宴の痕
静かに座る耀に全員が視線を向けているが、誰も口を開かない。
先程まで大天使と呼ばれる存在を圧倒し、さらに天使を人質に取るという、暴挙でしかない行動に出た。
しかし、それが片付いた途端に、ただ静かに佇むだけの存在となり、それが逆に恐ろしさを増している。
恐らく誰もが同じ疑問を抱いている。だが、その沈黙を破る者は誰ひとりとしていなかった。
静かにイオナの手が上がった。それを見た耀は、輝きのない瞳を向け、発言を促す。
「耀様、その守護天使はどうされるのですか?」
耀は天を仰ぐように頭を倒し、背後に立つ守護天使を見る。
「なぁ、お前——もう帰っていいぞ」
その声を聞いた彼女の表情が一瞬曇る。
「ウリエル様の許しがあるまで、帰りません」
「代わりに俺が許す——帰れ」
「帰りません」
「帰れ」
無意味な押し問答に、ダンタリオンの声が割って入る。
「御館様よ。よく考えてみよ」
「よく考えた」
ダンタリオンは呆れてため息をつく。
「ウリエルが悪魔の巣窟と呼んだこの場に、そやつは置き去りにされたんじゃ」
耀は、再び頭を倒して守護天使を見た。
「そうなのか?」
「いいえ。私はウリエル様の代理人として、貴方を守護する栄誉を授かりました」
「でも、お前、俺より弱いだろ。何を守護するんだ?」
ダンタリオンは、哀れむような目で守護天使を見つめた。
「御館様、そこまで言ってやるな」
「其方の言葉には一理あるな。その者は下等の悪魔にも勝てぬ……」
「ラウム。其方も少し慎め」
「では、天使。ここの中央に歩み出てみなさい」
そう言うとグレモリーは、さっきまでウリエルが拘束されていた場所を指差す。
「お断りします。私にはこの男を守護するという崇高な使命がありますので」
「俺のことは気にするな。グレモリーの言うとおりにしろ」
「お断りします——」
「——アンナ、引きずり出せ」
「はい、ご主人様の仰せのままに」
アンナが足を一歩前に出した瞬間、それまで静かに閉じられていた守護天使の瞳が大きく見開かれた。
更に一歩踏み出されるアンナの足を見て、彼女は悲鳴のように息を呑み、耀の背後から腕を回し、その首にしがみつく。
「ごめんなさいー。本当は怖いですー」
守護天使は、声を上げて泣き始めた。
「なんなんだお前は」
呆れた声の耀に、ダンタリオンが応える。
「御館様よ。そやつは捨て駒にされたのじゃ」
「そうなんですー。この状況は捨て駒にされたとしか思えませんー」
必死に耀にしがみつき、涙を流す守護天使を、呆れた表情で見つめるグレモリーが、ため息をついた。
「容姿を女性に変えたときから、そうではないかと思っていました。それでは捨て駒にされても仕方がありません」
「だってー、私が杖で全力で殴ったのに、この人、ビクともしなかったんですもん」
じっと、目を閉じていたラウムも耀に声をかける。
「捨てられた駒も、其方の打ち手によっては、決め手となるのであるな」
「ラウムの言う通りかもしれない」
耀は目を閉じ、考えを巡らせる。
「相葉耀、見てみなさい。再び容姿に手を加え、あなたの好みに近づけようとしています」
「果たして、そのような捨て駒が決め手となるのかの」
そんなグレモリーとダンタリオンの言葉が耳に入ったのか、耀は少し眉を動かした。
「仕方がない、しばらく置いてやる大人しくしてろ。それと守護らしく立っておけ」
「はいー」
気の抜けた返事と共に立ち上がった守護天使を見て、レイとイオナがひそひそと話し始めた。
「胸ですわ。あの天使、大きくした胸を兄様の背中に押し付けましたわ」
「間違いありません……さっきより大きくなっています。あざとい天使です」
「はーい!」
明るい声と共に手を上げた奈々美に、グレモリーが思わず目を細める。
「おや、幼子も聞きたいことがあるのですか」
「うん」
グレモリーに振り向いた奈々美はうなずくと、守護天使に顔を向け、目を輝かせる。
「あの、天使さんはその羽で飛べるんですか?」
「はい、飛べますよ」
