大天使召喚
結局、僕はみんなが帰ってくるまで、真由美に絞られた。
記憶にない以上、そうとしか言いようがなかったが、真由美は納得してくれたのだろうか。
夕食は全員でいつもより賑やかで明るい時間だったが、いつもより多い女性たちの会話を聞かされながらの食事は、どことなく居心地が悪かった。
その後は、レイと奈々美ちゃんが一緒にお風呂に入ったり、アンナが綾乃さんと何やらコソコソ話したり。それぞれ楽しく過ごせているようで、何よりだろう。
ただひとり、真由美だけは、じっと僕を監視しているようだった。
全員が囲炉裏のあるリビングに揃ったところで、イオナが話し始める。
「お願いしていましたとおり、悪魔を召喚します」
「やったー!」
イオナはそんな簡単な感じでいいのか?そして、奈々美ちゃんの喜びようは何だろう——オカルト好きなのかな?
「あの、僕からもお願いします。こんな機会はめったにないので……」
僕のたどたどしい言葉に、奈々美ちゃんは拍手を送ってくれた。
いろいろ不安なことができたが、僕が最初にラウムを呼び出す。
ラウムが来れば、この女だらけの空間が解消されるはずだ。
「ラウム、来い」
僕が小さく呟くと、部屋に黒い霧がゆっくりと広がる。それはまるで、生き物のようにうねりながら、まっすぐに前を見据えている僕の隣に集まるのが分かる。
霧は次第に渦を巻き、やがて、静かにひとかたまりとなった。そして、その中心から、ゆっくりと人影が浮かび上がり、霧が音もなく消えたとき、僕の隣にはラウムが膝を折っていた。
「久しいのであるな」
落ち着いた声が響く。
「そうだな。最近、近くないか?」
僕の問いを無視して、ラウムはゆっくりと視線を移した。その先では、綾乃さんがひしと奈々美ちゃんを抱きしめている。
「ほう……汝が。その心、案ずるでない」
ラウムはわずかに目を細めると、穏やかにうなずいた。
アンナが綾乃さんに歩み寄り、そっと膝をつく。その大きな身体で二人を包み込むように抱き寄せると、静かな声で告げた。
「大丈夫ですよ。もし何かあれば……あの悪魔、私が倒します」
その言葉に、ラウムは静かに微笑んで応えた。
母娘が少し落ち着いたのを見た僕は、イオナに視線を向ける。
イオナはうなずき、美しく輝く指輪を左手の中指にはめた。その光は鼓動するように淡く揺らぐ。次に、もう一つの指輪を取り出す。まるで深い闇を映したかのような指輪を、彼女は右手の中指にはめると、そっと目を閉じ、指先に祈りを込めた。
その瞬間、一冊の本が空中に現れる。ふわりと舞い、風を孕むようにページが捲れ、そこから一本の腕が伸び出すと、本を裏返すように、ダンタリオンの全身が抜け出してきた。
「ほう……イオナよ。ついに、ワシを呼び出せるようになったか」
「全ては、ダンタリオン様のお力です」
イオナは恭しく頭を下げる。
ダンタリオンはゆっくりと僕に視線を向け、口元を歪めた。
「御館様も久しいの」
「ああ、久しぶりだ。酒でも勧めたいところだが、用が片付いてからでいいか?」
「それまで、ワシとイオナの魔力がもつかの?」
ダンタリオンは息を短くはき、微かに笑った。
「今度は奈々美ですわ」
レイが奈々美に紙と鉛筆を手渡した。
「奈々美様、これをお使いください」
イオナが彼女の右腕に、まばゆいほどの光を放つブレスレットをそっとはめる。
奈々美は一息つくと、迷いなく紙の上に魔法陣を描き始めた。その動きは滑らかで、まるで最初からそこにあったものをなぞるようだった。
やがて書き上げられた魔法陣が静かに淡い光を帯びると、彼女はそれを少し広い場所へと置く。
刹那——空気が震え、魔法陣の中心から巨大な木製の扉がせり上がるように現れた。扉がゆっくりと開くと、中からラクダの背に腰を下ろしたグレモリーが姿を現した。
繊細な細工の装飾が施された鞍に身を預けた彼女は、悠然と視線を落とす。
「美しき幼子、奈々美ちゃん、再び会えて嬉しいですよ」
彼女の声は穏やかで、どこか愉悦を含んでいた。
奈々美は一度瞬きをし、グレモリーを見上げて微笑んだ。
「うん、私も。また会えるって思ってた」
僕は驚いた——綾乃さんではなく、まさか奈々美ちゃんが召喚するとは。
だが、ひとつはっきりと言っておくべきことがある。ここは僕の家だ。
「悪いけど、ラクダは外に出してくれないか?」
「これは失礼しました」
グレモリーは静かにラクダを降りると、その首筋を軽く撫でた。アンナがすっと彼女の元に歩み寄り、短く声をかける。
「私が外へ」
グレモリーは微かに笑い、うなずいた。アンナはラクダの手綱を取ると、ゆっくりと外へと導いていく。ラクダは素直に従いながらも、一度グレモリーの方を振り返った。
「置いて帰るなよ」
「心配いりません。私の召喚が解ければ、共に消え去ります」
