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【プロット】花霞の頃
春の風が山あいを撫でるように吹き抜けると、桃と桜と梅が咲き誇る谷間に、やわらかな霞が立ち込めた。それは霧とも違い、煙とも違い、まるで花々の吐息が宙をたゆたっているかのようだった。
人はそれを「花霞」と呼ぶ。
それを見るたび、里の人々はこう言い伝える。
「花霞が立つ夜、忘れられた想いが戻ってくる ――」
この谷に戻ってきたのは、七年ぶりだった。
風間 梓は、ふと立ち止まり、木々の間から霞のたなびく谷を見下ろした。
かつて、幼き日々を過ごしたこの土地。
だが、記憶はところどころ薄れていて、それを埋めるかのように霞は漂っている。
「……やっぱり、いる気がするな。あの時の ――」
梓のつぶやきは風に攫われ、誰の耳にも届かない。
ただ一つ、谷の底で咲く一本の古木の桜だけが、その言葉を聞いたかのように、わずかに枝を揺らした。
その夜、梓は夢を見た。
それは、花霞の向こうから歩いてくる誰かの夢だった。