
「ミスティはどうだろう?」
「ミスティはもう、この世界への興味すら失って、伊耶那美のところに住み着いていますわ」
今日、こうして話を聞けて良かった。そうだな、僕が煮えきらないせいで、真由美の嫉妬心は、きっと募るばかりだったのだろう。
そんな思いに耽っていると、アンナと真由美が昼食を運んできてくれた。
「レイ、もう少しありますから、運ぶのを手伝ってください」
「分かりましたわ」
「アンナ様」
レイと一緒に家に向かおうとするアンナを、イオナが呼び止めた。
「どうしました、イオナさん」
「アンナ様のお話も聞かせてほしいのですが」
「何の話でしょう?」
「耀様と真由美のことです」
アンナは笑顔を浮かべ、僕を見つめた。
「ご主人様、もうこれ以上、真由美さんを待たせてはいけません。私も少し寂しく思っていた頃もありましたが、今のご主人様と真由美さんを見ていると、私が身を引いて良かったと思っています」
「そう言われると、僕もなんだか寂しくなるな」
「ご主人様、私もレイもサキュバスで、イオナさんは悪魔の眷属、ミスティさんはどこにいるかも分かりません。人としてのご主人様を、人として幸せにできるのは、真由美さんだけですよ」
「確かに、そうかもしれないけど」
「耀様、私たちは、笑って過ごせるようになった耀様が、人間として普通の幸せを手に入れることを、心から願っております」
「——そうか」
僕の煮えきらない態度を見て、アンナとイオナはそろって盛大なため息をついた。
「アンナ、全部運んできましたわ」
「レイ、ありがとうございます。真由美さん、ご主人様にお茶を淹れてください」
「はい、アンナさん」
真由美が僕の隣に寄り添うように腰を下ろして、淹れてくれたお茶をひと口飲む。
テーブルには、休日の昼食の定番となりつつある、おにぎりと漬物、それに卵焼きが並んでいる。
それを楽しそうに頬張るみんなを見ていると、ふと、過去の思いが頭をよぎった。
僕は、知紗に良いように使われ、全財産を奪われた挙句に離婚した。あの時、二度と結婚はしないと思っていたが、アンナとレイのおかげでその決意は揺らぎ、崩れ去った。
でも、僕が結婚しようと思っているのは、そのどちらでもない。——そんなことが許されるのか?
こんな僕に、その資格があるのだろうか。——ふと、そんな不安が胸をかすめた。それでも、真由美の笑顔を守りたいと思った。
そして僕は思わず微笑んでしまった……
『俺は忙しい、お前をかまってやる暇はないから呼び出すな』
僕の頭の中に、そんな声が響いた。
「あなた、どうしました?」
真由美の声で、現実に引き戻された。
「いやな、一瞬あいつの声が聞こえた」
僕のその一言に、アンナとレイは興味深そうな眼差しを向け、真由美はムッとした表情を浮かべた。
気にする様子もなく、おにぎりを頬張っていたイオナだったが、最初に声を上げたのは、そのイオナだった。
「その声はなんと言っていたのでしょうか?」
「うん。『俺は忙しい、お前をかまってやる暇はないから呼び出すな』って言われたよ」
それを聞いた真由美は、ほっとため息をつき、アンナとレイはムッとした表情を浮かべた。
「それは、あなたが強くなった証拠ですね。私も安心しました」
「そうですね。耀様はもうあの方を必要としなくなったのでしょう」
そう言って笑顔を見せるイオナと真由美の向こうで、アンナとレイはコソコソと話をしていた。
「アンナ、あの兄様は、また女に現を抜かしていますわ」
「はい。今度こそ、あのご主人様を切り刻んで差し上げます」
物騒な話が聞こえなかったふりをして真由美の方を見ると、彼女は嬉しそうに、目に涙を浮かべていた。
僕は、そっと抱き寄せ、真由美にだけ聞こえるように囁いた。
「もう少し、考える時間が欲しい」
「はい、あなた」
真由美の声は、少しだけ震えていた。それがどれほどの想いを抑えてきたかを、僕はようやく理解できた気がした。
——昼食を終えた僕は、再び畑へと向かう。
レイも僕の後をついてきたが、イオナとピーマンの前に来たところで、ぷいと顔を背け、テーブルへ戻ってしまった。
片付けをしているアンナと真由美を手伝っているようだ。
「耀様、ピーマンはお好きですか?」