グレモリーの言葉は落ち着いていて、その口調にはどこか余裕が感じられた。
「人間の世界で三人が顔を合わせる日がくるとはの」
「もう、二度とないでしょう」
「——然様であるな」
ダンタリオンは、老いた男の顔をこちらに向け、ゆっくりと語りかける。
「さて、御館様よ。大天使を召喚するとイオナから聞いたが」
「ああ。この身体にいる『もう一人の僕』を追い出す手立てが、ウリエルにあるかもしれないと思ってな」
「ウリエルならば知っているやもしれません」
「ふむ……ウリエルなら、あるいは。光の大天使として知られておるゆえ。堕天したルシファーの『兄弟』だと語る者もある」
「天使を呼ぶの?」
奈々美ちゃんの不安げな声に、グレモリーが穏やかに微笑む。
「恐れることはありません。母上と一緒に、私のそばにいなさい」
「そうじゃ、それが一番じゃ」
奈々美ちゃんは嬉しそうにうなずき、綾乃は少し戸惑いながらも、グレモリーの近くに歩み寄る。
無邪気にグレモリーの膝に腰かけた奈々美ちゃんを、綾乃さんは一瞬、息を呑んで見つめた。だが、奈々美ちゃんは気にすることもなく、グレモリーに笑顔を向けている。
「真由美は耀様から離れないように」
「はい。……イオナさんは?」
真由美の問いに、イオナは答えず、代わりに一枚の紙を僕に差し出した。
「本は、他の用途に使うかもしれません。ですので、魔法陣は紙に写しておきました」
それだけ告げると、彼女は真由美に軽く微笑み、ダンタリオンの隣に静かに腰を下ろす。
「私はダンタリオン様とラウム様に挟まれておきます」
イオナは仕方なさそうに言ったが、対天使となれば、何気にそこが一番安全なんじゃないだろうか?
「じゃあ、やろうか」
僕は手に持った魔法陣に視線を落とす。
……おかしい、いつもなら手に持った時点で魔法陣が発動するはずなのに、今日は何も起こっていない。
「御館様よ。魔力を込めねばならぬ」
紙を手に持ったまま焦る僕を、笑顔で見つめる二人がいた。
「アンナ、兄様には魔力が必要ですわ」
「そうですね。作りすぎた分を使う時がきました」
「ちょっと取ってきますわ」
もう、嫌な予感しかしない。的中しないことを願いながらも、なんとか魔法陣を発動させようと念じる。
必死の努力も虚しく、レイは黄色い液体がたっぷり入った瓶を持って戻ってきた。
「真由美、兄様を押さえてくださいまし」
真由美がしっかりと僕を掴む。逃れようとするが身体が動かない。振り向くと、ラウムも僕の身体を押さえている。
瓶を手に持ったレイが笑顔で僕に近づいてくる。まずい何とか逃……
次の瞬間、僕の頭は無理やり天井を向かされた。そこには僕の頭をしっかりとつかむ、笑顔のアンナがいた。
「ご主人様、お薬の時間です」
「いや、さっき『作りすぎた』って言ってただろう」
アンナはにこりと笑い、まるで耳を貸す気配もない。
「気のせいです」
必死に口を閉じた僕を見て、アンナが声を上げる。
「イオナさん!」
イオナが近づいてくるのが分かる。
「私は耀様を愛していますが、正妻のアンナ様に……逆らうほどの勇気はありませんので」
そんなことを言いながら、なぜ笑顔なんだ?何か言ってやりたいが、口を開くとまずい……
次の手を考える間もなく、イオナに鼻をつままれた。息がつまり思わず開いた僕の口に、レイがあの液体を容赦なく流し込む。
「兄様、こぼさず全部飲んでくださいまし」
「アンナ様とレイ様特製の『聖水』です。魔力がみなぎりますよ」
いろいろ言いたいことはあるが、『聖水』ってどういう意味なんだ?まさか……
絶え間なく流し込まれる液体は、いつも飲まされていたものより、粘度が高いような気がする。水飴のように粘り、喉を這うたびに悪寒が走る。飲み込むたび、何かが体内に巣食うような感覚があった。
「あれは、飲んでも大丈夫なのかの?」
「どうなんでしょう、まだ抵抗する素振りがありますので、死ぬことはないでしょう」
悪魔二人の会話も気になるが、ようやく口から離された瓶に安堵のため息をついた。
「兄様、すごいですわ。全部飲んでしまいましたの」
いや、無理やり飲まされたんだが。
「ご主人様、濃いのもお口に合ったようですね」
全く合っていません。胸が気持ち悪いです。
「さすが、聖水ですね。身体に魔力が漲ってきています」
イオナ、後で知ってることを全部話せ。
言ってやりたいことはたくさんあるが、喉に纏わりつく『聖水』のお陰で、声に出せない。
「あなた……大丈夫ですか?」
心配そうに少し涙を浮かべた真由美の表情と、優しい言葉に癒やされる……いや、真っ先に僕を押さえつけたよな。
何事もなかったかのように、全員が元の位置に戻る。
そのとき、真由美がそっと一枚の紙を差し出した。魔法陣の描かれたそれは、さっきの騒動でしわくちゃになっている。
……これ、本当に大丈夫か?
