13.この世界で1番欲しいものはこの手に
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「……あの日、お前を泣かせたかった訳じゃないんだ」
自分の頬に手を当てて、とつとつ話し始めたセフィにリディアールは息を呑む。
“なんで、この人は私を喜ばせるのが上手いのかしら”
自分を悲しませてしまった事を謝る相手を見つめながら、リディアールは自分に触れる手の温もりに嘆息する。他の誰に触れられてもこんなに緊張しないのに、彼だけはやはり自分の特別なのだ。
“……欲しい。やっぱり私はセフィが欲しい”
セフィに触れらている頬から汚染されていくようにその想いだけがリディアールの胸を占める。ジュリアから望めば何でも手に入れられると背を押されても、心のどこかに迷いはあった。
『勇者と魔王』
今は争いのない世界とはいえ、かつては命をかけて闘う事を強いられた自分という存在をセフィが受け入れてくれるかが心配だった。
ーでも
セフィの紡ぐ言葉も自分に向けられた眼差しも、その全てがそれは杞憂だと囁く。彼もまた自分だけを欲しているのだと伝わってくる。そう思う自分の前でセフィはふと、目線を伏せた。
「勇者の俺がこんな事を言うのはおかしい事かもしれない」
その言葉にリディアールの胸に痛みが走る。どうしてただ勇者として生まれ落ちただけのセフィがこんなにも傷つくのだろうか。そう思う自分の前でセフィはゆっくりと自分に向かって言葉を紡いでいく。
「お前も分かってるだろうけど。この学園を出たら、俺達はもうこうして一緒に過ごす事は出来ない。そうなったら俺にはもうお前が泣いても、泣き叫んでも涙を拭ってやれなくなる」
その言葉にリディアールは唇を噛みしめる。
“私もよ………セフィ”
セフィが自分の涙を拭えなくなるのなら、自分もまた涙をセフィの涙を拭ってやれないのだから。そんな自分を他所に達観した表情でセフィは言葉を発する。
「だから、俺のいない所で悲しい顔をするのも、辛い想いをするのも止めて欲しいんだ。俺が側にいなくてもお前にずっと笑ってて欲しい」
その言葉にリディアールが今にも零れ落ちそうになる涙を我慢しているとセフィが今までに見たことのない表情で微笑む。
「だって、俺にとってお前はもう1人の俺だから」
その言葉に、リディアールはこの上ないほどの幸せを噛みしめた。
“馬鹿だって言うかもな”
この世で最も相容れない筈の存在を“もう1人の自分”だと言葉にした自分を歴代の勇者達は馬鹿だと罵るかもしれない。
ーでも、自分以上に大切な相手の方に笑っていて欲しいという気持ちに人間も魔族にも変わりない筈だ
だからこそ、自分はこんなにも必死に言葉を紡ぐのだから。
ー罪ならこの勇者が受けるから
神になど、勇者になってから願ったことなどないのに。どうかこの細やかな願いを聞き届けて欲しいと初めて思いながら更にセフィは言葉を重ねる。
「…だから………お前を。リディアールを傷つけないと思う俺の気持ちだけは信じてくれ」
その言葉を最後に自分が口を閉じれば、沈黙がこの場を支配する。長い沈黙にセフィが耐えられなくなった頃、リディアールから言葉が返った。
「大丈夫。セフィが私を傷つけたいと思っていないこと。私が1番分かってるから」
その言葉に弾かれたように顔をあげれば自分がリディアールの頬に伸ばした手に自分の手を重ねながら泣いていた。
「リディアール」
泣かないで欲しいと思う自分の前で、少女が泣き笑いの表情を向けた。
「リディ」
耐えられなくなって、“泣かないでくれ”と口を開こうとした自分の唇に白い指先が触れた。それに驚いた表情を浮かべた自分にゆっくりと首を振ったリディアールが困ったように首を傾げる。
「セフィは本当に優しいのね……」
呟かれた言葉にセフィは目を見開く。“そんな事はない”と心の中で即答し、セフィが言葉にする前に目の前で泣きながら笑う少女が口を開いた。
「でもね、セフィ。貴方が私に泣いて欲しくないように私もセフィが幸せであって欲しいと思うんです。だから、私だけ幸せで居て欲しいというお願いは聞けそうにありません」
その言葉にセフィはリディアールに困惑した表情のまま、少女の名を呼ぶ。
「リディアール」
「はい」
すぐに返る言葉に何と言っていいか分からずに口を閉じたり、開けたりする自分の前でリディアールは何も言わずに口元の笑みを深くした後、自分の唇に当てていた指先を自分の心臓までゆっくりと下ろす。
「もう私も貴方も1人で泣かなくていいように……私にセフィの全てを頂戴」
真っ直ぐに自分を見つめて、紡がれる言葉にセフィは息を呑む。少女の提案はまるで悪魔の囁きのように甘美な響きを伴っていた。暫く自分に向けられた少女の言葉を考えたセフィは、深いため息を吐くと、諦めたように肩を竦める。
「………………それでお前が満足するなら」
そう答えるとリディアールが自分を見つめて、蕩けたように笑う。まるでお気に入りの宝物を手に入れたような少女の笑みはまさしく“魔王”と言うに相応しい笑みだった。それを眺めたセフィは勇者である自分を虜にする相手に苦笑する。
「でも、まさか勇者すら手に入れようだなんて、流石はリディだな」
呆れたようにセフィがそう皮肉を口にすればリディは満足気に“ええ”と頷く。
「だって、私はこの世界で手に入れられないものがない魔王様ですから」
その言葉が消えるよりも早く、勇者であるが故に人から嫌われた勇者と勇者から嫌われた魔王の唇はゆっくりと重なった。