そう言うと守護天使は、真っ白に輝く翼を広げてみせる。広がった大きな翼に、奈々美の瞳は更に輝きを増し、パチンと手を叩き喜ぶ。
「すごーい!今度見せて!」
「いいですよ。必ず見せてあげますね」
そんな心休まるやり取りに、グレモリーと綾乃だけでなく、アンナ、ミスティ、伊耶那美…ラウムやダンタリオンまで、微笑ましく目を細めた。
そんな温もり溢れる雰囲気を他所に、レイとイオナがひそひそと話し続けている。
「あんな胸と尻で飛べるわけがありませんわ」
「そうです。あれで飛べるのでしたら、アンナ様も空を飛べます」
「イオナさん、後で話しがあります」
アンナの低い声に、イオナは慌てて口を手で押さえ、ゆっくりと視線をアンナへ向けた。その目には、微笑むアンナの刺すような視線が飛び込んできた。
再び耀は天を仰ぐように、頭を倒すと、守護天使をその視界に入れる。
「なあ、お前の名前は何だ?」
「ありません」
「無い……ふざけてんのか?」
凄む耀と、それに怯える守護天使を見かねたダンタリオンが、会話に割って入る。
「御館様よ、そのような下級の天使には名がないのが当然なのじゃ」
「そうなのか?」
「はい、そのとおりです」
耀は目を閉じ思考を巡らせる。
静かに流れる時間の中、その思考を邪魔しないよう、誰もが息を潜める。
「お前の名前は『朱美』だ。美しい朱色の『朱美』だ」
自信満々の表情で『朱美』を命名した耀に、イオナが口を挟む。
「耀様、少しお待ちください。それでは田舎のスナックのチーママです」
「そうですわ。兄様、あれだけ考えて『朱美』はありませんわ」
「ご主人様。美しい金髪を持つ女性の名にふさわしくありません」
レイとアンナもイオナに同調し、命名『朱美』に苦言を呈す。
そんな三人とは裏腹に、守護天使は誇らしげに胸を張り、姿勢を正した。
「はい!私の名は『朱美』です。名を与えられる栄誉、すべてを主様に捧げます」
「いいんですか!」
「考え直してくださいまし」
「朱美さん、早まってはいけません」
イオナ、レイ、アンナが守護天使に考え直すよう迫る。アンナは『朱美』と呼んでしまっているが。
「いいえ、我が主様が与えてくださった——『朱美』素晴らしい名前です」
守護天使改め『朱美』——耀と朱美を除く誰もが、納得のいかない表情を浮かべていた……
「よし、全て解決したようだな。俺は帰る」
その耀の発言に、一同が更に腑に落ちない表情を浮かべるなか、綾乃の声が響く。
「相葉君!ちょっと待って」
「どうしたんだ?先生」
綾乃は奈々美の肩に手を回し、耀をじっと見つめる。
「この子、奈々美を抱いてあげて」
「ああ、構わない」
「さあ、奈々美——」
綾乃に促され、奈々美は耀に歩み寄る。目の前で立ちすくんだ奈々美を、耀は抱き上げ膝の上に抱いた。
「奈々美と言うんだな」
「うん。お父さんの名前は、耀って言うんでしょ?」
「——お父さん?……ああ、最初から、そう呼んでいたな」
ラウムが席を立ち、綾乃に声をかける。
「母君も隣に——」
綾乃はラウムにうなずくと、空けてくれた耀の隣に腰をおろす。
「その子……奈々美は——相葉君と私の子供です」
「——そうか、あの時の——」
綾乃は少しだけ視線を伏せ、再び耀を見上げる。
「私の宝物です——抱いてくれてありがとう」
その瞳には、言葉では言い尽くせない想いが滲んでいた。
奈々美は耀に抱かれ、笑顔を見せている。さっきまでとは違う、年相応の少し大人に背伸びをした笑顔に、目には薄っすらと涙が浮かぶ。
耀は奈々美の腕についたブレスレッドに視線を落とした。
「これは?俺が作ったやつだな」
イオナの声が割って入る。
「そのとおりです。奈々美様にお貸ししました」
「そうか、ちょっと貸してくれないか?」
奈々美は静かにブレスレッドを外し、耀に差し出した。
受け取った耀の手の上で、ブレスレッドはまばゆい光を放つと、その手には二つのネックレスが乗っていた。
「ひとつは奈々美にやろう。こんなのが欲しくなる年頃だろう」
