第百十羽. セリア先生と幼き少女達の始まり
街全体が夜気に覆われ、街灯の明かりが灯りはじめていた。ナジアを抱えたセリアとリディアは、貴族街にあるセリアが居を構える屋敷に向かっていた。
屋敷の門が見え始めた頃、その重厚な門が静かに開きはじめる。そこには執事服を身に纏った一人の老紳士が寒空の中、表情一つ変えず佇んでいた。セリアは事前に念話で帰宅を伝えていた。それを受けてベルゼビュートが出迎えたのだ。
「セリア様、お帰りをお待ちしておりました。」
恭しく頭を下げるベルゼビュートに対して、セリアも言葉を重ねる。
「ベルゼビュート、ありがとう。」
「とんでもございません。従者として当然のことです。」
門をくぐると、屋敷の輪郭が月明かり中で浮かび上がる。目の前に聳える屋敷にリディアは思わず足を止め、目を丸くして見上げる。幼い頃から母子で暮らし、高位冒険者である母の稼ぎで生活には不自由したことはなかった。それでも家族三人ほどが住む家しか知らないリディアにとって、こうした大規模な邸宅は街で時折見かけるだけの遠い世界のものだと思っていた。その遠い存在が今自分の目の前に確かに存在した。
冷たい夜気の中で、屋敷の雄大さに思わず、リディアの喉が小さく鳴る。そしてリディアは思わずナジアを抱えるセリアを見上げた。
ーーーセリア先生って一体何者なんだろう。貴族なのかな・・・?
そんなリディアの視線を気が付いたセリアは、優しく語りかける。
「身体が冷えるから、早く家に入りましょう。」
「では、参りましょう。」
門を締め終わったベルゼビュートが先頭を歩き、玄関までの道のりを先導する。日が落ちた庭園は暗く、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ程度だった。そんな庭園をリディアはセリアの後ろで忙しそうに左右に首を振り物珍しそうに見回していた。
ベルゼビュートによって開かれた玄関扉。その中に一歩足を踏み入れたリディアは、その明るさ、温かさに目を見開く。そしてそこに並び立つメイド、特に先頭にいるエルフに目を奪われた。白磁のような白い肌に流れるような綺麗な金髪、その美しさに思わずリディアは見惚れていた。そんな少女の視線にエルフの女性は優しく微笑みかける。途端に気恥ずかしくなったリディアは、セリアの後ろに隠れるように一歩下がる。
「セリア様、お帰りなさいませ。」
「ただいま、アル。」
「そちらの少女が、リディア様ですか?」
「あぁ、そうだ。リディア、挨拶を。」
「リ、リディア・エルリックです・・・。」
か細い声で自己紹介するその声は、尻つぼみになっていった。
「アルジェントと申します。よろしくお願いしますね。」
「アル、客間の準備できている?」
「はい、二人分、既に準備は整っています。」
「まずは、ナジアを客間に。」
セリアは自分の腕の中でいまだに気を失っているナジアに視線を向けた。
「では、私がご案内いたします。」
ベルゼビュートがセリアの前へと出ると軽く頭を下げた。
「それじゃ、アルはリディアを頼む。」
「承知しました。」
軽く頭を下げるアルジェントの横をセリアはベルゼビュートを伴って通り過ぎる。
「では、リディア様、居間にご案内しますね。」
「は、はい・・・。」
リディアは不安げにセリアの背中に視線を向けるが、アルジェントに促されて居間へと案内される。セリアはそんなやり取りを背中で感じながら、客間のある二階へとゆっくりと向かっていった。
◇◇◇◇◇◇
客間に足を踏み入れた瞬間、温かな空気がふわりと肌を撫でた。アルジェントが気を利かせて客間の暖房をつけていた。ベルゼビュートが室内の灯りを調整し、淡い橙色の光が寝台と壁を柔らかく照らす。セリアはナジアを抱いたまま寝台へ近づき、その体をそっと横たえる。毛布をかける手つきは、戦場に立つ者とは思えないほど静かで優しかった。
