飾らぬ美
昨晩はとても慌ただしく、そして混沌とした時間を過ごしました。
ゆっくり寝たかったのですが、興奮冷めやらぬのか、目が覚めてしまいました。
時計を見ると、まだアンナ様も寝ている時間……そう言えば昨晩、レイ様の部屋から、アンナ様の声が聞こえたような気がしましたが、まどろみの中の幻聴でしょう。
このまま惰眠を貪るよりはと思い、身支度を整えていると、あのブレスレットのことが頭をよぎりました。
耀様から頂いて浮かれていられたのも、つかの間のこと……仕方がありません。
もしあの方が本当に悪魔なら、私はあの方の眷属に……いけません、戯れが過ぎました。
リビングにはまだ誰もいません。ソファに腰を下ろし、目を上げると、暗い部屋の奥行きに、自分の影が溶けていく気がします。
私がダンタリオン様の眷属になったのは、私を忌み嫌い、蔑んだ人間たちを見返すため。でも、あの方は確然とした目的もなく、あの圧倒的な力を手に入れたように思えます。
あの方は自らの過去を話しません。そこに至るまでに、さまざまな苦難があったのかもしれませんが、それこそ、あの方の言う『墓場まで胸にしまう』ことなのでしょう。
ふいに扉の開く音がして、視線を向けると真由美がリビングに入ってきました。
「あっ、イオナさん。おはようございます」
「おはようございます。眠そうですね」
私の声を聞きながら、真由美はキッチンへと向かいます。
「はい、あまり眠れませんでした」
「耀様の様子……いかがですか?」
真由美はコップに水を注いでいます。
「目は覚めたんですけど、まだ、ぐったりとしていて……」
「そうですか、今日からの予定はキャンセルして、お休みいただきましょう」
たっぷりと水を注いだコップを手に、真由美はそろりそろりと歩いて来ます。もう少し注ぐ量を減らせばいいのではないでしょうか?
「いいんですか?」
「はい、仕方がありません。ですが、真由美も耀様についていてもらいますよ」
「それは構いませんけど……」
「大丈夫です、アンナ様とレイ様もいらっしゃいます。こちらは何とでもなります」
真由美は私の前を横切り、耀様の部屋に向かうようです。あの水も耀様に飲ませようと、取りに来たのでしょう。
リビングを後にしようとする真由美に、声をかけます。
「真由美、あなたも寝ていなさい。朝の家事は、私がアンナ様を手伝います」
「……すみません、本当に。ありがとうございます。旦那様についていないと、余計なことを考えているようなんです」
「——それも仕方がありませんね。目を離さないようにしてください」
「はい。——ありがとうございます」
真由美はゆっくりと扉を閉め、リビングを後にしました。
ほどなくして、反対側の扉が開く音がして、視線を向けると、アンナ様とレイ様が、リビングに入ってきました。
なぜか手をしっかりとつないで——それも恋人つなぎです……
声をかけていいものか……じっと見つめていると、ふいにアンナ様が腰を落とし、レイ様に視線を合わせました。
アンナ様がレイ様を起こしに行かれたのです。そうです……そうに違いありません。
何となく感じた違和感を払拭しようと、心で言い聞かせている私に気づいていないのか、二人は——引き合うように抱き合って、流れるように唇を重ねました。
……えっ!? な、なんなんですかこれは!昨晩聞こえてきたアンナ様の声は、幻聴ではなかったのですか!
私の目の前で、二人は深く求め合います——お互いの存在を確かめるかのように、手が身体をなぞり合っています。
止めるべきでしょうか……でも、この状況に何と声をかけて止めればいいのですか?
戸惑っているうちに、温もりを確かめ合うように、互いの胸元に手を伸ばしています。
こ、これ以上は……止めなければ!自分でも理解し難い使命感に、勇気を振り絞ったその時、二人は離れ見つめ合ったまま止まりました。
声をかけるなら、今しかありません!私が声に出そうとしたその時、アンナ様の声が聞こえてきました。
「レイ、もう一度言ってください——」
「——アンナ、愛していますわ」
「私もです、レイ」
えっと……アンナ様もレイ様も女性で、どちらも耀様を慕っておられるのに……な、何が昨晩あったというのですか?