僕が真由美の手から紙を受け取った瞬間——
魔法陣が淡く、しかし確かに金色の光を放ち始めた。
手に持ったままでは不安になるほど強い輝きに、僕は思わず紙を囲炉裏の上へとそっと置いた。今は閉じられている、静かなその中心に。
次の瞬間——眩い光が紙の中心から立ち昇った。金とも白とも判別できないその光は、音もなく柱となって空間を貫き、部屋全体が揺れるような錯覚に包まれる。
空気が震え、視界が歪む。熱気すら感じるその光に、僕は思わず目を閉じた。
「我が召喚されるのは……千年ぶりか」
声は、男女の区別さえ曖昧な、不思議な響きを持っていた。
直接頭の中に語りかけられているようで、体が自然と強張る。重さではなく『存在の圧』に近い何かが、確かにこの空間を支配していた。
ゆっくりと目を開くと、そこに立っていたのは、一人の『存在』だった。
輝く金の髪が背に流れ、目は燃えるように光を湛えている。
白と金の長衣は風もないのに静かに揺れ、背中には光に透けるような大きな白い翼。
その姿は、ただ美しいだけではない。近づくことすら憚られるほどの威厳と、どこかすべてを見通すような冷静さを漂わせていた。
ただそこに立っているだけで、空間の重心が変わったような感覚。
何も言わずとも、その目に見つめられれば、心の奥にある弱ささえ暴かれそうだった。
まさに——知恵と光の象徴。
その姿に、誰もが言葉を失っていた。
僕を見据えたその存在は、目を見開き口を開く。
「ラザールですか。汝であれば我の召喚もできるはずです」
一瞬、部屋の空気が止まった。
部屋の光景が目の前を飛ぶ。
アンナとレイは殺気に満ちた目で、中心に立つ存在を見据えている。
真由美は僕にしっかりとしがみつき、イオナは最も安全な場所で、その存在を睨みつけている。
綾乃さんと奈々美ちゃんは少し身体を震わせ、その二人をグレモリーが抱き寄せる。
ラウムとダンタリオンは目を閉じている。
そして……僕は、今までにない頭の痛さと、胸に湧きくる何かに苦しむ。
「まさか、汝は我より与えられし使命を忘れたのですか、ラザール。愚かにも。」
胸の奥が、熱でも冷たさでもない何かで満たされていく。心臓ではなく、もっと奥、魂の中心を掴まれているような感覚——頭の奥で、誰かが僕の名を呼んでいる気がする。
僕の異変に気づいた真由美が、庇うように抱き寄せてくれた。
「ウリエル。まさか其方が良からぬことを仕出かしたのかの?」
ダンタリオンが落ち着いた声で問うと、その存在は冷笑し、鼻で笑った。
「悪魔風情が我に問うか?面白いです」
「面白いのであるな?では話してみよ」
ラウムの冷徹な声が静かに響く。
「悪魔に理解できるのですか?」
ウリエルが挑発するように問う。
「それは聞いてみなければ分かりません」
グレモリーは肩をすくめ、少し嘲るように言った。
「では、このラザールの話しをしましょう。悪魔が相手できる人間ではないと理解できるように」
「あなた、大丈夫?」
真由美が僕を抱きしめ、心配してくれているようだ。
これは痛みや苦しさではない、何かを吐き出したい、だが吐き出すべきものがない。
心の奥の記憶の回廊を彷徨う……だが、何もない。
「記憶が戻るまでに時間がかかりそうですね」
ウリエルの声が頭の中に響き渡る。邪魔をしないでくれ、ただ静かにしていてほしい。
意識が遠のく……目の前で起こっていることが、遠くの世界の出来事の様に感じられる。
「では、先に話して差し上げましょう」
ウリエルは、耀を見据えたまま、冷徹に語り始めた。
「この者は、ラザール・ドレヴァン。敬虔なる神の子である。我は千年ほど前、この者に召喚された」
「人間がウリエルを召喚できるものかの?」