耀は、奈々美の首にネックレスを付ける。シンプルながらも白金のような輝きをもつチェーンに、小さくも洗練されたカットの赤い石が付いている。その輝きはまるで奈々美の小さな命が、耀の鼓動と重なっているように脈打っていた。
「ありがとう——お父さん」
耀は小さくうなずくと、もう一つのネックレスを手に取る。
期待に満ちたイオナの視線を無視して、耀の視線は綾乃に向いた。
「そうなりますよね……」
イオナの寂しそうなつぶやきが、虚しく溶ける。
「もう一つは先生に」
「綾乃」
「もう一つは綾乃に」
耀が綾乃にネックレスを付けると、美しくカットされた青い石の輝きが、静かな祈りのように脈打っていた。
「この二つを合わせて、二人で願えば、俺の世界に渡れる」
「そう——寂しくなったら行くわ」
「私もお父さんの世界をみたいな」
「使えるのは一回だけだ。二人で相談して欲しい」
「分かったわ——いつか必ず行くわ」
耀は隣でうつむく真由美に目を向ける。
「真由美、心配するな。俺はこの身体を返せなどと言わない。お前とアイツのものにしろ」
「ありがとう——ございます」
真由美はうつむいたまま、細い声で答えると、胸元で小さく拳を握った。
それが、彼女なりの安心の証のようだった。
「自分の過去を話したか?」
耀の問いに真由美は首を横に振る。
「話す必要はない。誰しも墓場まで胸にしまっておくことはある」
真由美は小さくうなずく。それを見た耀は周りを一瞥する。
「今日の事も墓場まで胸にしまっておくことだ」
その声に、全員がうなずいた。
「朱美、俺に掴まれ」
「はい!」
耀と、彼に抱きついた朱美は黒紫色の霧に包まれる。濃く蠢くその霧が吸い込まれるように消え去った後には、元の姿となった耀が座っていた。そして、そのまま真由美に倒れかかる。
「あなた!」
慌てる真由美の肩に、アンナが優しく手をかける。
「私がご主人様をベッドに運びますから、真由美さんは付き添ってください」
「——はい」
軽々と耀を抱き上げたアンナと、心配そうに目に涙を浮かべた真由美が、リビングを後にした。
「さて——これにて、吾も暇を取らせていただこう。今宵の催し、まことに佳きものであったな」
輝く霧のように伊耶那美の身体が虚空へと消えていく。その最中、伊耶那美はミスティに声をかける。
「第五妻殿、そなたは黄泉の国の恩人たるお方。いつでも訪ねてまいれ。変わらぬもてなしを以て迎えようぞ」
ミスティは一瞬目を伏せ、唇を噛んだ。そして、霧の中に微かに笑みを浮かべて言う。
「うむ……ならば、これより伺うことにするのじゃ」
その声に伊耶那美が手招きする。ゆっくりと近づくミスティと共に、伊耶那美は霧散するように消え去った。
「さて、幼子。夜もすっかり更けてしまいました。母と共にゆっくり休みなさい」
グレモリーの声に、奈々美は笑顔でうなずく。
「綾乃様、お部屋にご案内いたします」
イオナの声にうなずくと、綾乃は奈々美の手を取り立ち上がった。
奈々美は歩きながら、何度も母の手を見つめ、小さな声で何かを呟いていた。
綾乃はそのたびにうなずいて、静かに目を潤ませるのだった。
部屋の扉が開かれ、奈々美が入るのを見た綾乃は、その前で立ち止まる。
「イオナさん、ありがとうございました。イオナさんの言ったとおり、あの人に会えました」
「本当に良かったですね。奈々美様も嬉しそうでした」
「はい、ありがとうございます」
綾乃がくぐった扉は、ゆっくりと静かに閉じられた。
「ワシらも暇をもらうかの」
ダンタリオンの声に、ラウムも同意する。
「然様であるな。主人があの状態では酒の相手はしてもらえぬゆえ」
「少し残念です。楽しみにしていましたのに」
そんな三人に、レイが近づき何かを差し出した。
「戻ったら飲むといいですわ」
その手にはウイスキーのボトルが握られていた。
「おや、これは気の利くことで、私も飲んでみたかったのです」
グレモリーがレイからボトルを受け取ると、三人はラウムの霧にその姿を包む。
「宴の余韻は、冷めぬうちに味わうに限ります。相葉耀にも、夢の中で乾杯を」
