捜索 ~球技場へ~
第四章 捜索 ~球技場へ~
腕の中で何かがもぞもぞとうごめく気配で美空は目を覚ましたが、目をあけてもそこは暗闇の中だった。
(あのまま私も寝ちゃったんだ)
美空は眠りにつく前のことを思い出した。胸のあたりから小さなあくびが聞こえる。ヴァンパイアの少女が目覚めたのだろう。呼応するように、天井からの蝙蝠の目玉の明りが再び灯った。左手の失血と、ナーシャに吸われた血のせいか、頭が割れるように痛む。
「起きた?」
美空は、胸の上に乗っている銀色の頭にむかって声をかけてみた。
「……ん……もうひと口……」
少女の手が美空の首にまわり、その口が開いて牙がのぞく。
「い、いやっ!」
美空はがばっと跳ね起きるとナーシャをマットに転がして距離を取った。これ以上血を吸われたら身体がもたない。
「ふん、ケチなんだから」
ナーシャは身を起こして伸びをしながら言った。
「言っておくけど、やろうと思ったらいつでも無理やり血を吸うこともできるのよ」
「じゃあ、なぜしないの?」
「殺しちゃうから」
美空はさらに身を引いた。
「あなた……美空には、私の支配の力が効かないでしょう? 嫌がって暴れる人間の血を吸おうとすると、ちょっと興奮しちゃうの私。抑えが効かなくなって多分死ぬまで吸っちゃう。だから私に血を吸われるときは暴れないほうがよくてよ?」
ナーシャはにやりとしながら言った。
「なぜ……殺してでも無理に吸わないのか聞いていい?」
美空はたずねた。
「殺したらもう飲めなくなっちゃうじゃない。その血には二度とめぐりあえないと思って朽ち果てるつもりで眠りについたのよ。そんなもったいないことしないわ」
「ほかの人の血ではだめなの?」
「まあそうね。三百年以上生きているけど、あなたのような血は二人目」
「二人目……もう一人はさっき言っていた美鶴とかいう人?」
ナーシャはうなずいた。
「そうよ。間違いなくあなたの直系の親族だと思うわ。曾祖母か何かなのではなくて?」
その言葉に美空は首を横に振る。
「家族は母と弟しか知らないわ。親戚や祖父母には一人も会ったこともないの」
「へえ、まあいいわ。とにかく――」
ナーシャは服のほこりをはらいつつ立ち上がった。
「あなたの家族とやらを探しに行きましょうか。約束だものね」
美空はその言葉にうなずいて立ち上がろうとしたが、身体がふらついて座り込んでしまった。
「頭が痛い……」
美空がそう訴えると、ナーシャは小指を自分の口の中に入れ、指先を噛み破って美空の顔の前に差し出した。
「ほら」
「い、痛くないのそれ」
「ヴァンパイアを何だと思ってるの。いいから飲みなさいな」
美空はポタポタと血の滴る指先を口に含んだ。二度目なので抵抗感は少なくなっていた。口の中に広がる金属のような味の中に、心を騒がせる芳香がわずかに混じっているのを感じながら喉の奥に流し込んだ。たちまち身体に力が満ちて、頭痛や疲労感も消え去っていくのが分かる。
「便利なのね」
立ち上がって口をぬぐった美空がそう言うと、ナーシャは首を横に振った。
「一時的なものだし、そう何度もはだめ。今日はもう今ので最後にしておいたほうがいいわ。人間にとっては劇薬みたいなものなの、私たちの血は。本当は今のあなたに一番必要なことは、たっぷり食べて休むことよ」
「食べて休む……か。なんだかヴァンパイアらしくない感じ」
美空のその言葉にナーシャは首をすくめた。
「食べてくれないと私が飲むための新しい血が作られないでしょう?」
(そういうことか)
美空は心の中でそう思ったが口には出さなかった。自分に対して多少なりとも気を使っているのは、あくまで食料として貴重だからということなのだろう。だが、その割には美空に対して気を許しているような、というよりは甘えているような仕草や態度も垣間見える。話の端々に出てくる美鶴という名前も気になるし、おいおい聞き出してみることにしよう。
「もう外に出られる?」
美空の問いにナーシャはうなずく。
「もう平気よ。でも、少し寝過ぎたみたい」
ナーシャの言葉通り、心張り棒を外して扉を少し開けてみたが、外は暗くなりかけていた。夕方近くまで眠っていたらしい。もうこれ以上時間を無駄にしたくはない。
「このあなたの血の力。効果はどれくらい続くの?」
美空はナーシャのほうに振り向いて訊ねた。
「そうね、まあ二時間というところかしら」
(短いな)
