ドクトルジバゴ
1965年アメリカ、イタリア合作映画です。
この映画のデビッド・リーン監督には4本の代表作があると思う。
まず初めに「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」そしてこの「ドクトルジバゴ」、最後が「ライアンの娘」だ。
いずれも、いかにも映画〜!と言った感じの大作で、同時にアカデミー賞を何部門も受賞した傑作である。
たとえばこの「ドクトルジバゴ」。ストーリーを紹介するのは容易なことではない。長くて複雑だから。
ただ、ひとつ言いたいのは、デビッド・リーン監督の作品は映像も音楽も皆美しく、何よりも「詩」がある。
その「詩」を感じさせる場面も、あまりにも多すぎて(あるいは全編詩を感じさせる感性に溢れていると言っても過言ではない)ここに書き連ねることも不可能と言っていい。
こういう映画の素晴らしさは見ていただくしか伝えようがないと思う。それは私の能力を遥かに超えたことだからだ。著者としてはあまりにも無責任で、心苦しく、申し訳ないのだが、今回私はこの作品の紹介を、ネットのホームページ『映画ウォッチ』に委ねようと思う。
そこからいささか長いストーリーを抜粋しておいたので、もし読みたい方がいらしたら読んでください。別に読まなくても構いません。
とりあえず私としては、こうした文化遺産とでも呼ぶべき作品のあらすじをここに転載することでしか、この映画の何たるかをお伝えすることができないということです。
ドクトルジバゴあらすじ
『映画ウォッチ』より転載。
ソ連軍の将軍エフグラフ・ジバゴ(アレック・ギネス)は、亡き義弟とその恋人との娘を探していました。そしてようやく探し当てたのは、戦災孤児として生きて延び、今では建築現場で働いているターニャ(リタ・トゥシンハム)という若い娘でした。両親の愛を知らずに育ったターニャに、エフグラフは父親である医師で詩人だった男の話を語り始めました。
時を遡ること19世紀末。幼い頃に両親を亡くし、モスクワに住む親戚のアレキサンダー(ラルフ・リチャードソン)と妻アンナ(シオバン・マッケンナ)のグロミーコ夫妻に引き取られたユーリ・ジバゴ(オマー・シャリフ)。1913年、ジバゴは医学生として勉学に励む傍ら詩人としての才能も開花させ、医師免許を取ると同時にグロミーコ夫妻の娘トーニャ(ジェラルディン・チャップリン)と婚約しました。
一方、同じくモスクワに住む17歳の女性ラーラ・アンチポワ(ジュリー・クリスティ)は洋品店を営む母アメリア(アドリアン・コリ)と2人で暮らしていました。ラーラにはロマノフ王朝打倒を目指す革命に燃える恋人のパベル・“パーシャ”・アンチポフ(トム・コートネイ)がいましたが、母の愛人で弁護士のヴィクトル・コマロフスキー(ロッド・タイガー)もまた美しく成長したラーラを狙っていました。
そんなある日、ラーラとコマロフスキーの関係を誤解したアメリアが自殺未遂を図り、コマロフスキーの頼みで友人の医師ボリス・カート教授が呼ばれ、その弟子だったジバゴも治療に同行することになりました。ジバゴはそこで、ラーラとコマロフスキーのただならぬ関係を知ってしまいます。やがてアメリアは一命を取り留め、ラーラはコマロフスキーにパーシャを紹介しますが、コマロフスキーはパーシャとの交際を止めるよう忠告しました。そんなある時、コマロフスキーは洋品店に1人でいたラーラを襲い、その処女を奪いました。クリスマスの夜、心に深い傷を負ったラーラはコマロフスキーに復讐するため、コマロフスキーが参加しているパーティーへ乗り込み、パーシャから借りた銃でコマロフスキーに発砲、パーシャの手引きで逃走しました。腕を撃たれたコマロフスキーはその場に居合わせていたジバゴの治療を受けますが、ジバゴはラーラを蔑むコマロフスキーの発言に不快感を感じていました。その後、落ち延びたラーラはパーシャと結婚、二人の間には娘のカーチャ(ルーシー・ウェストモア)が産まれました。