「——オホン!」
わけも分からず、遠慮がちにわざとらしい咳払いをしてしまいました。
二人が同時に私の方を向きます。
「イオナさん、おはようございます」
「イオナ、おはようございます」
「お、おはようございます。アンナ様、レイ様」
胸が張り裂けそうなほど激しい鼓動のなか、次の言葉を待っていましたが、何事もなかったかのように、アンナ様は朝食の準備に、レイ様は鶏の世話に向かいました。
「……アンナ様。真由美は耀様に付きっきりですので、私が手伝います」
「ありがとうございます、イオナさん。では、これをお願いしますね」
レタスを手渡されました……さっきまで目の前で起こっていたことは幻覚だったのでしょうか。これから先、この二人にどう接していけばいいのか。レタスを洗う水が、やけに冷たく感じました。
——朝食の支度が整い、囲炉裏のあるリビングへ運びます。
アンナ様の後ろを歩いていますが、アンナ様は機嫌がいいようです。以前なら考えられません……耀様の具合が悪ければ、そばを離れなかったはずなのに。何がアンナ様を変えてしまったのでしょうか?
囲炉裏のあるリビングでは、レイ様と綾乃様、奈々美様も一緒に、会話が弾んでいました。
みなさんの前に食事を整え、そろって食べ始めたところで、私は耀様のことを告げます。
「耀様は昨日の件で寝込んでしまわれました……今日からは、ここにいる五人で観光をすることになりました」
「大丈夫ですか?昨晩の様子だと、かなり悪かったようですけど」
「おじちゃん、大丈夫?」
綾乃様と奈々美様は心配そうな表情を浮かべていますが、アンナ様とレイ様は普段どおりです。
時折、目を合わせて微笑み合うのは、普段どおりではありません。
「真由美がついているので大丈夫です。私も石井を残して、何かあればすぐに連絡するように伝えておきます」
「石井も大変ですわ」
「石井さんにお土産を買ってきましょう」
アンナ様もレイ様も、どこか、耀様から目を背けているように見えます。
——朝食の片付けを済ませて、出発の直前、真由美が見送りに出てきました。
「みなさん、お気をつけていってらっしゃい」
「真由美さん、ご主人様の様子は?」
アンナ様も表情に出さないだけで、耀様を心配されているようです。
「お休みになられています」
「兄様は『僕は誰なんだ』とか言い出しますわ」
レイ様は耀様の思考をよく理解しておられます。少し安心しました。
「そうですね。そうなったら真由美さんの身体で気を反らせてください」
アンナ様、子供の前ですよ……
「あの……それはどうやったらいいんですか?」
真由美も聞き返さないでください。子供も聞いています。
「アンナのように、胸に埋めて失神させるといいですわ」
何度かそのようなことがあったと聞いてはいますが……レイ様、それは真由美に対する嫌味でしかありません。
「——私には無理ですね……できる範囲で何とかします」
——真由美が気の毒です。
車で二時間ほど走り、最初の目的地に到着しました。
観光にはありきたりな城郭ですが、私も訪れるのは初めてなので、少し気持ちが弾みます。
レイ様と奈々美様は、手をつないで、あっちにいったりこっちにきたりと楽しそうです。
時折、何もないところに向かって二人で話しかけていますが、精霊と会話をしているのでしょう。風が小枝を揺らし、どこかで笑い声のような音がしました。
二人を見守るようについていきますが、静かに距離を取ります。
「綾乃様、奈々美様は少し雰囲気が変わりましたね」
「相葉君に会って、何か思うところがあったようです」
「父親と初めて会ったんです。嬉しかったんですよ。それで、綾乃さんは?」
そう言いながら、アンナ様は笑顔で奈々美様を見つめています。
「えっ、私ですか……嬉しかったです。でも……はっきりと、分かってしまいました」
綾乃様は空を見上げます。私も一緒に見ましたが、白い雲がゆっくりと流れていました。
「相葉君は本当に死んでいたんだって……」
今まで、心からは信じられなかったのでしょう。それも、無理のないことです。
前を行くレイ様と奈々美様に目を向けます。見ている私の心まで洗われる、笑い合うあの笑顔は、いったい何の上にあるのでしょうか。
——予定していた観光地を巡り、私は旅館の部屋で、ひとり外の景色を眺めています。
みなさんは大浴場に向かいましたが、私は内風呂を堪能しました。誰にも見せられない傷を、そっと湯に沈めるような時間でした。