その声が残響のように広がり、三人は霧の中へと静かに消えていった。
——ソファに腰をおろしたレイに、イオナが話しかける。
「レイ様、お疲れ様でした」
「本当に疲れましたわ」
「私も同じです。そろそろ休ませていただきます」
「そうしてくださいまし」
軽く会釈をして、自室へと戻るイオナを見送ったレイは、深くため息をついた。
「もうひとりいますわ」
誰よりも繊細な心を持ちながら、誰よりも言葉にしない彼女が。
レイはソファから立ち上がると、静かにリビングへ向かった。
リビングのテーブルでは、アンナがひとり缶ビールを煽っていた。
「こんなことだろうと思いましたわ」
「——レイですか……」
レイは冷蔵庫からジュースを取り出し、アンナの隣に腰をおろすと、その缶を差し出した。
アンナは黙って缶を受け取り、蓋を開け、言葉を添えてレイに返す。
「レイは寂しくありませんでしたか?」
「——寂しいですわ」
そう言って缶に口を付ける。
「私の気持ちが分かりますか?」
「ええ、どちらの兄様も奪われた気分ですわ」
アンナは、美味しそうにジュースを飲むレイを見て少し微笑むが、その瞳には寂しさが溢れていた。
「そうですね。奪われた……綾乃さんには勝てない気がしました」
「綾乃はこの世界でただひとり、あの兄様を言葉ひとつで止めることができる人間ですわ」
「——勝てるわけがありませんね」
「でも、アンナとレイが勝ってるところもありますの」
首を傾げるアンナに、レイは笑顔を向け、話を続ける。
「レイ達の身体はすべて、あの兄様の魔力でできていますわ」
「そうですね。それと、『聖水』を作るのも止めましょう」
「ええ、あんなひ弱な男のために、兄様から頂いた血を絞る必要はありませんわ」
「今日もまた逃げましたね。あの方は真由美が支えてくれるでしょう」
「そうですわ」
一瞬の沈黙の後、アンナが缶ビールを一気に煽った。
空になった缶がテーブルを叩く音と同時に、アンナの声がレイの耳に届く。
「レイ、一緒に寝ましょうか」
「何を言い出しますの?」
驚いて振り向いたレイの目には、艶っぽい表情でこっちを見つめるアンナが映る。
「お互い寂しい身体でしょう、慰め合いましょう」
「そんな趣味もありますの?」
「はい——と言ったらどうしますか」
レイは小さくため息をつく。
「アンナ。目を閉じてくださいまし」
レイは椅子から立ち上がると、目を閉じたアンナを抱き寄せ、唇を重ねた。
アンナを求めるように深く——
「……答えですわ」
アンナは静かに立ち上がると、レイを抱き上げる。
そして、ゆっくりとレイの部屋に向かい歩き始めた。
「アンナ。これ以上は後戻りできなくなりますわ」
「——はい」
二人はそのまま、レイの部屋へと消えていった。
「あなた、気が付きましたか……」
「真由美……」
「はい、ここにいます」
起き上がろうとする耀を、真由美はそっと押さえた。
「まだ無理をしないで」
「ああ、でも、着替えたいんだ」
そう言って起き上がる耀の背中を、真由美が支える。
「お手伝いします。まだ立たない方がいいです」
「僕はどれくらい寝てたんだ?」
「いつもなら、もうすぐ起きる時間ですよ」
「そんなにか——ずっと起きていたのか?」
「はい。——と言いたいところですが、少しウトウトしていました」
「悪いな、迷惑をかけた」
「そんなことは言わないでください」
耀の着替えを済ませた真由美は、メイド服を脱ぎ、耀の隣で横になる。
そして、耀をその胸にしっかりと抱きしめた。
「今は何も考えないで……私の胸でお休みになって」
耀は真由美の胸に顔を埋め、目を閉じた。彼女の鼓動が、静かに、確かに、彼を包んでいた。
「何があっても私だけは、ずっとあなたと一緒にいますから——」
外では、狂気と乱舞に満ちた夜がようやく終わりを告げようとしていた。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