その動作を終えたセリアはゆっくりと立ち上がり、入り口付近に控えるベルゼビュートへ意味を込めた視線を送った。ベルゼビュートは微動だにしないまま、ただ一礼し、音を立てぬように扉を閉めた。
扉が閉じると同時に、セリアは片手を軽く払った。その動きはまるで空気を整えるようで、すぐさま透明な揺らぎが部屋全体を包み込んだ。
セリアが張った遮音結界により、外の世界と隔絶するような静寂が訪れ、客間は閉ざされた空間と化した。その静けさの中、セリアは寝台のナジアへと視線を向ける。
「・・もう、意識があるのでしょ?」
淡々としたセリアの声が静かに客間の中に広がる。しかし、その言葉の裏には確信があった。ナジアの睫毛が微かに揺れ、閉ざされていた瞼がゆっくりと開く。
薄暗い室内の光を受けて、その瞳が鈍く濡れたように光った。
「・・・気づいていたんだ。」
掠れた声には驚きよりも、悟られた恥と恐れが混ざっていた。
「いつから気が付いていたの・・・?」
問いかけは震えているのに、視線だけは必死にセリアをしっかり捉えて離さなかった。
「休憩中。」
セリアは一片の迷いもなく答えた。戦闘の後、リディアを休ませたあの短い時間、その時にはすでにナジアの意識は戻っていた。
ナジアの指が痙攣するように動いた。そして次の瞬間、反射的に跳ね起きるようにベットの上に立つと、隠し持っていた短剣を抜き放つ。
鋭い金属音が空気を裂く、はずだった。だが、ナジアの足はその場から一歩も動かない。セリアの背後に控えるベルゼビュート。その存在が、ただ立っているだけで重圧のような威圧がナジアにのしかかってくる。
影が濃くなったような錯覚すら覚えるこの状況に、ナジアは喉が乾いていくのを感じた。そして、頬を伝う汗が一筋を感じながら、絞り出すように声が漏れる。
「な、何者なんだ・・・あんた達は・・・。」
短剣を持つ手が震え、刃先が揺れ動く。
「後ろの執事も、やばいが・・・セ、セリア・・・あんたからは、それ以上に、やばい感じが、する・・・。」
ナジアの発する声が震える。戦ったからこそ分かる絶望感。ただそこに座っているだけなのに、途方もなく圧倒的な存在感。
セリアは肩を軽く竦める。
「それは、褒め言葉として受け取っておくわ。」
淡々とした言い方が、逆にナジアの恐怖を強める。
「私を・・・どうするつもりだっ。殺すなら・・・早く殺せっ。組織に戻っても、待つのは・・・死だ・・・。」
短剣の切っ先が揺れ、短剣がナジアの手から零れ落ちる。短く息を吐いたセリアは、真っ直ぐにナジアを見つめて静かに口を開く。
「ナジア。私はあなたをどうこうするつもりは、一切ないわ。」
「・・・え・・・?」
驚きの表情を見せるナジアを見つめながら、セリアは言葉を続ける。
「それより、あなたを支配していた暗示は取り除いた。身体は・・・かなり楽になっているはずよ。」
セリアの言葉に、ナジアは自分の胸の奥へ意識を向けるように目を閉じる。そして、ナジアの目が大きく見開かれ、震える息が漏れた。
今まで決して消えることの無かった圧迫感が綺麗に消えていた。ナジアの身体が力が抜け、膝から崩れ落ちていく。
「・・・本当に・・・?」
「えぇ。」
セリアの声は落ち着いていたが、その目には確かな真実だけが宿っていた。
「組織に操られ、命じられてリディアを殺そうとした事実は変わらない。でも、これからどう生きるか。それは選べるわ。」
セリアの言葉にナジアは顔を歪める。今まで自分で何一つ選ぶことなく、命じられるままに生きてきたナジアにとって、セリアの言葉は砂漠に一人置き去りにされたに等しかった。
「・・・そんなこと、言っても・・・私にはどうしたらいいのか、全くわからない。それに・・・組織からは、逃げられない。抜けた者は・・・必ず殺される。それに、私は・・・。」
言葉が途切れ、ナジアの目が揺れる。
「今すぐに、とはいかないけど・・・それについては心配いらないわ。」