二時間程度で母と弟を見つけられるとも思えないが、効果が切れたところで元の美空自身に戻るだけだ。まずは広域避難所の球技場を目指そう。走れば二、三十分で着くはずだ。この力あふれる身体ならもう少し早く着けるだろう。
「じゃあ行くわ。ついて来る?」
美空はナーシャに問いかけた。
「ええ、約束だもの」
ナーシャの答えは明快だった。美空は、意外に律儀なこのヴァンパイアの少女に少し好意がわいてくるのを感じながらうなずくと、扉に手をかけ一気に押し開いた。
薄暗い校庭には、あいかわらずゾンビ達がうようよいる。だが、もういちいち構っている必要も時間もない。美空はゾンビの間を縫うようにして走り出した。
「クジャ! ついてきなさい」
蝙蝠を呼ぶナーシャの声が美空のやや後方の上空から聞こえる。振り返ると、ふわふわと空中を漂いながら少女と蝙蝠がついてくるのが見えた。
(人に見られたら……なんてもうどうでもいいか)
美空は近寄って来たゾンビを蹴り倒しながら校門を一気に乗り越える。小学校の裏の丘の先が、目指す球技場のはずだ。美空は最後にもう一度屋上のほうに目を向け、心の中で塔子に別れを告げると、全力で走り出した。
小学校の裏手にある丘の上に辿り着いた時、こぢんまりとした住宅地の合間から、球技場のライトが見えた。明りは消えている。住宅地の中は静まり返っており、どの家からも明りすら見えなかった。たかだか一日か二日で、ここまで人がいなくなるものだろうか? それほど急激にゾンビ化が広まっているのか。全てのゾンビが噛まれて感染したとは考えづらいので、おそらくはナーシャの言う通り、ウイルスのようなものが原因なのだろう。だとするとゾンビ化していない自分や塔子といった人間と、ゾンビ化した人間との違いは何なのだろう。なぜ自分達は感染もせずゾンビ化しないのだろうか。
人の気配のない住宅地の真ん中で、美空はそんなこと考えつつ近づいてくるゾンビの気配を感じた。
「ほら、来たわよ」
ナーシャがゾンビを指さす。近づいてくるゾンビは二体。女と男のゾンビだ。
「分かってる」
美空は自分からゾンビ達に近寄っていくと、男のゾンビの目を棒で突き通した。崩れ落ちる男のゾンビに目もくれず、もう一体のゾンビに棒を向けた美空はそこでためらった。片手となった今、ナーシャの血の効果が切れた後は、こうもあっさりと棒で頭を突き通すことは難しいだろうと思ったのだ。今のうちに、片手でも倒せる方法を考えておかなければ。ヌンチャクや蹴りの打撃系では、群れに囲まれた時には即効性に欠ける。
その時、美空の脳裏に道場の壁にかかっていたモノが浮かんだ。
(そうだ、あれだ。釵【さい】だっけ)
琉球の古武術で使われた武器で、現代の空手でも流派によっては型が伝承されている。師範がよく一人で練習しているのを思い出した。あれなら片手でも使えるかもしれない。もちろん今は手に入れようがない。頭の片隅にとどめ、残りの女のゾンビの頭に棒を突き刺した。
もう球技場はすぐそこだ。
美空は歩き出しながら、振り返ってナーシャを見た。もう空中を漂うのはやめたらしい。肩に蝙蝠を止まらせたまま、何が楽しいのか鼻歌を歌いながら歩いてついてくる。
美空は首をすくめると、球技場へ続く道を走り出した。ふと気が付くとすぐ隣をナーシャが並走していた。大して足も動かさず、足音も立てずにまるで滑るように進んでいるのが薄気味悪かったが、もう気にしない。相手は三百年だか生きているモンスターなのだから。美鶴という女性のことや、なぜロシアが故郷と言っているヴァンパイアが日本にいるのかなどそのうち聞いてみよう。
「何考えてるか分かるわよ?」
ナーシャの声に美空はびくっとした。
「へ……へえ。考えてることが分かるの? それも能力ってこと?」
「そうよ。私の血を飲んだ時点であなたと私は繋がったって言ったでしょ? まあ、そのうち色々教えてあげる。この先ずっと一緒なんだから」
「ずっと……っていつまで??」
ナーシャは走り(滑り?)ながらニッと笑った。
「まあいいじゃない。ほら、着いたんじゃなくて?」
しばらく走り続けた二人の前に、球技場が見えてきた。
球技場は静まり返っており、見上げると野球場にあるような大型のライトが見えるが、明りは消えている。入り口は閉まっていたが、中の様子を覗くことはできた。スタンドに入る手前の通路や、閉まっている店舗の周りにはちらりほらりとゾンビの姿が垣間見えるが、人が集まっていそうな気配は到底感じられない。
