悪魔降臨
耀の身体を飲み込んだ黒紫色の霧が、更に収縮して塊となる。
そこには若かりし頃の姿——十八歳の頃の姿に戻った耀が座っていた。
そして、何より輝きのない黒い瞳と、圧倒的な威圧感——それは、耀の心の深淵に潜んでいた『もう一人』が顕現した証だった。
「……なぜ、俺が呼び出された」
低い声で呟かれたその言葉は、露骨に面倒そうで、不機嫌さも含んでいる。
そして、自らの手をじっと見つめ、「へぇ、この姿で出てこれるのか……」と、ほとんど独り言のように呟いた。
その耀の隣では、拳を固く握り締めた真由美が、悔しさに唇を噛みしめながら、目に涙を溜めて小刻みに震えていた。
「相葉君!」
目を見開いて見つめる綾乃を見て、耀は首を傾げた。
「先生、何やってんだ?」
「お父さん?」
奈々美の一言に、部屋の空気は静まり返り、誰もが思わず息を呑んだ。
「奈々美……いま、なんと言いました?」
綾乃の震える声が、奈々美に問いかける。
「——お父さん」
綾乃は目を見開き、奈々美の顔を見つめたまま、動くことができなかった。
「なぜ?」
「分からない……何となくそうかなって。へへっ」
奈々美は首を傾げ、無邪気に微笑み返した。
「ラザール!汝は何をしたのです」
ウリエルの声が耳に入ったのか、耀は辺りを一瞥し口を開いた。
「いろいろ聞きたいことはあるが、今はそれどころではないようだな」
「それどころではありませんわ!」
レイが不機嫌そうな表情で、耀を見つめている。
「兄様、先程のあの口調……いったい何をしていましたの?」
レイの隣で、アンナもうなずく。
「明らかに、夢中になっていたところを邪魔されたような話し方でした」
「兄様、何をしていたか話してくださいまし」
「それは——あれだ、俺の世界に溢れた魔力をだな、何とかしていた」
明らかに挙動が変わった耀を見て、アンナが声を上げる。
「レイ!」
「おいでまし、伊耶那美ちゃん!」
レイの声に呼応するかのように、白く輝く美しい霧がレイの周りに立ち込める。
その霧がひとかたまりとなった次の瞬間、霧散するように晴れた霧の中には、伊耶那美が佇んでいた。
「これは正妻殿、第二妻殿──御方々、揃うておられたか」
「伊耶那美、兄様はここに来るまで何をしておりましたの?」
「然ても、吾にはその由、覚えなく……吾が子へ問い質すとしよう」
伊耶那美は静かに瞳を閉じる。
「伊耶那美、待て」
耀の言葉など届かぬかのように、伊耶那美は淡々と語り始めた。
「なんと……吾が子たる侍女と、肌を交えておったと申すか。あの侍女の言の葉、いささか不機嫌に響いておった」
「ご主人様、後でお話が——」
冷めた笑顔で話しかけるアンナを、片手を上げ静止した耀が、ラウムに問いかける。
「だが、先に片付けて置くことがあるんだろう?」
「然様であるな。其方、少しは自重せぬか」
耀の隣で膝を組み、肩をすくめるラウムの呆れた声が、逸れた話を引き戻す。
「御館様よ。どうも御館様の身体にラザールとか申す者の魂を宿らせたのは、このウリエルのようですぞ」
ダンタリオンは笑みを浮かべ、ウリエルを見据えている。
「あなたが死して今なお、その身体に束縛されているのは、その天使のいたずらが過ぎたようです」
グレモリーは、綾乃と奈々美を抱き寄せたまま、耀に笑顔で話しかける。
「なるほど。それはともかく……」
耀の視線がグレモリーの顔に留まる。
「お前、美しいな」
「相葉君!」
アンナとレイが口を挟む間もなく、綾乃の声が響いた。
「悪かったよ、先生」
「侍女四人を以てしても、御心満たされませぬや」
その言葉を聞き、アンナとレイが殺気すら漂う視線で、伊耶那美を睨みつける。
「さて、ウリなんとか」
耀はその輝きのない冷めた瞳に、ウリエルを映す。
「ウリエルですわ」
「俺の可愛いレイに、汚い名前を覚えさせた罪も加算だ」
レイは頬を真っ赤に染め、「兄様、後で血液を……」と不審な言葉を呟く。
「なぜ俺をラザールと呼んだ?」
「汝は何者です。ラザールに何をしたのです」
耀の視線が鋭くなり、身体から魔力が溢れ出る。
「——答えろ」
その一言に、空気が凍りついた。
「汝に話すことなど何もありません」
一瞬動いたウリエルの身体が、硬直したように止まった。