ひとりで過ごす時間は、すっかり変わってしまいました。頭をよぎるのはあの方のことばかりです。
あの方のことを思うと、私が悪魔の眷属となった理由など、どうでも良くなってしまいます。全ては浮世の茶番狂言……
「イオナさん」
急に声をかけられて、少し驚き顔を向けると、アンナ様が向かいに座っています。
「アンナ様、もうお上がりになられたのですか?」
「はい、熱いお湯だったので、長くは入れませんでした」
「みなさんは?」
「まだゆっくりしています」
浴衣姿のアンナ様は、目を惹きつけます。零れ落ちそうな胸も、はちきれんばかりのお尻も、私とはまるで別の生き物のようで……嫉妬と動揺が入り混じる、言い表せない気持ちになります。
「アンナ様、今朝のことをお聞きしてもよろしいですか?」
「今朝?」
「はい、レイ様とのことです。口づけを交わしておられたようですが……」
「そのことですか。レイと朝まで愛し合っていました」
当然のように言い切りましたが、私の理解は全然追いついていません。
私に向けられるその笑顔に、続けて質問してもいいものか、躊躇してしまいます。
「——愛し合っていたとは?」
「詳しく聞きたいですか?」
曇りのない瞳で、そんな言葉を言うものじゃありません。
「いえ、その——裸で何かしらしていたと解釈してもよろしいのでしょうか?」
「はい、そのとおりです」
「耀様は?」
聞いてはいけないかと思いながら口にしたのですが、アンナ様は躊躇うことなく答えます。
「ご主人様は真由美の虜です。イオナさんも知ってのとおり、私もレイもサキュバスですから」
「愛に飢えていたと?」
「あの方が手の届かない存在となった今、私のことを受け入れてくれる理解者はレイだけです」
「手の届かない存在ではないと思いますが。少なくとも、あの方は私たちを拒んではいません」
「綾乃さんには敵いませんよ。『相葉君!』の一言で、あの方を止めるのですから」
アンナ様は窓の外に目を向けます。
アンナ様は耀様と共に、あの方にも唯一無二の存在だったはずです。そう信じていたに違いありません。
でも、それが崩れ去ったと感じているのでしょう。
「そうかもしれませんね。でも、耀様はアンナ様と記憶を共有したのでは?」
「そうです。でも私のことを本当に理解していたのは、ご主人様ではなくあの方でした」
「そうでしたか」
「あの方は私を陥れた騎士を、私の前に引きずり出してくれました。そして私はこの手で、騎士の首を刎ねました」
アンナ様の瞳は——何ひとつ揺らいでいませんでした。
「あの方が望むなら、私とレイの愛に包み込み、世界の終わりまで共に堕ちていけます」
いったい何の宣言でしょうか?でも、アンナ様の言う通り、あの方は無条件に相手を受け入れます。あの朱美と命名された守護天使も、大切にされるような気がします。
私も窓の外の景色に目を向けます。少し暗くなった町並みを、多くの人が楽しげな笑顔を浮かべ歩いていますが、そのほとんどがひとりではありません。
少し癪に障りますが、私のすべてを受け入れられるのは、あの方だけかもしれません。
——豪華な夕食を済ませ、座敷でくつろいでいます。老舗の旅館らしく、小鉢に様々な料理が盛り付けられた、舌だけでなく目でも楽しませてくれる料理でした。
奈々美様は全く好き嫌いがないようで、笑顔ですべての料理を平らげました。そう言えば、あの方も好き嫌いはないと聞いたことがあります。
確かに、周りに侍る女性を聞く限り、好き嫌いはなさそうです……いけません、少しお酒が回ってきました。
そして、私以上にお酒が回っているのが、アンナ様ですが……綾乃様は既に目が座っています。
奈々美様が早めに布団に入ってくれて、本当に助かりました。これからの話は、恐らく聞かせられるものではない気がします。
「相葉君は、ずるいです」
「そうです。ずるいです」
どうやら、あの方への愚痴が始まりました。お願いです、レイ様、今だけは空気を読んでください……
「あの兄様のどこがずるいですの?」
レイ様、乗らないでください……どうか、火に油を注がないでください……!
「相葉君は私に『好き』とも『愛してる』とも言ったことがありません」
「私にもです。それなのに私のことを愛していると思わせてしまう、卑怯者です」
「そうです。卑怯者です」
二人共、手酌で日本酒を次々と空けていきます。大丈夫なのでしょうか?