「別に好きというわけじゃないけど、嫌いでもない。肉詰めにすると美味しいけど、イオナみたいに丸かじりするのは遠慮したいかな」
「そうですか、残念です」
イオナは肩をほんの少し落としたが、僕がピーマンを好きじゃないことの、どこがそんなに残念なんだろう。そんなことを考えていたら、彼女は作業の手を止め、首を傾げる僕を見上げた。
「実は、真由美も苦手だそうでして」
僕の疑問の答えにはならなかったが、きっとピーマン好きの仲間が欲しかったんだろう。
「そうなんだ。知らなかったな。アンナは?」
「アンナ様は大好きだそうです。というよりも、アンナ様は好き嫌いがありませんよ」
「言われてみればそうだな。何を食べても美味しいって言ってるな」
「そうなんです」
「でも、僕が美味しいって言って食べてると、『ご主人様は、美味しいしか言いません』って不機嫌になることもあるんだ」
イオナはおかしそうに笑い、立ち上がった。
優しい風が畝を渡り、ピーマンの葉影が足元でゆっくりと模様を変える。
「女心は難しいですね」
そう言うと、イオナはテーブルへと戻っていった。
しばらく、僕はひとりで畑の畝に生えた草を摘んでいたが、小さな足音が近づいてきて、背中で停まったのに気付いた。たぶんレイだろうが、気付いていないふりをしておこう。
「兄様!」
その声に振り返ると、つまらなそうな表情を浮かべたレイが、僕を見下ろしていた。
「気付いていましたの?」
「ああ、近づいてきているときから気付いてたよ」
「つまらないですわ。魔力のなくなった兄様にはバレないと思っていましたのに」
『魔力がない』——その言葉が気になって、レイに尋ねようと立ち上がった。だが、ずっと屈んでいたせいか腰が痛み、前のめりになってしまった僕を、レイがくすくすと笑った。
「なあレイ、僕は魔力がなくなったのか?」
「はい、少しずつ減ってはいましたが、最近はまったく感じませんわ」
「そうなのか……僕にとってはいいことなのかな?」
レイは小さく首を傾げ、不安そうな僕の顔から、その答えを探すように見つめてきた。
「何も問題ありませんわ。変わった人が普通の人になっただけですの」
「ウリエルの召喚のときもそうだったのか……」
「そうですわ。もうあの頃には、召喚できるだけの魔力はありませんでしたの。ラウムの召喚で精一杯だったと思いますわ」
レイはにっこり笑って、続けた。
「兄様、不安でしたら、レイがもうひとりの兄様に声をかけてみますわ」
「でも、真由美が見てるよ」
真由美の厳しい視線に気づいてそちらを見た瞬間、レイが僕の胸に飛び込んできた。
真由美の顔がみるみる恐ろしい形相に変わっていくのを、僕は呆然と見つめてしまった。そして、立ち上がろうとする真由美を、アンナとイオナがあわてて押しとどめていた。
『怖い兄様、どこの女と遊んでいるかしりませんが、レイの声に応えてくださいまし』
『……』
『兄様、ルナリアは手篭めにされましたの?』
『……』
『兄様、レイはもう兄様にお尻を触らせませんわ』
『……それはダメだ』
僕は、レイが何の会話をしているか分からないが、大きなため息をついた彼女を見て、不安を覚えた。
少し離れたテーブルで、アンナとイオナに何かを訴えている真由美の姿が、さらに不安を煽る。
『兄様、近々、レイがアンナを連れて伺いますわ』
『好きにすればいい』
『分かりましたわ。その時はアンナを手篭めにしてくださいまし』
『それは妻が頼むことか?』
『レイがいいと言っていますの』
『そうか、レイには敵わないな。それで、レイは何が欲しい?』
『兄様の血を分けてくださいまし』
『分かった。だが瘴気に満ちているぞ』
『大丈夫ですの。それと、兄様……』
『なんだ?』
『もう人間の世界には現れませんの?』
『ああ、もう俺は不要だろう』
『分かりましたわ。このへなちょこ兄様の相手は、レイが適当にしておきますわ』
『好きにすればいい』
『では兄様、ごきげんようですわ』
『ああ』
レイが胸から離れて、僕を見上げてきた。
「兄様、真由美と一緒に話を聞いてくださいまし」
「どうしたんだ?」
僕の問いなど気にも留めず、レイは僕の手を引いてテーブルへと向かった。
「真由美。アンナも、イオナも。聞いてくださいまし。あの兄様のお話を聞きましたわ」