「ここは何なの? 私が眠りにつく前にはこんな大きな建物は無かったけど」
ナーシャがふわふわと漂いながら球技場を見上げる。
「確か、主にサッカーの試合をやるところだったはず。私はあまり興味ないから見た事ないけど」
美空は中の様子をうかがいながら答えた。昨日ゾンビが現れる前まで、試合があったのだろうか? 焼きそばやフライドポテトの売店らしき店が、開けっぱなしのままになっているのが見えた。
「さっかー? ってなあに?」
「ボールを足で蹴って競うの」
「どうやって?」
「相手のゴールに入れて点を取り合うのよ」
「ふ~ん。野球とかいうのは聞いたことあったけど、そんなもんなのかしら」
「似たようなものよ」
美空は面倒になってきて適当に言った。
「ところで、言いたくはないけど、ここには多分もう人は残ってないわよ。匂いで分かるわ」
ナーシャは空中から降りてくると腕を組んで断言した。だが、せっかくここまで来て探しもしないで帰るのは嫌だった。美空は首を横に振った。
「探すだけ探してみる。嫌ならあなたはここで待っててくれていい」
そう言って美空は、入り口に近づいた。
「あの死人、ゾンビって言ったかしら。あれの気配はすごくするわ。かなりの数がいそうよ? やめておいたら?」
美空はナーシャのその言葉には答えずに、入り口のゲートを通って中に入った。
まばらではあるが、場内にうろつくゾンビ達が確かにいた。美空は、刺激しないよう音を殺して辺りを探りながら観客席のあるほうに上がっていった。その後ろを銀髪のヴァンパイアが音もなくついて来る。美空はそれを背中に感じながら、芝生の球場が見える観客席に出た。
ナーシャの言葉通り、そこにはかなりの数の生きた死人たちがうろついていた。とても生きた人間が避難しているような場所ではない。美空は途方に暮れて球場を見回した。
「だから言ったでしょ? もうここに生きた人間はいな……あ? 美空あれ」
ナーシャが妙な声を出して球場の片隅を指さした。美空たちのいるちょうど反対側の一角だ。
選手たちの入場口から、一人の人間がよろめきながら歩き出てくるのが見えた。大柄ではあるが女性のように見える人の姿が芝生に崩れ落ちる。その周りにゾンビ達がゆっくりとではあるが群がりつつある。その女性は一声叫ぶと、何とか立ち上がり、ゾンビ達を躱して逃げようとしているようだ。だがその姿はみるみる群がるゾンビ達に隠れてしまう。
美空はそれを見るやいなや、観客席の階段を駆け下りた。球場と観客席を仕切る壁に足をかけて一気に飛び越えると、そのまま女性めがけて全速力で飛ぶように走る。薄暗くなりかけた中でも、その女性の姿かたちに見覚えがあった。
「離せえええっ!!」
その大柄な女性に群がるゾンビ達を目にし、頭に血が上った美空は叫びながらまっしぐらに突進した。そのまま体当たりで2,3体のゾンビを吹っ飛ばすと、手にした棒でめったやたらにゾンビ達の頭を突き刺して暴れまわった。
横を見ると、その女性は立ち上がり、ゾンビ達に見事な回し蹴りを叩き込んでいた。美空は駆け寄るときにすでに気づいていたが、先日道場で組手の相手をしたあの主婦の女性だったのだ。スカートを履いた私服姿ではあるが、下着が見えるのも気にせず、次々と上段回し蹴りをゾンビの頭に繰り出していた。だがその立ち回りの最中にも、何度もよろけて倒れそうになっている。怪我をしているのだろうか、服のあちらこちらが血に濡れていた。
(どうか噛まれていませんように……)
押し寄せるゾンビの群れは、空手家の二人でも対処しきれないほど増えてきていた。
「お願い手伝って!!」
美空は、やっと空を漂い追いついてきた少女に叫んだ。
「ん~あんまり気が向かないわね……私こいつら触りたくないのよねあまり」
嫌な顔をしながらもナーシャが無造作に両手を払うと、たちまち首を切り落とされたり、頭を両断されたゾンビが倒れていく。
流石にモンスターだけなことはある。みるみる群がるゾンビ達が倒れていく。だが、女性も力尽きて倒れようとしていた。その足に一体のゾンビがしがみついて今にも歯を立てようとしている。
「玲美さん!」
美空は道場仲間の玲美というその女性の名を叫びつつ、そのゾンビの頭を蹴り飛ばすと、棒の先を思い切り突き立ててとどめを刺した。ほとばしる血が玲美と呼ばれた女性の下半身に飛び散った。
だが、女性はそのまま気を失ったようだ。
ナーシャが最後と思われるゾンビの頭を切り飛ばすと、こちらに寄って来た。