「兄様は何も思っていませんわ。勝手にそう思ったのはアンナと綾乃ですわ」
「レイ……何勝ち誇っているんですか!」
「勝ち誇ってなどおりませんわ。ただ、事実を申し上げているだけですの」
「綾乃さん……レイはあの方の世界に行ったことがあるんですよ」
「なんですか。何があったか全部喋ってもらいましょうか」
風向きが危ういです。レイ様、お願いしますよ。
「抱き合って口づけを交わして、お互いの舌を噛んで血を交換して、夫婦の誓いといたしましたわ」
夫婦の誓いを交わしたと言うのであれば、昨晩のアンナ様との行為は倫理的にどうなんですか!
言えるわけがありません。今はただ空気になっています。
「ほーら、勝ち誇っているではありませんか!」
「それを言うなら、イオナも行っていますわ。何があったか話してくれませんの」
ああ……どうして私は、今ここに座っているのでしょうか——
「私は、あの方に殺されそうになっただけです……」
これは紛れもない事実です、抱きしめられた途端にあの世界にいました。そしてあの方は、私のそれまでの行為を咎め、死にたくなければやめるように脅されました。
「嘘ですね」
「はい、嘘です」
今の流れなら、そうなりますよね……こうなったら、私も酔った勢いで爆弾を落とします。
「レイ様のお部屋から、昨晩、アンナ様の声が聞こえておりました。それはもう、艶めかしい声が」
「アンナと一緒に寝ていましたから、仕方がありませんわ」
レイ様のその反応は、想定どおりです。
「イオナさん、やっぱり聞きたかったんですか?」
アンナ様の反応も想定どおりです。
「お二人は——そういう関係なんですか?えっ、ちょっと待って……何をしてたんですか?」
綾乃様、ありがとうございます。ほとんど正解に近い反応です。
「実は、少し前からレイのことが……なんと言うか、笑顔を向けられると胸が高鳴るような感覚で」
「レイはずっと前からですわ。力は強いのに心は繊細ですの。そんなアンナを放っておけませんわ」
「あの、お二人はその……」
「「愛しています」わ」
「昨晩、初めて肌を重ね分かりました。あの胸の高鳴りはレイを愛しているからだと」
「心が満たされるとは、あの感覚ですわ。レイの動きにあわせて響くアンナの声が、心を満たしていきますの」
「はい。私を求めるように、激しくこの身体で戯れる。そんなレイが愛おしくて、すべてを受け入れたくなりました」
「あの……私が勝手に想像していたのと、逆でした——」
完全に綾乃様の興味を惹いたようです。でも、誰か、私に優しくしてくれてもいいのでは……
余計な願いは、再びこの身をあの修羅場に落とすことになりそうです。空気になることが、私の唯一の処世術だというのなら……せめて、このグラスだけは私の味方であって欲しいです。
エスカレートしていく話は、不思議とあの方への思いを募らせていきます。まるで私があの方とそのようなことをしているような、私の酔いは、あの方の影だけを追っているようです。
この三日間、いろんなことがありました……
酔ったアンナ様が綾乃様に言い寄ったり、それを見たレイ様がやきもちを焼いたり、その勢いでアンナ様とレイ様が濃厚な口づけを交わしたり——流石にそれ以上は止めましたが、本当にいろんなことがありました。
でも、無事に綾乃様と奈々美様を、歓待できたと思います。
新幹線のホームで、レイ様と別れを惜しむ奈々美様も、アンナ様と談笑する綾乃様も、笑顔を浮かべながら、別れを惜しむような表情が見え隠れしています。
微笑ましく見ていると、奈々美様が私に歩み寄り、袖を引っ張ります。
腰を落として笑顔を向けると、私の耳元でコソコソと話し始めました。
「イオナおばちゃんも、女の子が好き?」
奈々美様、どこかで聞いていましたか——それとも、あの方をひと目見ただけで父親と見抜いた、その類まれなる直感でしょうか?
「私は男性が好きです」
「良かった……私も——男の子が好き」
その言葉を聞いた、私の方が安心しました。気になる異性でもいるのでしょうか?
恥ずかしそうにしている奈々美様を見れば、きっとあの方——奈々美様のお父様も安心なさいます。
また、近いうちに会いましょうね。奈々美様——
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