「なっ!」
耀の身体から溢れ出た魔力が、まるで触手のようにウリエルの身体を絡め取っている。
「俺の質問に答えないまま、逃がすと思うのか?」
「このような禍々しい瘴気……神への冒涜です。すぐに解きなさい」
もがくウリエルを一瞥した耀は、震える真由美の頭をそっと撫でる。
謝意を込めているかのように、しなやかな髪を優しく撫でながら、ウリエルの声に答える。
「冒涜も道徳も俺にはどうでもいい。答えろ」
しばしの沈黙を破るように、ダンタリオンの声がウリエルに向けられる。
「ウリエル。そこにおるのはその身体に産まれたときから宿っておった者だ」
「絶望の中で無意識に抱いた生への執着があったのでしょう。戻った身体には他の魂が宿り、行き場をなくした哀れな子です」
ダンタリオンの言葉を補うように、グレモリーの繊細な声が届いた。
「哀れと思うなら、一回抱かせ……」
「相葉君!」
耀の言葉を遮るように、綾乃が声を上げた。
「私が相手しますから……誰にでも言い寄らないで」
綾乃の声は強かったが、その指先は微かに震えていた。
「ダメです!旦那様は私だけのものです」
そこに真由美が怒りの形相で参戦する。
耀の隣ではラウムがため息をつくと、手を伸ばし、彼の顔を自らに向けさせる。
「其方、話を反らすのを止めてくれぬか?」
「悪いな、いい女を見るとつい……」
耀の瞳が再びウリエルの姿を、冷たく映す。
「待たせたな、ウリ坊。なぜ俺をラザールと呼んだ」
ウリエルの顔に、まるで泥を塗られたような怒りが走る。
「汝の身体に宿りし魂は、教皇ラザール・ドレヴァンのもの。我がラザールの願いを叶えるために宿したのです」
「そうか——だが、それは間違いだ」
「何を言うのです。我の行いに間違いなどありません」
耀が伊耶那美に目を向けると、彼女は小さくうなずいた。
「ミスティ、来い!」
声と同時に、どこかで何かが這うような、乾いた音がかすかに響いた気がした。
耀の声を待っていたかのように、リビングに大きな蛇が静かに入ってくる。
「お母さん!へ、へび……」
怖がる奈々美を、綾乃が強く抱きしめるが、その視線は蛇の動きから一瞬も離れない。
その目の前で、身体を大きくした蛇の鱗が剥がれ落ち、艶やかな肌がその下から現れる。うねる尾を引きずりながら、女の姿をまとったミスティが立ち上がる——それは、妖艶と恐怖が紙一重の、異形の美だった。
グレモリーに抱かれながら、震える母娘を尻目に、ミスティの妖美な瞳が耀に向けられる。
「殿、話が聞こえておったのだが、妾にも、ちと劣情を向けて……」
ミスティの言葉を遮り、ウリエルの声が響く。
「ここは何ですか……悪魔の巣窟——人間の子がこのような悪魔の巣窟で平然と……」
「ウリ坊、黙れ」
ウリエルの声を静止した耀の目が、ミスティに向けられる。
「ミスティ、伊耶那美と俺たちの知っているラザール・ドレヴァンを教えてやってくれ」
「うむ、承知した。伊耶那美殿」
伊耶那美はうなずくと、静かに口を開く。
「その男……吾が地を侵そうとし、軍を差し向けし者なれば、疑う余地もなきことよ」
その言葉を補うように、ミスティが続ける。
「うむ。その男の側近であったものが、その名をしっかりと語った『ラザール・ドレヴァン』とな」
「吾が世界を侵すに至りし所以は、人の世へ通じる道を見出すため。黄泉の国はそも、現世との境界がたやすく揺らぐ場所なればな」
「伊耶那美殿の世界に差し向けられた八千もの軍勢を、たったひとりで壊滅に追いやったのが、そこに座っておる殿であるゆえ、その魂がラザール・ドレヴァンのものとか、片腹痛いのじゃ」
「加えておくと、俺が聞いた話では齢七十くらいのジジイで、童貞だそうだ」
耀を見据えたままのウリエルから、怒りを孕んだ声が向けられる。
「そんなはずはありません。きっと人違いでしょう」
「いいえ!」
ウリエルを否定する声が響く。その声の主であるイオナは、一冊の本を手に掲げていた。
「人違いなどではありません。この本はラザール・ドレヴァンが晩年に書いた本です」
イオナに近づいたアンナが、その本『ヴェリディシア黙示』を受け取る。
「アンナ様、その本の前付を読んでください」