1914年に第1次世界大戦が勃発、ジバゴは軍医として野戦病院に赴任しました。パーシャは“ストレハニコフ”と名乗って出征、ラーラはカーチャを実家に預けると夫を追うように従軍看護婦として戦場に向かい、そこでジバゴと共に負傷者の治療にあたりました。ジバゴはあのクリスマスパーティーでの出来事を覚えており、「あの勇気は尊敬するよ」とラーラを励ましました。数ヶ月後、二人はそれぞれの場所に戻ることとなり、ジバゴはモスクワの自宅に戻りましたが、折からのロシア革命により状況は一変しており、ソビエト政府による富裕層への締め付けの強化によりジバゴ一家は貧しい生活を強いられることになりました。そんな時、ジバゴは義兄で軍人のエフグラフと再会、彼の勧めで妻トーニャと息子のサーシャ、義父と共に田舎町ベルキノへの疎開の手配をしてもらいました。ベルキノへ向かう汽車の中で、ジバゴはストレハニコフと再会しましたが、完全に革命に憑りつかれていらストレハニコフは妻ラーラへの愛を失っており、ラーラはベルキノの近くにあるユラティン村にいることを告げられます。ベルキノでも貧しい生活を強いられたジバゴでしたが、ある日ジバゴはユラティン村でラーラと再会、二人は深く愛し合うようになっていきました。
そんなある日、ジバゴは赤軍の義勇軍パルチザンに拉致され、軍医として働くよう強要されました。何とかパルチザンを脱出したジバゴはラーラに助けられますが、ジバゴの家族は既にフランスへ出国したらしく、離れ離れになったジバゴはそのままラーラと生活を共にすることにしました。やがてラーラはジバゴの子を身籠り、ジバゴも詩作に打ち込む日々を過ごしていましたが、ストレハニコフは戦禍の悪化と共に自ら命を絶ち、ジバゴとラーラにも危機が迫りつつありました。ジバゴはラーラに別れを告げ、ラーラは赤軍から逃れる際に協力してくれたコマロフスキーの誘いを受け、カーチャと共に去っていきました。その後、ジバゴはエフグラフの手引きでモスクワに医師の仕事を得ました。月日が流れた1929年、ジバゴはモスクワの電車内でラーラらしき人物を見かけ、必死に跡を追いましたが、かねてから患っていた心臓発作に倒れ、ジバゴはラーラに会うことなく息を引き取りました。ジバゴの葬式の席、エフグラフはラーラと会い、ジバゴとの間に生まれた娘と動乱の最中に生き別れたので探してほしいと頼まれました。エフグラフは彼女の願いを聞き入れましたが、スターリン政権の圧政の最中、娘が見つからないままラーラは捕えられて労働収容所に送られ、そのまま姿を消しました…。
ターニャに全てを語り終えたエフグラフは彼女にジバゴの詩集を贈り、困惑したターニャは恋人と共にひとまずその場を離れることにしました。しかし、ターニャの手にはジバゴが母から受け継いでいたパラライカがあり、エフグラフはパラライカの名手だったジバゴを想い「血筋だな」とターニャを見送りました。
以上「ドクトルジバゴ」あらすじでした。
尚、原作者のボリスパステルナークについても、ウィキペディアより解説を転載しておくので、興味のある方はどうぞ。
ロシア国外においては、『ドクトル・ジバゴ』の作者として最も名高い。『ドクトル・ジバゴ』はソ連において発禁処分となり、密かに国外に持ち出され、1957年にイタリアで刊行された。パステルナークは1958年にノーベル文学賞の受賞が決定したが、『ドクトル・ジバゴ』の出版とパステルナークのノーベル賞受賞は共にソ連共産党にとって侮辱的で許しがたい出来事であった。ソ連国家保安委員会(KGB)とソ連作家同盟による反対運動の末、パステルナークは受賞辞退に渋々同意することとなった。ノーベル委員会への受賞辞退の手紙では、ソ連当局の反応が辞退の唯一の理由であると述べられていた。パステルナークの受賞に対する反対活動はソ連の国際的信用を傷つけることとなった。彼は今日までロシア文学界を代表する作家である。さらに、パステルナークが始めた反体制活動はアレクサンドル・ソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、洗練され、拡大していった。
以上ウィキペディアからでした。