セリアの声は静かだったが、その奥に確信と覚悟があった。さらにセリアは言葉を続ける。
「それと・・・どうしたらいいのか分からないなら、学院生活で自分のやりたいことを見つけなさい。何でも構わないから。自分の未来のためにっ。」
セリアの優しさにナジアの瞳から涙が零れ落ちる。とうに枯れ果てたと思っていた涙が再び流れ落ちたことにナジアは動揺し、しばらくの間そのまま泣き続けた。
ナジアがようやく落ち付けを見せた頃、まるで狙っていたかのようにヴェインから連絡が入る。
『セリア、いま大丈夫か。』
ヴェインの声が、セリアの脳の奥に直接響いた。
『えぇ。問題無いわ、何か見つけたみたいね。』
『あぁ、しっかりとアジトまで案内してもらったっ。』
ヴェインの言葉に、セリアはこれからの計画を巡らせる。
『それで、これからどうするっ。』
淡々とした問い。だが、それは、次の行動を委ねる、という合図でもある。
『・・・すまないけど、しばらくそもまま見張ってて。』
『構わないが、何故だ。』
ヴェインの端的な問い。だがそれは、セリアがもう一つ先を見据えていることを、ヴェインが当然のように察しているに他ならない。
セリアはナジアの横に腰を下ろすと、ナジアの頭を優しく撫でながらヴェインの問いに言葉を返した。
『組織自体を壊滅させる必要がある。でも、アジトがそこだけとは限らない。それに・・・。』
セリアは一旦言葉を切り、間を置いて再び話し始める。
『近日中に依頼主と接触を図るはず。』
ナジアは頭をセリアに撫でられよほど気持ちがよかったのか、そのままセリアの膝に頭を預けた。そんなアジアの横がを眺めながら、ヴェインに指示を出す。
『ヴェインには、その依頼主の正体を探ってほしい。』
ヴェインの能力、最も得意とする役割を理解した上での、明確な任務。
数瞬の間を置いて、ヴェインの低く短い返事が返る。
『・・・そういうことか。了解した。』
次の瞬間、波が静かに引くように念話が途切れた。ナジアは孤児院育ちで甘えたことなど殆どなかったのだろう。セリアの膝に顔をうずめて無防備な姿をセリアにさらしていた。
「セ、セリア、先生。私・・・このまま学院に戻っていいのかな。」
戦闘時から呼び捨てだったナジアがセリアのことを先生と呼び。か細い声でセリアに問いかける。それは迷いと恐れと、わずかな希望を揺らしながらセリアへと向けられていた。
「なんで、そう思うの。」
セリアは急かさず、静かに問い返した。
「だって・・・私・・・。」
「今回のことを口外するつもりは無い。ナジア、リディア、そして私しかしらない。あとはリディアと話しをしてみるといいわ。」
押し黙るナジアに言葉柔らかく続けるセリア。
「もし、心配なら私も同席するわ。」
「うん。」
セリアのその言葉にナジアはセリアの腰に手を回し、小さく、けれどはっきりと静かに頷いた。そんな時、ナジアのお腹が、場もわきまえず部屋一杯に鳴り出す。
「お腹もすいているようね。食事にしましょう。」
「でも、私・・・。」
ごねるように顔を伏せたナジアに、セリアは優しく、しかし淡々と告げる。
「謝るなら、早いほうがいいと思うわよ。」
その言葉に背中を押されたナジアはゆっくりと立ち上がり、セリアと並んで扉へ向かう。
扉が静かに開き、ベルゼビュートが恭しく二人に対して一礼する。
セリアが通り過ぎる瞬間、ベルゼビュートがほとんど息に溶けるような声で囁く。
「それにしても・・・セリア様は、お優しいですね。」
セリアはわずかに肩を揺らし、振り返らずに微笑んだ。
「知らなかったの?」
その笑顔には、疲れも覚悟も、そして静かな優しさもすべて混ざり合っていた。
◇◇◇◇◇◇
居間では、リディアがアヤメ、リュカ、フレイアに囲まれて座っていた。つい先ほどまでの怯えが嘘のように、リディアの顔には笑顔が浮かび、三人と話している。緊張の糸が切れ、ようやく幼い少女らしい表情を取り戻していた。