アンナは静かに表紙を開き、優しい声でゆっくりと読み始めた。
ラザールがウリエルを召喚したこと、彼から力と使命を受けたこと、自らの世界ヴェリディシアを創造し、次代の人間世界では自らが神となることなど、ラザールの欲望を体現したその内容を最後まで読み終えると、静かに表紙を閉じた。
「ば、ばかな……ありえません」
ウリエルの声は、怒りから焦りに変わっていた。
これまでの様子をじっと見ていたダンタリオンが、ゆっくりと話し始める。
「ウリエルよ。其方、良いように使われたのではないか?」
「そんなことありません。ラザールの信仰心は紛うことなく我が主である神に向けられたもの」
「ラザールの言う神は、本当に其方の主かの?」
ダンタリオンの声に、グレモリーが答える。
「ラザールが自らを神と考えていたのであれば、その神への信仰心は自らに向けられたものです」
「然り、そしてラザールは自らの予言を、実行に移そうとして、黄泉の国に攻め入った」
「自らの予言のために、自ら人間を滅ぼすとでも言うのですか……」
覇気の消え去ったウリエルの言葉を、耀が否定する。
「それは違うぞ」
「では、何のためです」
「俺の魔力を奪い取った暁には、ヴェリディシアを人間の世界に降臨させるつもりだったようだ」
「では、黄泉の国を攻めた理由は、御館様であったと——しかし、なぜ、それを」
ダンタリオンの疑問に、耀は短く答える。
「ゾーヤに探らせた」
「人間を滅ぼせば、ワシらのような概念者の存在が危うくなるのに、気づきおったか」
「たぶん、そうだろう。神すら人間の概念上の存在だからな」
耀はソファに背を預け、余裕の表情で天井を仰ぐ。
「まあ、ラザールが死ぬまで童貞を貫いて叶えようとした夢は、俺の前で儚く潰えた、というわけだ」
「うむ、本題に入って良さそうであるな」
ラウムが本来の目的を促すように、話し始める。
「ウリエル、主人のこの状況をつくり出したのは其方に責がある」
「ラウムの言うとおりだ、俺はひとつの身体に、二人の意思がある状況に不便している」
耀は身体を少し起こすと、鋭い視線と共に、黒く蠢き、瘴気と化した黒紫の魔力をウリエルに向ける。
「この身体に束縛されている、俺の世界を切り離せ」
「そのような術、知るはずがない……」
グレモリーの声が、ウリエルの言葉を断ち切る。
「ウリエル、それでは済みません。誰のものとも分からない魂と、相葉耀への償いとして、その術を探しなさい」
「そうか!」
突然の声に、その場の視線が耀に集まった。
「俺は誰のものか分からない魂の記憶を知っている」
「ほう、それはどんな記憶じゃ?」
ダンタリオンの興味深げな問いに、耀はゆっくりと話し始めた。
「俺がこの身体に引き戻されたときに、刷り込まれるように頭に入ってきた。ずっと何だか分からなかったが、ようやく辻褄があった」
耀は目を閉じ、記憶を探るように話し始めた。
「ラザールの死に際して、殉教者という名目で殺された少年の魂だ。残念ながら名は記憶にない。同じ場所で数百人の老若男女が殉教という名目で殺された……」
小さくため息をつき、話しを続ける。
「記憶の最後は、そいつらの命を乞う声、泣き叫ぶ声、ラザールへの怒声、愛する者の名を叫ぶ声が飛び交う部屋で、次々と殺される人間を、ただ震えて見ていた記憶だ」
耀は何かに納得したようにうなずく。
「この記憶は俺が永遠に預かっておこう」
「そんなはずはない。ラザールが死んだ時、魂はひとつしかなかった……」
ウリエルの力のない声に、グレモリーが応える。
「死と同時にヴェリディシアなる世界を創造し、そこに全員の魂を連れ去ったのでしょう。ひとつだけを残して」
「然り、欺罔の才はあるようじゃな」
ダンタリオンの言葉に、ラウムとグレモリーはうなずいた。
全員が何かに思いを馳せているのか、しばらく沈黙に支配される。
その沈黙を破ることすら憚られるように、ウリエルが小さな声で耀に話しかけた。
「身体への束縛を解く術を探しましょう。そのために、拘束を解きなさい」
「いや、まだだ……」
思わぬ返事に、レイが思わず吹き出してしまう。
「——兄様、素敵ですわ」
「俺がうっかり天使のウリ坊を信用すると思うか?」