「片付いたわ。この空間の外にまだうじゃうじゃといる気配があるけど。知り合いなの?」
「そう。同じ道場の稽古仲間」
「どうじょう?」
それには答えずに、玲美のそばにひざまずくと、ペチペチと頬を叩いたが目を覚まさない。暗くなってきた球場内や観客席にはゾンビ達が数を増やしてきていた。この大柄の女性を抱えて逃げるのは無理に近い。
美空は呼びかけを続けつつ、玲美の身体を急いで調べた。
(……これは……)
美空の目に涙があふれた。明らかに噛み傷と思われる傷が、腹や胸に複数ついており、右肩と左の乳房の肉はごっそりと噛み取られている。噛み傷の周りの肉の色もどす黒く、変色が始まっていた。
「かなり噛まれているわね、これはもうダメね」
ナーシャが後ろから覗き込みながら冷静に言った。
「分かってる……」
涙を拭いながら美空は呟いた。
その時、横たわる玲美の目が開いた。
「う……美空……?」
青ざめた顔の玲美の頭を膝に乗せ、美空はうなずいた。
「はい……美空です」
だが、それ以上何も言えなかった。このまま玲美がゾンビになってしまうなどと説明できるわけもない。
「ありがと……助けてくれたのね。どうしてここに?」
意識がはっきりしてきたようで、玲美は痛みに顔をゆがめながら言った。
「母さんと弟を探しに来たんです。そうしたら偶然玲美さんが襲われていて……ねえナーシャ、痛みを消してあげられる? 私にしたみたいに」
美空は宙に浮いたままのナーシャに振り向きながら言った。
ナーシャは肩を一つすくめると、地面に降りるとしゃがんで玲美の額に手をあてた。玲美の表情が少し穏やかになる。
「そのとんでもなく可愛い女の子はだあれ? 今、宙に浮いてたみたいだけど……気のせいかしら」
玲美は微笑を浮かべながら聞いた。
「話すと長いんです…… 立って動けそうですか? ここから逃げないと」
玲美はその言葉に首を横に振った。
「それはだめかな~……私、もうすぐこいつらの仲間になるの。今朝隣のおばちゃんと、ついさっき亭主が噛まれて同じになっちゃったから分かってるんだ。あれってやっぱりゾンビよねえ……えへへ」
そう言って片目をつぶると、舌をペロリと出して笑った。
「玲美さん……」
「亭主と二人でここに逃げてきたんだけど、ゾンビになっちゃったから仕方なく蹴り殺しちゃった。他の人たちもみんなゾンビになっちゃうし、もうどうでもいいや~と思って一人で暴れまわってたの。でもいっぱい噛まれちゃったなあ……美空は早く逃げな。ここはもう駄目だよ。私が最後の生き残りだったから、お母さんと弟さんもここにはいないと思うよ」
玲美はそこまで話すと、疲れたように目を閉じた。
「私はこのまま置いて行ってね」
笑いながらそう言った玲美の肌の色が次第にどす黒く変わっていく。明らかに変異はもう始まっていた。
「生き返ってこいつらにならないようにしてあげてもいいわよ。意味は分かるわよね? まああなたさえ望むのならだけど」
ナーシャがどちらへともなく言った。玲美の目がうっすらと開く。
「あら……是非お願い」
「駄目!」
玲美が微笑みながらささやくのと同時に美空も叫んだ。
「このまま置いていくと、あいつらにまだ生きたままボロボロに食われて最後を迎えるわよ。それとも連れて行く気?」
ナーシャは手を振って周囲を指し示した。新たなゾンビ達が続々と芝生の場内に入り込んでこちらにゆっくりと向かってきているのが見えた。
「明らかに連れては行けないのだから、どちらがより残酷なのか考えたほうがいいわ。美空はまだ若いから決断は難しいだろうけど」
美空は困惑した。ナーシャに首を切り飛ばされた塔子が脳裏にはっきりと残っている。しかも塔子はすでにゾンビと化していたが、玲美はまだ人間として生きているのだ。
「大丈夫、私がお願いしてるのよ美空。あなたは気にしなくていいの。このままゾンビになったら美空のこと食べちゃうもの。元々あなたのこと食べちゃいたいくらいだったし」
玲美がコロコロと笑って言った。まるで今から組手稽古を始めるかのようにあっけらかんとした声だった。
「美空は先に外に出ていたらいい。すぐ追いつくわ」
ナーシャのその言葉に美空は首を横に振った。そして黙って玲美の背中に手を添えて起こし、背後から支えたまま抱きしめる。もう涙は枯れていた。
「いい覚悟ね美空。動かないで」
その言葉と同時に、ナーシャの手が一閃し、美空の手の中の玲美の身体は軽くなった。