「えっ、レイさん、本当ですか……?」
真由美は目を丸くして、思わず声を上げた。
「はい、聞きましたの。結論から話しますと、あの兄様はもう人間の世界に来ませんわ」
アンナとイオナは目を見開いて驚いていたが、それとは対照的に、真由美は満面の笑みで僕を見つめてきた。
「はっきりと申されましたわ。この兄様は真由美に任せると」
「レイ、本当ですか?」
「アンナ、本当ですの。もうアンナの役割は姑程度しかありませんわ」
「レイ様、姑程度でも、それなりに大事な役割だと思いますが」
レイはイオナの声を無視して、真由美に話しかける。
「兄様の厨二形態と話すには、レイが兄様に抱きつかないといけませんの。だから怒らないでくださいまし」
「はい、レイさんだけは許します」
その言葉に、アンナとイオナは顔を伏せて肩を震わせた。
「ご主人様、これは真由美の献身的な愛の賜物です」
「そうですわ兄様、お覚悟なさいまし」
「もうこれ以上は申し上げなくてもよろしいですよね。耀様」
三人の声を聞いた真由美は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
その姿を見た僕は、思わず彼女を抱き寄せていた。
「あの、あなた……」
「どうしたんだ?」
「二人きりのときに聞きたいです……それに、あなたの心がまとまってからお願いします」
僕がうなずくのを見た三人は、そろって大きなため息をついた。
「素敵な告白を見れると思っていたのですけど」
「つまらないですわ」
「まったくです。アンナ様、お部屋に戻ってお酒でも飲みませんか?」
「はい、イオナさん。そうしましょう」
三人が立ち上がろうとした時、僕の背中から男性の声がかかった。
「相葉さん、お邪魔して申し訳ないです」
その声に顔を向けると、石井さんが笑顔を浮かべ、こちらに歩いてくるところだった。
「石井さん、どうしたんですか?」
「いえ、来週末に引っ越すことになりましたので、ご挨拶に伺いました」
めったに声をかけてくることのない石井さんを見て、三人は再び腰を下ろした。
僕が声を掛ける前に、イオナが石井さんに話し始めた。
「石井、これまで良く働いてくれました。これからも大変でしょうけど、頑張りなさい」
「はい、イオナ様。本当にお世話になりました。ようやく家族と一緒に暮らせます」
「それでは、私が家族と引き離したようではありませんか?」
「申し訳ありません。そんなつもりで言ったわけではありません」
気まずそうな石井さんを見かねて、僕は話に割って入る。
「石井さんが引っ越したら、イオナのボディガードはどうするんだ?」
「もう、必要ありません」
首を傾げる僕に石井さんが説明してくれる。
「イオナ様は、既に一線から退くことを明言されました。これからイオナ様に取り入ろうとする者はいないと思います」
「そうだったんだ。イオナ、何かあったのか?」
「いいえ、何もありません。私は長く居座りすぎました。もう退いてもいい頃です」
「そうなんだ……それで、イオナはどうするんだ?」
イオナは僕に、何かを含むような笑みを浮かべた。
「——国に帰ろうかと思っています」
思いもよらなかった発言に、僕だけでなく、アンナ、レイ、真由美もイオナに視線を向ける。
「イオナさん、どうしてですか?」
アンナの悲しそうな声を聞き、イオナは、どこかぎこちない笑顔で答えた。
「どうしてでしょうね?でもまだ決めたことではありません。もうしばらくは、ここでゆっくり過ごさせていただきますよ」
「イオナ、後で話がありますの」
「はい、分かりました」
「イオナさん。寂しいです」
「真由美。あなたは私よりも耀様のことを気に掛けるべきですよ」
「でも……」
「滝川さん、イオナ様はあなたを高く評価しているのですよ」
石井さんのその言葉に、イオナはもちろん、アンナとレイも静かにうなずいた。
その様子を見た彼は、僕に顔を向けた。
「相葉さん、引っ越した後も、たまに顔を出してもいいですかね?」
「もちろんです。いつでも歓迎しますよ」
石井さんは嬉しそうに微笑んだ後、深々と頭を下げ、その場を後にした。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