その時、扉が静かに開き、セリアとナジアが姿を現した。リディアがその姿を見た瞬間、リディアの顔から血の気が引き強ばっていく。
次いで、震える手が反射的に武器へと伸びる。
「・・・っ!」
しかしその腕を、すっと伸びたアヤメの手が制した。リディアは手の先にあるアヤメの顔を静かに見上げた。その瞳には困惑と警戒が混ざった色が浮かんでいた。だがアヤメは、その視線を受けても、ただ静かに首を横に振るだけだった。その意味を完全に理解できなくても、リディアは武器に添えた指をゆっくりと離した。
セリアは一歩前に出て、そっとナジアの背中に手を添える。促されるように、ナジアは震える足を前へと運ぶ。
一歩。もう一歩。
自分の意思で、リディアの前へ。
そして。
「ご、ごめんなさいっ!」
ナジアは勢いよく頭を下げた。その声は震え、身体も震えていた。
「わ、私は・・・リディア、あんたを・・・その・・・暗殺者として、狙ってた・・・。」
告白というより、罪を絞り出すような言葉だった。
居間の空気が静まり返る。リュカとフレイアは何が起こっているか分からず、キョトンとした表情を浮かべリディアとナジアを交互に見ていた。
その沈黙の中で、セリアが一歩、ナジアの隣に並ぶ。そして、ごく静かに言葉を添えた。
「ナジアは確かに暗殺者として、リディア、あなたを狙っていた。」
リディアの肩がわずかに震える。だがセリアは続けた。
「だけど、今のナジアはもう暗殺者ではないわ。私が保証する。」
そこで一呼吸置いたセリアは柔らかい声で言葉を紡ぐ。
「だから・・・ナジアと友達になってくれないかしら。」
セリアの言葉を聞いたリディアは、ゆっくりと顔を上げた。その顔はまだ青白さが残っているが、先ほどまでの強ばりは消えていた。深々と頭を下げたままのナジアを、リディアはじっと見つめていた。ナジアは自分の拳をぎゅっと握り締め、肩を震わせている。謝罪の言葉以上に、その姿がすべてを物語っていた。
リディアは一歩だけ、ナジアに近づいた。そして、ほんの少しだけ視線を落とし、胸の奥にまだ残っている恐怖と混乱を、ひとつひとつ飲み込むように息を吸った。
「・・・ナジア。」
呼ばれた名に、ナジアの肩がびくりと震える。そしてゆっくりと、恐る恐る顔を上げる。リディアはしばらく何かを探すようにその瞳を見つめ、やがて小さな声で続けた。
「・・・狙われたこと、すごく怖かったよ。でも・・・セリア先生が保証するなら、ナジア、私は・・・あなたを信じるっ。」
言葉はそこで止まり、落ちた沈黙の中で、リディアは自分の手を胸の前でぎゅっと握りしめた。そして決心したように、ナジアへ手を差し出した。
「・・・私でよければ・・・友達になってほしい。」
驚きに目を丸くしたナジアは、何度も瞬きをしてから、涙が落ちそうになるのを必死にこらえつつその手を両手で包み込んだ。
「・・・いいの・・・? 本当に・・・?」
「うん。」
リディアは笑顔で静かにうなずくと、ナジアはその場に崩れ落ちそうなほど安堵し、震える手でしっかりと握り返した。その様子を見守っていたアヤメは小さく微笑み、リュカとフレイアは二人が握手した瞬間、ただ仲直りしたことだけは理解したようで、和やかに笑っていた。
セリアは二人の手が確かに結ばれたのを確認し、柔らかな声で告げる。
「さて、食事にしましょう。」
その後、セリアの指示を受け、ベルゼビュートとアルジェントが静かに動き出した。温かな料理が順にテーブルへ並べられていく。湯気の立つスープ、焼き立てのパン、香りの良い肉料理に、色鮮やかな野菜。見たこともない料理の数々にリディアとナジアは、先ほどまでの緊張が嘘のように、笑顔を絶やさず料理を堪能していた。
部屋の空気にじわりと温かさが広がり、リディアとナジアは向かい合わせになり、ぎこちなくも自然に会話を始めていた。
その光景を見ながら、セリアは静かにほほ笑む。