「では、何を望むのです。我はこの拘束を解けません。このままでは何もできない。それは汝が望むことではないはずです」
間髪入れずに耀の声が部屋に響く。
「人質を寄越せ」
「どこまで神への冒涜をつづけるのです。あなたの罪は深い、それは悪魔の所業です」
ウリエルの言葉を聞き、突然、耀が立ち上がる。その目はウリエルを見据え、静かに話し始めた。
「俺は、この身体を手に入れたときから、既に人間の身体を必要としなくなった」
耀は一歩、ウリエルに近づく。
「そして、神への信仰もなければ、神の秩序も必要としない」
更に一歩近づく。ウリエルも耀の目を見据え続けている。
「人間は欲望のままに、自らの望む幸福を手に入れればいい」
静かな口調で語りながら、また一歩近づく。
「俺はそのために、ひとりの男に手を貸し続けている。その代償は俺が存在するこの身体を生かし続けること」
ウリエルの目の前まで歩み寄った耀は、煽るようにその顔を覗き込んだ。
「——こういう存在を、お前らは何と呼ぶ?」
ウリエルは、耀の顔を睨み返すと呟く。
「——悪魔——」
「やっと気づいたな、ウリ坊」
少し残念な子供を諭すように、耀は続けた。
「お前がこの身体への束縛を解ければ、人質は返してやる」
「解けなければ?」
「何もしない、人質はそれまで逆さ吊りにでもしておいてやろう」
「——断る」
「そうか、それなら腕一本置いていけ。身体への束縛が解ければ、その腕の魔力を頼りに、お前の世界に乗り込んで暴虐の限りをつくしてやる」
次の瞬間、ウリエルが苦痛に表情を浮かべた。
「な、何をするのです」
声は震えていたが、それでもウリエルの眼差しには、かすかな矜持が宿っていた。
「心配するな。腕一本引きちぎるだけだ」
ふいにアンナが身構える。その視線の先にはウリエルにひざまずく『存在』が姿を現していた。
「ウリエル様、お呼びでしょうか」
白いローブに身を包み、背には優雅な白い翼。長く柔らかな髪はふわりと揺れ、透き通るような輝きを放っていた。
ウリエルを見上げるその目は優しく知恵に満ち、右手には輝く宝玉を戴いた杖を携えていた。
「汝にその男の守護天使の役を任ずる」
「かしこまりました」
「最初からそうすればいいんだよ、ウリ坊」
刹那、杖が振るわれ、その軌道は鋭く耀の顔面を捉えた。
「元気のいい天使だ」
声と同時に、一瞬で伸びた耀の腕が、守護天使の顔面を掴み、吊るし上げる。
「子供の前だ、この頭を握りつぶすのは止めておこう」
「その男に逆らってはなりません」
守護天使は、ウリエルの言葉に反応すらできない。
「殺したのですか?」
「いや、元気に生きてる。気を失っただけだ」
耀が手を離すと、守護天使は床に落ち、そのまま倒れ伏した。
「これで守護ができるのか?」
「我からの用向きは、この者を通じます。大切に扱いなさい」
「そうか、ウリ坊。上手い逃げ道を作ったな」
「何とでも言いなさい」
「心配するな。そういう役目があるなら、無下には扱わない」
次の瞬間、拘束を解かれたウリエルは、すぐにその手から、守護天使に光を放ち傷を癒やす。
意識を取り戻した守護天使の瞳には、わずかな動揺と、自らの無力への痛みが宿っていた。だが、ウリエルの言葉は、その迷いすら押し流した。
「汝はその男に逆らってはなりません。その男の意のままに振る舞うのです。それが汝の命を繋ぐ手立てですから」
「殿は女子であれば大切に扱うのじゃ」
「ミスティさん、余計なことを言わないでください!」
アンナの静止は既に手遅れだった。性別の判断がつかなかった守護天使は、いつの間にか美しい女性の姿に変わっていた。
「かしこまりました。ウリエル様の仰せのままに」
守護天使の返事にうなずいたウリエルを、まばゆい光が包み込み、その輪郭は徐々に溶けていく。残されたのは、仄かに残る気配と、静寂だけだった。
耀はソファに戻ると、ゆっくりと腰をおろす。守護天使はその背後に立ち、目を閉じながらも周囲を警戒している。
背後に目をやり、守護天使の姿に小さくため息をついた耀は、周囲を一瞥しゆっくりと口を開く。
「言いたいことがあるなら、聞いてやろう——」
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。