「性欲を魔力に換えることができる。その生まれ持った能力を用い、神に近づきたい一心で、我を召喚するだけの魔力を得たのです」
ウリエルは冷徹な目で、まるで自分の存在を再認識させるかのように、耀を見下ろした。
「その類まれなる信仰心と、我への忠誠に応えるべく、我はこの者に力を授けました」
「それは?」
イオナの声に、少し弾むような声でウリエルが答える。
「人間が千年生きても生み出せぬほどの魔力と、それを使う術を授けました」
「なるほどの……だが、その人間がここに存在する理由になっておらぬが?」
ダンタリオンがウリエルの真意を計るように問いかける。
「それは、ラザールの願い。千年後の人間は溢れる外因に踊らされ、神への信仰は薄れる。よって、自らその世界へ渡り、神に忠実な人間のみが豊かに暮らせる世界を作りたいと」
「神に従う者の世界であるか」
ラウムは少し呆れた表情を浮かべる。
「そう。その願いを叶える条件として、我はその世界を実現することを、ラザールの使命としたのです」
ウリエルが語るその言葉一つ一つが、神の意志をそのまま受け入れることが当然であるかのように響く。彼の信念は揺るぎなく、疑う余地すら与えない。
「私が求めるのは神の秩序、ただそれのみです。神の秩序こそが、この世界を正しく導く唯一の道なのです」
その冷徹な言葉には、人間に対する一切の同情や理解が感じられなかった。
ウリエルにとって、神の秩序は絶対であり、そのためならば、どんな犠牲も厭わないのだろう。
「神の秩序に従う者は全て救われ、神に背く者は排除される。それが我が信じる道、そしてラザールに与えられた使命です」
その一言一言が、彼の信念の強さを裏付けている。ウリエルにとっては、この世界のすべての不正や混沌も、神の秩序によって正されるべきものにすぎないのだろう。
「そんなの嘘です!」
突然、真由美の声が響き渡る。
「旦那様は旦那様です!他の誰でもありません」
真由美の叫びに、ラウムも声を合わせる。
「然様であるな。其方とて死んだ人間を生き返らせることはできまい」
「悪魔にしては賢しいですね。そのとおりです」
「ウリエルにもできないことがあるのですね?」
そう言って、グレモリーは卑しめる表情を浮かべているが、その腕にはしっかりと綾乃と奈々美を抱き寄せている。
「はい、なので幼くして亡くなる運命の異教徒に、ラザールの魂が宿るようにしました」
「なぜそんなことをしたのです?」
アンナの怒りを孕んだ声が響く。
「死しても神の祝福を受けられぬ異教徒への救済です」
「くだらないですわ!」
レイも我慢できずに声を上げた。
「そうでしょう。しかし、神のもたらす秩序は、すべての人間への救いなのです。受け入れるしかありません」
「そんな世界が美しいのかの?」
ダンタリオンの呆れた声に、ウリエルは一瞬の冷たい笑みを浮かべる。
「契約に縛られる悪魔には理解ができないでしょう。神の秩序に従えば、すべての人間が神の祝福を受けられるのです」
その言葉には揺るぎない自信と冷徹さが感じられる。彼の目には、全てが決まっているかのような優越感が漂っている。
「ダメ、あなた!」
耀を抱きしめていた、真由美の悲鳴のような声を聞き、全員の視線が耀に集まる。
耀は頭を抱え、うつむき、そして……微笑んでいた。
次の瞬間、耀の身体から黒紫色の霧が激しく吹き出し、部屋を瞬く間に満たしていく。
真由美が必死に耀を抑えようとするが、その手は彼に集まり始めた霧に阻まれ、何もできない。
瞬く間に耀の身体は、黒紫色の霧に包まれ、全身を飲み込まれてしまった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。
出来上がっているあらすじから考えて、R15設定にしました。
 




